■一千一頁物語

一瞬を凍らせる短歌やスナップショットのように生きたいブログ

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杉本博司『ロストヒューマン』@東京都写真美術館 : 宣告の傲慢さ、世界の複数性、自らを破綻させる表現






 もしも、世界への態度を示す世界観のように、廃墟への態度を示す廃墟観とでもいうべきものがあるのなら、それは『冷たい廃墟』と『熱い廃墟』の二つに、廃墟観というのは分類できるのではないだろうか。

 
 前者は、非人間的な時間や天災によって作られた結果としての廃墟で、後者は、人間の破壊によって生まれた廃墟。


 前者は、崇高な人間の他者による侵食、後者は人間による人間の侵食。


 そして多分、推論に推論を重ねるのなら、後者は人間が文明を壊滅させられるという確信を基盤にした、廃墟観。


 杉本博司さんの東京都写真美術館での展示は、そんな熱い廃墟をかき集めた展示だった。


 どこまでも続くトタン板の迷路、その中を彷徨うと、次々に現れる、吊るされた人形、古い書類、標本、表皮の見えない屍体、その他のオブジェクトが、元の世界から切り離され、滅亡した文明の痕跡として、新しい文脈を強制されている。


 トタン板で区画された展示室には、それぞれ一つ、A4ほどの紙片が飾られている。そこに記されるのはその文明が滅亡に至った理由、語り手が語るその物語。


 無数の区画を巡っても巡っても、異なった理由で滅亡する異なった文明と、その痕跡が、次か次へと現れ出てくる。廃墟は、世界が滅んだ熱で無闇に熱い。


 熱の中で、それでもお区画を巡っていくと、現れるのは、逆説的に滅びもせず死にもせず、真っ直ぐに生きている文明の体温だ。それは自分を取り巻く展示室にいる人々の体温でもあり。


 そんな中で、声高に滅亡が叫ばれ、そうして叫ばれれば叫ばれる程、それは滅亡を宣告する事の熱意、滅ばず死なない世界に一方的な宣告を下す熱意だけを、極端に高めていく。


 滅亡の理由としてあげられる理論は、文明滅亡という虚構を根拠に正当化され、その絶対的な正義の快楽に浸っていくかのようでさえある。それを冷たく見つめる、改造された文脈のオブジェクトたち。


 ある種のマッチョイズムとしての文明滅亡の宣告(実際、驚くほどのマッチョさが文明滅亡の理由を支えている区画が幾つかあった)は、そこで指弾される文明滅亡の理由それ自体と、軌を一つにしている。


 それは、文明を区分したい、文明を通してみる世界を明瞭に分類したい、という欲望でもある。生と死は明文化され、文明は単一の原因によって滅んでいく。


 それにもかかわらず、文明滅亡の告発文は、まさにその単一へ、明瞭へと向かう方向性こそを、滅亡の原因として謳い上げ、得意げに指弾する。


 この展覧会は、自分自身で自身を食い荒らす、破滅的な方向性を持っているかのよう。


 巨大なジョセフコーネルの箱のようでもある、オブジェクトが組み合わされた空間は、その強烈な意味性によって縛られつつも、意味性を否定していく。


 オブジェクト一つ一つが持った物語世界は、与えられた物語世界と矛盾し、意図を破綻せしめて、オブジェクトのオブジェクトたる所以を明らかにしてしまう。


 表皮を封じ込めるように、衣類に巻き取られ安置された人体らしきものは、その丁重な手つき、神社の奥のような手つきでもって、その中に強力な力が封じ込められている事を暗示する。
 それは破滅的な、単一の意図を破壊する身体の力を封じ込めているようでもあり、展覧会の危うさがその一点にのしかかる。


 けれども、人体らしきものを取り囲むトタン板は、赤錆、汚れ、剥げ落ち、細密なテクスチャを過剰に誇り、それは封じ込められた表皮の代わりのよう。人間を裏切る身体の厚み、内側、内臓は、化粧や衣服のキャンパスとなる薄い表皮となった板の中で消え去ってしまう。


 展覧会は、文明崩壊という究極の判断を宣告するために、その宣告自体を崩すものを封印しつつ、封印する事で、むしろ暗示し続ける。


 分離し表明し、自分を絶対の位置へと登らせる欲望。あまりにも90年代、80年代的な、物事を踏みつけにして自分の足元を疑わない事で生まれる反抗心の充足。




 けれど、ラストに展示された空と海の写真はそうした欲望を嘲笑うモノを映している。




 微妙に違うマチエールを持ちながら、分けられない境界線を持つ空と海、あまりにも同質な質感を持ちながら見事な撮影で明暗を分けられた空と海。それは、人々が死んだ後も残る光景で、つまりは誰からも分けられない世界。


