■一千一頁物語

一瞬を凍らせる短歌やスナップショットのように生きたいブログ

本の一ページを紹介するブックレビュー一千一頁物語 SSよりも瞬間的な創作小説SnapWritte スナップショットの感覚、短歌の精神で怖いものを探求したい…願望

◻︎消毒の技法

消毒の技法

 灰色のポリバケツは酷く重かった。下半分ほどは砂で埋まっている。砂は消石灰か何かで、消毒の効用があるのだというけれど、僕はその内容を詳しくは知らない。ただ、あそこからそちらに運べ、とだけ親方から急に命じられて、ただ、ポリバケツを腕に抱えて運んでいた。春先だというのに日差しは暑い。汗が顎を伝う。
 灰色のポリバケツは重かった、けれど同時に異様に揺れていた。それが更にポリバケツの重さを増すので、僕は辟易とする。消石灰とは、生き物なのかしら?と僕は冗談を思い浮かべるのだけれど、言う相手は今ここにいないので胸の中に言葉は貯まっていくばかりでしかない。異様な状況だ、と僕の一部が言う。暑くてどうにかなりそうだ、早く終わらせて、冷却されたい、と僕の大部分が叫んでいた。僕は多数決の立場を採る。みんなの意見を聞く民主主義ではなくって。
 灰色のポリバケツは、重かった、けれど同時に異様に揺れていた、それはとっても不吉で、僕は暑さで参りそうだった。

映画『屍者の帝国』と小説『屍者の帝国』と物語『屍者の帝国』〜映画が切り開く複数の物語という意識の可能性〜


ーーワトスン博士、この調査で何かが明らかになったとしても、それはあなたの理解であり、あなたに許される物語でしかありません。私の物語ではありえないし、物語である以上、アレクセイに関する事実でもない。ーー
円城塔+伊藤計劃『屍者の帝国』より


 映画『屍者の帝国』は異質(クィア)な方法で持って小説『屍者の帝国』と共に物語『屍者の帝国』補完する、非常に優れた作品だと思った。

 映画『屍者の帝国』は、小説『屍者の帝国』が複層な言語によって生成される意識を備えているけれど、それが実は単一な物語に拠っている事を、否応なく明らかにしながら補完する。

 その差異から生まれるパターンは、小説『屍者の帝国』に寄りかかりながら、物語『屍者の帝国』に新しい地平を切り開いて、意識を駆動(start her up)させていく。孤立した人間の内部にある複数のXが人間の意識を成すように。



 小説『屍者の帝国』は、不死化して社会に食い込み拡大していくような、単一の物語に、支配されている。

映画『屍者の帝国』が提供する物語は、小説『屍者の帝国』という絡み合った暗合群の中から、そんな物語を見出す為の、恣意的で任意な一連の解読コードを作り出してくれる、ように思った。

 それは問いの形をとったコードで、映画『屍者の帝国』が提供するのは、問いを生む為の差異。問いかける事で、暗合する符号の乱雑な文脈から、人が望む物語が生まれるはず。

 だから、私はこのように問うことから始めたい。


 フランケンシュタインの怪物=ザ・ワンは何故花嫁を所望するのか。


 メアリーシェリーの小説『フランケンシュタイン』にて、造られた怪物は何よりも、自身と同じように醜く、社会から排斥され、故に自らに心をかけてくれる者を、相棒を、望む。そしてその上で、彼はその相棒を女性と、花嫁と指定する。
 
 その要求は、排斥と差別をそのまま自身のアイデンティティーとして受け入れ、主流の常識へ同一化する、その象徴としての、花嫁の要求かもしれないし、臓腑が鳥肌立つ空っぽの孤独の帰結とでいうような私的な帰結なのかもしれない。あるいは、もっと別の何か。

 いずれにしても、彼は人造生命として、いかなる部族の起源神話とも関わらない孤立した存在だし、彼の欲求はそんな彼が、部族の起源神話を強く、刻印された社会と関わる事で生まれた副次的な物。

 けれど、小説『屍者の帝国』のフランケンシュタインの怪物=ザ・ワンは、むしろ所与の欲望として花嫁を望み、彼の願望の根源が語られる事も、彼の願望への疑念が語られる事もない。彼の欲望、彼の望む異性愛的で、女性に対して一方的な欲望は、世界と意識と言葉と物語に対する疑念に満ちたこの小説の中で、如何なる疑念も挟まれない、特権的な存在として、確立されている。

