ゲームというジャンルの作品ほど、ゲームというジャンルの外から語られないジャンルも稀なように。


 プレイステーションというカンブリアの大爆発を超え、売り上げ・予算の点で『アヴェンジャーズ』を超える超大作(『MGS TPP』といって、これが日本のゲーム作品という点も驚き。)から、数人規模のインディーズ作品が立ち並ぶ現在のゲーム業界が、SF大作から文芸映画、銀河英雄伝説から戦闘妖精雪風まで、多様な面白さ、多様な色合いを持つにも、かかわらず。


 例えば、ピンチョンのファンがリンチの映画を語るように、SFファンが次第に文学よりの幻想的な小説にも手を出すように、奇想/幻想/彼岸/性を好む私が、ゲームというジャンルを別ジャンルの視点から紹介/レビュー出来ないかと考え、気になった、気になる幾つかのゲームを作品毎トピックに分けて紹介し、トピック内でそれに関連した作品を解説する、という形で、ここに記事としてまとめました。


 先述したように現在のゲームはかなり多様化しました。ここで取り上げた多くの作品が(それなりのスペックを満たせば)PCで遊べますし(ここに書いてあるのは今となってはスペックをあまり要求しない作品が多いです)、無料でDL出来るもの、スマートフォンで気楽に始められる作品もあります。


 個人的にそれほどゲームが好きというわけではないですし、ここで紹介した作品にはクリアしなかったものもありますが、先述した通り、現在のゲーム作品の中にはゲームジャンル以外のファンに突き刺さる作品が多くあると感じています。


 そうした作品が、ゲームであるという理由だけでなんとなく見過ごされているのはあまりに寂しいのです。



お品書きは以下の通り。(比較的、手を出しやすいであろう無料作品/スマートフォンは注記をつけておきました。)


◆『The witness』 不在のコミュニケーション 祈りと巡礼の旅
 -関連作品『Dear Esther』 『Stanley Parable』『Beginner's Guide』


◆『Bioshock infinite』 アメリカ例外主義 見せかけの選択肢を生み出す構造
  -関連作品 『Bioshock(スマートフォン版アリ)』『Mirror's Edge』


◆『Her Story(スマートフォン版アリ)』 インタラクティブな後期クイーン問題 或いは新たな天帝への供物
-関連作品『Sherlock Holmes: Crimes and Punishments』 『Pictures of a reasonably documented year』『Sorcery! 3(スマートフォン)』 


◆『フロントミッション オルタナティブ』 LGBTあるいはマイノリティ 私はあなたの側にいる


◆ 『クーロンズゲート』デヴィッドリンチとゲーム
-関連作品『プラネットライカ』『Red Sheed Profile(英題Deadly Premoniton)』『Forgotten Memories(スマートフォン)』『スキタイの娘(スマートフォン)』『Off-Peak(無料作品)』『真女神転生3』『Baroque』 


◆『Metro 2033』 東欧の鬱金色した終末社会 生き残るという意思の鈍痛
-関連作品『Paper,Please(タブレット版アリ)』『This War Of Mine(スマートフォン版アリ)』『Naissannce』


 
映像を幾つも貼り付け、ひどく重くなってしまったので、読まれる方は『続きから読む』からどうぞ。


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◆『The witness』 不在のコミュニケーション 祈りと巡礼の旅



 『The Witness』はJonathan Blow氏による巡礼のパズルゲーム。

  インタビューで「重力の虹の読者に向けたゲームを作りたい」と語り、SF小説、スペキュラティブ・フィクションからの影響を語るJonathan氏は、この作品を知的なコミュニケーションと位置付ける。

 ゲームを通して体験するのは、目に見えない物を見る事で、その場にいない誰かに思いをはせる事。それは抽象的な事を想像する事で、想像力はゲームのシステムと結びつき、ゲームをプレイしていく事が、曖昧な意味を受け取っていく事になる。

 『The Witness』の舞台となるのは、建築家と景観作家によって美しくデザインされた小さな島。プレイヤーは自由に島を歩き回り、島中に散らばったパネルに描かれたパズルを解いていく。

 一つ一つのロケーションから見える景色が、計算しつくされた島は美しく、ある場所は桜の園、ある場所は砂漠、ある場所は秋の森、ある場所は城塞、と環境が高密度に詰め込まれていながら、島の成り立ちから歴史までを考慮した建築と景観のリアリティが、その幻想性を支えている。