 記号を持たない世界であり、分析されない世界であり、絶対を持たない世界。一切の意味を持たない世界。質感の感覚が、何処にも帰属する実態を持っていない世界。

 その前に立って、文明と文明の崩壊の無意味さを感じるときに、自分の中で少しだけ何かが崩れていくの感じた。




 展示は、フロアを変えてもう一つ、写真をメインにしたものが続く。

 


 廃墟となって、照明と舞台を喪った劇場で、輝くモニタを写したシリーズが、終末を描く映画の解説キャプションと共に飾られる。


 天井からの光を失くした劇場は、神の世界を、明瞭な理性を失くした西洋世界で、横から差す光は、ただ冷たくある。人のいなくなった世界で、非西洋的な光だけが祈りのように眠っている。


 ただのあらすじとして、データ的に語られる言葉は、そこに対置されて恐ろしく軽い。宣告し、決別する言葉、ただ伝達のための言葉は、ここでは単一なものとして解釈され、質感を消失する。


 写真が映しているのは、文脈に沿って配置された文明であり、様々な変種をもつ世界でもある、のかもしれない。伝達と一方的な宣告だけを持つ言葉はその前で、文明という考え、文明という文脈が、人と世界に押し付ける吐き気のする軽さと重さを露わにする。


 露骨な言葉、露骨な区分、露骨な押し付け、露骨な自己存在、露骨な搾取。それに疑問符を一切付さない姿。


 廃墟の中の、無数の矛盾し合う文明滅亡の宣告文は、その傲慢さ故に、文明滅亡と動きを共にし、変種をいくつももつ世界を殺し、同時に壊れない文明と殺せない世界を露わにしていく。


 その吐き気のする愚かさに耐えながら、文明への宣告は今日も元気にしている。


公式HP
作品と展示風景がいくつか見られます。

『ロストヒューマン展示』っは少しだけ雰囲気がクーロンズゲートに似ているように。
こてこてした90年代的な滅亡の雰囲気。

美術出版社
2014-06-17






『How beautiful the ordinary』性的マイノリティが恋愛物を読んで泣けるようになるという事/異性愛と健常者の世界で窒息する事


  • 読書をする理由は、数え切れない。けれどもし、あなたが若く、自分という者が不確かで、何者になるのか分からない時期にあるのなら、本のページの中に自分の反射を見出す事は、読書をする大きな理由の一つ、になるかもしれない。
  • 自分が一人ではなく、あなたがーあなたが恐れるようにーたった一人の孤独な種族でない事を見出す事は、なんという安らぎだろうか。けれどもし、図書館いっぱいの、本の中の自分の姿を求めて探し回り、なのに結局、探索が無駄に終わったとしたら、どうだろう?
  • それが、あまりにも長い間、レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランス、の若い人々が立たされてきた苦境だった。
 
作品名:How beautiful the ordinary 序文
作者:Michael Cart
ページ数:1頁
(上文は私訳)





 感情移入というのは、私にとって見知らぬ影のような人でしかなかった。多くの人が感情移入について語り、それより少しばかり少ない人びとが、感情移入に対して武装していた。


 私自身、後者の末席に位置していて、自分と感情移入の間に関わりはないだろう、と思っていた。


 例えば、私が感じるのは、ある人物が漏らす一瞬の思考への一瞬の共感であり、現実に穴を開ける光景への驚きで、世界の行進の中で見捨てられるものを発見することの慰めだった。

 
 或いは、作品の解読を楽しみ、鑑賞し、妙技を味わい、美学的な意味で読んでみる事。それは、継続的に登場人物の気持ちに入り込み一喜一憂する感情移入とは、全然、別のもの。


 まして、分けても恋愛物と呼ばれるジャンルは、むしろ自分にとって、嫌な巷の人気者でさえあった。


 男女の心の揺れ動きには、何も揺さぶられなかったし、そこから覗く深淵も、奇想と幻想の彩り抜きには余りに侘しく思えた。その世界は、ひどく貧困な想像力に彩られているようにしか思えなかった。