 彼ら(あえて彼らと呼ぶ)は単一な物語を共有している。彼らはそれを疑わない。それは彼らの物語の基盤となる。

 単一な物語の基盤として、旧約聖書が選択される。起源神話を持たない筈の、人と異なった意識と言語をもつ筈の意識のアナキスト、ザ・ワンはアダムと結びつけられ、科学の時代の非神話的存在と(たとえ彼女を取り巻く環境が神話的であっても)して生まれた筈のハダリはリリスと結びつけられる。

 神話、物語のアナキストであり、物語を撹乱し普遍性の幻想の彼方にいた二人は、旧約聖書の単一で拡大し続ける物語に絡め取られ、物語に内在するコードに追いつかれる。

フランケンシュタインの怪物は、根拠のない確信を元に花嫁を探し、ハダリはリリスなる象徴の元に生きる事を求められる。

 だから、小説『屍者の帝国』に旧約聖書を基盤としない宗教は殆ど現れない。英国から世界を一周するにも関わらず、ワトスンの視界をよぎるのは旧約聖書の物語ばかり。ワトスンの語りの中でほんのわずか仏教の名前が現れ、星の智慧派が微かに非旧約聖書の匂いを纏うばかり。小説の大部分を占める日本編でも、神道や仏教の描写は除去されている。

 それはメアリーシェリーの『フランケンシュタイン』のように排除と差別の果ての同一化ではなく、始めから異なった物語の可能性が除去され透明になった故の、単一性。それを著者=ワトスン≒ぼくの世界。

また、私はこの小説に何人の人格を備えた人間の女性が登場するだろう、と問う事できると思う。単一な物語の欲望の焦点の一つである女性が、何人登場し自分の物語を語るのだろうか、と。そして、彼女が何を語っているのか、とも。



 牧原亮太郎監督の映画『屍者の帝国』が挑もうとするのは、円城塔先生の小説『屍者の帝国』のこんな側面なのだと、思った。

 それは多分、多様な意識を駆動させる多様な物語を問う物語であり、小説『屍者の帝国』でザ・ワンが問い、ワトスンの答えられなかった、単一性への抵抗の物語なのだ、と。

 小説と映画で最も異なるのは、ワトスンと屍者フライデーの関係。ワトスンは亡き友人の屍体から造り出した屍者フライデーの魂を求めるために、ヴィクターの手記を欲望し続ける。ワトスンの意思を駆動させる物語とは、そのような物語。ザ・ワンはそんなワトスンを見て、魂の秘奥を極めるために自身を生み出したヴィクターその人を思い出す。

 けれど、客観的に見るのなら、亡き人を求めて学究を続けるワトスンの姿は、明らかに、失われた花嫁を求めるザ・ワンその人に近い筈。ザ・ワンはその事を認識しない。或いは、そのような 交流は不可能だ、とも言える。

 何故ならワトスンとザ・ワンは異なる物語の地平を生き、その為に、異なる意識の地平を生きているから。ザ・ワンはアダムとしての物語を生き、故に異性を欲望せざるを得ないけれど、ワトスンにそのような起源神話、物語から生まれる欲望のコードはインストールされていない。ワトスンはザ・ワンのそれとは異なる同性への欲望を露わにし続ける(それがいかなる物なのかはここでは問わず、最も強い執着が同性に向けられている事だけを確認する)。ここにおいて、ザ・ワンがワトスンの中に認めたヴィクターとの同一性が顕れる。


 ヴィクター・フランケンシュタインは異性の怪物を造らなかった。


 映画『屍者の帝国』で、異なる物語によって駆動される、異なる意識を持つザ・ワンとワトスンは理解しあえない。小説『屍者の帝国』で異なる言語に駆動される、異なる意識を持つ存在が直接的に理解しあえないように。

 映画『屍者の帝国』では、このザ・ワンとワトスンの邂逅の場面に、読経する仏僧の姿をした屍者の群れが、二人を囲む。異質な言語の異質な意識を持った屍者が、単調に声を震わせる。あたかも、アダムであるザ・ワンと、ワトスンの物語の異質性を強調するように。小説『屍者の帝国』で除去された二つの異質な物語が、ここでザ・ワンと対峙する。