 一つ一つのパズルが一つ一つのセンテンスから生まれた、というパズルは、その一つ一つが景色と溶け合い、見えないものを見る事を要求し続ける。見えないもの、とはパズルを解くカギとなる発想であり、その発想を生んだ"誰か"の事。パズルは文字による解説は行われず、プレイヤーはそのパズルのルール自体を推測する事が求められ、その時には、「何を、このパズルの記号は伝えようとしているのか」と考える事が、パズルの解決に繋がる。

 ここに生まれるのは文字を介さず、相手の存在しない、不在のコミュニケーションであり、ゲームのテーマがそのまま、ゲームをプレイしていく事と一体になっている。

 その体験はなんとも言えず魔術的で、祈りのようでもある。遠い、自分の手の届かない何かを思うという事。

 その場にいない誰かのことを想う、というコミュニケーションの体験は、パズルだけでなく、世界の骨組みとなる景観建築にも活かされていて、体験を裏打ちする。神殿の上に組み上げられた足場、石造りの教会を覆うコンクリート工場の外壁、島中に存在する奇妙な石像、打ち捨てられたトーチカを利用した植物工場、難破した貨物船と島中に散乱するコンテナ、東洋思想の引用が詰まった幾つかのICレコーダー……。それらは歴史であり、物語であり、不在を雄弁に語る語り手。

 それらを見つめ、それらの中を逍遥する時、私は不在の存在たちの事を思わずにはいられず、その言葉を聞こうとせずにはいられない。

 人間も、生物も、凡そ通常のコミュニケーションを成せる生命の存在しない島だからこそ、不在への焦燥は掻き立てられていく。風に耳をすませ、自分の足音に震え、揺れる草を眺め、ひたすらに声を聞き、それに語りかける。


 一見、内向的で内面的な体験であるようなそれは、相手が不在であるが故に、無限に外へ向かっていく体験となっていて。パズルを、歴史を思惟する瞑想と内省を超えた、ふとした瞬間に、別の誰かの息吹を感じる体験は、とても美しい。
  

==関連作品

 『The Witness』と共に以前のポストでも触れたのだけど、『Dear Esther』は俗に"ウォーキングシュミレーター"と呼ばれる、極力、インタラクション性を薄めた3Dゲームジャンルを有名にした作品。

 何処かロマン主義の風景画や、ややもすればタルコフスキー的でもある陰鬱な島を、男の独白を聞きながらただ歩き回るだけのその作品性は、プレイする度に変化する独白の内容と相まって、とても先鋭的。ただ、その徹底的に内側へ向かい他者を必要とせず自分の感情を剥き出しにしてくる作品世界は、世界の彼岸を求める私にはどこか居心地悪く感じられ…。この性質は、この後で紹介する『Stanley Parable』『Beginner's Guide』のウォーキングシミュレータ二作にも共通していて、少し不気味。





 カフカ風の巨大システムに組み込まれた主人公が、ある日突然、未知と化した日常世界に放り込まれ、謎のナレーターの声に導かれ始める。ゲームはプレイヤーがどの方向へ歩を進めるかにより、様々に語りを変えていくのだけど、それは常にゲームの屋台に潜む開発者=システムの暴露へと向かっていく。

 プレイヤーはナレーターの提示する物語に逆らい、カオスを齎すことができるけれど、それさえも、システムの暴露の中に取り込まれていき、どこまでも滑稽なものにしかならない事を示し続ける。メタ視点まで含めて荒廃した無力感が支配するこの作品の感覚はカフカ以降のディストピア小説にも似て、暗黒。 

 この暗黒をコントラストの強い色にしているのは、カフカや1984のようなディストピア小説とは違い、ゲームにおける支配者=開発者の存在は常に実在であり、この作品におけるシステムの外部がその一点を通じてしか表現されない、という点で、その感触は冷たく夜の鏡のように不気味。





 開発者の友人が制作した先鋭的な表現要素を持ったゲーム作品群を、作者がナレーションをつけて紹介していく、という形式の連作短編集のような作品。ゲームを脱構築するような美術館的な手触りのゲーム群と、二重、三重、に絡み合ったメタ構造は、多様な言及を想起させてワクワクしてくるのだけど、その語りは意外な程個人的な苦悩、表現を通じたコミュニケーションの不全さ、という所に着地していく。



