■一千一頁物語

一瞬を凍らせる短歌やスナップショットのように生きたいブログ

2015年08月

本の一ページを紹介するブックレビュー一千一頁物語 SSよりも瞬間的な創作小説SnapWritte スナップショットの感覚、短歌の精神で怖いものを探求したい…願望

永野護作品に宿るファンタジー性と「我々はどこから来てどこへ行くのか」への答え 〜読者の“読み”が取り戻す死者の世界〜



 永野護は、自作を「ファンタジー」と語り「おとぎ話」とも語ります。それは、ジャンル性の持つ縛りの強さから、作品の自由を守る為の一種の建前でもあるのでしょうけれど、永野作品には確かに強い神話性、ファンタジー性と言ったものへの傾向が認められます。

 この項では、こうした永野作品のファンタジー性というものを足がかり、永野作品の持つある魅力の一面を、語ってみたいと、思います。

 これを考えることで、永野作品が膨大な設定を有する理由、そして読者がそれを読むことへの情熱を絶やさない理由、それら永野作品が持つ魅力の理由の一側面が見えてくると考えるのです。それは、物語の消費という理論の裏側にあるものと、近代が喪失した死者との付き合い方を現実の中に取り戻す試み、その二つを見出す旅です。
 永野護作品を知らない方も、あるファンタジー作品の魅力の紹介として、読んでいただければ。

 以下、近代の中で、ファンタジーがいかに発展していったかについて軽く触れつつ、永野作品の一面 について、語ってみたいと考えられます。
少々長くなりますが、お付き合いいただければ幸いです。


 民話や神話から発展して、ファンタジーという分野が発展していく背景には(少し逆説的かもしれませんが)近代的な科学思想と合理主義の発展とともに、宗教的な世界観が衰退していく時代の流れがあった、という説があります。(これは丁度、永野護の代表作『ファイブスター物語』(FSS)の、科学が発展し人が神に頼るのをやめた世界、という設定に合致します。)

 この説によれば、このような流れの結果、近代的な合理主義によって、死後の世界=他界は、現実世界から排斥されることになった、のだそうです。この世界の見方では、もはや、人の死はひとつの物理的現象でしかなく、死んだ人間が向かうの場所は、現実世界から消し去られてしまいました。

 けれども、多くの人々は感情の上で、死者の世界を求めましたし、死者の為の言葉を捨てることは、決してありませんでした。そして、人間は「私たちはどこから来て、どこへ行くのか?」と問うことを辞めませんでした。

 なのに、私たちの科学が主要な地位を占める世界観の中には、もはや死者の世界は現実としては存在し無いのです。この、感情と世界観の間にある埋められ無い溝を、近代人は合理主義の結果として抱えざるを得なかったのです。

 そして、その隙間を埋めるように登場したのが、児童文学であり妖精物語であり、さらにそれらが発展した、ファンタジー文学でした。ファンタジー文学は、空想という枠組みを持つことで、死後の世界を作品世界内に実在する世界として描きなおし、近代人が抱え込むことになった死者への感情と合理的な世界観の溝を埋めようと試みたのです。

 ファンタジーが虚構である限りにおいて、死後の世界の実在、或いは死という概念に恩寵を与えるような非合理性は、物語の中で許容され、死者の王国は復活しました。それは、死を前に惑いながら死者を見つめる、近代に生きる生者への、ささやかな贈り物と言えるでしょう。

この説にそって結論すれば、近代におけるファンタジーの命題とは、合理主義の中で消え去った死の観念を、非合理的な自由な空想の中でいかに語り直すか、という点にこそあったのだと、言えるのでしょう。

 そして、その象徴として、多くの場合、物語内の世界と繋がったあの世や他界が配置され、ファンタジー文学は世界が多様に重なり合う、そんな構造を取ることになったのです。こうした他界の幾つかは、作中でも明示されず読者が暗示された他界を"信じる"ことによって成立する傾向も、こうしたファンタジーの特徴の一つかもしれません。

 けれど、このようなファンタジーの試みは同時に、かつては、身体的な現実と地続きにあった他界=死者の世界を、物語の向こう側の虚構に閉じ込め、永遠に現実から締め出す結果になった、と見ることも、できるかもしれません。現実的な理性と、想像の中での欲求は分離され、現実と結びついた身体の場に宿る死者の世界は取り戻されることなく、消えてしまいました。

 少々、長くなりましたが、近代とファンタジーの発展に関するこうした関係を元に永野作品を見つめることで、永野作品のある気高い一面が、煌びやかな表層から浮かび上がってくるのだと思うのです。



 さて、以上で述べたファンタジーに関する視点を、永野護の作品に適用するとどうなるでしょう?

