■一千一頁物語

一瞬を凍らせる短歌やスナップショットのように生きたいブログ

2015年09月

本の一ページを紹介するブックレビュー一千一頁物語 SSよりも瞬間的な創作小説SnapWritte スナップショットの感覚、短歌の精神で怖いものを探求したい…願望

押井守『ゾンビ日記2 死の舞踏』身体という他者と戦う勇気を


 押井守の小説『ゾンビ日記』は"人間の中に宿る死"が発動した後の世界、ただ歩くだけの死者が地上を埋め尽くす、ポストポストアポカリプスな世界の物語。その中で、人間である為に、死者を弔い続け、身体について考え続ける、孤独な(或いは孤独であった)人間の物語。
小説を支えるのは、(押井守の作品にしばしば現れるように)物事を語るには、些細な事柄を積み上げる事によってのみ、問題に到達し得る、という信念。
 そして、その語られるべき物事が、個人が所有している筈の身体という風に設定される時、小説の内容は徹底的に個人的で私的な物へと変容していく。
 それを外部から支えるように、作中には度々、かつて存在した人間文明の象徴でもあるような膨大な引用が挟まれるのだけれど、小説は徹底的に私的で些細な身体に関わる描写によって、成り立っている。

 小説の舞台設定として、世界に死が蔓延していくアポカリスティックな描写が回想として語られる。歩き回る屍が、世界に殖えて行った時、人間の肉体に眠る死が、目を覚ますのだと。人が意識を失い、眠りに就く間に、死が肉の中に目覚め、老いも若きも病めるも健やかなるも問わず、死んでいくのだと。
 それは途方もない、人間に対する肉体の反乱であり、意識ばかりを問い続ける人間への警鐘でもあるのかもしれない。
押井がそうした物語をゆっくりと語る時、私は自分の身体のことを思い出す。

 社会的に与えられた性に違和を覚え、それを社会的なコードでねじ伏せる。自分に与えられた性は、常に自分の肉体と意識を裏切り続け、肉体も、意識を裏切り続けるう、生きにくさ。
 "性を持つ肉体の性"と"性を持つ意識の性"のズレ。そしてこの"性を持つ意識/肉体の性"とは振舞いや性格、衣服によって規定されるものではなく、むしろそうしたアニマだとかマニアだとか父性だとか母性だとかに抑圧されているナニカ。
 この認識が向う先は、身体とは何か、という無限の疑問であり、さらにその身体の持つ性とは何か、というさらにさらに厄介な問題意識。

 押井が、この小説で試みようとしているのも、実は殆ど同じ領域への進撃なのではないか、と私には思えた。
 作中で、主人公は服を着、アクセサリーを付け、化粧をする事で、人間は身体を所有し直す、と語る。
 それは、社会と呪術によって自意識の中に規定される身体の事。
 そのように身体が所有される時、人は一個の公的な身体を持つ個人になるのだと。
 身体がこうして語られる時、身体は所与の物として所有できる何かではなく、苦闘し困難の中で受け入れ付き合っていく、他者となる。
 押井が作中で執拗に描写した糞尿を垂れる身体と、肉体を意識する私との間の相克の中で、身体が舞い始める。
 ここで押井が目指すのは、何も語る言葉を持たない身体を、言葉の海の中で実践の側から捉えようとする行為…なのだと私は思った。
 私はその物語から、自分の日々の違和を生きていく、その勇気を少しだけもらえるような気がした。見るものは全く違うけれど、同じ物を見ているような気がして…。
 この感覚は、たぶんきっと、病や、老衰、多くの身体との差異に悩む人間に、届くもの…のような気がする。それで苦しみが癒えるわけではけしてないのだけれど。

 ゾンビ日記の主人公が歩く屍たちを葬送=射殺する時には、必ず主人公はこの肉体との格闘を行う。そして、ゾンビ達を殺戮する。
 或いはそのゾンビを殺す行為も、外部化された身体との闘争なのかもしれない。。身体と意識の格闘を行う主人公は、意識なき身体の象徴であるゾンビを殺す。
 そうであるなら、その銃弾は、身体のことを思わず、意識だけが服を着て歩くような、そんな自分にも向けて放たれる。

