■一千一頁物語

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『アンチクライスト』とラースフォントリアー『ニンフォマニアック』 対話篇 絶望と希望の物語


 『アンチクライスト』とラースフォントリアー『ニンフォマニアック』 絶望の中で自らを語ることの可能性と不可能性


ラースフォントリアー監督の作を追っていくと、その景色の森林の中に、西洋の知の体系への嫌悪が絡み付いているのを、どうして観てしまう。

アンチクライストを駆り立てる絶望の深さは、絶望それ自体の認識だけが救いになる、そういう色をする程の深さだったように感じられた。


監督のニンフォマニアックも、その絶望の深さは変わらない。けれど、救いのありようは全く違う物のように、思えてならなかった。


それは希望が始まる物語であり、解放へと向かう決意の物語であるのではないか、と。







アンチクライストを、西洋文化に絡みついた思考を巡る物語と見てみる。


森林は、西洋文化が排除して来たものであり、それ故に西洋文化が認識できないもの。

それは、西洋の知が、自分の境界を決めるために利用してきたもの

そしてそれは、女性、という形で西洋の中で内面化される。


精神科医と中世魔女美術の研究家たる主人公二人は、知の体系に属しながら、同時に、知の体系から溢れた領域を、理解可能なものに置き換える事を、職能としている。


そんな二人は、物語の中で、西洋知が疎外したものの象徴である森林の中で、西洋が自然と女性に押し付けたものを、自らが属する文脈の中で、自分たちで演じながら、自分たちで育て、結晶化させていく。そうしてはぐくまれた西洋の概念は、そのまま悲劇となって自分たちを直撃し、崩壊させ、惨劇へと至らしめる。

それは、西洋の歴史が繰り返してきた、女性と疎外を巡る物語の、最も最小な単位での濃密な再演。



フーコーや、フェミニズムが西洋の歴史理解を切り開いていった60年代以降、そんな考えは決して珍しいものではない。

けれど、トリアーの絶望の深さは、そこに止まらない。



トリアーの惨劇は、絶望のような希望の中で終わる。



抑圧と放逐によって成り立った西洋の歴史の中にあり、その先端にある限り、西洋のその悪徳のベクトルからは逃れられない、という認識を示すかのように、物語は絶望の中で終わる。


そもそも、現代の研究者である二人は、このような西洋の歴史の解釈を、当然の前提として知っていたのだ。けれども、二人は、その結末から逃れることはできない。抽象化された象徴的人物のような二人は、ただ破綻への道を歩んでいく。



映画の始まりと結末、その二つの差異を結んだ線の延長線を映画の希望としてみなすなら、映画が示すのは、ただ西洋の知がそのようなものである、という絶望と、それを知っらなかったという悔恨に満ちた認識だけ。


森の中の地獄は、森の外の地獄の反映に他ならず、自分はまたその地獄に西洋の抑圧の化身である悪魔として、回帰するしかないという絶望の認識。其れだけが希望である、という絶望に満ちた期待。

トリアーのアンチクライストがどうしようもなく憂鬱なのは、きっとそこに理由がある。



トリアーの断罪は、当然、映画それ自体にも向けられる。西洋の美的感覚は、西洋の思想と深く結びついている。陰影から、遠近法、構図に至るまでが、その結びつきの下にあることは、多くの研究が示す通りだし、絵画が一つの思想の表現方法だった。それは、映画においても変わらない。トリアーが古典的な象徴体系、古典となった映画の引用を行なったのは、これを映画として補強し成立させるため、西洋の地獄が、視覚的な美しさとなって世界を覆っている事を示すためなのだ、と。




けれど、トリアー監督の新作、ニンフォマニアックは、その絶望を抱えた上で這いずる、強い希望があったように感じられた。物語は、やはり破滅的な最後を迎える。けれど、そこには希望へ向かう事への信頼と、生への強い意志があったように。




ニンフォマニアックも、アンチクライストと同様に、男女2人で物語が進行していく。トリアー独特の、ドグマ式の映像は、比較的抑えられ、挿入される記録映像が本編のドラマ映像と対話するように、コミカルにテンポよく進んでいく。


