■一千一頁物語

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『シン・ゴジラ』非ネタバレ感想 特撮の美学/シミュレーションの虚構





 特撮の美学、破壊の快楽、というのは、なんだろう? 私にとってそれは、日常の中で感じない感覚、使用されない領域の認識が、圧倒的な映像によって喚起される事に、あるのかもしれない。

 樋口真嗣監督×庵野秀明総監督のシン・ゴジラは、まさに、日常の中から日常では制限された感覚を、圧倒的な映像で呼び醒ます、そんな映像だった。


 冒頭から、映像は、日常の近くにあって、日常の中では表に出ない場所を探索し、描き出していく。アニメ演出家のレイアウトによって切り取られる、実写の日常世界は、普通に感覚し、感覚させられる日常世界とは、異なった世界にも、見える。

 それは、映画的、という事でもあるのかもしれないけれど、シン・ゴジラでは特撮=映像的快楽が中心に据えられる事で、普通の映画的な日常のズラしとは異なったアプローチが用いられているように感じた。
 
 つまり、通常の映画が、ズラした日常を映すのは、ズラした思考を描くためであるのに対し、シン・ゴジラではむしろ共有可能な思考が描かれ、ズレの中心には特撮的快楽があった様に、思った。

 シン・ゴジラは、日常をズラした映像を繋げる事で、日常の中で現れる日常を超えた感覚を描き続け、そうした感覚の映像の極致である特撮と、通常の場面を滑らかに接合し、映像全体を特撮的感覚に満ちた作品に仕上げている。

 その、日常の中で日常を超えた感覚を齎す事への拘泥は、シン・ゴジラの特撮それ自体にも描かれていて。ラストのヤシオリ作戦があくまで日常性に拘泥したビジュアルを打ち出すのは、映像が持つそんな特撮的感覚を、最大に発揮させる為の作戦だったと、私は思う。

 シン・ゴジラのゴジラに与えられた幾つもの斬新なギミックも、ゴジラ映画という日常にもう一度日常を超えた感覚を呼び戻す為の、ギミックだったのかもしれない。

 シン・ゴジラがリアリティに拘り切ったのも、きっと、同じところに理由がある。圧倒的な日常性があるから、異次元的な日常が成立、する。

 圧倒的な破壊の中に見える、自分の感覚を超えたもの、同時に、自分の感覚の中に眠っていた、それ。この感覚、ゴジラとしてスクリーンに現れる瞬間に、シン・ゴジラという映像全てが捧げられているように、私は感じた。
 
 その根底には、人の感覚に対する挑戦と、信頼があるのかもしれない。多分、そのギリギリの攻め、理解可能と理解不能の攻め、にこそ特撮の本懐があって、シン・ゴジラの本懐がある、のではないかしら。

 私が熱線を吐き、東京を破滅させるゴジラを見て、流しそうになった涙は、きっとそこに源泉があった。


 けれどもそれは同時に、日常とフィクションの境界を明確にしつつ、日常と虚構というものの根拠を明確にし切れない映画の限界も、暗示していつように思えた。


 シン・ゴジラでは日常性のリアリティを求めるために、徹底したシミュレーションを行う。


 だから、シン・ゴジラという映画は究極のシミュレーション映画だった。日常と虚構を極限まで突き詰めつつ、の日常と虚構の思想性を透明化してみせる身振りを、シミュレーション性は同時に行ってみせる。その奇妙で不気味でもある動きが、シン・ゴジラという映画の核心。そして、そのシミュレーションが崩壊するラストの後の世界への想像の誘いが、シン・ゴジラを今という状況の中へつなげている。

 緊急事態下のシミュレーションの世界において、設定されたゴールに対する方法は思想を持ち得ず、一丸となった駒は、その思想的対立に悩まされることもない。そこにおいては、被害は数量によって計上され、現場なるものは遠方から見られる対象であり、作戦立案者の物語が焦点となる。