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◆『Bioshock infinite』 アメリカ例外主義 見せかけの選択肢を生み出す構造



『Bioshock Infinite』はKen Levnen氏による、全編一人称で全てが展開する演劇的ゲーム作品。ジュール・ベルヌ風の1900年代初頭のアメリカ理想の空中都市と、ディズニーを思わせる色鮮やかで美しいグラフィックが目を惹くけれど、この作品が真に突出しているのは、その語りの構造と物語のテーマ。

 借財を背負った男が依頼を受け、空中都市に囚われた若い娘を助けに行く、というアメリカノワールなマッチョイズムを剥き出したストーリーに見せかけながら(これがそういう物語として始まること自体が強烈な批判性の表れなのだけど)、アメリカ例外主義と洗礼会派をベースに、黒人差別、移民排斥、労働問題、といったアメリカの罪を並べ立て、インディアン虐殺と義和団事件というアメリカの現実の歴史が、SF的な架空の物語と絡んでいく展開はどこまでも骨太で強烈。

 美しく華やかな空中都市が、その清潔な美しさを誇示するのと全く同じ手つきで、ごく普通な正気のままで差別を見せびらかし、強固な保守主義をカラフルに掲げるさまを見るのは、どんなホラーよりも恐ろしく感じられた。

 そうした物語と舞台の全体を貫いて現れる、罪の歴史を贖うことはできるのか、という明確なテーマは、その厳粛なラストから、アメリカという例外国家を超えて、現在の日本にクリティカルに突き刺さる。

 こうした点は多くの議論を巻き起こし、全編一人称で語られる映像演出の完璧さも相まって、レビュー平均値90点台という絶賛を呼んだのだけれど、見逃せないと私が感じたのは、この作品の語り方と密接に関わったもう一つの物語の存在感。

 『Bioshock Infinite』は先述した通り徹底的に全編一人称視点で展開される作品なのだけど、それは決して、無個性的な主人公=プレイヤーという一体感を強調させるためではなくて、特徴的な一人の男を通して物を見る為の手法となっている。そして、その主人公であるデュッカー・ブイットとは、アメリカ例外主義の罪を一身に背負う過去を持ちアメリカ・ノワールの世界から立ち現れた人物で、それはつまりアメリカの歴史そのもの。

 『Bioshock Infinite』はここに、演出とキャラクターと物語を持って、プレイヤー=ブッカー=アメリカという図式を描き出す。そしてそれが語るのは、表面上は違う物が、哀しくなるほど同一である、という悪夢とその清算。

 支配者と反逆者、空中都市と海底都市、君臨する者と逃げる者、この作品は表面的な差異を持った二者が実は同質であることを執拗に描き通す。

 『Bioshock Infinite』のDLC(ゲーム本編の購入を前提に販売される追加要素の総称)『Burial At Sea』では、本編の空中都市とは打って変わって、1950年台の海底都市が描かれる。

 空中から海底へ、という場所的な対照と同じように、都市を貫くの思想も、著しい対照を表す。空中都市では人種差別の姿が多くの場所で描かれ、メニュー画面に映りこむ靴磨きをする黒人と横柄な白人の姿なんかは、まさにその良い例。一方で、この海底都市では、椅子に座り白人に靴を磨かせる黒人の姿が街の景色に映り込み、異人種カップルが愛を交わし、同性カップルが街に佇む。その外面は、保守主義に凝り固まった空中都市は全く異なるものであるにも関わらず、物語が進むにつれ、この海底都市もまた、別種の地獄であることが明らかになっていく。

 空中都市が保守主義の地獄なら、海底都市はリバタリアン、あるいは新自由主義の地獄。そして、空中都市からこの海底都市に降り立った時に、空中都市では批判たり得た人種差別や国家主義という論点が、この海底都市では失効してしまう事を実感させられる。

 空中都市を舞台にした『Bioshock Infinite』についてアメリカ例外主義と言う表現を用いたけれど、例外的な約束された国家であるアメリカ、というアメリカ例外主義の観念は、極端な保守主義と自由主義という異なった二つの姿を取る。古き良き理想の建国国家アメリカと、移民を受け入れ融和し民主主義を広める世界のリーダーアメリカ。

