■一千一頁物語

一瞬を凍らせる短歌やスナップショットのように生きたいブログ

本の一ページを紹介するブックレビュー一千一頁物語 SSよりも瞬間的な創作小説SnapWritte スナップショットの感覚、短歌の精神で怖いものを探求したい…願望

書評 李琴峰『独舞』 宙吊り、私≠彼女、セクシャリティ、言語

李琴峰さんの小説「独舞」は、宙吊りになるような小説だと、私には思えた。
あるいは、中間にあることを受け入れる小説。

そう思えるのは、この小説の自分との近さを受け止めきれず、それこそ宙ぶらりんになっている私自身の状態ゆえなのかも知れないけれど。



李琴峰さんの「独舞」は、第60回群像新人文学賞の優秀賞作品で、台湾出身の著者が初めて日本語で描いた作品。

2017/10/7発売『群像』11月号には、受賞第一作「流光」が掲載され、10/10発売の三田文学にはエッセイが掲載されることが決定されていて、作者の今後の活躍が、ますます期待される。



独舞では、全体に中国文学、台湾のセクシャルマイノリティー文学(同志文学というのだとか)、日本文学が引用され、多言語的な日本語世界でもって、物語が語られる。

物語が傷をめぐる物語、と簡単にはいえないのだけど、とにかく死と痛みに憑かれた主人公=彼女(と作中では称される)が生存する物語。それはまた、自らのアイデンティティ(レズビアン、傷、言語)を、どうしようもない環境の中でなんとかコントロールし確立しようとした軌跡でもあり、物語は過去≠台湾と現在≠日本、個人≠内面と運動≠政治の間を行き来しながら進行していく。

その物語の中では、主人公自体が、他者の視線の中を行き来させられる。序盤で大きく主人公に関わる日本の同僚、絵梨香は足に障碍を持っており(私と同じだ)主人公はその点を自らと重ね合わせ親近感を抱くけれど、絵梨香は主人公をただ普通で健全(?)な人としかみなさない。

それは主人公が日本で出逢った同性の恋人薫にしても似たことで、薫は主人公の傷を共有することを否定する。主人公の傷は様々な形で否定、抹消されながらもそれは共有の場を持たないまま、暴かれ続ける。主人公がそれへの共感を得るのは物語終盤であり、主人公が人のそれに思い至ることができるまでに回復するのも、物語終盤のこと。

物語は、そうした往還を解決しない(あるいは私にはそんな風に読むことができなかった)。それは何かの永遠じみて安定した形態にはならなくって、脆く細い突起に満ちて変化する複雑な形態のまま、終焉を迎える。主人公が生きる理由を喪うのは、まさにそんな不安定な矛盾の解消を求めて、終局的な終局を求めてのことだったのだから、そんな帰結は当然に思える。

だから、なのか、あるいは私自身の資質ゆえなのか、わかりやすい整理を物語に加えることができない。主人公が救われたのは、こんな理由があるのだ、こんなことをしたからだ、といった説明は、付け加えることができないし、そうしてしまっては壊れてしまう声を、物語は持っている。

物語の語られ方も、そんな性質を持っているように思えた。物語の主人公は、終始、"彼女"と地の文で語られ続けるけれども、途中で挿入される一人称の日記や、ラストにおける主人公の独白も相まって、それはほとんど一人称のようにさえ感じられる。この私≠彼女の性質は、物語全体に強い印象を残し続ける。

一人称と三人称の中に物語は吊るされていて、その他者と自己の間で揺れるような語りは、独特の浮遊感と緊張感を物語に強いつづける。この"中間人称"でしか語れない声、距離と思いが、物語の核心のように思え、自分の中に残響し続けた。





付記
なんとなく綺麗に感想を終えるのが嫌で、蛇足のように注釈をつけてみる。作中ではいくつかの漢詩が引用されるのだけど、ここでその元ネタをメモしてみるのだ。作中で解説の示される短歌行、国破れて山河あり、なんかには触れない。漢詩には全く疎く読み下すのも自信がないので、いけないことなのだけど一部引用のみ……。