 それは、思想を、哲学を、存在の根拠を不要/透明化する物語であり、設定され明文化され共有可能なゴールだけが、その目標として、聳え立つ。現場と同時に住民/民衆さえも、もはやシミュレーションを盛り上げる背景でしかなく、映画の視線は絶対零度の冷たさを見せる。物語が届き得るのは、シミュレーションが統制可能な指揮権、その神経の流れの中にある存在でしかない。思想/意思は緊急事態の最中の、誰もが納得可能なゴールというシミュレーションを駆動させる目標=設定の中に消化され、消え去るかに見える。

 
 そのシミュレーション性を徹底したのが、シン・ゴジラという映画に思えた。シミュレーションの虚無、思想さえも問われない圧倒的な状況の冷たさ。シン・ゴジラが描くのはその部分だ、と。


 シミュレーションと言うリアルな虚構こそが、映画の中の日本。しかしそのシミュレーション性を食い破る様に、異質なゴジラが、冷たいリアルな虚構を崩壊させていく。ここに於いて、映画のコピーである虚構(ゴジラ)VS現実(ニッポン)という構図は逆転する。シミュレーションによって構築された冷たい虚構を食い破る異質な存在こそ、リアルの云いに他ならない。

 映画は、ゴジラの号砲と共に変転し、ドラマと意思が現れる。けれど、そこにおいても物語はシミュレーションであることを変えない。ゴールは変化し、そこにドラマが発生しても、それは思想の対立というより、共有された常識の確認と発展に過ぎない。意思はゴールの名の下に統合され、ゴジラ的思想と同時に、思想と対立は解消される。常識の根底は掘り返されず、更に上部の、仮定され実態の不明な指揮系統と対立する姿だけが示される。

 
 ゴジラの憎悪だけが深い刻印を残しながら、そこは深く追求されはしない。


 丁度それは、映画で多用された物理シミュレーションに似ている。そこには確固たる思想の文脈の流れがあるにも関わらず、物理法則に則る、の冷たい言葉の元に、その意思は隠匿されてしまう。個々のオブジェクトは、物理法則に奉仕し、物理法則を表現する絵の具でしかない。



 シン・ゴジラは度々押井守監督の作品 、特にパトレイバー1/2/GRAY GHOSTの3作と比較されるけど、レイアウト/物語の表面上の類似はあっても、作品としては大きく異なっていると思う。

 押井作品において常に問われるのは、その意思であり思想であり、存在の根拠だ。押井作品において問われるのはあくまで個であり、全体ではなく、実は組織ですらない。

 故に、その個人の活動は個人の思想と意思の表れとして描かれる。GRAY GHOSTにおける特車二課は、やってもやらなくても同じ事を、自らが属した場の意味を確かめる為に、意思と責任を持って行った。

 それは、シン・ゴジラにおいて主人公たちが果たした事と、その能動性と責任性において共通しつつ、根本的に意味が異なる。或いは、シン・ゴジラはパト1/パト2のように敵の思想に深く分け入る物語でもない(映像面では確かに押井守の事好きじゃん!!ツンデレなの??って思ったけど)。パト2は戦争を描いたシミュレーション映画だったけれど、そのシミュレーションの持つ思想がいかなるものかを同時に突き詰めた映画だった。


 
 シミュレーションは決して無色透明ではありえない。



 シン・ゴジラにおいて主人公は、敵と味方が明瞭だから政界を選んだというけれど、その明瞭性、ルールの明白な規則性、シミュレーション性を示すセリフは、シン・ゴジラのキモを露わにする。
  確固たるシミュレーション性を置く事で、あらゆる思想/政治性を排除するふりをする身振り、それによって映画は極上のエンタテイメントとして成立している。シミュレーションによって、映画は現実の日本に勝負を挑み、当時の日本の状況全体担い、立ち向かう。

 
けれど同時に、あるはずの思想と哲学は、ゴールへ向かうシミュレーション的なる作戦群の中では消化吸収され、ゴジラだけが思想的なるもの=検証可能なもの、を持って立ち尽くす。ゴジラをゴジラたらしめるのはその暗黒の意思なのかもしれない。多分、それがメルトダウンした原発と、怪獣王たるゴジラを分けるもの。


