2018/03/29
追記 単行本化されました!一部改訂されているようです!
独り舞
李 琴峰



李琴峰さんの小説「独舞」は、宙吊りになるような小説だと、私には思えた。
あるいは、中間にあることを受け入れる小説。

そう思えるのは、この小説の自分との近さを受け止めきれず、それこそ宙ぶらりんになっている私自身の状態ゆえなのかも知れないけれど。



李琴峰さんの「独舞」は、第60回群像新人文学賞の優秀賞作品で、台湾出身の著者が初めて日本語で描いた作品。

2017/10/7発売『群像』11月号には、受賞第一作「流光」が掲載され、10/10発売の三田文学にはエッセイが掲載されることが決定されていて、作者の今後の活躍が、ますます期待される。



独舞では、全体に中国文学、台湾のセクシャルマイノリティー文学(同志文学というのだとか)、日本文学が引用され、多言語的な日本語世界でもって、物語が語られる。

物語が傷をめぐる物語、と簡単にはいえないのだけど、とにかく死と痛みに憑かれた主人公=彼女(と作中では称される)が生存する物語。それはまた、自らのアイデンティティ(レズビアン、傷、言語)を、どうしようもない環境の中でなんとかコントロールし確立しようとした軌跡でもあり、物語は過去≠台湾と現在≠日本、個人≠内面と運動≠政治の間を行き来しながら進行していく。

その物語の中では、主人公自体が、他者の視線の中を行き来させられる。序盤で大きく主人公に関わる日本の同僚、絵梨香は足に障碍を持っており(私と同じだ)主人公はその点を自らと重ね合わせ親近感を抱くけれど、絵梨香は主人公をただ普通で健全(?)な人としかみなさない。

それは主人公が日本で出逢った同性の恋人薫にしても似たことで、薫は主人公の傷を共有することを否定する。主人公の傷は様々な形で否定、抹消されながらもそれは共有の場を持たないまま、暴かれ続ける。主人公がそれへの共感を得るのは物語終盤であり、主人公が人のそれに思い至ることができるまでに回復するのも、物語終盤のこと。

物語は、そうした往還を解決しない(あるいは私にはそんな風に読むことができなかった)。それは何かの永遠じみて安定した形態にはならなくって、脆く細い突起に満ちて変化する複雑な形態のまま、終焉を迎える。主人公が生きる理由を喪うのは、まさにそんな不安定な矛盾の解消を求めて、終局的な終局を求めてのことだったのだから、そんな帰結は当然に思える。

だから、なのか、あるいは私自身の資質ゆえなのか、わかりやすい整理を物語に加えることができない。主人公が救われたのは、こんな理由があるのだ、こんなことをしたからだ、といった説明は、付け加えることができないし、そうしてしまっては壊れてしまう声を、物語は持っている。

物語の語られ方も、そんな性質を持っているように思えた。物語の主人公は、終始、"彼女"と地の文で語られ続けるけれども、途中で挿入される一人称の日記や、ラストにおける主人公の独白も相まって、それはほとんど一人称のようにさえ感じられる。この私≠彼女の性質は、物語全体に強い印象を残し続ける。

一人称と三人称の中に物語は吊るされていて、その他者と自己の間で揺れるような語りは、独特の浮遊感と緊張感を物語に強いつづける。この"中間人称"でしか語れない声、距離と思いが、物語の核心のように思え、自分の中に残響し続けた。





付記
なんとなく綺麗に感想を終えるのが嫌で、蛇足のように注釈をつけてみる。作中ではいくつかの漢詩が引用されるのだけど、ここでその元ネタをメモしてみるのだ。作中で解説の示される短歌行、国破れて山河あり、なんかには触れない。漢詩には全く疎く読み下すのも自信がないので、いけないことなのだけど一部引用のみ……。



160p
人生不相見
動如参与商

杜甫の詩。再開を唄った詩の冒頭、人と人の再会する難しさを唄った部分。参も商も星の名前で、西洋風に言えば参は二八宿の一つでオリオンの三つ星、商は蠍座のアンタレス、らしい……。



160p
無為在岐路 
児女共沾巾 

王勃の詩。赴任する友人を見送る歌……なのだとか。これはその最後の部分で、前段には「海内存知己 天涯若比隣 」海内=世界に自分を知るものがあれば、天の涯も隣のようなもの(たぶん)という一節があってエモい。王勃も杜甫も共に唐代初期の詩人。



168p
欲潔何曾潔
云空未必空
 
清代の小説「紅楼夢」の第五回より。
主人公宝玉が、夢の中で仙境に至り、そこで12の絵を目にする。この引用はその絵の一つに描かれた賛(東洋絵画で画中に描きこまれる文のこと)で、「可憐金玉質 終陷淖泥中」と続く。この讃が書きつけられた絵は泥の中に沈む美玉の。この12のひと続きの絵は、小説のヒロインたちの行く末を暗示したもの、だとか。



172p
心有霊犀一点通

晩唐の詩人、李商隠の詩で、恋人が心を通いあう様を唄った一節。中国語圏では成句の一種となっているのだとか。



172p
術業有専攻

中唐期の文筆家、韓愈の「師説」からの引用。人それぞれ専門がある、ということでそのまま。主人公が美大出の恋人が中国文学をあまり知らないことを指して。西洋美術史には堪能みたいだから、日本画系ではなかったのかも(日本画というのもアイデンティティや植民といった問題がぞっとするほど根深いものの一つ)。



219p
扶桑已在渺茫中 家在扶桑東更東

唐代の詩人、韋壮の詩で日本へ帰る日本人僧侶に向けて送った唄の冒頭。扶桑は中国の伝説で、東の彼方にある神木のこと。
「此去與師誰共到 一船明月一帆風」と続くのだとか。

漢詩教養ゼロな私の胡乱な解説だけれど、多言語な作品を読む上で何か参考になれば。








上記二冊とも、作中で引用される。台湾のセクシャルマイノリティー文学は同志文学と呼ばれ、同志運動とも呼ばれるセクシャルマイノリティー運動を支えたのだとか。

同作者の「悪女の記」が作中で引用される。橋の上の路上店のイメージの周りを円形にまわりながら、自己を語る一作。

台湾クイア小説の一作。文学研究者で日本のアニメ漫画の著者も持つ作者による一作は、強烈の一言。世紀末の東京で恋に落ちる吸血鬼、という日本サブカルっぽいモチーフを驚くような完成度に持ち上げる骨格の確かさは、まだ序の口で。永野護に由来すると思われる人物と藤本由香里に由来すると思われる人物が両性具有の近親相姦を繰り広げるなど、作者の耽溺はとどまるところを知らない脅威の一作。ぜひぜひ表紙を変えて文庫で出して欲しい……。作者のアニメ漫画研究書もぜひ。

台湾セクシャルマイノリティー小説の中でもSF的作品を集めた一作。奇想と幻想と現代性に満ちてて面白い。ハヤカワSFでも出して欲しい。



◻︎宣伝