■一千一頁物語

一瞬を凍らせる短歌やスナップショットのように生きたいブログ

2015年10月

本の一ページを紹介するブックレビュー一千一頁物語 SSよりも瞬間的な創作小説SnapWritte スナップショットの感覚、短歌の精神で怖いものを探求したい…願望

オースン・スコット・カード『ソング・マスター』無自覚がもたらす予期せぬ奇跡

  ソングマスター (ハヤカワ文庫 SF 550)

遥か未来の、抑圧的な帝政の時代、1人のゲイ寄りのバイセクシュアル男性(自分ながら何割かはゲイで何割かはヘテロだと語る)が、抑圧への苦悩を叫ぶ。偏見を指弾する。
 純粋で、純正な愛と、愛を抑圧する人間の愚かさ(もしかすると賢さ)が招く悲劇…。SFの形をとりながら、オースンスコットカードの『ソングマスター』は、そうした社会を非難する…としか読みようのない物語を描き出す。
 歌う少年少女を世界に送り出す機関(歌うジェダイ)、そして彼ら彼女らを望む権力者。物語はこの2つの設定を柱に、壮麗な才能と愛の、複雑な力学を描き出していく。
 それは、同性愛の問題に留まらず、人間の感じ易すぎる心の針が、愛のレコードに刻まれた溝をたどるときの、強烈な波動がもたらす物の、物語。
 スコットカードが、無伴奏ソナタなどでとる、抑圧され吹き飛ばされるマイノリティに対する深い眼差しを、愛の物語に向けたとき、そこに同性愛というテーマが浮き上がってくるのは必然だったのだ、と思う。
 彼の持つ詩的な文章の力能で、異性に限らない愛をを美しく強く讃えることも、必然だったのだ、と。
 SFと同性愛と、愛の物語が、ここまで高いレベルで、そして自然に融和した物語は数少ないと思う。そしてここまでロマンス詩的な物語も(そこに80年代の男性作家らしい無知と傲慢が潜んではいても)。

 と…話がここで終われば、いいのだけれど、しかし、不思議な事に、オースンスコットカードは強烈な反同性愛・反同性婚論者として、米国では知られている。
厳格なモルモン教徒として、彼は頑なに、それに反抗している。彼の代表作である長編小説『エンダーのゲーム』(元は無伴奏ソナタの短編だけど)が近年映画化された際には、彼の同性愛に対する態度から性的マイノリティ団体の主導で不買運動が起こり、製作会社のワーナーが、自身には一切同性愛を否定する意思はないと、弁明する事態が起きた。
 どうして、こんなにも正反対な事が起こり得るの、だろう。確かに、『ソングマスター』を読めば、そこには不勉強と偏見が隠れている事は、良くわかるけれど、それにしても、これほどの事が起きる様なものでは決してなくて…。
 作家と、作品は、無関係だ。作家がどんな人間でも、作品の輝きは薄れない。反差別を訴える作家が驚くような無知で差別を描くこともあれば、作品の中の登場人物が差別的な作者の意志に反して、差別を糾弾することもある。それでも、ここまでの、作家のズレが起こるなんて、とても不思議で、絶望的にも思える。

けれど、もしかすると、それは奇跡で、不寛容に対抗する希望なのかもしれない。少なくとも、そこには不寛容の意志から寛容の種子が生まれているのだから。


オースン スコット カード
2014-04-01
初めて読んだのは多分小学生の時。どれほど押さえつけられても、どうしようもなく生き残る者たちの姿と音に、ひどく打たれる。