けれど、上述のような視点でアンチクライストを見た場合、ニンフォマニアックが何よりもアンチクライストと異なるのは、それが語りの物語である点だ、と私は考える。


主観的に曲げられた物語は、語り手のセルフコントロールの下にある。


語り手は、アンチクライストのような地獄を抜けて来た1人の女性、ジョー。彼女が語る物語と、聞き手の男性セリグマンの間の張りの揺れが、物語を駆動させている。


そこには、ギリシャ哲学の対話編を連想させるものがありつつ、彼女が辿ってきた人生の反映がある。


彼女の語る物語は、彼女の性欲と、1人の男性の存在以外、全てが自分のセルフコントロールに置かれた物語として語られ、セルフコントロール不能な要素も、彼女は決して否定しない。そこには、アンチクライスの中にあった葛藤の微妙な発展がある。


女性という領域に、西洋がセルフコントロール不能な対象を押し付け、女性は自身のセルフコントロールを失いながら自己を否定する、アンチクライスの物語(こうした見方もアンチクライスは否定するのだろうけれども)が、ここでは反転して演じられる。


女性は自分の欲望に従って自分をコントロールし、自分を排撃しない。そのように語ることは、同時に崩壊した自我の癒しでもある。



ニンフォマニアックでは、ドラマと映像は幾重にも重なって進行していく。


もう一つのドラマは、ジョーとセリグマンが語る今のドラマで、語られない男の西洋知の権化のドラマで、女が語らなかったドラマ。今のドラマがそれらをまとめ上げ、今のドラマは独特の緊張感を舞いあがらせている


女の話を聞く男は、話を男の思想世界によって解釈して行く。そこの中で、女性の生きた軌跡と語りは、奇妙な形で変更されて行く。


それは、彼女が辿って来た、彼女の彼女の人生に対する解釈の変更に他ならない。性的な疎外者である2人の対話は、どこかですれ違って行く。



セリグマンは、自分の話を語ることができない。だから、受け継いだ知識に呪われ、他人に呪いを撒いてしまう。他人を解釈することでしか、発話が出来ない。



セリグマンが暮らす、窓の少ない小部屋は、セリグマンの心象でもある。外を覗き、外を測るけれど、みられる事はない。ジョーの語りの中に現れる世界も、セリグマンの世界も、彩度は低く、現実感に乏しい。けれど、ジョーの世界は白く飛んだ彩度の低さで、セリグマンの世界は黒く飛んだ彩度の低さで。


ジョーの世界は、現実を白く飛ばしたファンタジーであり、セリグマンの世界は、現実から黒く隠れたファンタジーなのだとしたら。



ドラマはアンチクライストと同じように破局を迎えるけれど、ジョーは自らの語り、自らを自らの望むように語ることをやめない。映画のラストで、ジョーは映画の画面からフレームアウトする。



自らを語り自らを騙ることは、また別種の地獄を招くかも知れないけれど、地獄の先に、映画は歩んでいく。


私はそれが、アンチクライストの後に見出されたトリアー監督のきぼうなのではないか、と思えてならない。



そして間違いなく、こうして自分を語らず、胡乱な解釈をする私は地獄を再生産する1人なのだ。




映画を見ながら思い出したTV番組。経験としての女性に理性の男性が解釈を加えるという昔ながらの地獄絵図の再演のような気がしてならず。




プラトン
2008-12
ニンフォマニアックをたどっていくとここに行き着くのだと、そんな気が。対話による愛の理解。饗宴では、女性が男性に知を授ける(ように見せかけた)場面があったり対照も面白い。




ニンフォマニアックでは明らかなバルテュスの引用が幾度か行われている。キーイメージの類似性も高い。バルテュスは、少女像の中にイデアを探求したけれど、それは何かを見る少女が見られることに気づかない内に、バルテュスが見出したものだった。
女性人気も意外と高く、私自身の使い方も含め、そこではフェティッシュのセルフコントロール/再話、というような何かがあるのではないか、と思っても見たりしていて、ニンフォマニアックとの関連は興味深い。