 神への、象徴的だったり抽象的な物への思慕は理解できた。けれど、男女だけの心の動きは、何も響かなかった。


 今にして思えば、その当時の私ーと言ってほんの1、2年前のことだけれどーは、男女の世界の中で溺れかかっていたのだ。




 けれど、中山可穂さんのある短編集を読んで、私の価値観は大きく変えられた。
 それは私が一番苦手なタイプの物語を収めた短編集だった。


 浮気し、不倫し、愛情を信じられず、別れ、社会的に傷つき、どうしようもない人がどうしようもい恋情に朽ちていく。私が嫌悪していたのは、まさにそういう緩い体温が絡み合う題材だった。


 それなのに、それが楽しめた。初めて、登場人物の心の動きに自分が寄り添い、一緒に悲しみ一緒に喜べた。


 中山可穂さんの小説が、私が今まで読んだ恋愛小説と違っていたのは、ただその主題が一般的(とされる)異性愛以外の可能性をふんだんに含んだ物語だった、という事だけ。

 かつての私が経験したような(私はあえて区分するならバイセクシャルだけれど)女性同士の恋物語。


 たったそれだけの事で、私の評価基準はまるで変わってしまった。たったそれだけのことで、私は人の体温が絡む恋愛が、たまらなく好きになってしまった。


 ここでようやく、冒頭で引いた『How beautiful the ordinary』の紹介に移れる。『How beautiful the ordinary』は、LGBT(とされる人びと)を題材にしたアメリカのYA短編集。


 内容は多彩の一言。犬となった少年の幻想的な戯曲風小説から、グラフィックノベルと呼称されるマンガ作品、SNSのやり取りを抜き取るような作品まで。
 

 現代アメリカの小説世界を横断するような多彩さと品質の高さは、それだけで楽しい。


 けれど、何より心に響いたのはその序文。


 冒頭に引いたのがその初めの箇所。
 昔の自分が何を求めていて、何をなくしていたのか、中山可穂さんの作品を読んでからずっと考えていたことが、この文章の中に濃縮されていた。


 私は、性的マイノリティのコミュニティの中でも、若干の差別意識を感じる性的マイノリティで、難病を抱え体力がなく、車椅子を使用する障がい者だ。私にとって、異性愛を当然の前提とする世界は、私自身の経験からはあまりに縁遠く、程遠おい、異世界だった。


 私の光の反射はその大事な部分が、創作の世界の価値観から切り離され、創作されたテクストが織りなす世界の中で、見えない存在となっていた。そのことに気づくこと、それ自体が救いだった。


 溢れ出る異性愛、健常者の世界の中で、私は殆ど窒息しかけていた。


 状況をそのように認識することは、それはそれで勇気のいることだ。だから哀れだとか不幸だ、ということではなく、目前の隙間をそのように冷静に見つめること。


 『How beautiful the ordinary』の序文はこの後に、本を読む理由の一つに、自分と違うものの気持ちを感じること、を挙げる。 


 それが普通であり、自分たちの一部であり、そして違うこと。単純に相対化するのではなく、差異を備えた自分たちという考え方。


 だからもちろん、異性愛の物語にも、私は価値を見出せるだろう。けど、世界はあまりにそれ一色で塗りつぶされていた。



 それ以来、私は幾つもの同性愛の恋愛物語にのめり込むようになった。幸い、日本にはその類の創作物が存在してくれている。


 もちろん、私はそれ以前にも多くの同性が恋をする物語を読んでいた。けれど、私はそれらに自分が惹かれる理由を過小評価してしていた。その意味を、全く読み取れていなかった。


 私は恋愛を見て泣けるようになった。自分の過去を、見直せるようになった。創作の中の光の反射を通じて、自分の顔が見えた。


 それによって得られる価値、というものを、私は初めて知った。私が失わさせられていた価値を、初めて手に入れた。


 障害を持った少女たちの恋愛を描いた南部くま子さん/森島明子さん『囁きのキス』という恐ろしくライトでラフな作品を読んで、障害を持って性的マイノリティである自分への評価を、変えることさえ出来てしまった。


