ーーワトスン博士、この調査で何かが明らかになったとしても、それはあなたの理解であり、あなたに許される物語でしかありません。私の物語ではありえないし、物語である以上、アレクセイに関する事実でもない。ーー
円城塔+伊藤計劃『屍者の帝国』より


 映画『屍者の帝国』は異質(クィア)な方法で持って小説『屍者の帝国』と共に物語『屍者の帝国』補完する、非常に優れた作品だと思った。

 映画『屍者の帝国』は、小説『屍者の帝国』が複層な言語によって生成される意識を備えているけれど、それが実は単一な物語に拠っている事を、否応なく明らかにしながら補完する。

 その差異から生まれるパターンは、小説『屍者の帝国』に寄りかかりながら、物語『屍者の帝国』に新しい地平を切り開いて、意識を駆動(start her up)させていく。孤立した人間の内部にある複数のXが人間の意識を成すように。



 小説『屍者の帝国』は、不死化して社会に食い込み拡大していくような、単一の物語に、支配されている。

映画『屍者の帝国』が提供する物語は、小説『屍者の帝国』という絡み合った暗合群の中から、そんな物語を見出す為の、恣意的で任意な一連の解読コードを作り出してくれる、ように思った。

 それは問いの形をとったコードで、映画『屍者の帝国』が提供するのは、問いを生む為の差異。問いかける事で、暗合する符号の乱雑な文脈から、人が望む物語が生まれるはず。

 だから、私はこのように問うことから始めたい。


 フランケンシュタインの怪物=ザ・ワンは何故花嫁を所望するのか。


 メアリーシェリーの小説『フランケンシュタイン』にて、造られた怪物は何よりも、自身と同じように醜く、社会から排斥され、故に自らに心をかけてくれる者を、相棒を、望む。そしてその上で、彼はその相棒を女性と、花嫁と指定する。
 
 その要求は、排斥と差別をそのまま自身のアイデンティティーとして受け入れ、主流の常識へ同一化する、その象徴としての、花嫁の要求かもしれないし、臓腑が鳥肌立つ空っぽの孤独の帰結とでいうような私的な帰結なのかもしれない。あるいは、もっと別の何か。

 いずれにしても、彼は人造生命として、いかなる部族の起源神話とも関わらない孤立した存在だし、彼の欲求はそんな彼が、部族の起源神話を強く、刻印された社会と関わる事で生まれた副次的な物。

 けれど、小説『屍者の帝国』のフランケンシュタインの怪物=ザ・ワンは、むしろ所与の欲望として花嫁を望み、彼の願望の根源が語られる事も、彼の願望への疑念が語られる事もない。彼の欲望、彼の望む異性愛的で、女性に対して一方的な欲望は、世界と意識と言葉と物語に対する疑念に満ちたこの小説の中で、如何なる疑念も挟まれない、特権的な存在として、確立されている。

 彼ら(あえて彼らと呼ぶ)は単一な物語を共有している。彼らはそれを疑わない。それは彼らの物語の基盤となる。

 単一な物語の基盤として、旧約聖書が選択される。起源神話を持たない筈の、人と異なった意識と言語をもつ筈の意識のアナキスト、ザ・ワンはアダムと結びつけられ、科学の時代の非神話的存在と(たとえ彼女を取り巻く環境が神話的であっても)して生まれた筈のハダリはリリスと結びつけられる。

 神話、物語のアナキストであり、物語を撹乱し普遍性の幻想の彼方にいた二人は、旧約聖書の単一で拡大し続ける物語に絡め取られ、物語に内在するコードに追いつかれる。

フランケンシュタインの怪物は、根拠のない確信を元に花嫁を探し、ハダリはリリスなる象徴の元に生きる事を求められる。

 だから、小説『屍者の帝国』に旧約聖書を基盤としない宗教は殆ど現れない。英国から世界を一周するにも関わらず、ワトスンの視界をよぎるのは旧約聖書の物語ばかり。ワトスンの語りの中でほんのわずか仏教の名前が現れ、星の智慧派が微かに非旧約聖書の匂いを纏うばかり。小説の大部分を占める日本編でも、神道や仏教の描写は除去されている。

 それはメアリーシェリーの『フランケンシュタイン』のように排除と差別の果ての同一化ではなく、始めから異なった物語の可能性が除去され透明になった故の、単一性。それを著者=ワトスン≒ぼくの世界。

また、私はこの小説に何人の人格を備えた人間の女性が登場するだろう、と問う事できると思う。単一な物語の欲望の焦点の一つである女性が、何人登場し自分の物語を語るのだろうか、と。そして、彼女が何を語っているのか、とも。



 牧原亮太郎監督の映画『屍者の帝国』が挑もうとするのは、円城塔先生の小説『屍者の帝国』のこんな側面なのだと、思った。

 それは多分、多様な意識を駆動させる多様な物語を問う物語であり、小説『屍者の帝国』でザ・ワンが問い、ワトスンの答えられなかった、単一性への抵抗の物語なのだ、と。

 小説と映画で最も異なるのは、ワトスンと屍者フライデーの関係。ワトスンは亡き友人の屍体から造り出した屍者フライデーの魂を求めるために、ヴィクターの手記を欲望し続ける。ワトスンの意思を駆動させる物語とは、そのような物語。ザ・ワンはそんなワトスンを見て、魂の秘奥を極めるために自身を生み出したヴィクターその人を思い出す。

 けれど、客観的に見るのなら、亡き人を求めて学究を続けるワトスンの姿は、明らかに、失われた花嫁を求めるザ・ワンその人に近い筈。ザ・ワンはその事を認識しない。或いは、そのような 交流は不可能だ、とも言える。