 前述の通り、FSSでは、科学が高度に発展し、人がもはや神に頼ることなく宗教を排して生活を営んでいる姿が描かれます。そこには、アンデルセンの童話のような死後の幸福も、ナルニア国物語の死後生もなく、指輪物語にあるような恩寵としての死、という概念さえ、明確には描かれません。FSSには 、死を明確に世界像の中に、他界として取り込むような表現は、一見すると見当たらないのです。

 けれどだからと言って、FSSが死、特に死後の人間の行方という事に関して、全く無関心というわけではないはずです。
むしろ、それどころか、FSSには死んでしまった人間たちの事を想う言葉に溢れている、と言っても過言ではないでしょう。

 結論を先取って仕舞えば、FSSは従来のファンタジーと同じように、死者への感情と合理的な世界観の溝を埋めようと試みる作品でありつつも、従来のファンタジーとはラディカルに異なる方法で、その溝を埋めようとした作品という一面を持つのだと、私にはそう思えるのです。
 



 FSSに特有な語りの手法に"未来回想"と呼ばれるものがあります。これは物語の中で、物語の主軸となるストーリーラインの年代から千年単位で時間をずらした未来の描写を、作中に挿入する手法の事を言うのですが、この"未来回想"こそが永野作品における死の扱いと、FSSのファンタジー性の支えなのように思えます。

 FSS第1巻の冒頭で、本編に先んじて展開されるこの未来回想の場面で、主人公であるアマテラスは
「けれど…私はあまりにたくさんの友を失いすぎたよ
 リトラー、バランシェ、アイシャ、ログナー…コーラス三世…
  そしてラキシス…彼女はもういない…」
と物語本編に先立ち、これから物語に現れる人物を失ってしまった自分の胸の内を、吐露します。
 そして、この場面の後に続くのは、黒騎士の死と、そのパートナーであるファティマ・エストが眠りにつく場面。
 この場面のラストには
「そしてこのあと数多くいたヘッドライナーやファティマは次々と姿を消していった…
  このエストとグラードのように…
  しかし滅び去った訳ではない。
  彼らはどこかへ行ってしまった…時代の影の中に」
という骸の姿を刻印した追悼文のようなナレーションが掲げられ、死のイメージに満ちた場面の連続は終結を迎えます。
 そして、ファイブスター物語 第1話 ラキシスの章の物語、その本編がようやく始まるのは、まさにこの死の場面の連続を受けてからの事なのです。

 FSSの主軸となるストーリーラインのその始まりに、こうした死のイメージが強く現れている事は、FSSが死という概念と強く関わっている一面を、明確に示しているように思えます。

 そしてここには、FSSにおける死者の行方ーーファンタジー文学が答えてきた「私たちはどこへ行くのか」という質問への答えもーーがはっきりと表明されているのです。



 前述のナレーションの中に「彼らはどこかへ行ってしまった…時代の影の中に…」という一節があります。

 これこそ、FSSにおける「私たちはどこへ行くのか」という疑問への答えではないでしょうか。ここでは明確に、死者の行方が問われ、示されています。そして永野護はそれを「時代の影」と明確に定義するのです。死者が向かうのは浄土の西方でも、異なる法則の支配する他界でもなく、「時代の影」なのだと。

  同様の意識は第3話アトロポスの章のメガエラとログナーのセリフ
   「みんないるんですね…みんな…」
   「1000年経っても見た顔が 聞いた顔がある」
や第6話マジェスティック・スタンドのナインのセリフ
   「人の死は 肉体と精神の死 だけではなく…
     死んだ者の事を 思い出してくれる者が 
     一人もいなくなった時こそが真の死と思う事もある…」
にも見受けられます。

 これらのセリフを逆から見れば、永野作品に於いて描かれる歴史とは、死者の痕跡の集合体であると、捉らえる事ができるはずです。こういう風に見れば、永野作品が、精緻な年表を必要とするのは、未来の世界を、その未来において既に死んでしまっている人間の意思の痕跡の場として描く為の、因果律の連鎖を用意する為、と見る事ができる筈です。

 死者の向かう先は、死者の痕跡の残る未来であるーーと見れば、たとえ受け手の思考が合理的な世界観に基づいていても、死者の行く世界は、物語の虚構性の中にのみ閉じ込めるものではなくなるわけです。何故といって、未来は常に訪れるものであり、それが過去の歴史に基づくものである事を、私たちは、合理的な思考を生んだ論理性の帰結として、すでに了解しているのですから。

永野作品の根本的なテーマには、現代の中で失われた死者の行く先を、どう現実に取り戻すか、という一面があるのではないでしょうか。現実的で合理的な因果律の世界観によって、死者の行く先は喪われてしまいました。それを、同じ枠組みの中で、もう一度再生させる。永野作品の特徴である未来回想という演出形式は、この試みの成果だと読む事ができます。永野作品の特徴の一つである、膨大な設定の山と、数千年にも及ぶ壮大な歴史は、この試みの説得力を生む為の前提として必要だったのです。

 永野作品では、常に物語の主軸となる舞台の遠い未来が描かれます。それは、人の死が訪れた後に死者が向かう世界の姿でもあるのです。圧倒的な長い時間を未来方向にも過去方向にも持つ歴史という視座を導入することで、死んだ人間の行く先は、近代的合理性の枠組みの中で、現実の中に取り戻されます。

 このような歴史という視点の中に、死者の姿を見出す試みの原型は、年代記と呼ばれる作品や、失われた時を求めてなど、歴史を扱った作品に見られますし、漫画であれば萩尾望都様のポーの一族にも見られます。

