■一千一頁物語

一瞬を凍らせる短歌やスナップショットのように生きたいブログ

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『夢幻諸島から』夢幻の歩き方/複数の世界の許容


 『夢幻諸島から』は稀代の"信頼できない語り手"クリストファー・プリーストによる、架空の諸島の架空の旅行ガイド。


 夢幻諸島は、二つの大国に挟まれた広大な海域に散らばる島々で、本書はそのひとつひとつを、使用通貨などの有用な情報とともに教えてくれる。


 それはごく通常の旅行ガイドらしい島の記述であったりもするけれど、時にそれは有名人のゴシップとなり、あるいは突飛な数十頁の短編小説(SF ミステリー 恋愛と内容は多岐にわたる)のようで、あるいは伝記であり、時には素っ気ない島の記述であったりする。


 ただの島の記述であっても、その内容は概ねフラットな見方ながら、アートと大国の軍事的影響力の話題への偏向が、見られる。


 夢幻諸島の、インターネットや近代産業を備え、時にひどく現実的でありながら、現実をさらりと飛び越える島々の記述は、ただペラペラとめくるだけで楽しい。


 旅行本や旅行ブログを眺めて空想の旅に浸る楽しみを知っている人は多いはずで、しかもその旅行記が架空の物だとしたら、それはもっと刺激的であるはず。この本はそんな目的に適してる。


 けれど、一つ一つの記事は細かに見ると微かな食い違いを見せる。夢幻諸島は、特殊な環境の影響で、諸島全体の地図さえ、明らかにはならない。まるで、夢幻諸島の一つ一つが、独立した世界であるかのように、物事は一定の解釈を許さない。


 その世界の中で脈絡を保つのは人物の名前であり、移動の航跡で、それを辿って行くと繊細なヒューマンドラマの海図の姿を垣間見る事ができる。


 あるいは、政治と戦争、経済とアートといったテーマを中心に見ていけば、そこに姿をあらわすのはまた別種の物。


 けれども、その一つ一つを丹念に追えば、脈絡の岩礁は矛盾の波に飲み込まれ、読解は誤読となり、遂には、異なった世界の一つ一つを受け入れるか、自分で考案した真実を受け入れるかの二択を迫られる。

 それは、永遠の誤読の中を旅する事で、同時に寛容というか、世界をただ受け入れる素直さを求める旅のように思えた。



 旅行ガイド自身の魅力、小説としての作品群の面白さに加え、散りばめられた手がかりを元に読み解くそうした誤読探しも、この旅行ガイドの楽しさ。


 その感覚はある種のゲーム、謎解きゲームの感覚に似ていると感じる。


 あちらの綺麗な景色の中で見つけた手掛かりが、こちらの暗い洞窟の謎を解く鍵となる。


 それはまた、夢幻諸島を旅する行為でもあり、架空の諸島の上に実際の旅が描きこまれていく。


 けれど、夢幻諸島はその成り立ちからして解読不可能なものとして設定されていて、短編同士は互いに少しずつ矛盾しあう。一見、ある地点の真相が、ある地点の謎を解いたように見えても、よくよく読めば、そこには消えない矛盾がしこりのように残る。


 だからこそ、一回の読書がそれぞれ違う世界を見せてくれる。或いは、世界が複数である事を許容する勇気を与えてくれる。


 読者の読み解きによる作品の変貌は、プリースト作品全体の特色なのだけどこの夢幻諸島では特にその側面が読書体験と結びついているように感じた。ある種の遊戯性、ゲーム感覚が全面に出ているような。


 そして、物語の一つ一つが奇妙に優しく、読者に対して作品が求めるものも、そんな寛容な何かのような気がして。
 それはもしかすると、従来の作品と違って、どこかユーモラスで優しげな、夢幻諸島の熱帯の風からきているのかもしれない。 


 本書は複数の中短編から成り立っているように見えるのだけど、作品としては長編という扱いになっている。それは、矛盾し合う複数の世界を同時に見渡す事こそが、本書の目的である事を、意味しているのだとわたしは思う。


クリストファー プリースト
2008-05


 『限りなき夏』は本書と同じ夢幻諸島を舞台にした短編集。他にも夢幻諸島ものには未訳のものが数冊あるのだとか。



クリストファー プリースト
2007-04


『双生児』はWW2を舞台にしたクリストファー・プリーストの小説。何を書いてもネタバレになりそうで、とても語りにくい作品なのだけど、作品の構造はある種のアドベンチャーゲームを思わせるところが。