 何故ならワトスンとザ・ワンは異なる物語の地平を生き、その為に、異なる意識の地平を生きているから。ザ・ワンはアダムとしての物語を生き、故に異性を欲望せざるを得ないけれど、ワトスンにそのような起源神話、物語から生まれる欲望のコードはインストールされていない。ワトスンはザ・ワンのそれとは異なる同性への欲望を露わにし続ける(それがいかなる物なのかはここでは問わず、最も強い執着が同性に向けられている事だけを確認する)。ここにおいて、ザ・ワンがワトスンの中に認めたヴィクターとの同一性が顕れる。


 ヴィクター・フランケンシュタインは異性の怪物を造らなかった。


 映画『屍者の帝国』で、異なる物語によって駆動される、異なる意識を持つザ・ワンとワトスンは理解しあえない。小説『屍者の帝国』で異なる言語に駆動される、異なる意識を持つ存在が直接的に理解しあえないように。

 映画『屍者の帝国』では、このザ・ワンとワトスンの邂逅の場面に、読経する仏僧の姿をした屍者の群れが、二人を囲む。異質な言語の異質な意識を持った屍者が、単調に声を震わせる。あたかも、アダムであるザ・ワンと、ワトスンの物語の異質性を強調するように。小説『屍者の帝国』で除去された二つの異質な物語が、ここでザ・ワンと対峙する。

 物語のラスト、チャールズバベッジの鎮座するロンドン塔で、また2人は相見える。

 ザ・ワンは自らをフライデーにインストールしようとするが果たせず、世界を巻き込んでハダリに花嫁を再現させようとする企み自体を、手と手を取り合ったワトソンとフライデーによって阻止される。2人の対称性と異質性。同じものを求めながら、異質な物語によって駆動する2人。

或いは、小説で遂にワトスンが答えられなかったザ・ワンによる屍者化した人類の未来像に対して、映画のワトスンは自らの言葉で、まさにその計画を実行しようとするMに対して答えようとする。"権力者の絶望"によって生み出される単一化された人類という未来像自体が、単一な物語に塗り込められた意識から生まれる事を示唆するかのように。

 主流への同一化を基盤とするフランケンシュタインの怪物の物語のコードを刻印された物語に、旧約聖書と異性への欲望への服従に象徴される物語には、より一層の同一化を求める物語に屈しきれないのかもしれない。

 欲望があり、物語があり、物語は欲望を正当化し、欲望を排除し、単一な欲望を象徴とする単一な物語となって世界と意識を支配しようとする。不死化する。

 権力者の絶望が生み出す、真っ白な人類は、彼らが受け入れ従う物語に隠れた欲望の帰結で、そうであるのなら、対抗するには異質な物語=欲望が必要なのだ、と。

 映画『屍者の帝国』はそうした物語を持って、小説『屍者の帝国』に挑んだのではないか。

 差異と矛盾の抗争が、パターンを生み、意識を齎す。


 †

ーー人間の意識は複数のXの派閥による合議、あるいは闘争からなる。その多様さが人間の意識を生み出すのだ。単一の派閥のよる直線的な意思決定は、ただの木偶の坊を作る結果になる。人間は矛盾に満ちるが、その矛盾こそが本質だ。並び立つ意志や意見の対立が、常に矛盾を生み出しながら前進していく。ーー
前掲書より

 ある語族には、緑と青を区別する言葉がなく、その話者たちは青と緑に強い差異を認識できない。ある語族には群青と青を区別する言葉が無く、その話者たちは群青と青に強い差異を認識できない。

 言葉は認識を生み出し、意識を規定する。けれど、こうも言えるのかもしれない。

群青と青を区別する事を言葉に望むのは、物語である、と。『屍者の帝国』なる物語が屍者という言葉と死者という言葉を生み、その区別を望むように。区別を言語に発生させるのは物語なのかもしれない。

 物語は、言語の差異を超えて伝播し、言語の中に新たな言葉を生み出して、次々と人間に感染していく。小説言語の中にある物語が、映像言語に感染していく。

 私の意識を生み出すのは物語なのかもしれない。

 そうであるなら、単一な物語=欲望は恐ろしく危険。

 意識を生み出し、世界を生者のものに在らしめる為には、複数な物語の派閥が必要なはず。

『屍者の帝国』を小説言語から映画言語に写し取る際、必ず表れる物語という存在を、真っ向から考察したのが、牧原亮太郎監督の映画『屍者の帝国』だったのではないかしら。

 円城塔先生の小説『屍者の帝国』にあるセキュリティ・ホールを埋めるパッチ。『屍者の帝国』という物語は、映画言語と小説言語によって読み取られ、差分を生み出す事で新たな、より強力な生を獲得した、のでは?

 差異が生み出す抗争のパターンが意識の根源であるのなら、複数の物語の派閥を得た『屍者の帝国』という物語は、今まさに生き始めた。

ーーぼくは意志を持っているのか。持っている、とぼくは答えるだろう。こうして物語が持つ事の可能な意識を、ぼくはここに確か保持している。ーー
『屍者の帝国』より


映画『屍者の帝国』は屍者の新しい地平を切り開いた優れた、クィアな映画だと考える。全身、満身創痍でボロボロだとしても。

伊藤 計劃
2012-08-24


どれだけ複雑で複層で並列的な物語でも、常に少年と少女という基盤に回帰するのは、屍者の帝国というより、円城塔先生の作品の特徴かも。そんなところが愛しい。