 『Bioshock Infinite』は表面的には全く異なり、対立しあう思想に潜む同質性を描くことで、そうした地獄を駆動させるアメリカの性質を描き出していく。

 それはまた、ゲームというジャンル自体への批評という側面を持ったストーリーでもあって、作品の多層性がここにある。ゲームジャンルでは、昔から倫理的な問いを、プレイヤーに突きつけ、選択させる、それによって物語が変化するの体験システムがあるのだけど、『Bioshock Infinite』を通じて描かれる、見かけは異なる二つの対立項の根元的な同一性は、そうした選択肢の見せかけ性を強く問い質そうとする。

 実際、この作品にもそうした選択肢システムは幾つかの場所で用意されている。けれど、選択肢は物語の大勢に影響を与えることなく、主人公のブッカーの思想も、選択肢によって変化することはない。それは、異なった選択肢がどちらも、同じ人物の同じ発想から生まれたもので、見せかけの選択肢でしかないことを、明らかにする。

 作中で語られる「過程は幾つかもあるのに、いつも同じ終わりがやってくる」といった台詞は、まさにそうしたゲームへの視線を明示して居て、ゲーム自体への批評性とゲーム体験、物語と社会性が、ラストに一体となって結実する構成は本当に見事。

 ジュール・ベルヌ風の見た目に美しい空中都市を舞台に、一人称視点のゲームという語りを、徹底的に推し進めた『Bioshock Infinite』は素晴らしい傑作。強制される戦闘要素が、その純粋な体験を損なっているとしても、その体験が与える感覚はなんとも言い難い、完成された新さを持っている。



==関連作品
 Bioshock
 『Bioshock』は『Bioshock Infinite』の前作にあたる作品で、『Bioshock Infinite』の項目でも言及したアールデコ、モノクロSF映画的な美術が美しいリバタリアン的な海底都市を舞台にした作品。
 
 米国のリバタリアンに強い影響力を持つアイン・ランドをモデルにしたアンドリュー・ライアンをメインの悪役に据えたこの作品は、これまた一癖も二癖もある物語。



 『Mirro's Edge

 『Bioshock Infinite』の項目では、キャラクター性のある主人公を一人称視点で体感するゲームの語りについて、言及したけれど、一方できになるのはその身体性の薄さ。

 ゲームとしての利便性を重視して、下を向けば自分の体が見えず地面が見える、という一人称視点ゲームの伝統(特撮のピアノ線で模型を吊るすみたいな物)を受け継いでしまっているのは残念で。

 そんな中、『Mirror's Edge』の都市を飛び回るパルクールという競技を題材に、一人称視点の中に主人公の身体を積極的なに見せていく作りは、とても印象的。

 運び屋、と言う設定はなんとはなしにウィリアム・ギブソンのバーチャルライトを思い起こさせ。

  けれど、本作が最も特徴的なのは、ゲームにおける物の見え方が、システムとして表現されたキャクターの世界の読み方である事を、意識的にデザインとして表現んしている点かもしれない。ビルを体一つで駆け抜ける主人公にとって、目に見える世界で重要なのは、ビルを超えていくための足場。
 その世界では、葉っぱさえも視界のな感で目立たない白色に処理され、ハシゴやパイプ、荷台が赤く際立つ。
 ゲームにおける世界の見方の意味を教えてくれる優れた美術。



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◆『Her Story(スマートフォン版アリ)』 インタラクティブな後期クイーン問題 或いは新たな天帝への供物



 『Her Story』を始めると、暗いブラウン管の画面が現れ、一瞬、そこに誰かの横顔が垣間見える。ブーンというPCの唸り声と共に、システムが立ち上がると、現れるのは、警察のデータベースに保管されたある殺人容疑者の女性の尋問記録映像。

 画面には検索欄もあり、そこに単語を打ち込むと、その単語を含む尋問映像の上位4件が現れる。その映像を見て、考え込み、新しい単語を打ち込んで、新しい映像を探し出す。 

 ゲームのシステムはこれだけで全てが完結している簡潔さ。

 物語も、記録映像の中でのみ完結していて、その間の脈絡は、見る側が手探りで脳内に構成するしかなく、構成された物語の正しさを保証するものはない。記録映像自体は、探し出せば、かなり露骨に"真相"を伝えるものもあるにも関わらず、僅かな枠物語以外、何も保証してくれない作品の作りが、その"真相"をどこまでも不確かなものにしてしまう。