『Dear Esther』は無人の島を、1人の男の独白を聞きながら彷徨うゲーム。本当にただ彷徨うだけで、ゲームと聞いて想像するような競技性は一切なく、物語も男の独白と、周囲の環境から想像するしかない。しかも、男の独白はプレイする度に変わるという信頼できない語り手ぶりで、真実は拡散していく。
無人の島の風景は美しく、中でも夜の場面の色彩は素晴らしくて。この内容で一週間に6万本の売り上げを記録したそうで、ゲーム業界の懐の広さは凄いのかも、と思ったり。
ただコンセプトと陰鬱な東欧映画のような美しい画からすると、物語のあまりに個人的で内面的すぎる内容は少し寂しく。
なんとなく、夢幻諸島の一つの挿話であってもいいような気がして、ここで紹介。




『The Witness』
イラスト調のグラフィックで構成された島に散らばる一筆書きパズルを解いていくゲーム。
建築家と景観作家と共同で作り上げたという島のデザインはとにかく素晴らしく、イラスト調なのに驚くほどの実在感が建物と景観に感じられて。一歩、歩くごと、一つ視線を変えるごとに、常に構図まで決まった新しい美しさを表し続ける島のデザインは驚異的な作り込み。
物語はというと、島のそこここに散らばったICレコーダに様々な思想家の引用が詰め込まれ、パズルの一つ一つが対話してくるような、一筋縄ではいかない抽象的な作品。
SF小説、スペキュラティブ・フィクションへの傾倒を語る作者のジョナサン・ブロウ氏はインタビューで「重力の虹を読む人に向けたゲームを作りたい」と述べていて、ほほう、という感じ。
これまた、夢幻諸島の一つの島としてもしっくりくるような気がしてここで紹介。

パトリシア・ハイスミス原作 トッド・ヘインズ監督『キャロル』視線の檻と、行動の超越

 トッド・ヘインズ監督の『キャロル』はパトリシア・ハイスミスの小説を原作にした、50年代末の二人の女性同士の恋愛を描いた映画。



 それはまた、一方的に投げかける視線と読み取りに籠る悲劇と、愛によって動機づけられた超克を描いた、恋愛映画だと感じた。脚本と映像が違う物語を語る複層的な映画のようでもあり、その二つが、ラストへと焦点を結んでいる。



 全編に繰り返される視線を暗示したカットが積み重なる映像と、与え合い求め合う恋愛の物語の脚本。二つが違う物語を示唆しながら、二つが一つとなって、ラストで鮮烈な像を結ぶ。まるで映画の中の恋人、キャロルとテレーズのように。
そして、そのラストの焦点の手前にいるのは、私たち、観客。原作にあった視線と読み取りの感覚をコアに、物語の要素を再構成し、50年代映画を偽装したこの映画は、とても美しい恋愛映画であると同時に、あらゆる差別の根源に立ち向かう強さを備えている。




 映画が語るのは、とにかく視線。これは視線と反視線の映画。原作で「名状されない欲望」「他人からは見えているのに自分からは見えない欲望」として表現された、他者から、恋愛が抑圧された息苦しさが、映画では視線として表現されている。50年代のフィルムグレインの中に込められた視線が、世界を古典映画のように美しく切り取りつつ、先鋭的に現代的な意味を切り取る。



 窓の外から中を見つめる視線、柱越しに二人を写す視線。そこでは、視線の先に謎めいた姿が提示され、同時に謎めきながらも読み取り可能であるという矛盾が提示されている。



 映画は時に、一人称的に世界を写し取る。そこでは三人称的なカメラさえ、被写体とカメラの間に入り込む、窓枠、柱、といった障害物によって一人称性を強調される。見つめるのは、テレーズに一方的な愛着を抱くリチャードであり、キャロルに惹かれるテレーズであり。
そして、キャロルはいつも、その視線を見つめ返そうとする。


 視線の強調は時に、映画の感情を美しく強調する。キャロルの細部に目を走らせるテレーズの視線が、キャロルを美しく淡く彩り、50年代世界のクローズアップが、テレーズの感情を描き出す。原作では舞台背景美術を専門にしていたテレーズが、フォトグラファーとなった映画でのアレンジが、ここに生きている。キャロルを写したカメラの視線が固着された写真を眺めるテレーズには、それだけで複雑な感情のドラマが宿っている。それは映画の持つ美しさ。