押井 守
2015-07-11
今作の前編。ここで語られる独白の多くのテーマーー大量死、発現する死、モラルハザード、ジェノサイド、兵士の意識、人を殺せない人間の基本心理ーーが伊藤計劃の作品で語られるテーマと一致するのが、興味深い。押井監督は伊藤作品を読んでいないと語っていらしたので、偶然というか必然の一致なのだろうけれども。



本書ゾンビ日記2には記載はないけれど、押井守による身体論の多くは、舞踏家最上和子氏の言葉によっています(ゾンビ日記には記載あり)
最上氏のブログの内容は途方もなく素晴らしいので是非一度訪れてみてください…。

最上氏による富士樹海での舞踏の影像。

ロアルド・ダール『単独飛行』狂気の機構を見つめる人間性のファインダー


作者:ロアルド・ダール
書籍名:単独飛行
頁番号:168〜169p

単独飛行は、小説家ロアルド・ダールの二次大戦中の英軍パイロットとしての体験を綴った自伝的小説。

小説には、場面ごとに、ダールが写した幾葉もの写真が挿入されている。

ダールが写真をどんな風にして撮ったのか、ダールは、小説の中でそれを語ろうとはしないのだけれど、このページでは、写真への愛着がダールの子供時代から続いた物であったことを、ダールは告白する。
それに、このページでは、100人という単位の人間を消費するシステムと、個人の愛着が、全く無造作に並列される。まるで、二つのものが同じ重さを持ち、そしてどちらもダールの外にあるかのように。
前線基地の何気ない風景に挿入されたダールのさりげない愛着の表明は、実は、この小説にとって、とても大事な物だったのではないか、と私はそんな気がした。



小説の中で、ダールは戦争というシステムの中にあって常に世界を見つめ続けている。
まるで、自分の前に信頼できるカメラを置いて、世界を眺めているかのよう。
彼は常に、自分の周りの物との過度な接触を避けようとする。具体的な感触や、味、匂いのような物を、ダールがどのように感じたか、とはなかなかめ明言をしない。燃え盛る戦闘機の中の記述さえ、彼はその熱気がどのように痛かったのか、とは語らない。
彼は世界を常に、一歩引いたところで、ひたすらに見つめているのだ。
戦争の、その真っ最中、単騎で爆撃機の編隊を追いかける時でさえ、彼は自分の場所を忘れて眼下の美しさに心を打たれる。
彼は、自分にとっての世界を、自分で背負える限りにおいて、信じている。同時に、自分の外にまた違った世界がある事も、よく知っている。ダールは多分、それに対抗するために、世界を見つめているのだと思う。
そんな風に見つめる時、ダールだけの、ダールの目を持って、狂気の世界システムのレンズを外して、世界を見つめる時、ダールはシステムの狂気から自由になり、そこに人間性の領域を、確保するではないか、と。
だから、味方の編隊とともにアテネの空を飛んだ時には、眼下の景色を見る事ができなかったと、寂しげに綴る。"単独飛行"でない場所では、彼は目の中に、一種独特なダール風のカメラをはめる事ができないのだ。
真っ直ぐに世界を見つめ、自分の信じる美しさを選び取って目に入れる姿勢は、人間関係の中でも同じで、彼の描く人間は、基本的に、彼のレンズを通って変換された、美しい人々なのだ。
ダールの描く世界は、ダールの見つめる現実は、ダールの言葉の上にしか存在しない。
きっと、彼はいつも人懐っこい笑みを浮かべながら、根本の世界は美しい孤独に満たされていた筈。
もしかするとそれだけが、狂気の世界との関わりを持ちながら(そこから逃走することはできない)、正気であり人間的である事が出来る、たったひとつの方策なのかもしれない。
その空間、その人間の土地から、真の反撃が可能になるのかもしれない。