◼︎ロサキネンシス

 彼は薔薇を育てることに心血を注いでいるらしいのだけど、薔薇の形態的な要素、外見については全く関心を示さない。薔薇を育てるには、薔薇の様子に気遣わないといけないのに、外見を評することが全く無いのは不思議なのだけど、この日も、薔薇の奇形に気がついたのは僕が先だったのだ。
 この薔薇一輪だけ双子みたいだよ、ほら、ひとつの茎なのに、真ん中が二つ。僕は居間で新聞を読んでいる彼に、ベランダの開けた窓から話しかける。彼が気づいていないであろう事は指摘しない。すると何故か不機嫌になるから。
 ああ、ほんとだ、珍しいね、時々あるみたいだけど。彼は新聞から目を上げて、眼鏡の位置を調節する。この頃彼は老眼で、僕は心配だった。
 時々?珍しい?どっちなの、それ、えっと、そうじゃなくって、これって、このまま育つ?僕はそうなったら、僕ら二人みたいでロマンティックだな、なんて呑気な事を頭の片隅で考えている。彼は年を取っていたけど綺麗だった。
 ううん、たぶん、ダメだね、大抵片方がもう片方を飲み込むからね、最後には大きな一輪の薔薇になるんだ、たぶん。育てている薔薇の外見に拘らない癖に、知識は豊富なのだ。そういう所がチグハグで、面白い。僕は彼が好ましかった。

□硝子、鏡、破片


 雨が降っている。
 最近の流行りはエラをつける事。雨の日なんか、気持ちいいものだよ、と娘が電話口で話していた。という話を、彼女は喫茶店の窓際のテーブル席にどっしりと座って、同じく窓際のテーブル席に座る私に聴かせている。娘との親密さが、彼女の自慢だったので。私はと言えば、人の話を黙って聞く能力が、自慢だったから何も言わずに聞いている。誰かがもう一人、同じテーブルに座っていれば時々に、相槌位は聞こえるかもしれない。
 肩甲骨を少し伸ばして羽の名残を作る手術の予算は、100万円なのだ、という話をしたところで、彼女は言葉を途切れさせて、コーヒーのカップごと皿を持ち上げた。彼女が目を外に向けると、娘と同じくらいの年代に見えるのは、顔の造作ではなくて、彼女の強さの現れだ、と私は解釈する。
 私はきっと老けて見えて平凡な顔だろうな、と思って窓の表面に目を凝らすと、その通りの顔が浮かんでいた。

アンナ・カヴァン『アサイラム・ピース』


作者:アンナ・カヴァン
書籍名:アサイラム・ピース
頁番号:156p

アンナカヴァンの『アサイラム・ピース』は、動態から静止へ向かう瞬間、大きな物語の中では消え入りそうな頼りない運動を、短い文書の中に閉じ込める。
この一ページは、アサイラム=精神治療院の職員が、患者の部屋の清掃を終える場面。
記録されているのは、患者の動きと、部屋の中の静謐な停止状態。それに巨大な世界からは溢れ、消失する感傷。
アンナ・カヴァンの深すぎる洞察と、世界への感覚が、このページには込められているように思えた。

アサイラム・ピースは、ごく短い短編の連続で成り立つ、連作短編集。
全体は、一人称で綴られる、カフカ的な世界で翻弄される鋭敏すぎる精神病の社会不適合者の物語と、アサイラムピースと題された三人称で綴られる精神治療院の物語の二つからなっている。
主観的感覚が、客観的で詳細な描写を歪めていく特異な現実感覚が、読書する"私"の身体的知覚を変容させる奇妙な酩酊が作品を貫いてくねっている。
その文体の成分は、たぶん内田百閒に近く、エイミーベンダーをはじめとするアメリカの女性短編小説家の作品にも似ている。映画で言えばラースフォントリアーかも、しれない。(トリアーの撮るアンナカヴァン作品はきっと凄い)
動と静の間で揺らされ続ける自己と、客観的な描写が繰り広げる主観的世界。
短編集の構造自体が、歪んだ客観に裏切られ続け動かされ続ける主観の物語が、動きえない精神治療院の、客観から主観を見下ろす物語へと変動していく。
それは多分、世界の残酷さを思い出した人間の蒸留された姿なのではないかな。
世界が本当に狂気によって駆動されていると、そう考えざるを得ない状況へ追い込まれた人々の、その主観に極限まで接近した小説。
私たちが立っているのは、実はそういう世界なのだと、世界を包む柔らかい皮をピンで留めた物語。

