※ 押井守監督の映画『東京無国籍少女』の二次創作百合小説です。原作とは大幅に異なります。※
東京無主格少女 保健医の省察
肉が動いた後で、雷が連続して短い間隔に断続して光って、肉の動きは静止画の集合に変わった。肉だけが暗闇の中に実在して、光も意識もなく生きる、長い断絶の世界は、獣の世界だった。
光が埃になって、煙っていた。明るさが増せば増すほど、曖昧な白が領域を増やしていった。時計も、機構部のうえに嵌め殺された硝子が光に反射して、何も見えなかった。スチールの薬棚、机の上の志の無い日誌、眠っている鉗子と消毒液、軟膏の瓶の都市。それに囲まれたデスクの上の白いマグカップの奥まったところで濡れているコーヒーさえ、光を複雑に反射して、表面の7割ほどが、白っぽく見えた。室内には白衣を着た保健医と、一人の生徒がいた。
「先生、この薬、麻酔でしょう?」濃紺のジャンパースカートを鎧ってポスターを筒状に抱えた生徒が、いった。保健室には何故か種々のポスターが集まってくる。ポスターが、ポスターを呼び、ポスターを貼りたい人間を呼ぶのだと、保健医は語ったことがあった。少し角ばった指を持つ女性の生徒を、保険医は知らなかった。生徒が微笑みながら見ているのは、ドラッグ禁止のポスターで、生徒が指さすのは、そのポスターの真横のスツールで、そこには麻酔薬が置いてあった。
「みんな、勝手に貼っていくからね」笑いを混ぜて保健医が言った。それを聞いて息を漏らす生徒を見て、保険医は微笑みを漏らした。「両面テープは棚の下にあるから」と保健医が声を掛けると、彼女はもう居ない。ポスターが一枚増えているか、確認しようとしたけれど、壁面を見て、保険医は調査を断念した。
私は次第に意識を使わず体だけで生きられるようになっている、それは獣の世界だ。保健医は声に出して呟いた。
美術実習の中でも、危険の多いと判断された授業を回診して経巡った後、に保健医が保健室に戻ると、室内の白い世界の中に黄金色のハイライトが混じっていた。それから、保険医は目を顰めて、胸に手を触れた。足早に窓際に寄ると、窓の外を行く生徒が誰も居ないことに気づき、次に保健医は窓の表面に浮いた汚れを見つめた。保健医はその窓を開けた。
部屋の端、一番廊下側のベッドに保健医が寄ると、乱れた跡があり、ため息をついた。布団は降ろされたまま、変わりはなかったけれど、シーツに触れると、微かに湿っていた。真四角に湿り気の少ない部分が、下の方にあって、保険医は頬を緩めた。保健医は新しいシーツを棚から降ろす。
教頭が保健室の中でまだ立ち尽くしているの見て、保健医は眉の間のシワを深くした。教頭が保健医に構わず、貴女の若い頃は、どうでしたか、と、保健医に尋ねた。保健医はしばらく黙ったけれど、教頭はそれ以上の声を発さなかったし、身じろぎもしなかった。保健医は、同級生が、愛おしかったですね、それに、怒っていましたよ、明確ではないものに、と答えた。
それは、なんだったのですか。
先ほど申し上げたとおり、曖昧なものです、曖昧なので、可能性が発散して、制御ができなかったものです。
教頭は黙って何も言わなくなり、保健医は黙ったまま壁の時計を見つめた。
あの子が、そろそろ来る時間ですか、教頭が尋ねた。あの子の体の不調は、つまり幻聴や不眠は、あの子の体の中の怒りや闘争心を、封じ込めるためのものだと、私はおもっていました。正常になれば、あの子はあの子ではいられなくなる、と、と教頭が言った。保健医はそれを聞いて、体を震わせた。
気がつくと、室内から黄金色の光が消えて、青い光が入ってきていた。保険医が額に指を当てると、皮膚の畝の深みを感じる。
茶色に濁った健康的な肌から、血を流す女性たちの手当てを、保健医はした。今日だけで、怪我をした生徒を5人は見ていた。専門学校だから、ナイフで手を少し切っただのなんだの、その手の不注意は多かった。生徒たちは爪は毎日ヤスリで磨き、時に校則違反のマニュキュアまで塗りつけて、長く伸びてきた指の関節の辺りに奇妙で小さい傷をこしらえていた。保健医は廊下を軽い足取りで駆けていく彼女たちを、立ち止まって見つめていた。
彼女たちは、何とそうも戦っているのでしょうかねぇ、傷付くのは、戦っているからでしょう、と教師が言った。保健医は顔を上げずに、横目で教師を見た。私は、普通である事を信じている人間と、戦っていましたよ、私は普通だと言って、人の生存を阻害する人たちとです。
教師がため息を漏らして眼鏡を直すのを、保健医がちらりと見る、と、保健室の時計が5時を指している。デスクの帳面を確認すると、保健医はさらに2名の生徒を診察していた。怪我一名、腹痛一名、これは生理だった。彼女の名前と今日の日付を確かめて、保健医の指が机をゆっくりと叩いていた。
自宅に入ると、天井から降りたランプが、煌々と中途半端な和様の部屋を照らしていた。時刻は8時だが、彼女はまだ帰っていなかった。雑に物をしまった大きな鞄から、スマフォを抜き出したけれど、何の連絡も確認できず、スマフォを再び鞄に突っ込み直した。今日の3時には、遅くなる家に帰るなら冷凍庫に冷凍食品が入っているから、と連絡したのだが、その返信も何も、無かった。