レフン監督『オンリーゴッド』リンチ・ホドロフスキー 新時代の神話の夜明け




レフン監督の怪作『オンリーゴッド (原題 Only God Forgives)』がGyaoで2015/09/21まで無料配信中です。
簡単に紹介だけ。


『オンリーゴッド』はデヴィッド・リンチ監督の演出に、エレメントオブクライムの色彩を重ね、ホドロフスキー監督の神話物語と血漿贓物をぶちまけた、怪作映画。

その全てを、東洋系の一見冴えないオジさんの外見をした恐るべき復讐の父権神が纏めている。

パッと目につくのは、どこまでも漂うリンチワールドな演出。

ゆっくりと動き、ボソボソと喋り、シュールで暴力的な会話をするキャラクタ。
唐突にカットインされる、無人の廊下をゆっくり動くカメラの主観映像に、物語中に現れる白昼夢じみた人物。

リンチ映画お約束の、ナイトクラブで歌う人物とそれに聞き入る観客の映像まで、きちんと抑えていて、リンチファンは少し笑えるかも。



けれど途中から、この映画はリンチオマージュな映画というより、神話的で象徴的なホドロフスキーの世界である事がわかってくる。

主人公である男性を取り巻く環境は、無数の神話の要素、神話素ミュソスに囲まれている。

母子相姦的な妄想と、それによる性的接触の抑圧、母権による支配、エディプスコンプレックス、そして兄殺し。また、彼は母親に対して"病的な妄想"を持っていると語られる。

彼が、現代のタイを舞台にした神話の中で、いやおうなく対峙する復讐神のチャンという男性も、また神話的な権力を周囲に誇示する。

チャンが手を一閃させ虚空から取り出すタイの刀、彼は自身の揺るぎもせず疑問も挟まれず判然とさえしない倫理に基づいて、その刀で鮮血を溢れさせ、皮膚の黄色い断層を顕にし、その奥の内臓を暴き出す。彼はそして、この復讐劇の後、世界にロゴスを齎すかのように、タイの演歌を歌う(表面上はリンチっぽいけれど本当の意味は全然リンチ的ではないと思った)。

だからこれは、神話的な、父権を巡る物語。


ちょっぴりエレメントオブクライムな色の場面


以下ネタバレがあります



そして、『オンリーゴッド』の特色は、この神話の結末の語り方にこそ。

詳細は省くのだけど、最終的に、主人公は母の禁圧を乗り越え、復讐神が持つのと同じ刀を、手にする。

けれど、彼は自身に潜む性への恐れを克服できず、それゆえに、罰せられる事を望む。

父権の象徴たる復讐神は、森のイメージの中で彼の手を切り取り去勢する。

そしてチャンがナイトクラブで、いつものように歌う風景のなか、『アレクサンドロ ホドロフスキー監督に捧ぐ』の文字とともに映画は終わっていく。

これだけなら、エレメントオブクライムを激しくしたような酩酊する色彩で、現代のタイを舞台に語られる事にだけ、特色のある原型的な神話映画なのだけど、私はこの最後に歌われる歌に、この映画の最大の仕掛けと、試みが仕掛けられているような気がしてならなかった。

映画のラストの歌は、今まで彼が歌ってきた歌と違って、とても若々しい声で歌われ、曲の途中ではラジオボイス的に二重に聞こえるエフェクトがかかる。

私はこのチャンの歌の中に、映画の主人公の息吹を感じた。この妄想を無理矢理前提にしてしまうなら、映画の神話はもう少し違った形で読めるのだと思う。

つまり、主人公は神話の最後で去勢された事で、チャン=父権へと一体化したのだと。
主人公は性的な欲望を生み出す根源を断ち切る象徴行為として、刀で腕を切り取られ、それによって浄化された。こう読んでみると、映画の違う一面が見えてくる。

チャンが持つ刀は、あからさまに父権を形作る象徴ファルスなのだけど、チャンが性的な男根を持つかどうかは明らかにはされない。彼を巡る環境は父権の神話に満ちる一方で、彼の家族には妻の姿はなくて、娘も養子である可能性が示唆される。