 けれども、永野護の作品の未来描写では、死者が中心に置かれているという点で、それらとは決定的に異なっているのです。

 FSSにおける未来回想では、物語のストーリーラインから大きくずれた時代が映し出される事で、主軸となっている物語世界から一旦、歴史の流れにある未来世界は外れ、未来の"今ここ"は他界めいた場所に変わるのです。未来回想で描かれる未来の人々は、本編の世界で生きていた人々の痕跡を止めてはいますが、本編の登場人物たちと同一人物である人間が未来回想に登場する事は稀なのです。

 一方で、歴史大河やポーの一族では、異なる時代に生まれた生者が少しずつずれていくことで、生者がかすがいのように連なる鎖となって、歴史が編まれていきます。けれども、永野護の作品では、作中で描く未来を、時に数千年にも及ぶ未来に設定することで、未来の世界と本編の世界の繋がりを、死者の痕跡という要素に限定します。

 前述したセリフ、アマテラスの絶望的なセリフや、ログナーのセリフは、永野作品の未来世界が死者をベースにしている事を、強く示しています。

 
 FSSにおいて死者の行方を語る人間は、多くの場合、歴史の中の、"今ここ"の一点を生きる人々ではなく、歴史を俯瞰で見つめる視点を持つ人々であり、膨大な記憶を持つ人々です。歴史の"今ここ"を生きる人々は、死者の痕跡に気づく事はありません。死者の想いを受け継ぐ事はあっても、それは、彼等彼女等にとって、自分の意思でなした事です。生成されていく歴史の中に、死者の姿を読み取るのは、歴史を総覧する立場にある人々だけです。

 FSSの生者が、彼ら彼女らの生きる"今ここ"に死者の痕跡があることに気づくことはほとんどありません。いえ、気づく必要さえないのです。歴史を作る人々は"今ここ"に暮らす人で、彼女等彼等が向くのは、いまだ見えない、年表のない未来なのですから。そして、それでも生き残る残滓こそが、死者の痕跡なのです。永野作品における死者の痕跡は、死者を尊ぶ事だけによって残るのではありません、死者を断罪する事によってさえ、死者を痕跡は残り、死者の生は生成されるのです。 

 だからこそ、永野作品の根幹を担うのは、死んでいった人たちを見続けるアマテラスであり、その立場を共有するファティマであり、死んだ人たちの想いを受け継ぐ詩女たち、彼女等彼等、歴史を閲覧するものたちなのです。そして、それは読者の立場でもあります。ある意味では、誰よりも歴史の中に死んでいった人々の姿を見出しているのは、読者なのですから。ナインのセリフにもある通り、読者が死者の姿を忘れず歴史に読み取る限り、死者の死は仮の死でしかないのです。

 私たちとアマテラスそしてファティマたち、長い時間を生き、過去と未来を見つめる存在は、それを読む術を知っています。歴史を読み解くことのできる存在が、"死者の生"を"今ここ"に見つける時に、死者の姿が蘇るのです。その時、未来であり現在である"今ここ"は私たちにとって死者の行き先になるのです。それは現実に中に奪還された幸福なあの世なのです。

 近代ファンタジー文学が、読者が受動的な"信じること"によって成立させていた"死者の生"は、永野作品では読者が積極的に"読み取ること"によって成立するのです。この視点にたつのなら、FSSが読者に膨大な設定を提供し、読者がそれを読み取り続けるのは、物語の消費の快楽の為でも、アーカイブとして集める快楽の為のでもなく、それはただ「私たちはどこから来てどこへ行くのか」という疑問に答える為の、祈りの行為のような一面を持つのだと、言えるのではないでしょうか。

 読者が物語の世界を、歴史として眺め、その中に死者の姿を読み取ることで"今ここ"の世界はその姿を変えないまま、裏返しとなって、死者の行く先、私たちの行き先へと姿を変えるのです。FSSの読者はFSSの歴史を読み解くことで、喪われた死者の世界を、現実的な理性と非合理的な感情が統合された身体感覚の中に取り戻すことが出来るのです。このような積極的な"読書"体験はFSSが提供する類稀な経験のように思えます。

 永野作品の要素が結ぶ焦点と、その抗いがたい魅力は、多分この一点にその一面を見せているでしょうし、永野作品をファンタジーと呼べる理由も、ここにあると言えるはずです。



 映画ゴティックメードのラストでは、物語本編から隔たった、遥かな未来を思わせる世界が描かれます。

 異形の人間が闊歩し、巨大な建物が偉容を聳えさせる聖地の姿は、映画のラストで描かれた世界とは全く違う物。けれど、聖地へ繋がる道は、ベリンが種を蒔いた花の道で、空を行く艦艇は映画に出てきた物、道を通る男の顔には、トリハロンの面影があり、金髪の女性が抱えるのは、ベリンの花の種。

 あの彼方の未来では、明らかに、トリハロンもベリンも死んでいるでしょう。けれど、その意思と痕跡は、あの未来の現実でも生きているのです。

 その時、未来の世界に、未来の世界ではすでに死者となった人々の面影を観客が読み取る事で、未来の世界は紛れも無い現実でありながら死者たちが生きる他界となりえるのです。