 けれど、見つめる視線は悲劇をもたらす。見つめられたキャロルとテレーズの関係は、それが何なのか明示されないまま、道徳条項に違反する、とされる。キャロルの元夫ハージは、キャロルと友人アビーの関係を見つめ、内実に立ち入らないまま、視線で読み取った事象を真実だと確信し、狂気的のように嫉妬をする。視線は読み取ることはあっても、それが真実に触れるわけではない。 



 意味を読み取ることができ、知ってはいても、理解できる事ではない物事。50年代という時代の中で、同性の恋愛(あるいはどのような恋愛でも?)は医師の手に委ねられる領域の出来事だった。それを理解する事は、当時の人間にとって、あるいは今でも、狂気の側に属する可能性のある事だった。この構図を、視線が、見つめ、読み取るだけの視線が、保持している。一方的な視線が、意味を読み取りながら理解しないという、上からの判断を担保する。



 それはまた、映画の舞台となる50年代という時代を支える構造でもある事を、映画は暗示する。



 繰り返されるアイゼンハワー大統領の演説は、否応なしにあのマッカーシズム、冷戦と、赤狩りの嵐を思い起こさせる。当時、同性愛や性の解放が、共産主義と結び付けられ(それは今でさえ続いている)、自由で良きアメリカの敵とされていた。ただ見られ、推測され、読み取られる、視線の構図は、映画の時代背景とも呼応する。それは差別を生む視線。



 主人公のテレーズは、こうした視線の中に囚われ、自身も視線を発する(彼女の職業はフォトグラファー)。冒頭で、解職するテレーズとキャロルは、リチャードに見出され、二人の会話は中断する(ここでは同時に、ラストへ向かう超越が暗示される)。テレーズもまた、街角で女性の二人連れに視線を向け、二人に反応を引き起こす。



 ただ、キャロルだけが、いつも視線に視線を返し、行動する。テレーズに見つめられたキャロルはテレーズを見つめ返し行動する。キャロルの行動と交感が、テレーズの行動を誘う。テレーズにキャロルを写すカメラのシャッタを切らせる。キャロルはだから、視線が茂るこの映画の中で、どこか超越的で、でも優しく愛らしい。キャロルはテレーズを愛する力を持っている。それは、視線の重なりを乗り越える力。



 映画の冒頭、リチャードに発見されたキャロルは、テレーズの肩を愛を込めて優しく握る。この場面にこそ、映画のテーマははっきりと予告されていたのではないかしら。視線と鏡の世界を乗り越えて、身体を近づけて行動する事。映画の冒頭で暗示されたフレーズは、映画のラストで大きなフィナーレとなって反響する。その瞬間の美しさと解放は、たまらなく力強く、心強い。



 キャロルが"道徳条項"を持ち出す元夫ハージに向ける言葉は、一方的に見られる事への拒絶の言葉(それ以前、キャロルが元夫達と暮らしていた時には、キャロルは見られても大丈夫なように"装って"いた)。脆くて気高い言葉が本当に美しくて。自分が自分であることを世界に発信するキャロルの靭さ。



 映画のラスト、映画全編がカットにカットを積み重ねて結んだ視線の焦点を超えた映像に、映画の全てがこもっている。とても単純な事が、世界を革命していく力となる。それは、全ての人に向けられた後押しで、私は泣きそうになる。キャロルが愛とともにテレーズに求め、与えたもの。


 キャロルは元夫ハージに、「人は与え合うことができる」と訴えかける。物語の始まりから、テレーズの何かを求めるような視線に、キャロルは与え続ける。けれど、キャロルも、テレーズに何かを求めている。彼女はそれを、自分でもわからない欲求として親友で元恋人のアビーに打ち明け、映画の終盤では明確に、テレーズを自分の側が強く求めていることを自覚する。脚本が描き出すこの感情の交錯が(そして感情を裏打ちする二人の手の動き)、映画の映像をラストへ運んでいく。



 テレーズが求め、キャロルが与える。キャロルが求め、テレーズが与える。その交錯の先に、映画のラストが待っている。二人の関係の力が、映像が張り巡らせる視線の意味を超え、その時に二人の関係が確立される。映画のラストはとてもあっさりしたものだけど、計算しつくされた焦点がそこに結ばれることで、例えようもなく大切な光を、そこに湛えたている。