 私はそこに何よりの、震災後の、ひどく現代的な虚無を感じた。
 

 限定状況下における共有可能な目標が消え去った後、シミュレーションの熱気は搔き消え、ゴジラの黒玉のような、人骨の編み込まれた墓標だけが残るのだろうか。誰もが納得できる目標の元に思想を不問にし得る作戦が展開され、意思を持った存在と決戦し、意思は墓標となり、その内実は問われず、日常が空白のまま回帰してくる。


 映画のラストの後に続く光景はきっとそれ。
 

 多分、今の私が立たされている日本の状況とは、その空間に違いないのだ。




以下 思いつきの雑想を簡単に
若干具体的なネタバレがあります。

・などなど書いたけど、本当に1カット1カット、完璧なレイアウトだった。素晴らしかった。素晴らしかった。素晴らしかった。あー、カッコよかった。カッコよかった。
日常の光景を非日常の視点で切り取る、という映画的な構図が全編徹底されていて、そしてあの夜のゴジラの破壊描写!!! 
今の樋口シンジ監督は最高に輝いているよぅ!!!

・映画の中で、神とか天に祈り、運を任せる場面が一つもない。死者への追悼はあるけれど。すべての責任を人間が負って戦う姿を描いた映画ならではの徹透した描写。

・ラストの作戦、ヤシオリ作戦は、八岐大蛇を退治する神話から。人ならざる八岐大蛇を退治する存在は、人ならざる荒ぶる神の須佐男。ヤシオリ作戦で自らの意思でビルを破壊していく巨災対は、怪獣と同じ地平に立っているのかも。巨災対も、一人の修羅であり怪獣なのかもしれない。

・ゴジラに人の無念を重ねるのは金子監督のゴジラと同じだけど、シン・ゴジラの鎮魂は災害に真面目に対処する事、として描かれているのかも。鎮魂映画としてのゴジラ。

当ブログ内ゴジラ関連リンク
被害者として復讐者としてのゴジラに対する違和感をつらつらと書いた記事。
シン・ゴジラでは人がとにかく責任を取って対処する、という真っ当な姿を描く事で、これに対処していたような気がする。

ゴジラの創作掌編集。生存競争の相手としてのゴジラという妄想です。改めて読むとすごく最後のユニコーンですね。


天才、中村健治監督のガッチャマンリブート作。3.11後を舞台に、第二の首都機能を持つ立川を、シン・ゴジラと同じように描く。
ファンタジックな作風で、どこまでも人間に寄り添い、普通の人間の判断を信頼する作風は、シン・ゴジラとは異なりつつ、ポリティカルかつ、シミュレーション的作風を、この作品も導入しているのが面白い所。
欠点も多いのだけど、ここまで社会と政治に対して明瞭に自分の立場を叫ぼうと、傷だらけになって立ち向かった作品なんてそうそう無い。
クラウズのラストは、シンゴジラと同様に、極限環境下で設定されたゴールに向け人々が意思を合わせる様子が描かれる。
けれどそれは、その状況を設定する意思と思考自体がドラマであり、参加するのは多様な全ての人々の自由な意思によるもの。その有様はシンゴジラとは極端に異なる。
もしかすると、ガッチャマンクラウズの一部を冷たい俯瞰の視線で切り取るとシンゴジラになるのかもしれない。
続編のガッチャマン クラウズ インサイトは極限環境下の後の空白の世界の物語。話はさらに破綻を厭わない勢いで、誰も挑もない領域に自分を露わにしながら突っ込んでいく。
シン・ゴジラとはある意味、対極にある作品かも。


筧 利夫
2015-11-03
『シン・ゴジラ』に与えられた恋愛とか余計な要素のない日本映画の称号はこの作品にも…。
とにかくプロデューサーによる編集が強行された『首都決戦』とディレクターカット版の『GRAY GHOST』は別物! と叫びたいです。