 こうして永野作品が、死者の世界を現実の中に取り戻す時、近代の中で失われた崇高さ、畏敬の念が、近代的合理性を纏った理性をすり抜けて、私たちがの前に現れるのです。



 永野作品が提示する死者への考え方は、未来方向への歴史の知識を持たない限り、私たちが現実の中で、すぐさまえ実践することが出来るものではありません。物語の中でさえ、読み取った真実が真実である保証はありません。

 それでも、永野作品から得られる教訓は実り豊かなものでしょう。

 死者の世界をなくして以来、私たちは死者と向き合った時に奇妙な居心地悪さを感じるようになってしまいました。

 そんな私たちに、合理性のある世界観と矛盾しない、むしろ合理性を見出す事で発見される死者の生と言う考え方は、多くの示唆を与えてくれるはずですから…。




ここで示した読みは、あくまで「このような視点を導入するとこのような統一的な読みの可能性が生まれるのではないか」
という解釈であり、永野先生がどのように考えて書いたかを語ったものではありません…。
永野先生ご自身は、作品に思想を込めることについてやや否定的な意見を述べいていらっしゃったことを、付記しておきます。




本項目のファンタジーに対する見方は、大澤千恵子さんのこちらの著書に大きく依っています。
シャルルペローの童話からハリーポッター、宮崎駿監督の映画に至るまでファンタジーと宗教という観点から児童文学を論じた傑作です。
是非気になった方がいらしたらお読みください。


 余談
 永野作品の過去未来に渡る歴史というのは、永野護が作品世界のことを考える度に、丸ごと変化し生成されるモノのような気がします…。なので世界の像は少しずつ時に大胆に変わってゆくのです…。
 というわけで私は永野護の設定本を見つめ
「親衛魔道軍ってなに!?なにそれ!?カイゼリンは吸筒数12×2?じゃあV24ポーズ?あれは気筒だから違うか…」
と思い続ける永野ファンになりたいと思います。

虚無への供物の希望*虐殺器官の絶望*幻想博物館の実践





 虚無への供物は、"豚のような"偶然の死の上に、架空の物語を実現させることで、それを人間らしい尊厳のある死に置き換える物語だった。
そうであるなら、中井英夫師の短編集である幻想博物館は、実はその思想の小説としての実践として読めるのではないだろうか。
 つまり、幻想博物館に収蔵された短編は全て、中井英夫師が切り抜いた新聞記事にあった、偶然の死がベースになっていて、中井英夫師はそれを小説の物語を与える事で、人間らしい尊厳の物語に置き換えたのだと。そう見れば、幻想博物館に登場する物語が、物語の中の狂人が語った物語という形式で、しかも、狂人たちはそんな物語を語ったがために、病院へ収監されたのだという構図が、明瞭になる。
 つまり、まさに幻想博物館こそが、虚無への供物それ自体だった。
 ここで注目されるのは、幻想博物館が古典的物語を下敷きにしている点で、虚無への供物にカインとアベルの物語が引用されていたように、中井英夫師の考える人間らしい尊厳の物語とは、歴史に刻まれ語られてきた物語に根拠を依っている点。それこそが、幻想だという事。新式の物語と、旧式の物語の相克。
 人間のドラマを基盤とする近代的物語を受け入れるなら、近代的物語と相反する現代的な大量死の現実を、近代的物語の人間のドラマに置き換えなければならない。しかし、そうなると、そこでの人間は大量死を人間ドラマの帰結としてもたらす悪魔にならざるを得ず、結果的に、大量死をもたらすものこそが尊厳ある人間である、という結論に至ってしまう。人間ドラマは死ぬのだ。
 虚無への供物に登場する幻想的な描写と思考のほぼ全てが、現実に物語を与えようとした結果の観念に過ぎず、常に現実に裏切られていく事には、注意しなければ。この構図は、小説の冒頭から常に意識して描かれている。そうすれば、物語の最後にひとつ、ぽつりと幻想が存在する事の違和感に気づくはず。
 中井英夫師が若者文化に注目し続けた事。一般的な男女論を否定しながら、自らの考える本質主義的な男女論を語りつつ、更にその自分の考えた男女論さえをも否定する若者の姿に希望を抱いていた一面。そこには自縛自傷する姿と解放への希求に顔を上げる人の姿、その二つ
の葛藤がある。
 虚無への供物をミステリィという枠に止めるのは良い加減に終わりにすれば良いのに。あの小説の問うている事の大きさ。まっとうに取り組めば、たぶんきっと、世の中の物語の八割が消し飛ぶ。
 虐殺器官は、虚無への供物に応えようとした小説に、思えた。虐殺器官はそういう観点でも語れるはず。無意味な大量死が起きる現実の中で、大量死に倫理を与えようとすれば、倫理なる観念は、殺戮をもたらすものでしかななくなる。大量死という現実の前に、あらゆる観念は無効化され、あらゆる観念は大量死をもたらすものでしか無い。共有される問題点は同じ。
虐殺器官と虚無への供物。無意味な死に虐殺の言葉という、更に無意味な理由を見つけ、そして最後には、無意味な死に意味を付けるため、世界を虐殺の渦の中に追い込む人の陰惨な姿。でも、そこには先への希望がない。
 虐殺器官は、大量死を前にした人間の観念というテーマを、虚無への供物から引き継ぎ、より先鋭化させた。虚無への供物では、人間性を大量死の中から掬い上げようとするなら、人間性は大量死を引く受ける無残の極みの概念でしかななくなる地獄が明らかにされた。虐殺器官は、それをより発展させ、大量死を目前にした倫理なる概念が虐殺をより積極的にもたらす姿が描かれた。この点において、二作は問題点を共有するといえるかも、しれない。それが偶然であるかもしれないにせよ、虚無への供物の問題点を引き継ぐ小説が、半世紀以上の時を越えてようやく現れたのは、感慨深い。
 けれど、虐殺器官では、虚無への供物が示した読者=探偵=見物人=作者=個々の人々という関係式は、明確にはされない。虐殺器官における読者は、虐殺による繁栄を謳歌する加害者だけれど、同時に殺戮される被害者でもあり、読者の位置は不安定。虚無への供物が指摘した読者こそが加害者出あるという一撃は、ここでは共有されない。暗示と暗合ばかりが多いのに象徴体系が全く働かない世界という見方も、共有されていないけれど。
 虚無への供物のラストは不思議と明るい。読者が犯人出あることを指摘する陰惨なラストにもかかわらず。そして、このラストにだけ、虚無への供物の中で唯一、現実に裏切られない幻想が登場する。羽ばたきの音だけを残して消える、黒鳥の影。そのイメージだけは、現実によって壊されない。皮肉にも、黒鳥の影のイメージが示すのは、世界から最後の象徴、最後の幻想が抜け出す姿なんだ。
 読者=個々人の大人が全て、大量死に関わる加害者であるという強烈な認識を、虚無への供物は叩きつける。そして、加害者である読者=見物人に、復讐を遂げることで、読者が被害者となって罰を受け結果的にマゾヒスティックな安穏とした位置に落ち着くことを許さない。復讐を遂げる資格を持った人間は、羽ばたきの音だけを消して消え去ったのだから。それは許しではない。むしろ、復讐をしないことにより、永遠に加害者である立場を、固定化しようとする試みなのだ。
けれど、だからこそ、虚無への供物には希望がある。
 虚無への供物の希望。つまり、私たちが、決して被害者でなく、加害者であると認める事から始まる希望。それが何かあるのではないか。今の私が、加害者である事。それを、内向的な自罰ではなく、もっと積極的な反省につなげる事。そこには希望の道があるのではないか。読者が加害者である事を指摘する陰惨なラストに続く物語とドラマの描写は、不思議と明るい。それは、私たちが加害者である事から始まる希望を表しているのでは。
虚無への供物は戦後10年の年に構想され、その後数年で完成した。けれど、私たちときたら、加害者ではなく被害者である振りをし続け、延々と見物人を続けてきた。或いは、延々と全くの他人(時に存在さえしない他人)を加害者に仕立て上げ続けてきた。虚無への供物の中に書かれている通りに。
もし、私たちが加害者であるという認識を持ちえれば、何か一歩進めるのではないか、虚無への供物はそこを、聞いてきているのではないかしら。