 映画を見終えて、テレーズが、映画の中盤にリチャードに投げかけた原作にもある言葉を思い出す。「リチャード、あなたは男の子と恋をした事がある?(中略)ある日突然恋に落ちてしまった二人の事を言っているのよ。それがたまたま男同士や女同士だとしたら?」
映画のラストの一人称のシーンは、その返事なのかもしれない。



 互いに、与えること、求めること、それが力ーー世界を変える力に通じる力ーーに変わって行く姿を描く、とても美しい恋愛映画。



 静かで、カットの一つ一つに重みがあり、50年代の姿が美しい。スーパー16mmフィルムで切り取られた世界はテクニカラーのそれで、特に屋外の煙吐く夜のニューヨークのクレーンショットなんて、本当に往年のハリウッド映画のそれのよう。



 そこに篭るのは、先鋭的な視線の物語と、それ超える力、そして与え求め合う関係、感情と理知が美しく煌めく宝石のような映画だと思えた。






と、ここまで書いてきたけれど、これはあまりにも原作を踏まえすぎた感想なのかもしれない。
原作では、読み取られる事、推測され、決められる事への不安と緊張と対抗が、恋の息苦しさと手を結んで、全編にわたって表現されている。それが消え、解放される姿が、パトリシア・ハイスミスの原作の美しさであり、怖さだった。その苦しみは、多くの人が知っている苦しみに思えたし、私が感じることのあるものだった。
だから、その部分に映画としての焦点を絞ったように見える部分が、私にはとても響いた。
もっと素直に、二人の人間が出逢う恋愛映画としてみれば十分なのかもしれない。それだけで、本当に身悶えするほど(実際何回も映画館の椅子に頭を打ち付けたくなった)素敵な映画なのだから。



パトリシア ハイスミス
2015-12-08

原作と映画の大きな違いは、テレーズ視点で描かれる原作に漂う得体の知れない緊張感なのだけど、何より違うと思うのが、原作の詳細な職業描写。特にテレーズのデパート勤めの苦しさ、原作では舞台背景美術家志望であるテレーズの、美術監督としての采配などは、原作ではかなりのページを割いている。その描写の厚みが、キャロルからの金銭援助を断り、テレーズから無理にでもプレゼントを渡す、二人の関係の強い対等さへの希求を支えているのが原作。50年代に生きたビアンの姿を感じる。


1900年代以降のビアン小説を集めた作品集。昔から、同性を愛する同性がいて、性を違うと感じる人がいたことになぜだか安心する。この作品集に収録された作家の多くが、この年代を代表する有名作家である事は大切な事だと思う。

トラッド音楽ユニット『黒百合姉妹』 聖の中の聖

  黒百合姉妹さん日本の音楽ユニット。古楽器を愛好し、クラシックができるより前、バッハ以前の古楽に近い音楽を作っている。大地が震える重低音と共に、グレゴリオ聖歌が黒百合姉妹さんの手で再現されると、そこから何かとても澄んで美しい世界が現れる。失われたチェンバロ、オルガン、キタラ。再現されたそれは、なのに、元の音楽が含まない透明な何かを含んでいるように思える。

 音が連なり行く疾走感は、踊り続ける忘我の恍惚にもにて、非抑圧的で現代的。響き渡る音に血潮が熱く蜜になって溶けていく。
 


 黒百合姉妹さんの音楽は、聖なるコードの中に眠る古いコード、抑圧するもの抑圧されるもののコードが生まれるより前の、神々のフォークロアのコードを引き出す。そこには、途方もなく透明で結晶質な鬱金色の、聖なる世界が広がっている。それは、聖なるものに眠る耽美な感覚に近くて、遠いものだと感じる。


 抑圧するもの=抑圧されるもの、という対比による魔の濡れ羽色の魅力は、けれど同時に抑圧それ自体の構造から生まれるもので、魅力だけにどこまで耽溺しても、それは大きな構造に対して小さなアナーキーに抑え込まれる事があるのだと思う。


 何故って、抑圧されるもの=魔の魅力は、必然的に元の構造に依存しているのだから。失楽園の暁の星々が敗北を喫するのは、だから必然でもあったのかもしれない。


 黒百合姉妹さんの音楽はそこを超越する。或いは、そこを更に潜り、暗闇の洞窟を泳いでいく。


見出されたのはもっと古い聖で、その解き放たれた奔流の魅力は、もはや構築された構造とは無関係に飛び回る。暗闇と光の間は淡いグラデーションの昇華され、琥珀色のきらめきだけが世界を埋め尽くす。