 ゲーム本編に現れる映像を、あくまで証言という二次的な映像に限定した作りは、視覚化可能なものは可能な限り一次的に視覚化してしまうゲームジャンルの中でも特異で、終えた後に、想像された"真相"の映像と実際に見た証言の映像が共に記憶される感覚は、小説にも似ている。

 けれど、映像を自ら動機も不確かなまま見出していく、という行為は、この作品を他の多くのミステリ作品から際立ったものにしている。そして、性格を持った主人公を通して世界と触れ合うというゲーム特有の語りを生かした枠物語の存在。

 能動的に映像を探すという行為が、その恣意性を強調して、真実の不確かさを増していく感覚。

 ミステリ小説ではいわゆる"後期クイーン問題"と呼ばれる、手がかりを繋げる名探偵のアヤフヤさ、恣意的な読みの保証の薄さを問う、評論と創作のサイクルがあるのだけれど、『Her Story』はまさに体感する"後期クイーン問題"といった感じで、とてもエキサイティング。

  この作品の体験をもう一つ、強烈なもにしているのは、すべての脈絡を絶った映像とは対照的に、冒頭のモニターに映りこむ顔から始まり、明白な存在感を持つ枠物語。それは、ラストまではっきりと語られることなく、けれど能動的に女性の人生を尋問官と一緒に覗き込む時に生じる一種の罪悪感と共に、その主人公の動機に関する疑問はラストまで果てしなく膨張していく。途中で聞こえるサイレンの音、暗い画面に映りこむ顔。

 このゲームでは、自分の見ている画面がそのままゲームの主人公が見ている画面という形式で、とても没入感のある作りになっている。微かに聞こえるPCの唸り声のサウンドは見事な作りで、世界への没入を誘うけれど、主人公の存在感が、自分がしている行為への疑問を増幅させていく。

 ミステリを駆動させるシステムであるワイダニット(何故それをしたか) フーダニット(誰がそれをしたか)が、ここで二重に現れる。

 ゲームのラスト、枠物語の解明が、意外な形で没入感を裏切る。その時、偽りの没入感は裏切られ、物語を受け入れる主人公から受け手は切り離される。ゲーム特有の語り方を利用した、この作品のミステリ的なトリッキィさがここに濃縮されていて。

 残された感情は、見てはいけない私的空間を覗いてしまったって居心地の悪さ。それは、事件=物語に対し常に究極の"御見物人"でしかない受け手プレイヤーへの告発のよう。そのシコリは尾をひくもの。

 熱演としか言いようの無い尋問映像から、プレイヤーの脳内で作り上げられる哀しい物語、その移入をざっくりと切り裂くラストと、追放感。その振れ幅が、この作品を際立ったミステリに仕立て上げている。



==関連作品
 

 シャーロック・ホームズを題材にした本作は、見つけ出した犯人への処罰を、プレイヤーが決める事のできる作品なのだとか。原作でも、度々、犯人に心動かされたワトソンとホームズが犯人への処罰を自ら決める場面があったけれど、ここに着目したホームズ作品は珍しいような。
 しかも、ここでいう犯人とは、プレイヤー=ホームズが見出した犯人の事で、最後の最後まで、犯人が本当に犯人なのかはわからない。これもまさに後期クイーン問題で、意欲的なミステリ作品。 




 ラヴクラフト=クトゥルー作品群の定型の一つ、残された手記、というモティーフを、残されたデータファイルという形に置き換えた作品。

 ラヴクラフト作品の視覚的な再現として、こういう形が実は一番なのかも。



Sorcary! 3(スマートフォン)』 

 『Sorcery! 3』は同名のゲームブックを大胆に翻案したデジタルゲームブック作品。

 すべての状況説明が文章で行われるスタイルに、近年のゲームで多い"オープンワールド"広い世界が継ぎ目なく繋がり、世界のどこへでもいけるシステムを組みわせた本作が提供する読書体験は、とても面白いもの。

 通常の映像メディアが提供できない、文章によって生まれる五感の均質な体験と、自分で道を進んでいく感覚の混合。物語と組み合わさった時間移動システムは、ボードゲーム風な見た目と組み合わさって遊戯的で面白く、ラストには書籍、ゲームといったメディアの本質に自己言及するような驚きの展開もあって楽しい。 
 
 けれど何よりも凄いのは、総体としてはかなり平凡なファンタジィでありながら、その独特のシステムを組みわせただけで、他で味わった事のない読書体験が生み出されているところ。



