トッド・ヘインズ監督の『キャロル』はパトリシア・ハイスミスの小説を原作にした、50年代末の二人の女性同士の恋愛を描いた映画。
それはまた、一方的に投げかける視線と読み取りに籠る悲劇と、愛によって動機づけられた超克を描いた、恋愛映画だと感じた。脚本と映像が違う物語を語る複層的な映画のようでもあり、その二つが、ラストへと焦点を結んでいる。
全編に繰り返される視線を暗示したカットが積み重なる映像と、与え合い求め合う恋愛の物語の脚本。二つが違う物語を示唆しながら、二つが一つとなって、ラストで鮮烈な像を結ぶ。まるで映画の中の恋人、キャロルとテレーズのように。
そして、そのラストの焦点の手前にいるのは、私たち、観客。原作にあった視線と読み取りの感覚をコアに、物語の要素を再構成し、50年代映画を偽装したこの映画は、とても美しい恋愛映画であると同時に、あらゆる差別の根源に立ち向かう強さを備えている。
映画が語るのは、とにかく視線。これは視線と反視線の映画。原作で「名状されない欲望」「他人からは見えているのに自分からは見えない欲望」として表現された、他者から、恋愛が抑圧された息苦しさが、映画では視線として表現されている。50年代のフィルムグレインの中に込められた視線が、世界を古典映画のように美しく切り取りつつ、先鋭的に現代的な意味を切り取る。
窓の外から中を見つめる視線、柱越しに二人を写す視線。そこでは、視線の先に謎めいた姿が提示され、同時に謎めきながらも読み取り可能であるという矛盾が提示されている。
映画は時に、一人称的に世界を写し取る。そこでは三人称的なカメラさえ、被写体とカメラの間に入り込む、窓枠、柱、といった障害物によって一人称性を強調される。見つめるのは、テレーズに一方的な愛着を抱くリチャードであり、キャロルに惹かれるテレーズであり。
そして、キャロルはいつも、その視線を見つめ返そうとする。
視線の強調は時に、映画の感情を美しく強調する。キャロルの細部に目を走らせるテレーズの視線が、キャロルを美しく淡く彩り、50年代世界のクローズアップが、テレーズの感情を描き出す。原作では舞台背景美術を専門にしていたテレーズが、フォトグラファーとなった映画でのアレンジが、ここに生きている。キャロルを写したカメラの視線が固着された写真を眺めるテレーズには、それだけで複雑な感情のドラマが宿っている。それは映画の持つ美しさ。
けれど、見つめる視線は悲劇をもたらす。見つめられたキャロルとテレーズの関係は、それが何なのか明示されないまま、道徳条項に違反する、とされる。キャロルの元夫ハージは、キャロルと友人アビーの関係を見つめ、内実に立ち入らないまま、視線で読み取った事象を真実だと確信し、狂気的のように嫉妬をする。視線は読み取ることはあっても、それが真実に触れるわけではない。
意味を読み取ることができ、知ってはいても、理解できる事ではない物事。50年代という時代の中で、同性の恋愛(あるいはどのような恋愛でも?)は医師の手に委ねられる領域の出来事だった。それを理解する事は、当時の人間にとって、あるいは今でも、狂気の側に属する可能性のある事だった。この構図を、視線が、見つめ、読み取るだけの視線が、保持している。一方的な視線が、意味を読み取りながら理解しないという、上からの判断を担保する。
それはまた、映画の舞台となる50年代という時代を支える構造でもある事を、映画は暗示する。
繰り返されるアイゼンハワー大統領の演説は、否応なしにあのマッカーシズム、冷戦と、赤狩りの嵐を思い起こさせる。当時、同性愛や性の解放が、共産主義と結び付けられ(それは今でさえ続いている)、自由で良きアメリカの敵とされていた。ただ見られ、推測され、読み取られる、視線の構図は、映画の時代背景とも呼応する。それは差別を生む視線。
主人公のテレーズは、こうした視線の中に囚われ、自身も視線を発する(彼女の職業はフォトグラファー)。冒頭で、解職するテレーズとキャロルは、リチャードに見出され、二人の会話は中断する(ここでは同時に、ラストへ向かう超越が暗示される)。テレーズもまた、街角で女性の二人連れに視線を向け、二人に反応を引き起こす。
ただ、キャロルだけが、いつも視線に視線を返し、行動する。テレーズに見つめられたキャロルはテレーズを見つめ返し行動する。キャロルの行動と交感が、テレーズの行動を誘う。テレーズにキャロルを写すカメラのシャッタを切らせる。キャロルはだから、視線が茂るこの映画の中で、どこか超越的で、でも優しく愛らしい。キャロルはテレーズを愛する力を持っている。それは、視線の重なりを乗り越える力。