□人と人でない人の物語


 ごう、ごう、ごう、と音を立て燃えている。煙が捩れてほどけて、また捩れ。炎の中心は明滅しながら燃料を覆い隠す。火と火が重なりあうと、縁の色の薄い部位より薄くなるのだ、と妙な部分で私は感心した。
 夜風が頬をなで、一度瞬きをすると、頬を撫でる掌は炎の熱気に変わる。繰り返される温度の移り変わり。私はほっ、と息をついて地面に座り込んだ。熱気に肌を炙られ、風邪のようだった。
  私の前方、細やかな小川の幅一つ、その位の位置に、肌に吸い付くスーツの、黒いシルエットが、明滅しながら揺らぐ炎に照らされて、これまた縁だけが明るい影絵が、空高く聳えていた。
 彼らは、ある種の薬品と混合されると、よく、燃焼する、特に今日は気象条件が良い、乾燥した空気に微風だ、恵まれている。影が喋ったらしい。影姿から思い付かぬ、澄んだ声。女性なのかもしれない。けれど、私に意味までは聞き取れなかった。燃える音は乾いて肌を刺す空気によく混じり、声は炎の音に合成された。
 どのくらい、燃え続けるんですか?私は乾いた口で声を発した。空気は深々と、声を届けた。それが私には寂しく、怖かった。まるで、現実ではないようだったから。
 それほど時間はかからない。苦しみも無い。彼らの本能だから、悦ぶよう作られているんだ、そのように、人が望んだから。
 本能
 そう、刻まれて生まれてきた、変えることの出来ない性質、人の多くが、恋人を求めるのも同じとされていた、でも彼ら彼女らは、人がこうあってほしいと望んだ形を、本質に固定されてしまった。
 炎の音に紛れて、断続的な笑い声も聞こえた。私の声もこんな風に聞こえているのだろうか、嫌な気分になる。
 私も、同じなのですか?焼かれて。言葉に続くはずのの声は腹の中で消えた。現実感の薄さが喋る勇気を与えていたけれど、その感覚が同時に、一言で世界が崩壊してしまう予感を与えている。
 私の疑問符は、炎の中に吸収されたらしい。返事はなかった。もしかすると、自分と同じで、相手のお腹の中で消えたのかもしれない、返事か、質問か、どちらかが。
 私はこれ以上問いを出すのが馬鹿らしくなり、炎をじっと見つめた。夜の中にあっても、炎は目に柔らかだった。明かりに照らされ、周囲の地面が姿を見せる。荒くざらついた砂が固められ、上部に、微細なガラス質が煌めくのが見えた。その向こうには、森があるらしい、紺碧の夜が切り取られ、墨が置かれていた。右手に目を向けると、鋭角な線が複雑な調子をなして、夜を割いている。工場の影だった。
 炎をじっとみつめる。火が重なり、暗くなった窓から、人の顔が法悦に歪んでいるのが見えた。教化の授業で、見た事のある顔だ、私は考え込む。
 火の隙間から時おりに、人の顔や足、手が突き出しては、ひび割れ、くずおれる。何れも、部位だけで、人を超越した美しさを、見るものに与えた。夜の割れ目を通して、香る筈の無い、肉の焼ける臭いが、私の鼻を突き刺した。自分よりもっと前に居るあの人には、きっと更に良く香る筈だ、と私は空想する。
 人は、倫理的にあろうとして、かえって残酷になる、あの者たちが生まれたのは、人が望んだからだけではないのに、人が、勝手な望みと罪悪感と恐怖で、あの者たちを呪っている。
 慣れた呪文のように吐き出す声が、炎の音を突き抜けて良く響いた。それこそ、呪いのように。
 私は麻痺した感覚の底で、哀しんでいる自分の存在を発見し、驚く。あれは、燃やされて、悦んでいる、とあの人は語っていたのに。だから、私も、喜ばなくてはいけない、と考えても、哀しみは消えない。あの人の言葉に、嘘はなさそうだけど。
 ごう、ごう、ごう、と音を立て燃えている。煙が捩れてほどけて、また捩れ。炎の中心は明滅しながら人に似た形の彼らを覆い隠す。