ナタリア・ボンダルチュク
2016-06-24
アンチクライストは、タルコフスキーに捧げる、と末尾にあったけれど、ニンフォマニアックも、間違いなくタルコフスキーに捧げられている。
劇中で流れるコーラルプレリュードは、ソラリスの引用で、ジェロームの章では流れる水草の映像の引用が。
ソラリスとは、語り、語られ、語る、解釈の物語である点が近いかも、というのはいささか牽強付会かしら。
正直なところ、アンチクライストがどうタルコフスキーに捧げられるのか、明白な考えが持てず……。
多分それは、トリアーとタルコフスキーに共通する宇宙の捉え方、その感覚に由来していて、自分を包み込む世界への畏敬と理解不能性、最後に残る祈りのような受容、それが空間と人、時間のズレとして映像に現れる、という所にあるのかな、と思いつつ。


















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UとAという2人がいた。初めての掃除の時間、Uは、Aを見初めた瞬間、Uにいつか殺されると予感した。 予感は的中した。

劇の準備中、体育館の舞台袖でAはUに、首を絞めていいか、と許可を求める。Uは受け入れ、長い時間が過ぎて、AはUの首から手を離した。

その後、Uは病にかかり、Aと会うことは殆どなくなった。唯一のやり取りは深夜のメール。次第にメールの内容は死に纏わる事柄に変わっていった。

Uは、Aに、女性が女性として女性を愛する話を語った。性指向と性自認の物語。Aは拒絶した。Uはそれ以上の説明をできなかったし、しなかった。

AはUを傷つけるようなことは、なにもしなかったし、言わなかった。



杉本博司『ロストヒューマン』@東京都写真美術館 : 宣告の傲慢さ、世界の複数性、自らを破綻させる表現






 もしも、世界への態度を示す世界観のように、廃墟への態度を示す廃墟観とでもいうべきものがあるのなら、それは『冷たい廃墟』と『熱い廃墟』の二つに、廃墟観というのは分類できるのではないだろうか。

 
 前者は、非人間的な時間や天災によって作られた結果としての廃墟で、後者は、人間の破壊によって生まれた廃墟。


 前者は、崇高な人間の他者による侵食、後者は人間による人間の侵食。


 そして多分、推論に推論を重ねるのなら、後者は人間が文明を壊滅させられるという確信を基盤にした、廃墟観。


 杉本博司さんの東京都写真美術館での展示は、そんな熱い廃墟をかき集めた展示だった。


 どこまでも続くトタン板の迷路、その中を彷徨うと、次々に現れる、吊るされた人形、古い書類、標本、表皮の見えない屍体、その他のオブジェクトが、元の世界から切り離され、滅亡した文明の痕跡として、新しい文脈を強制されている。


 トタン板で区画された展示室には、それぞれ一つ、A4ほどの紙片が飾られている。そこに記されるのはその文明が滅亡に至った理由、語り手が語るその物語。


 無数の区画を巡っても巡っても、異なった理由で滅亡する異なった文明と、その痕跡が、次か次へと現れ出てくる。廃墟は、世界が滅んだ熱で無闇に熱い。


 熱の中で、それでもお区画を巡っていくと、現れるのは、逆説的に滅びもせず死にもせず、真っ直ぐに生きている文明の体温だ。それは自分を取り巻く展示室にいる人々の体温でもあり。


 そんな中で、声高に滅亡が叫ばれ、そうして叫ばれれば叫ばれる程、それは滅亡を宣告する事の熱意、滅ばず死なない世界に一方的な宣告を下す熱意だけを、極端に高めていく。


 滅亡の理由としてあげられる理論は、文明滅亡という虚構を根拠に正当化され、その絶対的な正義の快楽に浸っていくかのようでさえある。それを冷たく見つめる、改造された文脈のオブジェクトたち。


 ある種のマッチョイズムとしての文明滅亡の宣告(実際、驚くほどのマッチョさが文明滅亡の理由を支えている区画が幾つかあった)は、そこで指弾される文明滅亡の理由それ自体と、軌を一つにしている。