 そこには確かな今の視線があり、結晶のようにゆっくり育つ聖性を、今発見する事、それが奇跡なのだ。


 黒百合姉妹さんの音楽を、私は愛する。
 繰り返すことで違う起源を創造する。黒百合姉妹さんがAve Maria と歌い、Kyrie Reison と歌うとき、そこのはキリスト教と異なる異教の響きがある。


 耽美な、聖の中に、聖が禁止するものを生み出す、機構があること。それに依存する感覚は、聖の法を抜け出しつつ、けれど聖の法をなぞるものでもあって。特にそれが意味と結びつくなら。


 黒百合姉妹さんの音楽はむしろ、聖なる音楽を丹念になぞる様な姿勢を見せる事で、聖なる感覚、聖それ自体を再創造してみせる。黒百合姉妹さんの聖はそうして、意味から離れ、世界を包み込む。


 それは凄くシンプルで素直な聖への向き合い方で、しかも今ある聖を解体してくれる。


 禁止を生む事を暴くのではなく、聖を素直になぞり、そこから元の聖からは思いもよらない聖を作り出す事。それこそ、いまある聖を超克する、本当に綺麗な、竹を割ったような方法なのだと思う。耽美の先にある遠い領域。


 そして、黒百合姉妹さんの音楽が聖性をなぞるなら、聖性が含む昏さも、なぞらないといけない。聖性を静かに手に入れた黒百合姉妹さんから見ると、耽美と言われるような感覚も、また違った意味を持ち出すように思える。


 黒百合姉妹さんさんのCDに歌詞カードがないというのも、なんだかそういうところに理由がある気がする。


黒百合姉妹さんの公式HP 
Messege To Sybilla のご意見欄からCDなどの申し込みができます。



□ 黒百合姉妹さんのアルバム紹介
リリース日順



Voix Du Vent
 黒百合姉妹さんの最新ライブアルバム。
 バグパイプの生音が、仄暗さを醸しながら、同時に黄金の色を練り上げる。ラストのKyrieの壮大さは圧巻の一言。溢れ出る聖性。
 初期の作品から最新作まで、賛美歌、古楽、バッハ、オリジナル、日本語曲、とヴァラエティに富んでいるので、黒百合姉妹さんを初めて聴く方も是非。
 公式HPのMessege To Sybillaから申し込む事で購入できます。
 アマゾン等では扱われてい無い模様。




森羅万象の聲
黒百合姉妹
2012-06-20

 黒百合姉妹さんの最新アルバム。
 今まで以上に古楽への傾倒が強く、音楽を音の中から探り出すような冒頭と掉尾の曲が印象的。
バグパイプを加えた『水のマリア』『風のマリア』『月のマリア』三部作が美しく、音を重ねながら森羅万象の深みを歌い上げる。とにかく全般的に深く沈み込むような静けさがあって、聴いていて心地よく、同時に躰がザワザワとする。
 余談めくのだけど、収録されているクリスマスソング『DOWM IN YON FOREST』が、原曲では"I love my load Jesus above evrything(何よりも我が主イエスを愛す)"となっている所が、こちらのアレンジでは"I love my load above everything (何よりも我が主を愛す)"と繊細に変えている所に、黒百合姉妹さんの核を感じるのですが、どうでしょう?
 『IN DITC』の圧倒的な声の震えは、賛美歌の抑制を内側から食い破る奔流のような祈り。アウトロの石窟で響く水音のような『La chamber du clair de luna Ⅱ』のアンビエント冷たさ。



天の極み 海の深さ
黒百合姉妹
2005-02-01

 まさにその名のごとく、何処までも透明で、けれど潜っていく事、飛び続ける事の恍惚と裏腹の怖さが混じり合うようなアルバム。
 高音の楽器とハイトーンボイスが絡み合う歌曲群の気持ち良さ、深みは本当に美しく。黒百合姉妹さんの清らかな側面の完成形だと思う。法悦の歌が、天と地を行き交うようなアルバム構成も、素晴らしい。
  空も海も、地上から離れれば離れるほど、透明度が上がりながら、同時に色が深みを増していくのだけど、正にそんな音楽。絶品です。
 アルバム収録の『空を紡ぐ』は今の所、黒百合姉妹さん最後の日本語曲。透明でありながら、深い青色を湛える中に、クリスマスソング『ONE SNOW』みたいな大人びた可愛さがそっと潜んでいたりするのも、このアルバムの魅力。