作中で、割と印象的なセリフで主人公の性的な男根が貶められ、それによる抑圧に彼が苦しむ描写があるのだけど、その後に象徴的ファルスの刀をもってなお、彼は性的男根の抑圧と羨望から抜け出せず、象徴的ファルスの刀で母の屍体を屍姦して、次の場面では刀をなくしている。

つまり、この映画における父権の象徴ファルスは、性的な男根とは区別され、むしろそれを失い持たず抑圧と羨望から解放される事によって、維持されている。
こう読んでみれば、オンリーゴッドは、神話要素を使いながら、新しい構図を導入するラディカルな映画とも、言えるのかもしれない。

こういう性的な男根と象徴的なファルスを区別する姿勢は、少しラカン的なのかも…。



けれども、こういう読みを導入するしないに関わらず、神話というジャンルを内部から解体していくその姿勢において、『オンリーゴッド』はあまりにも手ぬるく、中途半端な物に思えてしまう。

映画が、男性からの一面的な視点からしか物語を語り得ない点で、映画全体がもうどうしようもなく平面的に感じられ、ただただ悪的に描かれる怒れる地母神が、貶められた女神としての要素をどうしようもなく引きずってしまっているのも、映画が見せた父権の新展開に比べるとあまりにも、寂しい。

リンチ映画っぽい演出を引用しているだけに(私が勝手にそう思っているだけなのだけど…)リンチ監督が『ブルーベルベット』で"男性によって暴力的に女性に押し付けられる母性という恐怖"を描き出し、さらに、既存のドラマがそれに頼っている事を暴いたような、強烈にラディカルな姿勢と比べてしまう。

リンチ映画というなら、『ワイルドアットハート』の悪い母を形成する男性性の描写や、喧嘩でただ一方的に殴られる事で男らしさを放棄して、それによって女性と素直に向き合う事が出来るようになる男性、という要素の凄さも、『オンリーゴッド』の新しい筈の父権神話を根底から打ち砕くパワーを持っている。『オンリーゴッド』からは、父権、そして性を巡る文字通りの神話に、新しいテーマを持ち込もうとする姿勢を読み取ってしまえるだけに、そのテーマの脆さが残念なものに思えてしまい…。



それでも、タイを舞台に、超現実的な映像と要素を挿入し、新しい神話を語り直そうとする『オンリーゴッド』の姿勢は、とても面白く、ワクワクさせられる。

現代という舞台でも、徹頭徹尾まぎれもなく神話的で伝説的な映像と物語を語る事ができて、しかもそれを新しい方向へ展開する事ができる、そんな事を示した『オンリーゴッド』はやっぱり凄みを持った強烈な映画。


レフン監督の次回作は、東京を舞台にした映画との事で、レフン監督の映像=色彩感覚によって、日本と東京がどんな風に変容するのか、とっても楽しみです。


テッド・チャン『地獄とは神の不在なり(あなたの人生の物語)』


作者:テッド・チャン
書籍名:あなたの人生の物語
頁番号:450p


トラックに乗った男たちが、天使の降臨を待ち続ける、あたかも台風を待つ研究者たちのように……。
このページの文章は、そんな異様な世界の人々の感覚を、乾いて諦観の混じったような文章で描きとり、
そして同じ醒めた文章で、物語のクライマックスである天使の降臨を描き始めます。
劇的な場面転換がありながら、物語る文はその様相を何一つ変えない。
非日常への変貌と、曝涼とした文体。
このページの節制から漂う、劇的ななにかへの諦めは、酷く美しく真摯なものに思えます。
強い砂漠のコントラストの一ページ。