160p
人生不相見
動如参与商

杜甫の詩。再開を唄った詩の冒頭、人と人の再会する難しさを唄った部分。参も商も星の名前で、西洋風に言えば参は二八宿の一つでオリオンの三つ星、商は蠍座のアンタレス、らしい……。



160p
無為在岐路 
児女共沾巾 

王勃の詩。赴任する友人を見送る歌……なのだとか。これはその最後の部分で、前段には「海内存知己 天涯若比隣 」海内=世界に自分を知るものがあれば、天の涯も隣のようなもの(たぶん)という一節があってエモい。王勃も杜甫も共に唐代初期の詩人。



168p
欲潔何曾潔
云空未必空
 
清代の小説「紅楼夢」の第五回より。
主人公宝玉が、夢の中で仙境に至り、そこで12の絵を目にする。この引用はその絵の一つに描かれた賛(東洋絵画で画中に描きこまれる文のこと)で、「可憐金玉質 終陷淖泥中」と続く。この讃が書きつけられた絵は泥の中に沈む美玉の。この12のひと続きの絵は、小説のヒロインたちの行く末を暗示したもの、だとか。



172p
心有霊犀一点通

晩唐の詩人、李商隠の詩で、恋人が心を通いあう様を唄った一節。中国語圏では成句の一種となっているのだとか。



172p
術業有専攻

中唐期の文筆家、韓愈の「師説」からの引用。人それぞれ専門がある、ということでそのまま。主人公が美大出の恋人が中国文学をあまり知らないことを指して。西洋美術史には堪能みたいだから、日本画系ではなかったのかも(日本画というのもアイデンティティや植民といった問題がぞっとするほど根深いものの一つ)。



219p
扶桑已在渺茫中 家在扶桑東更東

唐代の詩人、韋壮の詩で日本へ帰る日本人僧侶に向けて送った唄の冒頭。扶桑は中国の伝説で、東の彼方にある神木のこと。
「此去與師誰共到 一船明月一帆風」と続くのだとか。

漢詩教養ゼロな私の胡乱な解説だけれど、多言語な作品を読む上で何か参考になれば。








上記二冊とも、作中で引用される。台湾のセクシャルマイノリティー文学は同志文学と呼ばれ、同志運動とも呼ばれるセクシャルマイノリティー運動を支えたのだとか。

同作者の「悪女の記」が作中で引用される。橋の上の路上店のイメージの周りを円形にまわりながら、自己を語る一作。

台湾クイア小説の一作。文学研究者で日本のアニメ漫画の著者も持つ作者による一作は、強烈の一言。世紀末の東京で恋に落ちる吸血鬼、という日本サブカルっぽいモチーフを驚くような完成度に持ち上げる骨格の確かさは、まだ序の口で。永野護に由来すると思われる人物と藤本由香里に由来すると思われる人物が両性具有の近親相姦を繰り広げるなど、作者の耽溺はとどまるところを知らない脅威の一作。ぜひぜひ表紙を変えて文庫で出して欲しい……。作者のアニメ漫画研究書もぜひ。