 物語のラスト、チャールズバベッジの鎮座するロンドン塔で、また2人は相見える。

 ザ・ワンは自らをフライデーにインストールしようとするが果たせず、世界を巻き込んでハダリに花嫁を再現させようとする企み自体を、手と手を取り合ったワトソンとフライデーによって阻止される。2人の対称性と異質性。同じものを求めながら、異質な物語によって駆動する2人。

或いは、小説で遂にワトスンが答えられなかったザ・ワンによる屍者化した人類の未来像に対して、映画のワトスンは自らの言葉で、まさにその計画を実行しようとするMに対して答えようとする。"権力者の絶望"によって生み出される単一化された人類という未来像自体が、単一な物語に塗り込められた意識から生まれる事を示唆するかのように。

 主流への同一化を基盤とするフランケンシュタインの怪物の物語のコードを刻印された物語に、旧約聖書と異性への欲望への服従に象徴される物語には、より一層の同一化を求める物語に屈しきれないのかもしれない。

 欲望があり、物語があり、物語は欲望を正当化し、欲望を排除し、単一な欲望を象徴とする単一な物語となって世界と意識を支配しようとする。不死化する。

 権力者の絶望が生み出す、真っ白な人類は、彼らが受け入れ従う物語に隠れた欲望の帰結で、そうであるのなら、対抗するには異質な物語=欲望が必要なのだ、と。

 映画『屍者の帝国』はそうした物語を持って、小説『屍者の帝国』に挑んだのではないか。

 差異と矛盾の抗争が、パターンを生み、意識を齎す。


 †

ーー人間の意識は複数のXの派閥による合議、あるいは闘争からなる。その多様さが人間の意識を生み出すのだ。単一の派閥のよる直線的な意思決定は、ただの木偶の坊を作る結果になる。人間は矛盾に満ちるが、その矛盾こそが本質だ。並び立つ意志や意見の対立が、常に矛盾を生み出しながら前進していく。ーー
前掲書より

 ある語族には、緑と青を区別する言葉がなく、その話者たちは青と緑に強い差異を認識できない。ある語族には群青と青を区別する言葉が無く、その話者たちは群青と青に強い差異を認識できない。

 言葉は認識を生み出し、意識を規定する。けれど、こうも言えるのかもしれない。

群青と青を区別する事を言葉に望むのは、物語である、と。『屍者の帝国』なる物語が屍者という言葉と死者という言葉を生み、その区別を望むように。区別を言語に発生させるのは物語なのかもしれない。

 物語は、言語の差異を超えて伝播し、言語の中に新たな言葉を生み出して、次々と人間に感染していく。小説言語の中にある物語が、映像言語に感染していく。

 私の意識を生み出すのは物語なのかもしれない。

 そうであるなら、単一な物語=欲望は恐ろしく危険。

 意識を生み出し、世界を生者のものに在らしめる為には、複数な物語の派閥が必要なはず。

『屍者の帝国』を小説言語から映画言語に写し取る際、必ず表れる物語という存在を、真っ向から考察したのが、牧原亮太郎監督の映画『屍者の帝国』だったのではないかしら。

 円城塔先生の小説『屍者の帝国』にあるセキュリティ・ホールを埋めるパッチ。『屍者の帝国』という物語は、映画言語と小説言語によって読み取られ、差分を生み出す事で新たな、より強力な生を獲得した、のでは?

 差異が生み出す抗争のパターンが意識の根源であるのなら、複数の物語の派閥を得た『屍者の帝国』という物語は、今まさに生き始めた。

ーーぼくは意志を持っているのか。持っている、とぼくは答えるだろう。こうして物語が持つ事の可能な意識を、ぼくはここに確か保持している。ーー
『屍者の帝国』より


映画『屍者の帝国』は屍者の新しい地平を切り開いた優れた、クィアな映画だと考える。全身、満身創痍でボロボロだとしても。

伊藤 計劃
2012-08-24


どれだけ複雑で複層で並列的な物語でも、常に少年と少女という基盤に回帰するのは、屍者の帝国というより、円城塔先生の作品の特徴かも。そんなところが愛しい。

『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』私と公を分ける身振りと、薄っぺらな表面の奇跡

 演劇の中で、役者はその身振りと視線で、私的な独白と、公的な会話を表現する。
けれども、パフォーマンスが行われる場は、常に、公的な舞台の上であり、私的な独白とは観客に訴えかけるものでも、ある。
 その時、観客は私的、公的、両方を綜覧する権力者で、その二分を明瞭に分けてくれるシステムを構築する演出家と結託することで、演劇に愉悦を求める。
 そして役者こそ、舞台の私的空間と公的空間を分離させる身振りを行使する、最大の権力者(を演じさせられるもの)に他ならない。
 なのに、私的、公的の分離は、いやしくも舞台の上という同一空間が時に私的な空間となり公的な空間となることに表されているように、その曖昧さゆえ、この二分法はやがて崩壊と復讐を受けなくてはならなくなる。
 シェークスピアならずとも、演劇の主人公は独白を聞き取られることによってこそ、危機を迎える…。