最上和子『私の身体史』私の身体を語るということ/私の苦痛を語るということ/私の死と神を語るというこ


作者:最上和子
書籍名: 私の身体史
頁番号:No141

『私の身体史』は舞踏家・最上和子さんによるエッセイであり、タイトル通り自分の身体が送ってきた歴史を語る物語。最上さんが徹底して現実である自分の身体を経験して辿り着いた、身体の内側のあちら側の物語。




 この本で、何よりも私が感銘を受けたのは、身体史として語られるのが自分の身体の苦痛の歴史であったこと。そして、苦痛の歴史が近代病理の川でなくて、身体と死と神秘の川に流れ込んでいく語りの流れ。


 中学で難病(厳密には難病指定を目指している)CFSを発症し、ずっと苦痛と共にあり続ける私にとって、苦痛はとても馴染みあるもの。自分が精神と呼ぶものに対する圧倒的な肉体の抵抗。けれど、私たちの言語の中に、苦痛を表す言葉は驚くほど少ない。それは、言語知の世界から見捨てられた感覚。


 最上さんはその苦痛を1つずつたどっていく。


 最上さんの語る身体の歴史は、苦痛の記憶を灯台に進められていく。初めに語られる小学生の記憶は、心と体の苦痛で下地が塗られ。私は、その最上さんの語りの調子に、何か運命のようなもの、そう、宿命を語っているような調子を感じる。〝私(最上さん) が 身体を考えなければならないのはなぜか 身体を語る私(最上さん )とは誰か〟という強い意識が、個人史の苦痛と宿命的に結びつき、身体を語る素地をなしているような。


 身体を実践し、それを語ろうとしている今(文章が書かれたのは随分前だけれど)の最上さんの視点から見る過去の苦痛史は、そこで聖痕のような、英雄の負うべき傷のような輝きを帯び始め。苦痛は本人が苦痛と語る限り、それはただの苦痛でしかないけれど、本人の読みはまた別の事を語り得るのかもしれない。


 苦しみもがく中で、最上さんは1つの恩寵を発見する。床擦れて解けた肉体から溢れる膿と、覗く骨に落ちかかる光の景色。「もはや人間とも言えず物質のように投げ出されている 、そのぎりぎりの体のあり方への感動だった。」と最上さんはそれを語る。


 自分がそうして肉体の苦痛の中で捥きながら、身体を意識し舞踏へ向かう時のことを語る際には、最上さんはいつもそんな出会いと変容の体験を、語りの中に配置する。ちょうど、かつてのギリシャ哲学の裔達が、この悪と醜さの存在する世界から観想によってイデアの世界へと垂直線を辿って帰還しようとした時と同じように。



 けれど、身体を見捨てた、かの人々とは違って、最上さんは身体との結びつきの中に、彼方を見出す。身体だけが彼方を知っている物であり、直観的な個人的体験が、彼方を垣間見せる。イデアの、彼方の世界は身体の中に設定され、身体という場を、彼方に見出すような。



 そして、最上さんが見出してきた身体は、苦痛の中で見出された身体。ここで近代知から見捨てられた苦痛と身体という二者は、合一したまま重力に引かれながら、墓溝へ落ちていく軌跡をそのまま、彼方への旅程に、変貌させる。
 

 それは見捨てられたものの祝祭であり、失われたものの発見であるように思える。世界の中で語られないものを語ろうとする行為であり、それを背景に、現実に足をつけた身体を、最上さんは探そうとする。そこで現れるのは多分、あらゆる物が彼方に結びついている事の発見であり、不可視化されたものの再顕在。


 結局のところ、日々を無理矢理暮らすのに一杯一杯で、躍る身体を持たない私には、こうしてしたり顔に舞踏家の言葉を語る資格はないと思うのだけど、それでも最上さんの言葉は胸に突き刺さり、その音に震える。



 最上和子さんのブログ。
 圧倒的な言葉で語られる身体論は強烈。絶対に一度は読むべき。


最上さんのエッセイが収録。奇妙な本です。



 押井守監督の小説
 そこで展開される身体論は最上和子さんの言葉に大きく影響されたもの。




 耽美調(という曖昧な言葉の是非はさておき)な人形作家とは一線を画す人形作家、井桁裕子さんが一度最上さんの人形を作った事があって、私はそれがきっかけで最上さんのブログを見つけた。