 それは、文明を区分したい、文明を通してみる世界を明瞭に分類したい、という欲望でもある。生と死は明文化され、文明は単一の原因によって滅んでいく。


 それにもかかわらず、文明滅亡の告発文は、まさにその単一へ、明瞭へと向かう方向性こそを、滅亡の原因として謳い上げ、得意げに指弾する。


 この展覧会は、自分自身で自身を食い荒らす、破滅的な方向性を持っているかのよう。


 巨大なジョセフコーネルの箱のようでもある、オブジェクトが組み合わされた空間は、その強烈な意味性によって縛られつつも、意味性を否定していく。


 オブジェクト一つ一つが持った物語世界は、与えられた物語世界と矛盾し、意図を破綻せしめて、オブジェクトのオブジェクトたる所以を明らかにしてしまう。


 表皮を封じ込めるように、衣類に巻き取られ安置された人体らしきものは、その丁重な手つき、神社の奥のような手つきでもって、その中に強力な力が封じ込められている事を暗示する。
 それは破滅的な、単一の意図を破壊する身体の力を封じ込めているようでもあり、展覧会の危うさがその一点にのしかかる。


 けれども、人体らしきものを取り囲むトタン板は、赤錆、汚れ、剥げ落ち、細密なテクスチャを過剰に誇り、それは封じ込められた表皮の代わりのよう。人間を裏切る身体の厚み、内側、内臓は、化粧や衣服のキャンパスとなる薄い表皮となった板の中で消え去ってしまう。


 展覧会は、文明崩壊という究極の判断を宣告するために、その宣告自体を崩すものを封印しつつ、封印する事で、むしろ暗示し続ける。


 分離し表明し、自分を絶対の位置へと登らせる欲望。あまりにも90年代、80年代的な、物事を踏みつけにして自分の足元を疑わない事で生まれる反抗心の充足。




 けれど、ラストに展示された空と海の写真はそうした欲望を嘲笑うモノを映している。




 微妙に違うマチエールを持ちながら、分けられない境界線を持つ空と海、あまりにも同質な質感を持ちながら見事な撮影で明暗を分けられた空と海。それは、人々が死んだ後も残る光景で、つまりは誰からも分けられない世界。


 記号を持たない世界であり、分析されない世界であり、絶対を持たない世界。一切の意味を持たない世界。質感の感覚が、何処にも帰属する実態を持っていない世界。

 その前に立って、文明と文明の崩壊の無意味さを感じるときに、自分の中で少しだけ何かが崩れていくの感じた。




 展示は、フロアを変えてもう一つ、写真をメインにしたものが続く。

 


 廃墟となって、照明と舞台を喪った劇場で、輝くモニタを写したシリーズが、終末を描く映画の解説キャプションと共に飾られる。


 天井からの光を失くした劇場は、神の世界を、明瞭な理性を失くした西洋世界で、横から差す光は、ただ冷たくある。人のいなくなった世界で、非西洋的な光だけが祈りのように眠っている。


 ただのあらすじとして、データ的に語られる言葉は、そこに対置されて恐ろしく軽い。宣告し、決別する言葉、ただ伝達のための言葉は、ここでは単一なものとして解釈され、質感を消失する。


 写真が映しているのは、文脈に沿って配置された文明であり、様々な変種をもつ世界でもある、のかもしれない。伝達と一方的な宣告だけを持つ言葉はその前で、文明という考え、文明という文脈が、人と世界に押し付ける吐き気のする軽さと重さを露わにする。


 露骨な言葉、露骨な区分、露骨な押し付け、露骨な自己存在、露骨な搾取。それに疑問符を一切付さない姿。


 廃墟の中の、無数の矛盾し合う文明滅亡の宣告文は、その傲慢さ故に、文明滅亡と動きを共にし、変種をいくつももつ世界を殺し、同時に壊れない文明と殺せない世界を露わにしていく。