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◆『FrontMission Alternative』 LGBTあるいはマイノリティ 私はあなたの側にいる

 映画では『キャロル』『リリーのすべて』とLGBT、性的マイノリティを扱った映画が増えていて、話題を呼ぶ事も多いけれど、それはゲームでも同じなようで、時折、ニュースでもそういった話を見かける。

 ゲーム作品内でのマイノリティと女性の扱いが問題になるのは勿論、『Bioshock Infinite』のようにアメリカの差別にどこまでも肉薄する作品においてさえ、女性問題はおざなりな男女平等感を描く事で正面から取り組む事を避けているようで、そこには強いタブー意識を感じる。

 でも、私がこのテーマでいつも思い出すのは、最近の作品ではなく、もう十数年前に発売された原正憲氏による『FrontMission Alternative』 という作品。

 ロボット兵器黎明期のSF世界で、舞台はアフリカ。利権と民族、独裁と革命が絡まり合う紛争地帯に、主人公たちは国連部隊への協力を名目に兵器試験という西欧社会のエゴを背負って旅立って行く。

 そこで目にするのは、複雑な情勢を理解する事もできず飲み込まれて行く紛争の巨大さ。アフリカ系の主人公は、 けれど、全てをビジネスライクに処理していく……。

 作品が取り組んでいくのは、「その人たちに、偏見もないし差別もない、でも自分の周りにはその人たちはいない」という差別と偏見。

 極普通に生きる人々として登場する同性愛者・トランスセクシャル(ごく普通に生きるトランスジェンダー/トランスセクシャルのドラマなんて、Sense8くらいで映画やドラマでも未だにそうそうないのに!)の主人公たちの人間ドラマが、アフリカ情勢、紛争への関心まで繋がっていく物の見方を提示し、偏見を暴いていく。

 この辺りのシナリオは本当に見事で、クイアな物語として、他のジャンルと比較しても際立ってる。正直、いまの時代ならもっと評価された筈……という思いは捨てきれず、このまま闇に埋もれていくにはあまりに惜しすぎる一作。
 古い作品ですが、ソニー系のゲームハードがあれば、アーカイブス経由でプレイ可能なので、是非。


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◆『クーロンズゲート』 デヴィッドリンチとゲーム


 香港返還前夜、陰の世界から突如浮上した九龍城を探索する木村央志氏の作品。混沌とした九龍の都市は、ブレードランナーを思い起こさせる作りながら、時に理不尽が炸裂するそのキャラクターはデヴィッド・リンチのそれ。

 事物への執着が、事物それ自体へと変化する事を、齎すような世界に住まうキャラクターたちは、皆奇妙で印象に残る人々ばかり。ウィリアムギブソンが、紙の上に電子の都市として、『あいどる』『フューチャーマチック』の中で再現したあの城の異様な風景と、異様な住人たち。

 普通に暮らす人々さえ、どこか異様なギラツキを持つのは、その造形と性格ばかりでなくて、当時のCGのも手触りからくるもの。粗いモデリングとテクスチャ、徹底した汚れとパイプの密度がその隙間を埋め、煙る都市にネオンがCGめいて輝く。人物たちの動きは固く、性格とデザインは濃密で、何もかもがチャイニーズゴシックに趣味のいい悪趣味で覆われている。豪奢な装いと、薄っぺらな技術的臨界の間に、特殊な世界が花開いている感覚。

 それは、世紀末的な災害を前にした都市の退廃と、双子を中心に開いていく万華鏡の物語と共に、体に重く響く陶酔へと誘う。その上に重なっているのは中国現代史。 
 
 もう古い作品ですが、ソニー系ハードがあればアーカイブス経由でプレイ可能なので、是非。


 タイトル通り、なぜかゲーム作品にはデヴィッドリンチの影響を感じるものが多くて、この作品もその一つ。



==関連作品
『プラネット・ライカ』

『Kowloon's gate』の監督脚本の木村央志氏の作品。火星人との友好条約に、顔を差し出した人類は、顔を得た事で滅んだ火星を地球化するため調査団を送り出した……。という背景設定の奇想SF感がもう、たまらない。
 
五重人格の主人公、トラウマを抱えた調査団の仲間たち、火星居留地に住む怪奇な住人たち、何もかも猥雑でいながら、キャンディーアップルなレトロ感のある美術の潔癖さが、なんとも言えないコントラスト。