サミュエル・R. ディレイニー
1996-06


 よくSF小説で、一つの意識で様々な身体を使う話があるけれど、人はああいう事に耐えられないのではないかな…というのがセクシャルマイノリティーとしての実感。ひとつでない身体、そして自分のものでしかありえず、他人の身体が他人のものである身体、人と結びついた身体というのは、一つのクイアな感覚から生まれるのかもしれない。

非ゲームな彼岸の視点で眺める多様なゲーム ホームズからピンチョン 例外主義から東欧の祈りまで『The Witness』『バイオショック インフィニット』『クーロンズゲート』『Metro2033』ほか

 ゲームというジャンルの作品ほど、ゲームというジャンルの外から語られないジャンルも稀なように。


 プレイステーションというカンブリアの大爆発を超え、売り上げ・予算の点で『アヴェンジャーズ』を超える超大作(『MGS TPP』といって、これが日本のゲーム作品という点も驚き。)から、数人規模のインディーズ作品が立ち並ぶ現在のゲーム業界が、SF大作から文芸映画、銀河英雄伝説から戦闘妖精雪風まで、多様な面白さ、多様な色合いを持つにも、かかわらず。


 例えば、ピンチョンのファンがリンチの映画を語るように、SFファンが次第に文学よりの幻想的な小説にも手を出すように、奇想/幻想/彼岸/性を好む私が、ゲームというジャンルを別ジャンルの視点から紹介/レビュー出来ないかと考え、気になった、気になる幾つかのゲームを作品毎トピックに分けて紹介し、トピック内でそれに関連した作品を解説する、という形で、ここに記事としてまとめました。


 先述したように現在のゲームはかなり多様化しました。ここで取り上げた多くの作品が(それなりのスペックを満たせば)PCで遊べますし(ここに書いてあるのは今となってはスペックをあまり要求しない作品が多いです)、無料でDL出来るもの、スマートフォンで気楽に始められる作品もあります。


 個人的にそれほどゲームが好きというわけではないですし、ここで紹介した作品にはクリアしなかったものもありますが、先述した通り、現在のゲーム作品の中にはゲームジャンル以外のファンに突き刺さる作品が多くあると感じています。


 そうした作品が、ゲームであるという理由だけでなんとなく見過ごされているのはあまりに寂しいのです。



お品書きは以下の通り。(比較的、手を出しやすいであろう無料作品/スマートフォンは注記をつけておきました。)


◆『The witness』 不在のコミュニケーション 祈りと巡礼の旅
 -関連作品『Dear Esther』 『Stanley Parable』『Beginner's Guide』


◆『Bioshock infinite』 アメリカ例外主義 見せかけの選択肢を生み出す構造
  -関連作品 『Bioshock(スマートフォン版アリ)』『Mirror's Edge』


◆『Her Story(スマートフォン版アリ)』 インタラクティブな後期クイーン問題 或いは新たな天帝への供物
-関連作品『Sherlock Holmes: Crimes and Punishments』 『Pictures of a reasonably documented year』『Sorcery! 3(スマートフォン)』 


◆『フロントミッション オルタナティブ』 LGBTあるいはマイノリティ 私はあなたの側にいる


◆ 『クーロンズゲート』デヴィッドリンチとゲーム
-関連作品『プラネットライカ』『Red Sheed Profile(英題Deadly Premoniton)』『Forgotten Memories(スマートフォン)』『スキタイの娘(スマートフォン)』『Off-Peak(無料作品)』『真女神転生3』『Baroque』 


◆『Metro 2033』 東欧の鬱金色した終末社会 生き残るという意思の鈍痛
-関連作品『Paper,Please(タブレット版アリ)』『This War Of Mine(スマートフォン版アリ)』『Naissannce』


 
映像を幾つも貼り付け、ひどく重くなってしまったので、読まれる方は『続きから読む』からどうぞ。

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