作者のテッドチャンは米国のSF作家で、独自の世界設定を、ある種のドキュメンタリ調ともいえる俯瞰の感覚で切り取る作家です。
その奇妙でありながら存在感の強い物語は、米国でも高く評価され現在注目の若手作家。
彼はまた、中国系アメリカ人で、近年関心の高まるワールドSFという非欧米系作家の潮流に属する作家でもあるのだとか。
ここで取り上げた『地獄とは神の不在なり』は短編集『あなたの人生の物語』に収録された短編の一つ。
天使が自然災害のような現象として現れ、それに遭遇した人々が時に救済され、時に呪われ、そして天国や地獄を覗く……
という独特の世界観を舞台に、ある種の神学が語られる物語。
天使と遭遇し命を亡くした人間の遺族会や、被害者会、ある種の使徒になった人間の集会など、
アメリカのキリスト教世界らしいリアリスティックな周辺描写が、独自の世界観を補強してとても、面白く。
天使による災害で心の傷を負い、苦悩する主人公は、これまた現実的であり、けれど同時に独特の世界と結びつくことで、作中で描かれる苦悩と傷は、強い指向性を持って立ち現れます。
祈りと信仰と災害、ある種古典的なテーマですが、極めて現代的な物語で、キリスト教に興味のない方でも、
ある種のディザスターノベルとしてとても面白く読めるはずです。
そして最後に明かされるタイトルの意味は、見えないものを確信して生きる人間の姿の切なさが詰まっているのです。

短編集にはその他にも、脳の顔認識処理をマスクする新技術から、人間の美醜をめぐる感覚と社会の関わり(そして社会運動)を導き出すセンスオブジェンダーな『顔の美醜について』や
円城塔+伊藤計劃の『屍者の帝国』の先駆的作品『七十二文字』など非常に高品質で、現在と人間への深い考察に満ちた短編が収録されています。

言語SFのような表題作の認識と感覚の変容は素晴らしく、やや平凡ながら超越者の感覚を追った『理解』や円城塔を思わせる『ゼロで割る』、それに先述の『顔の美醜について』など、架空の認識・意識処理を行う人間を想定し、その主観に迫る作品群など、SF的設定による主観の変容は本作のポイントかもしれません。

現代SF・現代小説の一つの指標、基準点となうべき作品集かもしれまでせん。
翻訳の質も素晴らしく、誰でもオススメの一冊。


□ゴジラ断章 羊雲の山脈



 その頃、ひび割れ少年のヒゲのように哀れな下草しか持たない地面の下で、人が石油を探そうとして果たせず骨となって崩折れる大地の下で、怪獣は眠りながら、地面の下の遥か奥にある大地の熱を感じていた。それがほんの少しずつ冷めていくのを、数億年の時の中でゆっくりと感じていた。
 同時に、彼女は地面の上を歩く小さな小さな獣の姿を夢見ていた。獣の毛に朝露が集まり獣の舌がその雫を受け止める、微細なシステムを見ていた。菌糸の交わす言葉の意味はわからなかったけれど、その囁きの音は良く知っていた。
 ただ、若いというよりは稚さない形をした少年の足に嵌められた小さなブーティが立てる足音は、確かにその怪獣には聞き覚えのないものであった。それが人の足音という事は彼女にもわかったし、少年がもう一人、大人に近い年頃の友とともに歩んでいる事も、わかったのだけれど。
 大人の方が、地面の草を踏みつけ、上を見上げながら恐る恐る言った。人類が足を運ばない、そういう涯の土地の一つだよ、ここは。少年は彼を見上げ、セーラー服の襟を立てて周囲の音を伺った。
 何も聞こえない……命の声も凶鳥の声も……平安の世からずっとそうだったって、僕は婆さんに聞いたよ……。
 平安だって。大人の方がおどけて言ってみせる。平安はないだろう、先の大戦は関ヶ原なのか。
 ここには怪獣が住んでるんだよ、だから生命の欠片もないんだ、あいつら、彼女らと彼らは、他の命を全て吸ってしまうんだ、途方もなく大きいからね。
 じゃあそいつはきっと最後の一人だよ、こんな土地は、他にはないからな。
 その時に折良く、地面から剥離した薄い土のプレートを、風が巻き上げて日に透かして見せた。掌ほどもないプレートは直ぐに、小さな粒子に変わってしまった。
 怪獣はじっと二人の声に耳を傾けていた。そんな事は思ってもいなかったが、かつて地球が燃え盛っていた頃には、幾多もの同類が延々と炎と戯れていた。あれらは皆滅んでしまったのだろうか。こうして冷えていく地殻を抱きしめるうちに。
 怪獣はそう思うといても立ってもいられなくなってしまった。
 世の中にはあり得そうもない事が、無限性の助けを得て起こってしまう。途方もない偶然と些細な意思の低周波が、人の運命への考え方、ドラマへの感傷を打ち破ってしまう。
 怪獣たちは突然、自分が最後の一人なのではないかという疑惑に囚われてしまった。