台湾セクシャルマイノリティー小説の中でもSF的作品を集めた一作。奇想と幻想と現代性に満ちてて面白い。ハヤカワSFでも出して欲しい。



◻︎宣伝

『アンチクライスト』とラースフォントリアー『ニンフォマニアック』 対話篇 絶望と希望の物語


 『アンチクライスト』とラースフォントリアー『ニンフォマニアック』 絶望の中で自らを語ることの可能性と不可能性


ラースフォントリアー監督の作を追っていくと、その景色の森林の中に、西洋の知の体系への嫌悪が絡み付いているのを、どうして観てしまう。

アンチクライストを駆り立てる絶望の深さは、絶望それ自体の認識だけが救いになる、そういう色をする程の深さだったように感じられた。


監督のニンフォマニアックも、その絶望の深さは変わらない。けれど、救いのありようは全く違う物のように、思えてならなかった。


それは希望が始まる物語であり、解放へと向かう決意の物語であるのではないか、と。







アンチクライストを、西洋文化に絡みついた思考を巡る物語と見てみる。


森林は、西洋文化が排除して来たものであり、それ故に西洋文化が認識できないもの。

それは、西洋の知が、自分の境界を決めるために利用してきたもの

そしてそれは、女性、という形で西洋の中で内面化される。


精神科医と中世魔女美術の研究家たる主人公二人は、知の体系に属しながら、同時に、知の体系から溢れた領域を、理解可能なものに置き換える事を、職能としている。


そんな二人は、物語の中で、西洋知が疎外したものの象徴である森林の中で、西洋が自然と女性に押し付けたものを、自らが属する文脈の中で、自分たちで演じながら、自分たちで育て、結晶化させていく。そうしてはぐくまれた西洋の概念は、そのまま悲劇となって自分たちを直撃し、崩壊させ、惨劇へと至らしめる。

それは、西洋の歴史が繰り返してきた、女性と疎外を巡る物語の、最も最小な単位での濃密な再演。



フーコーや、フェミニズムが西洋の歴史理解を切り開いていった60年代以降、そんな考えは決して珍しいものではない。

けれど、トリアーの絶望の深さは、そこに止まらない。



トリアーの惨劇は、絶望のような希望の中で終わる。



抑圧と放逐によって成り立った西洋の歴史の中にあり、その先端にある限り、西洋のその悪徳のベクトルからは逃れられない、という認識を示すかのように、物語は絶望の中で終わる。


そもそも、現代の研究者である二人は、このような西洋の歴史の解釈を、当然の前提として知っていたのだ。けれども、二人は、その結末から逃れることはできない。抽象化された象徴的人物のような二人は、ただ破綻への道を歩んでいく。



映画の始まりと結末、その二つの差異を結んだ線の延長線を映画の希望としてみなすなら、映画が示すのは、ただ西洋の知がそのようなものである、という絶望と、それを知っらなかったという悔恨に満ちた認識だけ。


森の中の地獄は、森の外の地獄の反映に他ならず、自分はまたその地獄に西洋の抑圧の化身である悪魔として、回帰するしかないという絶望の認識。其れだけが希望である、という絶望に満ちた期待。

トリアーのアンチクライストがどうしようもなく憂鬱なのは、きっとそこに理由がある。



トリアーの断罪は、当然、映画それ自体にも向けられる。西洋の美的感覚は、西洋の思想と深く結びついている。陰影から、遠近法、構図に至るまでが、その結びつきの下にあることは、多くの研究が示す通りだし、絵画が一つの思想の表現方法だった。それは、映画においても変わらない。トリアーが古典的な象徴体系、古典となった映画の引用を行なったのは、これを映画として補強し成立させるため、西洋の地獄が、視覚的な美しさとなって世界を覆っている事を示すためなのだ、と。




けれど、トリアー監督の新作、ニンフォマニアックは、その絶望を抱えた上で這いずる、強い希望があったように感じられた。物語は、やはり破滅的な最後を迎える。けれど、そこには希望へ向かう事への信頼と、生への強い意志があったように。




ニンフォマニアックも、アンチクライストと同様に、男女2人で物語が進行していく。トリアー独特の、ドグマ式の映像は、比較的抑えられ、挿入される記録映像が本編のドラマ映像と対話するように、コミカルにテンポよく進んでいく。


けれど、上述のような視点でアンチクライストを見た場合、ニンフォマニアックが何よりもアンチクライストと異なるのは、それが語りの物語である点だ、と私は考える。


主観的に曲げられた物語は、語り手のセルフコントロールの下にある。


語り手は、アンチクライストのような地獄を抜けて来た1人の女性、ジョー。彼女が語る物語と、聞き手の男性セリグマンの間の張りの揺れが、物語を駆動させている。


そこには、ギリシャ哲学の対話編を連想させるものがありつつ、彼女が辿ってきた人生の反映がある。


彼女の語る物語は、彼女の性欲と、1人の男性の存在以外、全てが自分のセルフコントロールに置かれた物語として語られ、セルフコントロール不能な要素も、彼女は決して否定しない。そこには、アンチクライスの中にあった葛藤の微妙な発展がある。


