■一千一頁物語

一瞬を凍らせる短歌やスナップショットのように生きたいブログ

本の一ページを紹介するブックレビュー一千一頁物語 SSよりも瞬間的な創作小説SnapWritte スナップショットの感覚、短歌の精神で怖いものを探求したい…願望

『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』私と公を分ける身振りと、薄っぺらな表面の奇跡

 演劇の中で、役者はその身振りと視線で、私的な独白と、公的な会話を表現する。
けれども、パフォーマンスが行われる場は、常に、公的な舞台の上であり、私的な独白とは観客に訴えかけるものでも、ある。
 その時、観客は私的、公的、両方を綜覧する権力者で、その二分を明瞭に分けてくれるシステムを構築する演出家と結託することで、演劇に愉悦を求める。
 そして役者こそ、舞台の私的空間と公的空間を分離させる身振りを行使する、最大の権力者(を演じさせられるもの)に他ならない。
 なのに、私的、公的の分離は、いやしくも舞台の上という同一空間が時に私的な空間となり公的な空間となることに表されているように、その曖昧さゆえ、この二分法はやがて崩壊と復讐を受けなくてはならなくなる。
 シェークスピアならずとも、演劇の主人公は独白を聞き取られることによってこそ、危機を迎える…。

 舞台、という舞台設定をテコに、私的空間と公的空間を、常に騒擾し、全てをワンカットという一つの表面に巻き取って見せた映画が、『バードマン 無知がもたらす予期せぬ奇跡』という映画なのだと、私は感じた。
 『バードマン』の中で表現される危機の多くが、私的と公的の交錯の上に成り立っている。
 公的な道路を、私的な下着姿で主人公は闊歩するし、私的な場の中で性的不能な俳優は公的な舞台で性行為を行おうとする。
 映画を不安付ける主題は、私的空間と公的空間の、あまりに薄い膜が露わらになってしまう混合の瞬間と、その二つを分ける権力者が支配力を失う事に、焦点が結ばれているのではないか。
主人公が私的空間と公的空間を、舞台の上のように、映画の中のように、支配することができる時、彼は超能力を自身の私的な空間の中で行使する(と信じる)ことができる(その私的空間が他者の介入によって公的空間に変化すれば、彼の全能性は他人の客観性の元に失われるのだけれども)。
 そうして、主人公が憤るのは常に、自身による私的公的の区別が他者によって突き崩されたときなのだ、とも読める。
 女優2人が楽屋でキスをしているのを、彼が楽屋に侵入して目撃したとき、彼はまごつくけれど、危機は感じない。そのとき彼は自身が私的な空間に踏み入る主体であることで、私的公的の区別を、自身の身振りの上で行っているから。と読んでみればどうだろう。

 象徴的な挿話として、主人公が自身の不安を娘に語る場面がある。
 主人公が飛行機で、有名俳優と乗り合わせた時、もし飛行機が事故にあったなら、自分の名前は記事にならないだろうと、彼は自身の俳優としての没落を嘆く。
 この挿話で表現されるのは、私的な空間が公的な空間へと強制的に転換される場合の、コントロール不能な状況への恐怖とも、読める。その恐怖が劇中で度々言及されるネットメディアと結びつけば、危機の発生確率はますます上がり、その危機はすべての人の上に現れている。
 リハーサルの期間中、主人公のコントロールを離れて、多くの関係者の私的な危機が、舞台の上に持ち上げられていく。そのドラマの全てを巻き取る一カットの映像。
 続発する危機に対して主人公は、もはや私的な物と公的な物の区別を、諦め、同時に超越していくかに見える。街を歩きながら、街を飛び、彼は私的な空間を公的な空間の中に埋め込む(他者の客観性の元には彼はタクシーに乗っている。)。彼は楽屋という燦々とライトに覆われたクローゼットから飛び出し、私的、公的の区別を超え、支配への欲求を克服するかに見える。

 映画の終盤、主人公は、青いライトに照らされた舞台の上で、真っ赤な極私的なパフォーマンスを演じてみせる。舞台という公的な物と、私的な行為が重なり合う場面は、暴力的に二つの間にある膜を打ち破ってみせる。そもそも、私と公を、1人の人間が身振りで持って区別する事自体が、私と公の同一性を意味していたはず。その支配権力を弄んだ彼が、やがてその二つを超越するか、或いはその二つに打ちのめされるか、結末は始めから決まっていたのかもしれない。
 このシーンに続くラスト(ここでカットが切り替わる)で、主人公の娘が、主人公の私的で主観的な妄想の奇跡を、他者的な主観から目撃する事が、暗示される。
 それは、二分法を超越した主人公への祝福にも思え、けれど、また同時に主人公の支配が拡大しただけとも見える。