『Kowloon's Gate』もデヴィット・リンチ感のある作品だったけど、こちらはより一層明確にリンチ的で、ブラックロッジ、ホワイトロッジなんていうツインピークスな単語まで。



『Red Sheed Profile(英題Deadly Premoniton)』 

 一言で言うと「ツインピークスそのもの」な作品でもう少し細かく言うと「ツインピークスを独自解釈でリブートしようとしたけれど、出資者を納得させるためにアクションホラー要素を入れさせられてB級感の出てしまったツインピークス」。

 ツインピークスでは主人公のクーパー捜査官が、事あるごとにダイアンなる人物に向けて独り言を喋りかけていたけれど、ツインピークスではフレーバー程度だったその関係に、この作品はフォーカスを与えていて、その取り上げ方が秀逸。

 クーパー捜査官とダイアンの関係を、ゲーム内の主人公とプレイヤーの関係に読み替えたシステムと物語構成は、作品世界への導入に独自の色を与えていて、プレイヤーが取る世界と主人公との距離感を規定する。規定された関係を通しての世界への移入が、物語とテーマの枠の中にプレイヤーを絡め取って、自分自身がツインピークスの住人の一人になる感覚は絶妙。



『スキタイの娘(スマートフォン)』

 ピクセルを強調した2Dアートが独特のファンタジー作品。スキタイの名の通り、高原地帯/ステップ地帯の美しさをよく捉えたヴィジュアルは印象的。ユングの赤の書に影響を受けたとEDで公言する物語は抽象的ながら、「なるハヤ」等の現代語を駆使し、本音と建て前を潔く使い分けるキャラクターたちはツインピークス的で印象的。

 作中には「フクロウは見かけとは違う」「火よ、我と共に歩め」などのセリフが登場するのでやっぱりツインピークス。



Off-Peak(無料作品)』

 夕暮れ時、異国の国境沿いの中央駅で、切符を持たず呆然とする所に、1人の男が声をかける。駅の構内でバラバラになった切符を求め彷徨うことになった"私"は、異国の駅の中で、異質なものたちと触れ合い続ける事になる……。

 ニューヨークの音楽家が作者、という事で、駅構内で聞こえる音楽の掛かり方は絶妙にかっこいい。ある地点で美しい音楽が流れ、ある地点でビートを刻む骨の音楽が聞こえる。現実感ギリギリを責めるビジュアルのバランスも見事。



『真女神転生3』


 『Kowloon's Gate』の木村央志氏がシナリオなどの原案を勤められた作品。リンチ感は薄いけれど、陰とライトの色がズレるような独特の陰影描写が印象的。
 金子一馬氏の手になる神々と怪物を、現代ファッション的に"悪魔"としてアレンジしたキャラクターデザイン群は見事。特に原画は、デジタル的な色の明瞭さとキャンバス地のマチエールが同居していてとても美しい。ゲームイラストレータの中では氏が一番に好き。




『Baroque』 

 米光一成氏によるポストアポカリプスSF作品。岸田秀氏の唯幻説をベースに、世界に具象化された喪失とトラウマを描き出す。人々の姿が歪み、異形と化した人間の集う世界は、トラウマの身体化そのもの。

 造形作家 鬼頭栄作氏による幾つかの美術は、そんな世界の陰影を黒々と描き出す。地下に広大に深まる迷宮を備えた神経塔と呼ばれるダンジョンのデザインは印象的。
 幻想文学的な双子の交感を基調に描かれる喪失の物語は、痛みと癒しを求める物語で、この二つが結びついた先の癒しが、作品を独自にしている。


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◆『Metro 2033』 東欧の鬱金色した終末社会 生き残るという意思の痛みと祈り


 
 同名の旧共産圏ポストアポカリプスSF小説を原作とした旧共産圏会社による旧共産圏SFゲーム。鬱金色に満ちた画面は旧共産圏と聞いて想起する色のそれ。核戦争後、ミュータントの溢れた地上というベタな設定を、居住空間と化した地下鉄網という設定が支える。

 コンクリートの溢れる地下鉄に、煌めくロウソクに照らされた農場と牧場の景色は、共産圏の工業と農業の奇妙な融合。
その光景には、何か奇妙な郷愁めいたものがあるのだけど、それが郷愁めくこと自体、何かの恐怖の源泉のようにも感じられる。そんな世界に住まうのは、決して現代の人々ではなく、古いイデオロギーの獣たち。