女性という領域に、西洋がセルフコントロール不能な対象を押し付け、女性は自身のセルフコントロールを失いながら自己を否定する、アンチクライスの物語(こうした見方もアンチクライスは否定するのだろうけれども)が、ここでは反転して演じられる。


女性は自分の欲望に従って自分をコントロールし、自分を排撃しない。そのように語ることは、同時に崩壊した自我の癒しでもある。



ニンフォマニアックでは、ドラマと映像は幾重にも重なって進行していく。


もう一つのドラマは、ジョーとセリグマンが語る今のドラマで、語られない男の西洋知の権化のドラマで、女が語らなかったドラマ。今のドラマがそれらをまとめ上げ、今のドラマは独特の緊張感を舞いあがらせている


女の話を聞く男は、話を男の思想世界によって解釈して行く。そこの中で、女性の生きた軌跡と語りは、奇妙な形で変更されて行く。


それは、彼女が辿って来た、彼女の彼女の人生に対する解釈の変更に他ならない。性的な疎外者である2人の対話は、どこかですれ違って行く。



セリグマンは、自分の話を語ることができない。だから、受け継いだ知識に呪われ、他人に呪いを撒いてしまう。他人を解釈することでしか、発話が出来ない。



セリグマンが暮らす、窓の少ない小部屋は、セリグマンの心象でもある。外を覗き、外を測るけれど、みられる事はない。ジョーの語りの中に現れる世界も、セリグマンの世界も、彩度は低く、現実感に乏しい。けれど、ジョーの世界は白く飛んだ彩度の低さで、セリグマンの世界は黒く飛んだ彩度の低さで。


ジョーの世界は、現実を白く飛ばしたファンタジーであり、セリグマンの世界は、現実から黒く隠れたファンタジーなのだとしたら。



ドラマはアンチクライストと同じように破局を迎えるけれど、ジョーは自らの語り、自らを自らの望むように語ることをやめない。映画のラストで、ジョーは映画の画面からフレームアウトする。



自らを語り自らを騙ることは、また別種の地獄を招くかも知れないけれど、地獄の先に、映画は歩んでいく。


私はそれが、アンチクライストの後に見出されたトリアー監督のきぼうなのではないか、と思えてならない。



そして間違いなく、こうして自分を語らず、胡乱な解釈をする私は地獄を再生産する1人なのだ。




映画を見ながら思い出したTV番組。経験としての女性に理性の男性が解釈を加えるという昔ながらの地獄絵図の再演のような気がしてならず。




プラトン
2008-12
ニンフォマニアックをたどっていくとここに行き着くのだと、そんな気が。対話による愛の理解。饗宴では、女性が男性に知を授ける(ように見せかけた)場面があったり対照も面白い。




ニンフォマニアックでは明らかなバルテュスの引用が幾度か行われている。キーイメージの類似性も高い。バルテュスは、少女像の中にイデアを探求したけれど、それは何かを見る少女が見られることに気づかない内に、バルテュスが見出したものだった。
女性人気も意外と高く、私自身の使い方も含め、そこではフェティッシュのセルフコントロール/再話、というような何かがあるのではないか、と思っても見たりしていて、ニンフォマニアックとの関連は興味深い。