 映画は巧妙なトリックとデジタル技術を駆使して、予告では寸断されている、全編を長い長い数カットという薄っぺらな表面に収めている。まるでそれこそが、客観と主観、真実と虚構といった、私と公を巡る二分法を打ち破る術であるかのように。

K.Wジーター『ドクターアダー』ネットワークと権力と内臓燦々

 
作者:K.Wジーター
書籍名:ドクター・アダー
頁番号:169p


 1970年代、ベトナム戦争に疲弊し、アメリカはデタントを開始する。
冷戦の世界構造は残された中、第三世界が次第に台頭を始め、東西は歩み寄る。
非プロテスタント教徒のケネディ大統領は、米国に残る保守的な価値観を改革する。
ベトナム戦争を終えたアメリカで、自由の声と、経済的な社会の混乱が始まる。
光と影。
 抑圧を解消する価値観と、犯罪とドラッグ、愛と平和。人の体臭が変わっていく。
光も影も、古き良き抑圧を穢す陰だと罵る声が聞こえ出す。
 時同じくして、米国の通信委員は、TV放送における宗教活動の有料化を認め、宗教放送はスポンサー付きの放送となり、TV局はTV伝教師の姿を伝える。
 彼らはTVから神の声を伝え、神の商品を売る。
 彼らが伝えるのは、自由と開放を前に混乱し、ベトナム戦争に傷ついたアメリカを癒す、保守的で強烈で差別をも蘇らせる、神の教え。男女は同権ではなく、中絶は廃止され、同性愛は裁かれ、家族は蘇る。彼らはそう語った。保守の代弁者神の代弁者。
 1970年代、そうした時代が始まる時期に、K・Wジータは一編の小説を書き上げる。
 ドクターアダー。世界初のサイバーパンク小説の一つ。
 世界を貫通する内臓を曝け出した文書と物語。
 出版まで、10年の時を要した。

 未来のLAのアーケードに、歪な身体を抱えた娼婦が立ち並ぶ。
 彼女たちを歪に作り上げたのは、無類の感応力を備えた外科医ドクター・アダー。
 LAのインフラには、TV放映網が隅々まで敷かれている。TV伝道師の言葉を伝えるために。
二つの存在は対立しながら均衡している。
 カリフォルニアの養遺伝子改造鶏牧場兼鶏姦場(文字通りの)から一人の青年が、権力の妄想と神話を具現化した過去の兵器を携えてLAを訪れる……。
 暴かれていくのは、二つの対立が、父権の名の下に、欲望が内臓を経由して絡み合う世界。
その合間で散乱する燦爛たる内臓の山。

 この一ページは、その内臓が炸裂した一場面。アダーの物語は、こんな悪夢的な臓物イメージが充溢している。内臓を隠し、批判する事で成立する権力を保持するための欲望が、却って暴力を望み、内臓を世界に拡散させる。ドクターアダーのドクターアダーたる所以の強烈なイメージの場面。
 人が人でありながら、人としての機能を失い、その内臓に触れる感触。それをさせる情動に籠る熱い欲望が、権力と権力構造の中で暮らす自分の中に組み込まれているのではないかという疑惑。そして、全ての欲望は、内臓を経由して世界に顕れる。
 アダーの物語は、臓器の物語。地下水道に眠る隕石とともに訪れた解読不能な暗号を送る奇妙なエイリアンは、言葉と肉体を排泄し続ける。麻薬を作る医師が暮らす、汚濁にまみれた空間では、生物と細菌が人間の則を超えて繁栄する。
 そもそも、舞台となる未来のLA自身が、明らかに内臓の暗喩として作られている。
凄惨な臓器は、人から隠匿されながら、人の汚辱を一身に担う。どんな人間=システムも、その臓器を通さずには世界に存続し得ない。
 身体ではなく、臓器こそが、この小説にとって問題だった。
 そのドクターアダーの解剖学は、ネットワークにも及ぶ。サイバーパンク小説たるアダーにおける"ハッキング"は、その先にあるデータの奪い合いというよりもむしろ、データを取り結ぶネットワークそれ自体にメインが置かれる。