 ザ・ウォシャウスキーズの『Sense8』のノミとアマニータの物語にどれほど心を動かされたか。


 幾つもの作品の上に私は涙を流す事ができるようになった。



 自分がずっと、バベルの図書館の中で自分の反射を見出そうと足掻いていた事を知った時に、私は恐ろしく救われたのだった。



 それは言語と人間精神の基礎をなすものかもしれない。


 
 私たちの言語は同語反復で基盤が出来ている。辞書の愛の項目を手繰れば、その事は嫌という程よくわかる。私を定義するのは、私の似姿でしかない。


 愛は恋の言い換えであり、恋は愛の言い換えだ。


 同語反復的なトートロジーが言語を支配しているのなら、言語と共生する精神も、根底にトートロジーを隠し持つだろう。


 そんな人の精神は、似姿を、自分の光に近い一粒を見つけられない時には、社会の中で窒息していくかもしれない。

 
 フィードバックのないプログラムか回路のように、ショートし、バグを吐き出し始める。そういう時に必要なのが、自分の似姿だ。創作の中の、社会の中の、身近な人の。


 世界の中にそれを見つけにくいマイノリティは、マジョリティの世界の中で次第に窒息していく。


 他人の中に見出せる、共有できる価値観が、嫌になるほど少ない事が、存在を不安にしていく。だから、不安をかき消すような、自分の似姿がどこかに必要なのだ。



 創作の中にだけでも、創作の中にだからこそ。



 そんな当たり前のことに気づくのに、恐ろしいほど長い時間がかかった。


 もっと豊穣な創作世界が、拓けていけばいいと願っている。


 それは私を救ってくれ、そうした作品がその存在を教えてくれた私に似た誰かを、救ってくれるだろうから。


『シン・ゴジラ』非ネタバレ感想 特撮の美学/シミュレーションの虚構





 特撮の美学、破壊の快楽、というのは、なんだろう? 私にとってそれは、日常の中で感じない感覚、使用されない領域の認識が、圧倒的な映像によって喚起される事に、あるのかもしれない。

 樋口真嗣監督×庵野秀明総監督のシン・ゴジラは、まさに、日常の中から日常では制限された感覚を、圧倒的な映像で呼び醒ます、そんな映像だった。


 冒頭から、映像は、日常の近くにあって、日常の中では表に出ない場所を探索し、描き出していく。アニメ演出家のレイアウトによって切り取られる、実写の日常世界は、普通に感覚し、感覚させられる日常世界とは、異なった世界にも、見える。

 それは、映画的、という事でもあるのかもしれないけれど、シン・ゴジラでは特撮=映像的快楽が中心に据えられる事で、普通の映画的な日常のズラしとは異なったアプローチが用いられているように感じた。
 
 つまり、通常の映画が、ズラした日常を映すのは、ズラした思考を描くためであるのに対し、シン・ゴジラではむしろ共有可能な思考が描かれ、ズレの中心には特撮的快楽があった様に、思った。

 シン・ゴジラは、日常をズラした映像を繋げる事で、日常の中で現れる日常を超えた感覚を描き続け、そうした感覚の映像の極致である特撮と、通常の場面を滑らかに接合し、映像全体を特撮的感覚に満ちた作品に仕上げている。

 その、日常の中で日常を超えた感覚を齎す事への拘泥は、シン・ゴジラの特撮それ自体にも描かれていて。ラストのヤシオリ作戦があくまで日常性に拘泥したビジュアルを打ち出すのは、映像が持つそんな特撮的感覚を、最大に発揮させる為の作戦だったと、私は思う。

 シン・ゴジラのゴジラに与えられた幾つもの斬新なギミックも、ゴジラ映画という日常にもう一度日常を超えた感覚を呼び戻す為の、ギミックだったのかもしれない。

 シン・ゴジラがリアリティに拘り切ったのも、きっと、同じところに理由がある。圧倒的な日常性があるから、異次元的な日常が成立、する。

 圧倒的な破壊の中に見える、自分の感覚を超えたもの、同時に、自分の感覚の中に眠っていた、それ。この感覚、ゴジラとしてスクリーンに現れる瞬間に、シン・ゴジラという映像全てが捧げられているように、私は感じた。
 
 その根底には、人の感覚に対する挑戦と、信頼があるのかもしれない。多分、そのギリギリの攻め、理解可能と理解不能の攻め、にこそ特撮の本懐があって、シン・ゴジラの本懐がある、のではないかしら。