All Things Are Quite Silent 
JURI et LISA
2006-12-22

黒百合姉妹さんの別名義Juri et Lisaによるどこか民謡風のアルバム。
穏やかな弦楽が、けれどキラリキラリと、音の中で煌めいて、とても綺麗。
なんとはなしに、口ずさみたくなる曲が多いのもこのアルバム。
流れる風と大地が眼に浮かぶ『FROM AWAY』は特に穏やかでいて、切り立った山の頂のような力強さがあって美しい。ラストの実験音楽的な『Amcient chant』の静けさは見事。
どの曲も完成度が高くて大好きです。


星のひとみ
黒百合姉妹
1999-12-24

レオノーラ・キャリントンのジャケットが印象的な一枚。
前作『月の触』の濃密な夜の世界から一転、不思議な光の煌めく妖しい世界を描き出す一作。
『The Door On The Shore』の夢めいて模糊とした色合いは、このアルバムの特色。表題作『星のひとみ』の疾走感も素敵です。
 
月の蝕
黒百合姉妹
2006-07-07

 黒い黒百合姉妹さんの一つの頂点。バッハ的な陰鬱への傾倒が、静かに美しい。『Nu Alrest』はバッハの『われ汝に呼ばわる、主イエス・キリストよ』のアレンジ版。近くに聞こえるバッハの旋律を奏でる弦楽器と、遠くで残響する歌声の対比がなんとも言えず、密やか。表題作『月の蝕』は怒涛のピアノ連弾。暗がりの嵐のような激しさは、このアルバムを支配する速度のイメージでもあるように思える。



夜は星を従えて
黒百合姉妹
2006-02-24

 同名のバーンジョーンズの絵がジャケットの黒百合姉妹さんのセカンドアルバム。2曲のクリスマスソングから始まる祝祭めいた雰囲気が全面に出ている一枚。ゴシックな感覚がありつつも、黒百合姉妹さんのアルバムの中では最もPOPsな一枚だと思う。
 聖楽の感覚と、ポップスの感覚が絶妙に混じっている。恐るべき子供達をモチーフにしたという『Paul&Liese』は優しく澄んだイメージでお気に入り。そこはかとなく暗い『Azul』などが混じりつつも、どこか陽性なアルバム。



最後は天使と聴く沈む世界の翅の記憶
 黒百合姉妹さんのデビューアルバム。冒頭の表題曲、壮麗に訪れた世紀末の一瞬を捉えた、賛美歌めいた日本語曲はまさに圧倒的。鐘の音から始まり、扉が開く演劇的技巧も効いている。延々と鳴り続けるオルガン(たぶん)の伴奏にクラクラとし、歌声に誘われて終末を幻視する体験は、本当に劇的。初めて聞いた時には、途方も無い感覚が無闇に哀しくて、泣いた思い出が。
 それ以外にも、シャンソン風の一曲や、90年代終末SFな感覚で歌い上げる現代黙示録の聖楽『華』シンプルなピアノ伴奏に呟くような歌が伴う『黒猫ティブの子守唄』、明るめの色彩が映える『地中海の夢』などなど、荒削りな部分は多いながらも、バラエティ豊か。
 黒百合姉妹さんの出発点であり、その後の、時間を超えるような音楽を目指していく黒百合姉妹さんの音楽(夏発売のアルバムにクリスマスソング!)から見れば、一番、このアルバムが時代というか現代に結びついていた作品でもあるのかも。だからその意味では、一番聞きやすいアルバムでもあるのかもしれません。

附記
こちらのリストには掲載しませんでしたが、初期作品のリマスター版
(『最後は天使と聞く沈む世界の翅の記憶』『夜は星を従えて』『月の蝕』『All things are quite silent』『LUX AETERNA 久遠の光(初期のライブ盤)』『Schwarzwald(初期ライブDVD)』)
のうちから4作を購入し、付属する応募券を郵送する事で、アルバム未収録作品ボーナストラック等を収録したスペシャルCDのプレゼントに応募できます。


黒百合姉妹さんの音楽が、それを望む人々のもとに届く事を……。
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