 考えてみるまでもなく、私たちの現在のネットワークだって、世界の地下に埋まったコード=腸によって成立している。この言葉だって、臓器たる電力ケーブルとネットワーク回線によって送られ、受信されているのだから、アダーの思考の射程範囲は、恐ろしく広いのだ。
そして、アダーは欲望と内臓をもって世界に反逆を示すだけでなく、非欲望非内臓的ネットワークをも、描き出そうとする。物語を終える言葉は、非内臓的なネットワークによって伝えられる。それは権力と欲望の末に現れる反権力の究極かもしれない。
 強烈な言葉と、強烈なイメージが錯乱する、巨大権力の時代に執筆された小説ドクターアダーは、内臓を経由して世界の欲望を指摘し、更にそこから、実に70年代的アイテムで脱出しようと試みる。
その非内臓性は、あるいは現代のWifi機器同士を無線で直接つなぎ、ネットワークを構築してみせるWifi P2Pという技術を思い起こさせる。事実、P2P技術は常にネットの反権力の手段でもあり犯罪の手段であり、サバイバルの手段でもあった。常に議論を呼ぶハッカー集団アノニマスが監視と経済の手を拒絶する為に開発している技術も、無線P2Pを基礎にしている。
 実に、ドクターアダーの語る、内臓という概念はネットワークという問題を貫通して様々な思考の地平を現代に至るまで開いていく。
 ドクターアダーの内臓の思考は権力の構造を暴き、その先の反権力な未来を描こうとし見せた。
 そこに希望が、あるのか、ないのか。未だに、内臓に欲望を託し、政治を託し、権力を託し、反逆を託し、それでいながら内臓を秘匿する一族に属する、そんな私には未だに分からないけれど、だからこそ、この小説が今まさに燦然と輝く事はよくわかる。

 なんといっても、未だに世界は地下に埋没した内臓群の事を"クラウド"と呼び、言葉だけを空に打ち上げて無意識的な欺瞞を続けているのだから。



稲垣 足穂

アナロジーが許すなら、稲垣足穂はA感覚という概念で臓器という存在をハッキングしたのかもしれない。非内臓性ばかりが反権力の手段ではない筈。内臓なき人間は生存できるのかしら。内臓の思考は続いていく。

オースン・スコット・カード『ソング・マスター』無自覚がもたらす予期せぬ奇跡

  ソングマスター (ハヤカワ文庫 SF 550)

遥か未来の、抑圧的な帝政の時代、1人のゲイ寄りのバイセクシュアル男性(自分ながら何割かはゲイで何割かはヘテロだと語る)が、抑圧への苦悩を叫ぶ。偏見を指弾する。
 純粋で、純正な愛と、愛を抑圧する人間の愚かさ(もしかすると賢さ)が招く悲劇…。SFの形をとりながら、オースンスコットカードの『ソングマスター』は、そうした社会を非難する…としか読みようのない物語を描き出す。
 歌う少年少女を世界に送り出す機関(歌うジェダイ)、そして彼ら彼女らを望む権力者。物語はこの2つの設定を柱に、壮麗な才能と愛の、複雑な力学を描き出していく。
 それは、同性愛の問題に留まらず、人間の感じ易すぎる心の針が、愛のレコードに刻まれた溝をたどるときの、強烈な波動がもたらす物の、物語。
 スコットカードが、無伴奏ソナタなどでとる、抑圧され吹き飛ばされるマイノリティに対する深い眼差しを、愛の物語に向けたとき、そこに同性愛というテーマが浮き上がってくるのは必然だったのだ、と思う。
 彼の持つ詩的な文章の力能で、異性に限らない愛をを美しく強く讃えることも、必然だったのだ、と。
 SFと同性愛と、愛の物語が、ここまで高いレベルで、そして自然に融和した物語は数少ないと思う。そしてここまでロマンス詩的な物語も(そこに80年代の男性作家らしい無知と傲慢が潜んではいても)。

 と…話がここで終われば、いいのだけれど、しかし、不思議な事に、オースンスコットカードは強烈な反同性愛・反同性婚論者として、米国では知られている。
厳格なモルモン教徒として、彼は頑なに、それに反抗している。彼の代表作である長編小説『エンダーのゲーム』(元は無伴奏ソナタの短編だけど)が近年映画化された際には、彼の同性愛に対する態度から性的マイノリティ団体の主導で不買運動が起こり、製作会社のワーナーが、自身には一切同性愛を否定する意思はないと、弁明する事態が起きた。
 どうして、こんなにも正反対な事が起こり得るの、だろう。確かに、『ソングマスター』を読めば、そこには不勉強と偏見が隠れている事は、良くわかるけれど、それにしても、これほどの事が起きる様なものでは決してなくて…。
 作家と、作品は、無関係だ。作家がどんな人間でも、作品の輝きは薄れない。反差別を訴える作家が驚くような無知で差別を描くこともあれば、作品の中の登場人物が差別的な作者の意志に反して、差別を糾弾することもある。それでも、ここまでの、作家のズレが起こるなんて、とても不思議で、絶望的にも思える。

けれど、もしかすると、それは奇跡で、不寛容に対抗する希望なのかもしれない。少なくとも、そこには不寛容の意志から寛容の種子が生まれているのだから。


オースン スコット カード
2014-04-01
初めて読んだのは多分小学生の時。どれほど押さえつけられても、どうしようもなく生き残る者たちの姿と音に、ひどく打たれる。

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