フォースの覚醒は、父と子というテーマを掲げ、そのテーマに忠実であろうとした映画、だった。けれど、映画自身がそのテーマに過剰なまでに忠実で、それを神聖視してしまった結果、父と子というテーマ自体が抱える欠陥それ自体を、映画は無自覚的(と思えた)に抱えてしまった作品でもあったとも、感じる。


以下、重大なネタバレがあり、かつ、かなり批判的な内容なのでご注意を。












 まず、映画の基本として、カイロ・レンという映画の悪役のキャラクタは明らかに、過剰に神格化された父という概念と、実像としての(比較的)矮小な父の間のギャップに煩悩する人物として、描かれているように思えた。


 彼が父ハン・ソロを弱い人間と拒絶しながら、祖父ダースベイダーや最高指導者の神格化された父に依存する姿は、カイロのそんな一面を濃厚に表している。最高指導者がホログラム投影された文字通りの虚像の巨像である事は、カイロが翻弄され求める父の姿の卓越した象徴だと思う。


カイロが自罰的に行動しソロを拒むのは、偉大である筈の父親像(それは何かの形で作られたイメージ)と、実際の父親の間のギャップを受け入れられないが故なのだ、と。


 このようにカイロ・レンというキャラクタを読み解くのなら、カイロの敵(ひいては映画の敵)は父親というイメージの虚構性にある筈だし、最高指導者のホログラムはまさにその事を如実に表している。




 けれど、意外な事に映画は始まりから終わりのカットに至るまで、父親という虚像を過剰に称揚し続けていく。


 私の手を引くな、と憤る主人公レンは、にもかかわらず、物語の転機に置いて常に父親を求め続けているように見える。レンの強さはそのようにして、強い父親像の中に回収され、父親とされる実像が何もしなくても、彼らの強さを補強していく装置となる。


 こうしたものの最たる例が、映画の中でのルーク・スカイウォーカーの扱いだと思う。フォースの覚醒でのルークの行動は何もない。劇中で語られるのは、ルークは英雄だという伝聞と、ルークはカイロ・レンの指導に失敗し逐電したという事実だけ。それでも、映画の中でのルークが強大で神話的な存在に感じられるのは、ひとえに、周囲の人間たちがルークの存在を重要視し続けるからなのだと、私は考える。つまり、周囲の人間が、ルークは重要な存在でありルークを探し出さなければならない、と語り続ける事で、ルークの存在は中心が空洞なまま虚像としての神話性を帯び始める(勿論、その核にはEP4〜6の記憶があるのだけど)。


 でも、このような父親の虚像の強大さこそ、カイロ・レンが悪に"堕落"した原因を生む機構そのものだったのでは?と私には思えてならない。


 こんな風に父の虚像を許容した世界では、父と子の融和は父が文字通りの虚像と化す事、つまり父が不在の存在となる事でしか、果たし得ない事になってしまう。なぜなら、この世界では矮小な実像の父親は存在し得ないのだから。

 
 レイがそうであり、フィンの名付け親=ゴッドファーザーが一時的にそうであったように、父の不在は父との融和を、齎す。だから、映画の終盤の展開はこの世界のなかでカイロ・レンの"改心"の可能性を作るための必然だった……。




 このように読むのなら、フォースの覚醒は父と子というテーマに、優れて自覚的に忠実であり、同時にそうであるからこそ無自覚的な矛盾を根底に抱えてしまった作品だった、と考えられる。


ある意味で、スター・ウォーズという大看板を掲げ、しかも続編という形をとった以上、フォースの覚醒という作品には、こうする以外にはなかったのかもしれない。この映画にとっての父というのは、あらゆる意味でEP4〜EP6の三部作に他ならないのだから、父という存在をどこまでも神格化する以外には、道はなかった……のではないかしら。こんな風に作品外にまで視点を広げると、映画の悲劇的構造は現実世界にまで侵食しているように、思われ、そしてその構造を強化するのがまさにこの映画なのだという気がしてならず……。


 悪役カイロ・レンの側では、偉大な父という虚像との格闘というテーマが示されながら、主人公レイの側では偉大な父の探求というテーマが示され、映画全体では偉大な父という虚像の称揚がおこなわれ続け、映画自体が偉大な父である初期三部作EP4〜6の賞賛を求められて作られた、というどこまでも続く連鎖。映画が解決しなければいけないのは、まさにここだと思う。

 
 以降のエピソードはまた別の監督の手に成るとのことで、今作で渡されたバトンをどう扱うか、楽しみでもあり怖くもあり……。




かなりの長文で、厳しめの批評。自身の家族の点描(シスジェンダーのストレートの娘夫婦と、シスジェンダーのゲイの父親の"一般的なアメリカ家族"といった内容)から始まり方々を飛び回りながらフォースの覚醒について語っていく。翻訳して雑誌などに掲載されるといいですが……。



 同じスペースオペラでも『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』が最強リミックスでもって、父の虚像に対抗できたのは、そもそも引継ぐものがそれほどない作品だったからなのかも。


『マッド・マックス 怒りのデスロード』父親から父親への移動を徹底的に排除する事で新しい神話原型を生み出した傑作。フォースの覚醒と同じく大シリーズの引継ぎ作品でありながら、根本の物語を覆して見せる事ができたのは、監督が前作と同じジョージ・ミラー監督だったからなのかも。父を持たず生まれたアナキンを描いたルーカ監督なら、フォースの覚醒をどんな物語に出来たのか(ディズニーから拒絶されたそう)、興味が。(この作品に食事シーンがないのはとても重大な意味がある気がする)
余談の余談ですが、BBCの2015ベスト映画では、今作は二位に抑えられ(衝撃)、一位を『キャロル』が受賞。太陽がいっぱい他、ヒッチコック映画の原作でも知られるパトリシア・ハイスミス原作のビアン映画。『声高に寛容を懇願するのではなく、ハリウッド古典の視線に解放の意味を埋め込んだ作品』とのこと。製作発表からずっと楽しみにしていながら、評判が高すぎて最近は怖いくらい……。日本では16年2月公開。


『GRAY GHOST TNGパトレイバー 首都決戦 ディレクターズカット版』 引継ぐものがパロディでしかありえない状況に自覚的に描き切った作品。焦点となる不在の存在、フォースの覚醒におけるルークとグレイゴーストにおける二課の遺産の対比も両作の違いを象徴的に表している。(非ディレクターズカット版は別物)


『GARM WARS: The Last Druid』ウォーズなSF映画である事以外に特にに関係はないです……。映像の品質だけが映画の面白さを決めるわけではないのだ、と両作を見て感じましたが。日本ではジブリの鈴木敏夫Pを巻き込んで16年公開予定!……らしいです。リンクは英語版。