ナタリア・ボンダルチュク
2016-06-24
アンチクライストは、タルコフスキーに捧げる、と末尾にあったけれど、ニンフォマニアックも、間違いなくタルコフスキーに捧げられている。
劇中で流れるコーラルプレリュードは、ソラリスの引用で、ジェロームの章では流れる水草の映像の引用が。
ソラリスとは、語り、語られ、語る、解釈の物語である点が近いかも、というのはいささか牽強付会かしら。
正直なところ、アンチクライストがどうタルコフスキーに捧げられるのか、明白な考えが持てず……。
多分それは、トリアーとタルコフスキーに共通する宇宙の捉え方、その感覚に由来していて、自分を包み込む世界への畏敬と理解不能性、最後に残る祈りのような受容、それが空間と人、時間のズレとして映像に現れる、という所にあるのかな、と思いつつ。


















@----------------

UとAという2人がいた。初めての掃除の時間、Uは、Aを見初めた瞬間、Uにいつか殺されると予感した。 予感は的中した。

劇の準備中、体育館の舞台袖でAはUに、首を絞めていいか、と許可を求める。Uは受け入れ、長い時間が過ぎて、AはUの首から手を離した。

その後、Uは病にかかり、Aと会うことは殆どなくなった。唯一のやり取りは深夜のメール。次第にメールの内容は死に纏わる事柄に変わっていった。

Uは、Aに、女性が女性として女性を愛する話を語った。性指向と性自認の物語。Aは拒絶した。Uはそれ以上の説明をできなかったし、しなかった。

AはUを傷つけるようなことは、なにもしなかったし、言わなかった。



杉本博司『ロストヒューマン』@東京都写真美術館 : 宣告の傲慢さ、世界の複数性、自らを破綻させる表現






 もしも、世界への態度を示す世界観のように、廃墟への態度を示す廃墟観とでもいうべきものがあるのなら、それは『冷たい廃墟』と『熱い廃墟』の二つに、廃墟観というのは分類できるのではないだろうか。

 
 前者は、非人間的な時間や天災によって作られた結果としての廃墟で、後者は、人間の破壊によって生まれた廃墟。


 前者は、崇高な人間の他者による侵食、後者は人間による人間の侵食。


 そして多分、推論に推論を重ねるのなら、後者は人間が文明を壊滅させられるという確信を基盤にした、廃墟観。


 杉本博司さんの東京都写真美術館での展示は、そんな熱い廃墟をかき集めた展示だった。


 どこまでも続くトタン板の迷路、その中を彷徨うと、次々に現れる、吊るされた人形、古い書類、標本、表皮の見えない屍体、その他のオブジェクトが、元の世界から切り離され、滅亡した文明の痕跡として、新しい文脈を強制されている。


 トタン板で区画された展示室には、それぞれ一つ、A4ほどの紙片が飾られている。そこに記されるのはその文明が滅亡に至った理由、語り手が語るその物語。


 無数の区画を巡っても巡っても、異なった理由で滅亡する異なった文明と、その痕跡が、次か次へと現れ出てくる。廃墟は、世界が滅んだ熱で無闇に熱い。


 熱の中で、それでもお区画を巡っていくと、現れるのは、逆説的に滅びもせず死にもせず、真っ直ぐに生きている文明の体温だ。それは自分を取り巻く展示室にいる人々の体温でもあり。


 そんな中で、声高に滅亡が叫ばれ、そうして叫ばれれば叫ばれる程、それは滅亡を宣告する事の熱意、滅ばず死なない世界に一方的な宣告を下す熱意だけを、極端に高めていく。


 滅亡の理由としてあげられる理論は、文明滅亡という虚構を根拠に正当化され、その絶対的な正義の快楽に浸っていくかのようでさえある。それを冷たく見つめる、改造された文脈のオブジェクトたち。


 ある種のマッチョイズムとしての文明滅亡の宣告(実際、驚くほどのマッチョさが文明滅亡の理由を支えている区画が幾つかあった)は、そこで指弾される文明滅亡の理由それ自体と、軌を一つにしている。