 私が熱線を吐き、東京を破滅させるゴジラを見て、流しそうになった涙は、きっとそこに源泉があった。


 けれどもそれは同時に、日常とフィクションの境界を明確にしつつ、日常と虚構というものの根拠を明確にし切れない映画の限界も、暗示していつように思えた。


 シン・ゴジラでは日常性のリアリティを求めるために、徹底したシミュレーションを行う。


 だから、シン・ゴジラという映画は究極のシミュレーション映画だった。日常と虚構を極限まで突き詰めつつ、の日常と虚構の思想性を透明化してみせる身振りを、シミュレーション性は同時に行ってみせる。その奇妙で不気味でもある動きが、シン・ゴジラという映画の核心。そして、そのシミュレーションが崩壊するラストの後の世界への想像の誘いが、シン・ゴジラを今という状況の中へつなげている。

 緊急事態下のシミュレーションの世界において、設定されたゴールに対する方法は思想を持ち得ず、一丸となった駒は、その思想的対立に悩まされることもない。そこにおいては、被害は数量によって計上され、現場なるものは遠方から見られる対象であり、作戦立案者の物語が焦点となる。

 それは、思想を、哲学を、存在の根拠を不要/透明化する物語であり、設定され明文化され共有可能なゴールだけが、その目標として、聳え立つ。現場と同時に住民/民衆さえも、もはやシミュレーションを盛り上げる背景でしかなく、映画の視線は絶対零度の冷たさを見せる。物語が届き得るのは、シミュレーションが統制可能な指揮権、その神経の流れの中にある存在でしかない。思想/意思は緊急事態の最中の、誰もが納得可能なゴールというシミュレーションを駆動させる目標=設定の中に消化され、消え去るかに見える。

 
 そのシミュレーション性を徹底したのが、シン・ゴジラという映画に思えた。シミュレーションの虚無、思想さえも問われない圧倒的な状況の冷たさ。シン・ゴジラが描くのはその部分だ、と。


 シミュレーションと言うリアルな虚構こそが、映画の中の日本。しかしそのシミュレーション性を食い破る様に、異質なゴジラが、冷たいリアルな虚構を崩壊させていく。ここに於いて、映画のコピーである虚構(ゴジラ)VS現実(ニッポン)という構図は逆転する。シミュレーションによって構築された冷たい虚構を食い破る異質な存在こそ、リアルの云いに他ならない。

 映画は、ゴジラの号砲と共に変転し、ドラマと意思が現れる。けれど、そこにおいても物語はシミュレーションであることを変えない。ゴールは変化し、そこにドラマが発生しても、それは思想の対立というより、共有された常識の確認と発展に過ぎない。意思はゴールの名の下に統合され、ゴジラ的思想と同時に、思想と対立は解消される。常識の根底は掘り返されず、更に上部の、仮定され実態の不明な指揮系統と対立する姿だけが示される。

 
 ゴジラの憎悪だけが深い刻印を残しながら、そこは深く追求されはしない。


 丁度それは、映画で多用された物理シミュレーションに似ている。そこには確固たる思想の文脈の流れがあるにも関わらず、物理法則に則る、の冷たい言葉の元に、その意思は隠匿されてしまう。個々のオブジェクトは、物理法則に奉仕し、物理法則を表現する絵の具でしかない。



 シン・ゴジラは度々押井守監督の作品 、特にパトレイバー1/2/GRAY GHOSTの3作と比較されるけど、レイアウト/物語の表面上の類似はあっても、作品としては大きく異なっていると思う。

 押井作品において常に問われるのは、その意思であり思想であり、存在の根拠だ。押井作品において問われるのはあくまで個であり、全体ではなく、実は組織ですらない。

 故に、その個人の活動は個人の思想と意思の表れとして描かれる。GRAY GHOSTにおける特車二課は、やってもやらなくても同じ事を、自らが属した場の意味を確かめる為に、意思と責任を持って行った。

 それは、シン・ゴジラにおいて主人公たちが果たした事と、その能動性と責任性において共通しつつ、根本的に意味が異なる。或いは、シン・ゴジラはパト1/パト2のように敵の思想に深く分け入る物語でもない(映像面では確かに押井守の事好きじゃん!!ツンデレなの??って思ったけど)。パト2は戦争を描いたシミュレーション映画だったけれど、そのシミュレーションの持つ思想がいかなるものかを同時に突き詰めた映画だった。


 
 シミュレーションは決して無色透明ではありえない。



 シン・ゴジラにおいて主人公は、敵と味方が明瞭だから政界を選んだというけれど、その明瞭性、ルールの明白な規則性、シミュレーション性を示すセリフは、シン・ゴジラのキモを露わにする。
  確固たるシミュレーション性を置く事で、あらゆる思想/政治性を排除するふりをする身振り、それによって映画は極上のエンタテイメントとして成立している。シミュレーションによって、映画は現実の日本に勝負を挑み、当時の日本の状況全体担い、立ち向かう。