 舞台、という舞台設定をテコに、私的空間と公的空間を、常に騒擾し、全てをワンカットという一つの表面に巻き取って見せた映画が、『バードマン 無知がもたらす予期せぬ奇跡』という映画なのだと、私は感じた。
 『バードマン』の中で表現される危機の多くが、私的と公的の交錯の上に成り立っている。
 公的な道路を、私的な下着姿で主人公は闊歩するし、私的な場の中で性的不能な俳優は公的な舞台で性行為を行おうとする。
 映画を不安付ける主題は、私的空間と公的空間の、あまりに薄い膜が露わらになってしまう混合の瞬間と、その二つを分ける権力者が支配力を失う事に、焦点が結ばれているのではないか。
主人公が私的空間と公的空間を、舞台の上のように、映画の中のように、支配することができる時、彼は超能力を自身の私的な空間の中で行使する(と信じる)ことができる(その私的空間が他者の介入によって公的空間に変化すれば、彼の全能性は他人の客観性の元に失われるのだけれども)。
 そうして、主人公が憤るのは常に、自身による私的公的の区別が他者によって突き崩されたときなのだ、とも読める。
 女優2人が楽屋でキスをしているのを、彼が楽屋に侵入して目撃したとき、彼はまごつくけれど、危機は感じない。そのとき彼は自身が私的な空間に踏み入る主体であることで、私的公的の区別を、自身の身振りの上で行っているから。と読んでみればどうだろう。

 象徴的な挿話として、主人公が自身の不安を娘に語る場面がある。
 主人公が飛行機で、有名俳優と乗り合わせた時、もし飛行機が事故にあったなら、自分の名前は記事にならないだろうと、彼は自身の俳優としての没落を嘆く。
 この挿話で表現されるのは、私的な空間が公的な空間へと強制的に転換される場合の、コントロール不能な状況への恐怖とも、読める。その恐怖が劇中で度々言及されるネットメディアと結びつけば、危機の発生確率はますます上がり、その危機はすべての人の上に現れている。
 リハーサルの期間中、主人公のコントロールを離れて、多くの関係者の私的な危機が、舞台の上に持ち上げられていく。そのドラマの全てを巻き取る一カットの映像。
 続発する危機に対して主人公は、もはや私的な物と公的な物の区別を、諦め、同時に超越していくかに見える。街を歩きながら、街を飛び、彼は私的な空間を公的な空間の中に埋め込む(他者の客観性の元には彼はタクシーに乗っている。)。彼は楽屋という燦々とライトに覆われたクローゼットから飛び出し、私的、公的の区別を超え、支配への欲求を克服するかに見える。

 映画の終盤、主人公は、青いライトに照らされた舞台の上で、真っ赤な極私的なパフォーマンスを演じてみせる。舞台という公的な物と、私的な行為が重なり合う場面は、暴力的に二つの間にある膜を打ち破ってみせる。そもそも、私と公を、1人の人間が身振りで持って区別する事自体が、私と公の同一性を意味していたはず。その支配権力を弄んだ彼が、やがてその二つを超越するか、或いはその二つに打ちのめされるか、結末は始めから決まっていたのかもしれない。
 このシーンに続くラスト(ここでカットが切り替わる)で、主人公の娘が、主人公の私的で主観的な妄想の奇跡を、他者的な主観から目撃する事が、暗示される。
 それは、二分法を超越した主人公への祝福にも思え、けれど、また同時に主人公の支配が拡大しただけとも見える。



 映画は巧妙なトリックとデジタル技術を駆使して、予告では寸断されている、全編を長い長い数カットという薄っぺらな表面に収めている。まるでそれこそが、客観と主観、真実と虚構といった、私と公を巡る二分法を打ち破る術であるかのように。
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