 それは、文明を区分したい、文明を通してみる世界を明瞭に分類したい、という欲望でもある。生と死は明文化され、文明は単一の原因によって滅んでいく。


 それにもかかわらず、文明滅亡の告発文は、まさにその単一へ、明瞭へと向かう方向性こそを、滅亡の原因として謳い上げ、得意げに指弾する。


 この展覧会は、自分自身で自身を食い荒らす、破滅的な方向性を持っているかのよう。


 巨大なジョセフコーネルの箱のようでもある、オブジェクトが組み合わされた空間は、その強烈な意味性によって縛られつつも、意味性を否定していく。


 オブジェクト一つ一つが持った物語世界は、与えられた物語世界と矛盾し、意図を破綻せしめて、オブジェクトのオブジェクトたる所以を明らかにしてしまう。


 表皮を封じ込めるように、衣類に巻き取られ安置された人体らしきものは、その丁重な手つき、神社の奥のような手つきでもって、その中に強力な力が封じ込められている事を暗示する。
 それは破滅的な、単一の意図を破壊する身体の力を封じ込めているようでもあり、展覧会の危うさがその一点にのしかかる。


 けれども、人体らしきものを取り囲むトタン板は、赤錆、汚れ、剥げ落ち、細密なテクスチャを過剰に誇り、それは封じ込められた表皮の代わりのよう。人間を裏切る身体の厚み、内側、内臓は、化粧や衣服のキャンパスとなる薄い表皮となった板の中で消え去ってしまう。


 展覧会は、文明崩壊という究極の判断を宣告するために、その宣告自体を崩すものを封印しつつ、封印する事で、むしろ暗示し続ける。


 分離し表明し、自分を絶対の位置へと登らせる欲望。あまりにも90年代、80年代的な、物事を踏みつけにして自分の足元を疑わない事で生まれる反抗心の充足。




 けれど、ラストに展示された空と海の写真はそうした欲望を嘲笑うモノを映している。




 微妙に違うマチエールを持ちながら、分けられない境界線を持つ空と海、あまりにも同質な質感を持ちながら見事な撮影で明暗を分けられた空と海。それは、人々が死んだ後も残る光景で、つまりは誰からも分けられない世界。


 記号を持たない世界であり、分析されない世界であり、絶対を持たない世界。一切の意味を持たない世界。質感の感覚が、何処にも帰属する実態を持っていない世界。

 その前に立って、文明と文明の崩壊の無意味さを感じるときに、自分の中で少しだけ何かが崩れていくの感じた。




 展示は、フロアを変えてもう一つ、写真をメインにしたものが続く。

 


 廃墟となって、照明と舞台を喪った劇場で、輝くモニタを写したシリーズが、終末を描く映画の解説キャプションと共に飾られる。


 天井からの光を失くした劇場は、神の世界を、明瞭な理性を失くした西洋世界で、横から差す光は、ただ冷たくある。人のいなくなった世界で、非西洋的な光だけが祈りのように眠っている。


 ただのあらすじとして、データ的に語られる言葉は、そこに対置されて恐ろしく軽い。宣告し、決別する言葉、ただ伝達のための言葉は、ここでは単一なものとして解釈され、質感を消失する。


 写真が映しているのは、文脈に沿って配置された文明であり、様々な変種をもつ世界でもある、のかもしれない。伝達と一方的な宣告だけを持つ言葉はその前で、文明という考え、文明という文脈が、人と世界に押し付ける吐き気のする軽さと重さを露わにする。


 露骨な言葉、露骨な区分、露骨な押し付け、露骨な自己存在、露骨な搾取。それに疑問符を一切付さない姿。


 廃墟の中の、無数の矛盾し合う文明滅亡の宣告文は、その傲慢さ故に、文明滅亡と動きを共にし、変種をいくつももつ世界を殺し、同時に壊れない文明と殺せない世界を露わにしていく。


 その吐き気のする愚かさに耐えながら、文明への宣告は今日も元気にしている。


公式HP
作品と展示風景がいくつか見られます。

『ロストヒューマン展示』っは少しだけ雰囲気がクーロンズゲートに似ているように。
こてこてした90年代的な滅亡の雰囲気。

美術出版社
2014-06-17






記事検索
livedoor プロフィール