彼女も忙しいのだからと、自分に言い訳を効かせるほど、若くは無かった。純粋に、こう振る舞える女性なのだ、彼女は、と思った。今ではそれがわかってしまっていた。それは気楽な事でもあった。生きて、磨耗してきたから、見える光景だと、考ええていた。
年をとると、楽になる、外に期待しなくていいのだ、自分の中に溜まっている物の方が、外にある物より多くなる、学校の生徒たちは、それがないから外と戦おうとするのか、彼女たちの煩悩は、それでいて内面を表現する芸術を作らねばならない、という思い込みからくるのかもしれ無い、卓袱台の前の座布団に座り込みながら、こんな風に思いを巡らせていた。思いは、途切れる事なく、複数のラインで走っていた。当時の自分が怒っていたのは、社会と繋がらなければ自分を保てないのに、社会が当時の自分を受け入れるわけのない存在だったからか、もっとも、怒りは今の方が明瞭に、わかりやい形で胸にしこっていた、だからこそ、御し易いとも言えた。
自分がいつの間にかに煙草を吸っていた事に気づき、煙を見つめ始めていた。一人の生徒の姿が、その胸に思い浮かんだ。彼女は、他の生徒たちと違って、自分の内面にある物、体の内側にある物が大きすぎ、見えないのかもしれない。
救いを求めるように、修道士のように、工具で金属を殴り続ける彼女は、自分の内側の獣を見つめるのが怖いのだろう、そこまではわかったような気がするけれど、そこから先はわから無かったし、どうしてやれば良いかも、分から無かった、つまり結局は、いずれ破局するのだろう、年をとった割に、何もわかっていないではないか、彼女、そう、今日もなんの連絡をよこさず、朝には布団に丸まっている算段らしい彼女には、文句の一つくらい行った方がいいのかもしれない。
スマフォを取り出そうとして、鞄に手を入れ、中に入っていた書類で皮膚を傷つけた。
講堂の扉の重厚さは、重く蕩けた廊下の白さに調和していた。扉の、焼鏝の熱さを持つ把手を前に躊躇った時、中から声が聞こえ、保険医は息を漏らして廊下の角に背を預けた。中に入っているのは、いつもの鳥めいた老人の教頭と、魚の目をした教師だった。
彼女は、よくやっているようですが。割れたドラムを叩いたような声は、老人の声だった。あの医者は生徒に特別な関心を抱いているようですから。教師は言葉の一部を無意味に強調するのが好きだった。話の中心は、保険医の事らしかった。
その後延々、会話が続いていた。保険医は白衣のポケットから文庫本と、マッチとタバコを取り出して、片手で火をつけた。昔の恋人の女性に教えてもらったやり方だった。
煙草を吸い終えて携帯灰皿に落とし込み、文庫本を30ページほど読み終わったところで、教師の方が出てきて私を見て驚いて見せた。長々と、いるとは思わなかった、と、人を責めるように言った後で、藍くんを頼みます私の可愛い生徒ですから、と私のという言葉を強調して白々しく言った。その後でさらに半眼で保険医を値踏みして見せると、如何わしい道に生徒を誘い込むのはやめてくださいね、と嫌みたらしく言って、如何わしいとなんのことですか、と保険医が聞くと、黙って去って行った。
教師が去って行ったのを見送って、再び文庫本に目を落として、10ページも読み終わった頃に、講堂の扉を開けて中を覗き込むと、布が被せられた大きなオブジェ以外、そこには何もなく、誰もいなかった。保険医は文庫本をポケットにしまい込んで、保健室で帰り支度を始める事にした。
眠っている生徒の顔の上に、白い光が差し込んで、石膏の彫像に見えた。シーツの皺も、無闇に彫刻家の腕を誇示するための、バロック趣味の作為的な物に見えなくもない。
彼女の首筋を見ると、病的に痩せているのがよくわかる。皮膚の下を、空気が通り抜けていくのが見えるように思えた。少し力を加えれば、彼女はきっと死ぬだろう。
ベッド際の窓枠に体を預けて、本を開くと、そのページの上に、眠る前の彼女の姿が浮かぶ。暴れる彼女を後ろから抱いた時、細く、骨と皮に削がれた肉の下に、張り詰めた筋肉の残滓があって、驚いた。彼女が体を痛めつけるように暮らすのは、彼女の肉に潜む何かが怖いからだ、と考えていたが、肉の内側の世界は、人の意識が消せる物ではないのかもしれない。
いずれ彼女の意識を飲み込んで、彼女の肉体が反逆するのなら、せめてその反逆を意味のある物にしてやるべきなのではないか……。
もう何ヶ月も生理が止まっているというのに、彼女はそれを気にせず、喜んでいた。月の物が苦痛に満ちているのは当然だけれど、生理を男との関係でしか捉えられ無いのなら、それは違うと言ってやりたかった。
社会の馬鹿どもがそれとなく暗示するように、貴女の体は、男の為にあるわけではない。それが普通なわけでさえない。女を愛していい、誰も愛さなくてもいい。ただ、世界が男の為にある様な、そんなくだら無い象徴体系の中に絡め取られているのを見るのは、辛かった。思い込みだろうか。戦いを、彼女の不思議な戦いを、支援してやろうと思った。責任を、引き受けてやるべきではないかとも、思った。
彼女の顔が大理石に見えたのは、唇の色の薄さの性だと気がついたのは、 文庫本を閉じ、寝乱れたシーツをそっと直す時だった。