 
けれど同時に、あるはずの思想と哲学は、ゴールへ向かうシミュレーション的なる作戦群の中では消化吸収され、ゴジラだけが思想的なるもの=検証可能なもの、を持って立ち尽くす。ゴジラをゴジラたらしめるのはその暗黒の意思なのかもしれない。多分、それがメルトダウンした原発と、怪獣王たるゴジラを分けるもの。


 私はそこに何よりの、震災後の、ひどく現代的な虚無を感じた。
 

 限定状況下における共有可能な目標が消え去った後、シミュレーションの熱気は搔き消え、ゴジラの黒玉のような、人骨の編み込まれた墓標だけが残るのだろうか。誰もが納得できる目標の元に思想を不問にし得る作戦が展開され、意思を持った存在と決戦し、意思は墓標となり、その内実は問われず、日常が空白のまま回帰してくる。


 映画のラストの後に続く光景はきっとそれ。
 

 多分、今の私が立たされている日本の状況とは、その空間に違いないのだ。




以下 思いつきの雑想を簡単に
若干具体的なネタバレがあります。

・などなど書いたけど、本当に1カット1カット、完璧なレイアウトだった。素晴らしかった。素晴らしかった。素晴らしかった。あー、カッコよかった。カッコよかった。
日常の光景を非日常の視点で切り取る、という映画的な構図が全編徹底されていて、そしてあの夜のゴジラの破壊描写!!! 
今の樋口シンジ監督は最高に輝いているよぅ!!!

・映画の中で、神とか天に祈り、運を任せる場面が一つもない。死者への追悼はあるけれど。すべての責任を人間が負って戦う姿を描いた映画ならではの徹透した描写。

・ラストの作戦、ヤシオリ作戦は、八岐大蛇を退治する神話から。人ならざる八岐大蛇を退治する存在は、人ならざる荒ぶる神の須佐男。ヤシオリ作戦で自らの意思でビルを破壊していく巨災対は、怪獣と同じ地平に立っているのかも。巨災対も、一人の修羅であり怪獣なのかもしれない。

・ゴジラに人の無念を重ねるのは金子監督のゴジラと同じだけど、シン・ゴジラの鎮魂は災害に真面目に対処する事、として描かれているのかも。鎮魂映画としてのゴジラ。

当ブログ内ゴジラ関連リンク
被害者として復讐者としてのゴジラに対する違和感をつらつらと書いた記事。
シン・ゴジラでは人がとにかく責任を取って対処する、という真っ当な姿を描く事で、これに対処していたような気がする。

ゴジラの創作掌編集。生存競争の相手としてのゴジラという妄想です。改めて読むとすごく最後のユニコーンですね。


天才、中村健治監督のガッチャマンリブート作。3.11後を舞台に、第二の首都機能を持つ立川を、シン・ゴジラと同じように描く。
ファンタジックな作風で、どこまでも人間に寄り添い、普通の人間の判断を信頼する作風は、シン・ゴジラとは異なりつつ、ポリティカルかつ、シミュレーション的作風を、この作品も導入しているのが面白い所。
欠点も多いのだけど、ここまで社会と政治に対して明瞭に自分の立場を叫ぼうと、傷だらけになって立ち向かった作品なんてそうそう無い。
クラウズのラストは、シンゴジラと同様に、極限環境下で設定されたゴールに向け人々が意思を合わせる様子が描かれる。
けれどそれは、その状況を設定する意思と思考自体がドラマであり、参加するのは多様な全ての人々の自由な意思によるもの。その有様はシンゴジラとは極端に異なる。
もしかすると、ガッチャマンクラウズの一部を冷たい俯瞰の視線で切り取るとシンゴジラになるのかもしれない。
続編のガッチャマン クラウズ インサイトは極限環境下の後の空白の世界の物語。話はさらに破綻を厭わない勢いで、誰も挑もない領域に自分を露わにしながら突っ込んでいく。
シン・ゴジラとはある意味、対極にある作品かも。


筧 利夫
2015-11-03
『シン・ゴジラ』に与えられた恋愛とか余計な要素のない日本映画の称号はこの作品にも…。
とにかくプロデューサーによる編集が強行された『首都決戦』とディレクターカット版の『GRAY GHOST』は別物! と叫びたいです。






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