  彼女が、ひび割れていかにも不毛な顔で沈黙を続ける地面に向けたズームカメラから視線をそらし、スロットルを開いて機首を上空に向けると、潅木の頼りない人差し指を口に当てた地面も、無数のアンテナを生やす地上の車両中隊も斜めになって視界から滑り落ち、ただ青く落ちていく空だけがコックピットのガラスに反射した。
 ゴジラ、と彼女は思った。豊かな緑が広がっていたこの大地から熱を吸い上げ、人口数億の大国が搾取するのと等しいエネルギーを消費して生を得る、ゴジラ。人間の土地から人間に必要な物を吸いあげ、人間の生存圏を甲冑がなければ息をすることもできない場所へと変えた、ゴジラ。ゴジラをそういう存在と見なす時、彼女は体が震えるような、途方もない宇宙につながった気分になった。
  警告が通信から入るまでの、一瞬、ということはつまり、世界の彼方を仰ぎ見る悟りの気分から、ただの怒られるべき悪戯小僧へと転落するまでの一瞬に、彼女は少しだけ気持ち固めた。


 高層の雲海の切れ間から、緑より濃い色をした木々の海が見えた。イズモの突端に設えられた展望台で、初めてここを訪れる人間はかならず来るが、何度も訪れる人間は希だった。しかし、背後の高層ビル群と、どこまでも広がる二重の海の対比は、見事だ。遠くに見える怪獣の山より大きな背中さえ見えなければ、人類がこの世界の王者であり、自分もその一人だという幻想に、生活の貧しさも忘れて浸ることができたかもしれない。
 展望台、といっても、空中都市の縁からそれほど突き出ている訳でもなく、靴を脱ぎ投げ捨ててみても、巧妙な設計で見えないように仕組まれた地面かネットに落ちるのが関の山である事を、アガサとクリスは了解していた。今は眠っているあのゴジラも実はそんな風な錯視の一種ではないか、とほんの少しだけアガサが思ったのは、ゴジラと展望台の間に信じ難いほどの距離があっる筈なのに、ゴジラがそれでもなお途方もなく巨大に見えたからだった。もしもそれがそれほど大きいのならこんな、空を浮く都市など一瞬で灰に変わるだろう。ゴジラの背びれの上の方に、数台の気球が浮かんでいた。


 地質学者、前に出すぎるな、と心理学者が額にトライフォールドを刻んだヘルメット越しに、通信で警告を出した。地質学者が脚を止めると、突然自分が随分他の人間たちから離れてしまっていたことに気がついた。鈍い光を放つ自分の甲冑が、地面から浮かび上がって見えた。
 生物学者が、もうすぐ追いつくから、と呟くと、気象学者が止めていた脚を動かし始めた。ゴツゴツと黒く続く石の群れの中を歩くのは、地質学者以外の誰にとっても、どうにも辛かった。軍人でさえ、時々は脚を滑らせている。何よりも、真珠母色に煌めく空の下を歩き続けるのは、果てのしれない夢のようだった。
 子供の声が聞こえる気がする、と軍人が一人、胸の内で考えた。地質学者は少し、彼我の距離を見ていると、不安になり、ゆっくりと後方の一団に向かって歩き出した。急がなくていいさ、ゴジラはこの程度の集団なら、生存競争の相手とはみなさないのだから。心理学者は地質学者がそう呟いたの聞くと空の彼方を見つめた。




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