映画の冒頭、リチャードに発見されたキャロルは、テレーズの肩を愛を込めて優しく握る。この場面にこそ、映画のテーマははっきりと予告されていたのではないかしら。視線と鏡の世界を乗り越えて、身体を近づけて行動する事。映画の冒頭で暗示されたフレーズは、映画のラストで大きなフィナーレとなって反響する。その瞬間の美しさと解放は、たまらなく力強く、心強い。
キャロルが"道徳条項"を持ち出す元夫ハージに向ける言葉は、一方的に見られる事への拒絶の言葉(それ以前、キャロルが元夫達と暮らしていた時には、キャロルは見られても大丈夫なように"装って"いた)。脆くて気高い言葉が本当に美しくて。自分が自分であることを世界に発信するキャロルの靭さ。
映画のラスト、映画全編がカットにカットを積み重ねて結んだ視線の焦点を超えた映像に、映画の全てがこもっている。とても単純な事が、世界を革命していく力となる。それは、全ての人に向けられた後押しで、私は泣きそうになる。キャロルが愛とともにテレーズに求め、与えたもの。
キャロルは元夫ハージに、「人は与え合うことができる」と訴えかける。物語の始まりから、テレーズの何かを求めるような視線に、キャロルは与え続ける。けれど、キャロルも、テレーズに何かを求めている。彼女はそれを、自分でもわからない欲求として親友で元恋人のアビーに打ち明け、映画の終盤では明確に、テレーズを自分の側が強く求めていることを自覚する。脚本が描き出すこの感情の交錯が(そして感情を裏打ちする二人の手の動き)、映画の映像をラストへ運んでいく。
テレーズが求め、キャロルが与える。キャロルが求め、テレーズが与える。その交錯の先に、映画のラストが待っている。二人の関係の力が、映像が張り巡らせる視線の意味を超え、その時に二人の関係が確立される。映画のラストはとてもあっさりしたものだけど、計算しつくされた焦点がそこに結ばれることで、例えようもなく大切な光を、そこに湛えたている。
映画を見終えて、テレーズが、映画の中盤にリチャードに投げかけた原作にもある言葉を思い出す。「リチャード、あなたは男の子と恋をした事がある?(中略)ある日突然恋に落ちてしまった二人の事を言っているのよ。それがたまたま男同士や女同士だとしたら?」
映画のラストの一人称のシーンは、その返事なのかもしれない。
互いに、与えること、求めること、それが力ーー世界を変える力に通じる力ーーに変わって行く姿を描く、とても美しい恋愛映画。
静かで、カットの一つ一つに重みがあり、50年代の姿が美しい。スーパー16mmフィルムで切り取られた世界はテクニカラーのそれで、特に屋外の煙吐く夜のニューヨークのクレーンショットなんて、本当に往年のハリウッド映画のそれのよう。
そこに篭るのは、先鋭的な視線の物語と、それ超える力、そして与え求め合う関係、感情と理知が美しく煌めく宝石のような映画だと思えた。
と、ここまで書いてきたけれど、これはあまりにも原作を踏まえすぎた感想なのかもしれない。
原作では、読み取られる事、推測され、決められる事への不安と緊張と対抗が、恋の息苦しさと手を結んで、全編にわたって表現されている。それが消え、解放される姿が、パトリシア・ハイスミスの原作の美しさであり、怖さだった。その苦しみは、多くの人が知っている苦しみに思えたし、私が感じることのあるものだった。
だから、その部分に映画としての焦点を絞ったように見える部分が、私にはとても響いた。
もっと素直に、二人の人間が出逢う恋愛映画としてみれば十分なのかもしれない。それだけで、本当に身悶えするほど(実際何回も映画館の椅子に頭を打ち付けたくなった)素敵な映画なのだから。
原作と映画の大きな違いは、テレーズ視点で描かれる原作に漂う得体の知れない緊張感なのだけど、何より違うと思うのが、原作の詳細な職業描写。特にテレーズのデパート勤めの苦しさ、原作では舞台背景美術家志望であるテレーズの、美術監督としての采配などは、原作ではかなりのページを割いている。その描写の厚みが、キャロルからの金銭援助を断り、テレーズから無理にでもプレゼントを渡す、二人の関係の強い対等さへの希求を支えているのが原作。50年代に生きたビアンの姿を感じる。
1900年代以降のビアン小説を集めた作品集。昔から、同性を愛する同性がいて、性を違うと感じる人がいたことになぜだか安心する。この作品集に収録された作家の多くが、この年代を代表する有名作家である事は大切な事だと思う。