 その吐き気のする愚かさに耐えながら、文明への宣告は今日も元気にしている。


公式HP
作品と展示風景がいくつか見られます。

『ロストヒューマン展示』っは少しだけ雰囲気がクーロンズゲートに似ているように。
こてこてした90年代的な滅亡の雰囲気。

美術出版社
2014-06-17






『How beautiful the ordinary』性的マイノリティが恋愛物を読んで泣けるようになるという事/異性愛と健常者の世界で窒息する事


  • 読書をする理由は、数え切れない。けれどもし、あなたが若く、自分という者が不確かで、何者になるのか分からない時期にあるのなら、本のページの中に自分の反射を見出す事は、読書をする大きな理由の一つ、になるかもしれない。
  • 自分が一人ではなく、あなたがーあなたが恐れるようにーたった一人の孤独な種族でない事を見出す事は、なんという安らぎだろうか。けれどもし、図書館いっぱいの、本の中の自分の姿を求めて探し回り、なのに結局、探索が無駄に終わったとしたら、どうだろう?
  • それが、あまりにも長い間、レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランス、の若い人々が立たされてきた苦境だった。
 
作品名:How beautiful the ordinary 序文
作者:Michael Cart
ページ数:1頁
(上文は私訳)





 感情移入というのは、私にとって見知らぬ影のような人でしかなかった。多くの人が感情移入について語り、それより少しばかり少ない人びとが、感情移入に対して武装していた。


 私自身、後者の末席に位置していて、自分と感情移入の間に関わりはないだろう、と思っていた。


 例えば、私が感じるのは、ある人物が漏らす一瞬の思考への一瞬の共感であり、現実に穴を開ける光景への驚きで、世界の行進の中で見捨てられるものを発見することの慰めだった。

 
 或いは、作品の解読を楽しみ、鑑賞し、妙技を味わい、美学的な意味で読んでみる事。それは、継続的に登場人物の気持ちに入り込み一喜一憂する感情移入とは、全然、別のもの。


 まして、分けても恋愛物と呼ばれるジャンルは、むしろ自分にとって、嫌な巷の人気者でさえあった。


 男女の心の揺れ動きには、何も揺さぶられなかったし、そこから覗く深淵も、奇想と幻想の彩り抜きには余りに侘しく思えた。その世界は、ひどく貧困な想像力に彩られているようにしか思えなかった。


 神への、象徴的だったり抽象的な物への思慕は理解できた。けれど、男女だけの心の動きは、何も響かなかった。


 今にして思えば、その当時の私ーと言ってほんの1、2年前のことだけれどーは、男女の世界の中で溺れかかっていたのだ。




 けれど、中山可穂さんのある短編集を読んで、私の価値観は大きく変えられた。
 それは私が一番苦手なタイプの物語を収めた短編集だった。


 浮気し、不倫し、愛情を信じられず、別れ、社会的に傷つき、どうしようもない人がどうしようもい恋情に朽ちていく。私が嫌悪していたのは、まさにそういう緩い体温が絡み合う題材だった。


 それなのに、それが楽しめた。初めて、登場人物の心の動きに自分が寄り添い、一緒に悲しみ一緒に喜べた。


 中山可穂さんの小説が、私が今まで読んだ恋愛小説と違っていたのは、ただその主題が一般的(とされる)異性愛以外の可能性をふんだんに含んだ物語だった、という事だけ。

 かつての私が経験したような(私はあえて区分するならバイセクシャルだけれど)女性同士の恋物語。


 たったそれだけの事で、私の評価基準はまるで変わってしまった。たったそれだけのことで、私は人の体温が絡む恋愛が、たまらなく好きになってしまった。


 ここでようやく、冒頭で引いた『How beautiful the ordinary』の紹介に移れる。『How beautiful the ordinary』は、LGBT(とされる人びと)を題材にしたアメリカのYA短編集。


 内容は多彩の一言。犬となった少年の幻想的な戯曲風小説から、グラフィックノベルと呼称されるマンガ作品、SNSのやり取りを抜き取るような作品まで。
 

 現代アメリカの小説世界を横断するような多彩さと品質の高さは、それだけで楽しい。


 けれど、何より心に響いたのはその序文。


 冒頭に引いたのがその初めの箇所。
 昔の自分が何を求めていて、何をなくしていたのか、中山可穂さんの作品を読んでからずっと考えていたことが、この文章の中に濃縮されていた。


