押井守の小説『ゾンビ日記』は"人間の中に宿る死"が発動した後の世界、ただ歩くだけの死者が地上を埋め尽くす、ポストポストアポカリプスな世界の物語。その中で、人間である為に、死者を弔い続け、身体について考え続ける、孤独な(或いは孤独であった)人間の物語。
小説を支えるのは、(押井守の作品にしばしば現れるように)物事を語るには、些細な事柄を積み上げる事によってのみ、問題に到達し得る、という信念。
そして、その語られるべき物事が、個人が所有している筈の身体という風に設定される時、小説の内容は徹底的に個人的で私的な物へと変容していく。
それを外部から支えるように、作中には度々、かつて存在した人間文明の象徴でもあるような膨大な引用が挟まれるのだけれど、小説は徹底的に私的で些細な身体に関わる描写によって、成り立っている。
小説の舞台設定として、世界に死が蔓延していくアポカリスティックな描写が回想として語られる。歩き回る屍が、世界に殖えて行った時、人間の肉体に眠る死が、目を覚ますのだと。人が意識を失い、眠りに就く間に、死が肉の中に目覚め、老いも若きも病めるも健やかなるも問わず、死んでいくのだと。
それは途方もない、人間に対する肉体の反乱であり、意識ばかりを問い続ける人間への警鐘でもあるのかもしれない。
押井がそうした物語をゆっくりと語る時、私は自分の身体のことを思い出す。
社会的に与えられた性に違和を覚え、それを社会的なコードでねじ伏せる。自分に与えられた性は、常に自分の肉体と意識を裏切り続け、肉体も、意識を裏切り続けるう、生きにくさ。
"性を持つ肉体の性"と"性を持つ意識の性"のズレ。そしてこの"性を持つ意識/肉体の性"とは振舞いや性格、衣服によって規定されるものではなく、むしろそうしたアニマだとかマニアだとか父性だとか母性だとかに抑圧されているナニカ。
この認識が向う先は、身体とは何か、という無限の疑問であり、さらにその身体の持つ性とは何か、というさらにさらに厄介な問題意識。
押井が、この小説で試みようとしているのも、実は殆ど同じ領域への進撃なのではないか、と私には思えた。
作中で、主人公は服を着、アクセサリーを付け、化粧をする事で、人間は身体を所有し直す、と語る。
それは、社会と呪術によって自意識の中に規定される身体の事。
そのように身体が所有される時、人は一個の公的な身体を持つ個人になるのだと。
身体がこうして語られる時、身体は所与の物として所有できる何かではなく、苦闘し困難の中で受け入れ付き合っていく、他者となる。
押井が作中で執拗に描写した糞尿を垂れる身体と、肉体を意識する私との間の相克の中で、身体が舞い始める。
ここで押井が目指すのは、何も語る言葉を持たない身体を、言葉の海の中で実践の側から捉えようとする行為…なのだと私は思った。
私はその物語から、自分の日々の違和を生きていく、その勇気を少しだけもらえるような気がした。見るものは全く違うけれど、同じ物を見ているような気がして…。
この感覚は、たぶんきっと、病や、老衰、多くの身体との差異に悩む人間に、届くもの…のような気がする。それで苦しみが癒えるわけではけしてないのだけれど。
ゾンビ日記の主人公が歩く屍たちを葬送=射殺する時には、必ず主人公はこの肉体との格闘を行う。そして、ゾンビ達を殺戮する。
或いはそのゾンビを殺す行為も、外部化された身体との闘争なのかもしれない。。身体と意識の格闘を行う主人公は、意識なき身体の象徴であるゾンビを殺す。
そうであるなら、その銃弾は、身体のことを思わず、意識だけが服を着て歩くような、そんな自分にも向けて放たれる。
押井 守
2015-07-11
今作の前編。ここで語られる独白の多くのテーマーー大量死、発現する死、モラルハザード、ジェノサイド、兵士の意識、人を殺せない人間の基本心理ーーが伊藤計劃の作品で語られるテーマと一致するのが、興味深い。押井監督は伊藤作品を読んでいないと語っていらしたので、偶然というか必然の一致なのだろうけれども。
本書ゾンビ日記2には記載はないけれど、押井守による身体論の多くは、舞踏家最上和子氏の言葉によっています(ゾンビ日記には記載あり)
最上氏のブログの内容は途方もなく素晴らしいので是非一度訪れてみてください…。
最上氏による富士樹海での舞踏の影像。