OrcaOrca 1st album 『Elephant』


作者:Orcaorca
書籍名:Elephant 初回限定盤特製ブックレット
頁番号:5,6ページ

 枯れた芒野を、黒いマントを介して手をつなぎ、駆ける黒いスーツの青年二人。少年のようなその青年のイメージは、何処か稲垣足穂の小説を思わせる。
フォークトロニカバンド、OrcaOrcaのファーストアルバムElephantの特典ブックレットの一ページ。
 PVのスチル写真なのだけど、青年の筋肉と少年の骨が同居したようなこの写真のイメージは、OrcaOrcaの音楽のイメージで美しい。
 冷たくなれる一ページ。





 OrcaOrcaのアルバムElephantに収録された音楽は、タバコのイメージ。錆びついて、饐えた稲垣足穂。アルバムの曲は一つ一つバリエーションにあふれているのだけど、そのどれもが、タバコの質感を持っているような気がする。
刺激と、重く漂う雲。小さく指先に踊る火。
 錆びた色の鉄絃。狭さを持った空間を感じさせる音響のリバーブ。
雨のように繰り返されるドラム。外から聞こえる雑踏の旋律。
頭の中で聞こえる不吉な音。垂直に降りてくるエレクトロなサウンド。
 Elephantの音楽を聴く時に、自分は何処かに閉じ込められて、タバコの煙だけを見つめている。
 何とも言えない、タバコの匂いとしか形容できない香りの漂うアルバム。
インストゥメタルだけど、とても聴きやすくて、入りやすい。
 アルバムを実際に買って、フルで通して聴くと、想像以上の世界が見えてきます。
 好きです。




今回引用したブックレット付きの限定版


Orcaorca
2014-05-03
ブックレット無しの通常盤

映画『ゴティックメード 花の詩女』はなぜ上質な“映画”なのか 〜流れる時間と強靭な構造、毒を超越したドラマ〜



 映画『ゴティックメード 花の詩女』は映画が好きな方にこそ、観て欲しい映画。それから、ファンタジー文学、ある種の児童文学の小さな傑作、おとぎ話や童話に近いファンタジーが好きな方に。
 予告にあるような、ロボットアニメ、という宣伝文句を忘れて、ただ一つの優れて小さな、ロードムービーとして。
 或いは、映画なるものへの強烈な信念に裏打ちされた、力強い作品として。




 映画の物語は、とてもシンプルなもの。
 舞台は、スターウォーズのような(とあえて言います)SF宇宙の片隅の、自然豊かな植民惑星。この星の精神的主導者である詩女という巫女に選ばれた人間が、違う星の軍事大国の皇子であり軍人の人間に護衛され、二人が立場を異にする指導者として、あるいは生身の人間として、対立しながら祈りを捧げる旅を続ける、というのが概略。

そしてそれは、祈りと詩と踊りと、恐ろしいものの対立の物語。ささやかなものと、恐ろしいものの対立の物語。あるいは、希望と現実の対立。

 この対立の構図が、映画の殆ど全てのシーンに織り込まれている為に、この映画がただの美しい映像ではなく、優れた質感を持つ"映画"に思えました。



『ゴティックメード 花の詩女』という映画は、決して派手な映画ではありません。ハリウッド映画のようなスペクタクルも、宮崎アニメのような激しいアクションも、ドキドキする展開も、ほとんどありません。