 私は、性的マイノリティのコミュニティの中でも、若干の差別意識を感じる性的マイノリティで、難病を抱え体力がなく、車椅子を使用する障がい者だ。私にとって、異性愛を当然の前提とする世界は、私自身の経験からはあまりに縁遠く、程遠おい、異世界だった。


 私の光の反射はその大事な部分が、創作の世界の価値観から切り離され、創作されたテクストが織りなす世界の中で、見えない存在となっていた。そのことに気づくこと、それ自体が救いだった。


 溢れ出る異性愛、健常者の世界の中で、私は殆ど窒息しかけていた。


 状況をそのように認識することは、それはそれで勇気のいることだ。だから哀れだとか不幸だ、ということではなく、目前の隙間をそのように冷静に見つめること。


 『How beautiful the ordinary』の序文はこの後に、本を読む理由の一つに、自分と違うものの気持ちを感じること、を挙げる。 


 それが普通であり、自分たちの一部であり、そして違うこと。単純に相対化するのではなく、差異を備えた自分たちという考え方。


 だからもちろん、異性愛の物語にも、私は価値を見出せるだろう。けど、世界はあまりにそれ一色で塗りつぶされていた。



 それ以来、私は幾つもの同性愛の恋愛物語にのめり込むようになった。幸い、日本にはその類の創作物が存在してくれている。


 もちろん、私はそれ以前にも多くの同性が恋をする物語を読んでいた。けれど、私はそれらに自分が惹かれる理由を過小評価してしていた。その意味を、全く読み取れていなかった。


 私は恋愛を見て泣けるようになった。自分の過去を、見直せるようになった。創作の中の光の反射を通じて、自分の顔が見えた。


 それによって得られる価値、というものを、私は初めて知った。私が失わさせられていた価値を、初めて手に入れた。


 障害を持った少女たちの恋愛を描いた南部くま子さん/森島明子さん『囁きのキス』という恐ろしくライトでラフな作品を読んで、障害を持って性的マイノリティである自分への評価を、変えることさえ出来てしまった。


 ザ・ウォシャウスキーズの『Sense8』のノミとアマニータの物語にどれほど心を動かされたか。


 幾つもの作品の上に私は涙を流す事ができるようになった。



 自分がずっと、バベルの図書館の中で自分の反射を見出そうと足掻いていた事を知った時に、私は恐ろしく救われたのだった。



 それは言語と人間精神の基礎をなすものかもしれない。


 
 私たちの言語は同語反復で基盤が出来ている。辞書の愛の項目を手繰れば、その事は嫌という程よくわかる。私を定義するのは、私の似姿でしかない。


 愛は恋の言い換えであり、恋は愛の言い換えだ。


 同語反復的なトートロジーが言語を支配しているのなら、言語と共生する精神も、根底にトートロジーを隠し持つだろう。


 そんな人の精神は、似姿を、自分の光に近い一粒を見つけられない時には、社会の中で窒息していくかもしれない。

 
 フィードバックのないプログラムか回路のように、ショートし、バグを吐き出し始める。そういう時に必要なのが、自分の似姿だ。創作の中の、社会の中の、身近な人の。


 世界の中にそれを見つけにくいマイノリティは、マジョリティの世界の中で次第に窒息していく。


 他人の中に見出せる、共有できる価値観が、嫌になるほど少ない事が、存在を不安にしていく。だから、不安をかき消すような、自分の似姿がどこかに必要なのだ。



 創作の中にだけでも、創作の中にだからこそ。



 そんな当たり前のことに気づくのに、恐ろしいほど長い時間がかかった。


 もっと豊穣な創作世界が、拓けていけばいいと願っている。


 それは私を救ってくれ、そうした作品がその存在を教えてくれた私に似た誰かを、救ってくれるだろうから。


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