舞踏家の最上和子さんの名前を知ったのは、人形が好きだったあの時に、人形作家の井桁裕子さんを経由してだった。井桁さんは人形にむき出しの生身を刻み込むような独特の人形作家で、私はその端正ではない佇まいが好きだった。

肖像彫刻もよく作るアーティストで、その中の一つに最上和子さんの肉体を写した作品があった。ハッとして調べるうちに、最上和子さんのブログに行き当たり、独自の文章による語りに私はハマった。

さいたま国際芸術祭で公開された『Double』は最上和子の人形との舞踏を収めた飯田将茂さんによるドーム映像作品だ。私にとって思い入れの強い要素がたくさんある作品で(ドーム映像も大好き)。期待しながら観に行ったのだけど、これは本当に素晴らしい作品だった。

ドーム映像は独特の没入感を持つ。スケール感の違いが持つ違和感と、それを押し潰す圧倒的な映像の存在感。暗闇から浮かび上がる映像は遠近が取れず、ドーム型に視界を覆うスクリーンと相まって独自の実在感を見せつけてくる。体を包み込む音響効果と、他人と共有できるその映像体験は、没入感ということだけでいえばVRよりも圧倒的だ(と私は思っている)。

本作でもこうした没入感は、非常に効果的に使われていた。爆発の轟音とともに、観客は水の中に叩きつけられる。巨大なスクリーンには無数の水泡が映し出され、そのパーティークルの一つ一つが大きな流れに沿って動く様子を、観客は現実ではありえない解像度で見せつけられる。

そのうちに、深く沈み込むように(あるいは浮き上がるように)画面が暗闇にのまれると、遠くの空に白い影が現れ、だんだんと大きくなってやがてそれが踊るひとである事がわかる。けれど演者の足元は暗闇に消えていて、この舞踏する存在が、いったいどこにいて観客である私がどこにいるのか、決定的に考える事ができない。いったいこの人物を私はどこから見ているのか?あの人物は降ってきているのか?あの人物に私が降りていっているのか?

観客である私はその曖昧さに答えを見出せないのに、演者は何かを確信しているかのように踊り続ける。小さな繊細な動き、小指を震わせるような微妙な動きを、ずっと続けている。

なぜこの演者は、この動きにこんなにも確信を持って踊れるのか?この動きに、何か絶対的な意味があるとでもいうように。

演者の身体の動きへの確信が却って私の身体の動きの無根拠さを思い起こさせる。私はこの動きのコードを理解できないのに、演者はそれを確信している。私は私の身体の動きが何なのか考え込まざるを得くなってしまう。私は私の動きの意味なんて考えた事がない──そして考えれば考えるほど、そこに根拠のようなものはなく、ただただ慣習とでも呼べるようなものがあるだけではないか?と。

私の身体の動作は、こうして『Double』に解体されていく。『Double』はこの解体の仕掛けに満ちている。先述した地面を措定できない不安定なドーム映像もその一つだ。不安定さと、確かな肉体の対比。音も『Double』が使う解体の道具だった。第二幕の冒頭、寄せては返す波がどこまでも描かれる。銀色に煌く泡の一粒一粒が、暗闇の中に浮かび上がる。

寄せて返す波と、その弾ける音に耳を傾けていると、けれど違和感に気づきだす。さらさらと、波が砕けるその音は明らかに波の音ではない。それは海や水の音というより、かちりかちり、と砂金同士が擦れ合う音であり、イメージと音の乖離が次第次第に際立っていく。

それでもなお、音と波の映像は一致して感じられ、違和感はすぐに波にさらわれれる。この感覚とイメージのズレは次第に自己の感覚への不安になっていく。私はなぜこの波と音を一つのものとして認識してしまうのだろうか?

私が近くする世界は、実は虚像のようなものではないかと不安になる。

波にさらわれた後、観客は最上和子さんが井桁裕子さんの肖像人形とともに踊る姿を目撃する。踊る、と同時に踊らせる、あるいは人形のポーズを変える最上和子さんの姿を。

最上さんが最上さんを象った井桁さんの人形を動かす時に、関節の構造から来る制約と最上さんは格闘する。時にそれは、ポーズを取らせるために、何度も試行錯誤するまごついた動きとして現れる。

身体の動きが身体の構造から来る流れと争いながら形作られることが暗示され、それは同時に身体の動きが身体の構造を虚構として作り得ることも暗示する。身体の動きが逆説的に身体性を規定する可能性を。そしてまた、身体の動きが意思に沿わなくても、意思は無理矢理に身体を動きの中に押し込めていく。

けれどもいったい、この時に私は何を見ているのだろうか?最上和子はいったいここでは何なのか?身体を動かす自意識か?身体を動かす社会か?身体を動かす神か?いやしかし、最上さん自体も身体を持ち自分の身体を動かしている。

現代のフェミニズム理論の中心的存在として知られるジュディス・バトラーは身体を使って性を演じることで、身体に性が書き込まれることを理論化した。この作品ではそれが丁度裏返されていた。身体の動きに確信を持った最上和子さんの演じる舞踏が、その確信を観客である私が共有出来ないことで、普段の身体の動きが無根拠であることを暴いていく。

私という身体の動きが、圧倒的な身体の動き━━日常的な意味では有目的ではなく、理解不能な動き━━を前にして、何も根拠のない曖昧なものであることが明かされる。その時に開く自分の底のなさは、身体の動きというものが本質的ではなく、その根拠を自覚しないままに動かしている/動かされているものである可能性を開いていく。

人形と不気味なものの関係はずっと問われてきたけど、それが不気味なのは人間が人形に描き込んだ意味と、人形が問い返す人間の無根拠さが、人間を人間自身から引き離し、人間が持つ人間に対する親密さを否定するからなのかもしれない。

あるいは身体性を離れた、ただ剥き出しの身体の動くを見せつけるから、とも。


映像のラスト、観客は豪雨に晒される。ただしその雨音は、水がぶつかる音ではなく肉がぶちかる音であり、万雷の拍手の音だ。Doubleに移されたイメージは最後まで一致することなく、観客は現実という劇場に取り残され、身体を使ってパフォーマンスを続けなければばならない。