 けれど、映画の中には、確かな時間が流れていいます。主人公たちが、美しいと同時に茫漠とし、広すぎる自然を渡っていく、静かな時間の流れ。それを映し出す焦れったい程に長いカメラ回し。

映画のアクションがスペクタクルで長ければ、この時間は、流れの速いせわせわとしたカットに破壊されてしまうでしょう。この映画はどこまでも、自分の映画であることに忠実です。そして、映画の時間の心地よさ。

 常に聞こえる、風の音、波の音、草が擦れる音、それらの音が、決して狭い空間ではなく、圧倒されるくらいに大きな空に響いているのだとわかる音響。 

人の来歴や微かな感情を映し出す細やかな人物アニメーションの芝居。大地の草が風に頭を垂れて太陽を映し、灰色に煌めく雨が無数の層となって空間を埋め尽くす、圧巻の自然描写。これらの細い描写によって、映画の中には常に時間がゆっくりと流れているのです。 

じっと沈む太陽を眺める時のような、異質な時間。この映画に刻み込まれた、現実とは違う時間の感覚は、ここにはない別の惑星に流れる時間なのです。 
 


 この、世界の時間と存在を支えるのが、映画に詰め込まれた美しさの数々。架空の未来世界と、荒涼とした自然を混ぜ合わせる、優れたデザインの数々。 

軍事大国の少年が乗る空中戦艦の威容と、詩女の少女が乗る小さな船の靭やかな軽やかさ。人々の歴史を静かに語る服飾デザイン。主人公たちが旅をしていく、自然風景の、水彩画の迫力。少女が荒涼とした大地と対峙して、種を蒔き踊りながら祈る、飾らない動き。

 多分、こんな風に、美しいSFデザインと架空世界を想定しながら、世界に流れる時間をアクションに寸断されることなく味わえるような作品はあまり存在しなかったように思います。

 あえて、例えるなら、ルーカスの世界を、ヴェンダースの眼を持って切り取った映像に、美しく優しいファンタジーの物語を加えた映画。決してスペクタクルな映像に傾かず、主人公たちと、描かれる世界に流れる時間に寄り添った、美しい映像。本当に上質な工芸品のような。


©EDIT

 そして何より、この映画が持つ映画としての凄みは、こういう要素が全て、一つの構図、一つの構造を示すために、使われていることだと思うのです。

 映画の全編に渡って、殆どあらゆるシーン、あらゆる場面が、たった一つのシンプルな構図、"美しくささやかな物と、それを踏みにじる様な恐ろしい物の対立"という構図を描き続けているのが、この映画なのです。二人の主人公の造形はもちろん、主人公たちが自然の中を旅するシーンも、雨の中立ちすくむ場面も、あらゆる場面でこの構図が示され続けている。

 この繰り返しが生む効果が、映画のラスト近辺の"ささやかな物と、それを踏みにじる様な恐ろしい物"を同時に備えた存在が登場するシーンに強烈な磁力を与えています。同時にそれは、エンディングの物語の解決に、強い力を与えてもいます。
 


 映画が描くのは"美しくささやかな物と、それを踏みにじる様な恐ろしい物"という構図ですけれど、映画にとって重要なのは、この構図を象徴する物は、常に変わり続け、時には立場を変える、ということなのではないでしょうか。

 ある時にはささやかな物を象徴していた物が、ある時には恐ろしい物を象徴する物に変わっていくーー。この象徴する物の互換性こそが、この映画の真骨頂であり、同じシンプル極まる構図がひたすらに重ねられることの理由になっているのです。

 ある時には、ささやかな祈りを象徴していた筈の自然が、ある時には荒涼とした恐ろしい物へと変わる。ある時には、全てを踏みにじる恐ろしい物を象徴していた筈の軍人が、雨の中ではとてもささやかな物に見える。物語の中で、ささやかな物であった筈の詩女が、恐ろしい物となって軍人を圧倒する。

 自然を象徴していた筈の巫女が、荒涼と恐ろしくさえ見える大地と対峙する様に、飾りなく躍りながら祈るシーンは、この映画の白眉でしょう(余談ですが神が明示されず、けれども祈りが映画の中心に置かれるというのも、この映画の面白いところです)。

このように、映画が意味の担い手をずらしながら、対立構図が描かき続けるとき、対立の持つ意味さえ、解体されるかに見えます。ささやかなものと、恐ろしいもの、という対立の持っていた恣意的な意味は、ただ、対立する何かと何かの間にある緊張関係へと変わります。

こうして生成された対立は、構図を構成する意味と意味、意味を担う要素と要素の差異を強調するのです。

 極端なことを言えば、映画が表現し続けるのは、たった一つのシンプルな対立構図だけ。けれど構図を常に示しつつ、構造の実在を見せながら、この構造の中で特定の意味を担う存在が、特定の要素である必要はないことを、映画は静かに訴えるのです。そして、小さく平面的な構図は、個々の役割をその時々で担う存在を媒介に、立体的な広がりを持った構造となって映画全体を貫きます。

