虚無への供物は、"豚のような"偶然の死の上に、架空の物語を実現させることで、それを人間らしい尊厳のある死に置き換える物語だった。
そうであるなら、中井英夫師の短編集である幻想博物館は、実はその思想の小説としての実践として読めるのではないだろうか。
 つまり、幻想博物館に収蔵された短編は全て、中井英夫師が切り抜いた新聞記事にあった、偶然の死がベースになっていて、中井英夫師はそれを小説の物語を与える事で、人間らしい尊厳の物語に置き換えたのだと。そう見れば、幻想博物館に登場する物語が、物語の中の狂人が語った物語という形式で、しかも、狂人たちはそんな物語を語ったがために、病院へ収監されたのだという構図が、明瞭になる。
 つまり、まさに幻想博物館こそが、虚無への供物それ自体だった。
 ここで注目されるのは、幻想博物館が古典的物語を下敷きにしている点で、虚無への供物にカインとアベルの物語が引用されていたように、中井英夫師の考える人間らしい尊厳の物語とは、歴史に刻まれ語られてきた物語に根拠を依っている点。それこそが、幻想だという事。新式の物語と、旧式の物語の相克。
 人間のドラマを基盤とする近代的物語を受け入れるなら、近代的物語と相反する現代的な大量死の現実を、近代的物語の人間のドラマに置き換えなければならない。しかし、そうなると、そこでの人間は大量死を人間ドラマの帰結としてもたらす悪魔にならざるを得ず、結果的に、大量死をもたらすものこそが尊厳ある人間である、という結論に至ってしまう。人間ドラマは死ぬのだ。
 虚無への供物に登場する幻想的な描写と思考のほぼ全てが、現実に物語を与えようとした結果の観念に過ぎず、常に現実に裏切られていく事には、注意しなければ。この構図は、小説の冒頭から常に意識して描かれている。そうすれば、物語の最後にひとつ、ぽつりと幻想が存在する事の違和感に気づくはず。
 中井英夫師が若者文化に注目し続けた事。一般的な男女論を否定しながら、自らの考える本質主義的な男女論を語りつつ、更にその自分の考えた男女論さえをも否定する若者の姿に希望を抱いていた一面。そこには自縛自傷する姿と解放への希求に顔を上げる人の姿、その二つ
の葛藤がある。
 虚無への供物をミステリィという枠に止めるのは良い加減に終わりにすれば良いのに。あの小説の問うている事の大きさ。まっとうに取り組めば、たぶんきっと、世の中の物語の八割が消し飛ぶ。
 虐殺器官は、虚無への供物に応えようとした小説に、思えた。虐殺器官はそういう観点でも語れるはず。無意味な大量死が起きる現実の中で、大量死に倫理を与えようとすれば、倫理なる観念は、殺戮をもたらすものでしかななくなる。大量死という現実の前に、あらゆる観念は無効化され、あらゆる観念は大量死をもたらすものでしか無い。共有される問題点は同じ。
虐殺器官と虚無への供物。無意味な死に虐殺の言葉という、更に無意味な理由を見つけ、そして最後には、無意味な死に意味を付けるため、世界を虐殺の渦の中に追い込む人の陰惨な姿。でも、そこには先への希望がない。
 虐殺器官は、大量死を前にした人間の観念というテーマを、虚無への供物から引き継ぎ、より先鋭化させた。虚無への供物では、人間性を大量死の中から掬い上げようとするなら、人間性は大量死を引く受ける無残の極みの概念でしかななくなる地獄が明らかにされた。虐殺器官は、それをより発展させ、大量死を目前にした倫理なる概念が虐殺をより積極的にもたらす姿が描かれた。この点において、二作は問題点を共有するといえるかも、しれない。それが偶然であるかもしれないにせよ、虚無への供物の問題点を引き継ぐ小説が、半世紀以上の時を越えてようやく現れたのは、感慨深い。
 けれど、虐殺器官では、虚無への供物が示した読者=探偵=見物人=作者=個々の人々という関係式は、明確にはされない。虐殺器官における読者は、虐殺による繁栄を謳歌する加害者だけれど、同時に殺戮される被害者でもあり、読者の位置は不安定。虚無への供物が指摘した読者こそが加害者出あるという一撃は、ここでは共有されない。暗示と暗合ばかりが多いのに象徴体系が全く働かない世界という見方も、共有されていないけれど。
 虚無への供物のラストは不思議と明るい。読者が犯人出あることを指摘する陰惨なラストにもかかわらず。そして、このラストにだけ、虚無への供物の中で唯一、現実に裏切られない幻想が登場する。羽ばたきの音だけを残して消える、黒鳥の影。そのイメージだけは、現実によって壊されない。皮肉にも、黒鳥の影のイメージが示すのは、世界から最後の象徴、最後の幻想が抜け出す姿なんだ。
 読者=個々人の大人が全て、大量死に関わる加害者であるという強烈な認識を、虚無への供物は叩きつける。そして、加害者である読者=見物人に、復讐を遂げることで、読者が被害者となって罰を受け結果的にマゾヒスティックな安穏とした位置に落ち着くことを許さない。復讐を遂げる資格を持った人間は、羽ばたきの音だけを消して消え去ったのだから。それは許しではない。むしろ、復讐をしないことにより、永遠に加害者である立場を、固定化しようとする試みなのだ。
けれど、だからこそ、虚無への供物には希望がある。
 虚無への供物の希望。つまり、私たちが、決して被害者でなく、加害者であると認める事から始まる希望。それが何かあるのではないか。今の私が、加害者である事。それを、内向的な自罰ではなく、もっと積極的な反省につなげる事。そこには希望の道があるのではないか。読者が加害者である事を指摘する陰惨なラストに続く物語とドラマの描写は、不思議と明るい。それは、私たちが加害者である事から始まる希望を表しているのでは。
虚無への供物は戦後10年の年に構想され、その後数年で完成した。けれど、私たちときたら、加害者ではなく被害者である振りをし続け、延々と見物人を続けてきた。或いは、延々と全くの他人(時に存在さえしない他人)を加害者に仕立て上げ続けてきた。虚無への供物の中に書かれている通りに。
もし、私たちが加害者であるという認識を持ちえれば、何か一歩進めるのではないか、虚無への供物はそこを、聞いてきているのではないかしら。