 その感覚は、東欧SF映画のひりつくような生存と密集と疲れた革命の感覚で、対比されるようにトンネルの中を動く奇妙な影や光の映像は、一人称視点の没入感もあって、異界じみて美しい。

 主人公アルティオムは、そんな地下鉄の世界を、人々と出会い別れ導かれながら進んでいく。そうした人々は、それぞれがイデオロギーのようでもあり、思想のようでもある。丁度、タルコフスキーの『ストーカー』のように。

 奇妙な世界を静かに歩むロードムービーの作りはけれど、世界を相手にする生存の厳しさが生む、冷えた視線に支えられている。危険区域ではガスマスクを着用し、フィルターが汚れれば、主人公は喘ぎ死んでいく。ライトの電池は次第に乏しくなり、光は衰え、地下の古い支配者である闇が姿を見せる。

 繰り返される大作映画さながらのミュータントや同じ人間と銃撃戦、主人公の苦しむ声。 

 そうして表現される世界は、人の覇権を否定し、人の理解を否定し、人の自律を否定し、人を翻弄する。世界に対する厳しい認識の上においては、イデオロギーの闘争も、思想も、人の生死も、より大きな糸の連なりに引き込まれていく。

 だから、作品に登場する全ての人の上に、奇妙な光輪が感じられる。常に、茫漠とした世界へ想像を向けざるをえないとき、人の行動は何もかもが祈りのように見える。圧し潰すような共産圏建築の地下鉄駅の、曲線を頭上に描く天井とパイプ、その中に立ち並ぶバラックと家畜、小さな燠火。

 作品の背景に常に現れるこれらの物は、世界に対する認識の空間的な表現。その世界の中で、声は量感を持って回析して、そこここに響き渡る。全てのドラマはこの中で進み、世界の厳しさは、常に自身を人々に思い出させ続ける。 

 他を圧する生存の鈍痛が、世界に生きる存在を聖者に見せる。もはや、生存の場としての世界が、至る所で闊歩する今、その視線を通して、厳しい世界と安全に触れ合えるこの作品は、何かの安息のようでもあり、この地下鉄駅の雑踏にいつまでも耳をすませたくなる。


 ただ、本当にタルコフスキーの作品のように、もっとひたすら静かな作品でも良かったのに…と少しだけ思うけれども。 



==関連作品


『Paper,Please(タブレット版アリ)』

 架空の共産国家国家の出入国管理官となって、個々人のパスポートをチェックして行く作品。ノスタルジックで可愛らしいとも言える画面とは裏腹に、作品の作りはシビア。

 家族を飢餓と病に晒さない為には、パスポートの不正を厳しく質さねばならないけれど、人々が不正をなす理由は時に喫緊で、倫理的に公正で、生死に関わる事柄が、原因となっているのであり。やがて国家と国民が革命の渦を起こしていく中、国境には革命家やテロリスト達が現れ出す。

 生き残る事の厳しさを背景に、官僚主義と人しての尊厳の対立を描き出しながら、泣きたい程に日常的な生活に立脚したこの一作は、『Metro2033』と同様に、旧共産圏の衛星国家の名残を感じながら、現代的でもある作品。



『This War Of Mine(スマートフォン版アリ)』

 ユーゴスラビア内戦をテーマに、戦争の災禍の巻き込まれ、生き延びる一般人を描いた一作。内戦に陥った都市。包囲され、通りでは戦争行為が常態化し、それでも、人は生きていこうとする。

 そこでゲームのデザインによって剥き出しにさせられる生存のエゴ。そのシビアな感覚は力強く残酷で、戦争行為がの呻きは耳に残る。




と、以上さまざまな作品を紹介してきましたが、まだまだ紹介しきれない作品もあります。3D作品の体験をとことんピュアな物に突き詰めた『Proteus』、PKディックの人生をモティーフにした『Califonium』、ブラジル生まれのシュールな『Zeno Clash』、ファンタジー小説の滅びの感覚を体現した『Dark Souls』と自分の所属する世界を滅ぼすために歩むフロムソフトウェアの作品群、森本晃司や80〜90年代のアニメを思わせる『hyper light drifter』などなどなど。
 こうした作品を通して、なんとなくゲームの広がりを感じていただけたのなら幸いです。