 単純なテーマを、単純な物語を通して、映像の中で延々繰り返すことで、映画は重い力を持った映画になる、というこの作りは、監督の映画に対する強烈な信念の所産だと思います。

一つの構図を、殆ど全てのカットに丹念に織り込むことで立ち現れてくる構造の力強さ。そして、ただひたすらそれだけを繰り返すことで、映像が映画になるのだ、という強烈な信念に支えられた作りこそ、この映画を傑作にしているのだ、と。


 
ラスト付近、映画唯一のアクションシーンで、恐ろしい兵器を、主人公の巫女は「美しい」と形容します。それは、彼女(そして観客が)が二つの対立する意味を、その差異を認めたまま、同時に一つの象徴の中に読み取る瞬間です。

花の姿を持ったその存在は、途方もなく美しく、恐ろしい力を秘めています。それは、敵を蹂躙する恐ろしい物です。しかし同時に、それは敵に打ち倒されかねない細やかなものでもあるのです。 

この一連のアクションシーンで、二人の主人公は、それぞれが、恐ろしい物の中に潜む美しさを認め、そして、美しい戦闘兵器に潜む恐ろしさを自覚します(アクションシーンは短い物ですが、長いものになれば、こういう構図をぶち壊してしまいかねないでしょう)

 この時に、映画が繰り返した構造は、一つの大きな物として統合され、主人公たちは自分の立場を確かめつつ、存在にある二つの対極を理解し、その二つの違いを保ったまま、お互いを受け入れることでができる様になります。

映画のラストで、二人はお互いを尊重しますが、同時に互いの立場の違いを明確に表明します。それは毒を超越した健全なドラマであり、希望の物語です。 



繰り返されてきた構図の意味を理解し、自分の中に互いの存在を受け入れた主人公たちは、これからの未来で、理想と現実を、二つながらに受け入れて戦っていけるかもしれない。対極にある存在のどちらもが矛盾しながら、同時に存在るすことを許容し、どちらもを捨てることなく、生きていけるのかもしれない。映画のラストのシーンでは二人の表情と台詞の中でそのことが暗示されます。

 この後押しは、主人公だけでなく、観客に向けられた物ののように思えます。観客にも、その様に生きる可能性を示しているのだと。この、観客への目配り、という意味で、この映画は優れた児童文学的なファンタジーといえるでしょう。 
 


 映画のエンディングで、観客が取り残される場所、そして、その後に聞く音と風景。この間に観客が味わう圧縮された感覚こそ、映画が構図を静かに、セリフではなく映像として繰り返してきた理由なのだ、と。

 この感覚の押し付けのなさ、そっとした静かな力強さ、それは映画が築き上げてきた物のちからです。

 映画の持つ対立の全てが、映画の独自の時間と美しさに包み込まれていることで、差異を持った意味を二つながらに受け入れることの説得力が増すのです。



 映画『ゴティックメード 花の詩女』は、優れたアニメーションと音響に支えられた、素晴らしい映像体験を提供する作品です。『ゴティックメード』の魅力は数多いです。登場人物のちょっとした動きに込められたキャラクタの歴史や、素朴に見えて練りこまれた脚本の妙、それに濃密な演出の数々。或いは、祈りに中心をにした物語作りに見える、作者の祈りに対する考え方や、踊りの意味。中でも、強烈なインパクトを残す音響効果は、それだけでこの映画を映画史に残す価値を生んでいます。もちろん私が書いた以上の読みの可能性も豊かに持っていました。

 けれど、私にとって、この映画を「いい映画だな〜」と感じてしまった理由は、何よりこの映画が、自分自身に忠実であろうと努めた映画なのだ、という点だったのです。

いささか牽強付会かもしれませんが、今こそ"映画"としての『ゴティックメード 花の詩女』への想いを纏めたくて書かせていただきました。

 観る機会の少ない作品ですが、ぜひ、多くのの方に見て欲しいです。







 




この映画は監督の意見により、あらゆるメディアでの発売の可能性がない事が発表されています。つまり、映画館で見る以外見る手段はありません。カドカワという大手が21世紀に製作した映画とは思えない驚異的な方針です。
現在、映画は"ドリパス"という映画の再上映をオンデマンドで映画館に求めるウェブサービスを通じて年に数回ほど、上映されています。ぜひ、気になった方はこちらをチェックしてみてください。


2015/08/21時点では、ウェブサイトが各地の劇場と交渉に入った段階で、こののちに上映劇場が決まればチケットが販売され、一定数に届けば上映が決定される、という段階です。



映画『ゴティックメード 花の詩女』は漫画作品『ファイブスター物語』に連なる作品です
が、単独の映画として、本当に優れて上質な映画です。エンディング後にファンサービス的な描写がありますが、理解できなくても映画の本質には深くは関わりません。冒頭に書いた通り、映画ファン、ファンタジーファンの方にこそ見て欲しい、と思える作品です。ぜひ、『ファイブスター物語』を知らないまま、ご覧になってください。

また、ファイブスター物語13巻を読まれた方でこれから『ゴティックメード』を観るという方は、一度FSSの事を忘れてからみても良いかも…と思います。



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