アンナ カヴァン
2015-03-10
アンナカヴァンの代表作。
氷が世界を埋め尽くそうとする中で、少女に執着する男の異様で無自覚な傲慢を描く黙示SF。なのもかもが氷に消えていく。



押井守監督『GARM WARS The Last Druid(ガルム・ウォーズ)』インプレッション 残酷な世界を研究する祈り



 部屋を暗くして、巨大TVに近づいて鑑賞しました。
 手短に感想を。

 押井守監督の映画『GARM WARS The Last Druid』(以下 GARM)は、遥かな世界で彷徨うサイボーグ種族ガルムたちの虚無を描いた映画。
 映画のビジュアルと物語の結び付きは他の作品に喩えようのない物。あらゆるジャンルに結びつきながら、あらゆる文脈から離れて行く。だから一度見ただけでは頭に馴染まない。映像は完成形ではないのだけど、そのビジョンが最後にはそんな事が気にならない世界と時間の異様な美しさを構築して。(だから二度目はすごく満足度が高いと思う)

 そして、最後まで見ると、幾つかの欠点(GARMの製作は困難に満ちていた)を吹き飛ばして、ただ素晴らしかった……としか思えない。
 映画を観た後に残る途方も無い悲哀感と、それでも世界を知りたいと願う祈りの感覚の余韻。
 その感覚がとても異質で美しい。波長の合う人間の体の中に、何か奇妙な結晶を生んでくれるような。


以下、なるべく既に出ている予告以上のものには触れないようにしましたが、一切のネタバレと先入観を持ちたくない方は注意してください…。

 先年の東京国際映画祭でご覧になった方々の感想にある通り
 押井守監督の好きな物が居並び、世界のフレームを形作っている。
 冒頭から顕れる怪物的なデザインの群れは、CGのリアルを超えて強く印象に残る。これだけのデザインが集った映画はそうそうにはない、もの。
 次々に披露される細かいギミックはもちろん、艦載機の動きに合わせてなるオートマタ風のサウンドの異質感は、見終えた今も耳に残ってる。
 この辺りの場面はとても絵画的でイラスト的な印象。キャラクタデザインを担当されている末弥 純さんの絵のような。

©I.G.fim
(この艦載機のギミックはすごかった元のアイデアは10年以上前に遡る筈だけど、今までこんな飛行機を見たことがなかった)。

 ただ私はそれよりも、地上に堕ちた世界の方が美しく、感じられた。
ドイツのロマン派の描く荒涼と、崇高さの体験。

 
 サイボーグは、自然=生物と機械の融合によって生まれ、故に二項対立を乗り越え、起源神話をも捨て去り、生産の夢を見ず、復活を夢見ず、再生だけを求め、悪夢的で強圧的な情報交通支配に対抗する…とかつてダナハラウェイは、記念碑的なSFフェミニズム論文『サイボーグフェミニズム』で語った。
 けれど、自然という他者を捨てたサイボーグには、もはや乗り越えるべき二項対立の根拠さえなく、起源神話を捨て去るのではなく、起源神話の根本を知らないサイボーグには、支配に対抗すべき根拠さえも、獲得しえないのかもしれない。
 それどころか、そんなサイボーグは、他者を支配する理由さえも、忘れ去り、やがてただ悪夢的な支配の構造だけが残されるのかもしれない。生産を夢見ず、再生だけを求める、その資質を残したまま……。

 映画『GARM WARS The Last Druid』が描き出す世界とはまさにこんな世界。最近の流行りでいえば、それはイモータンジョーを失くし、虚無の極北まで達したウォーボーイズ(ガルムたちは性差を超越してるけど)たちの群れ…とも言えるかも。


  だから、そんなガルムが、地上にあって自然の中を彷徨う場面は、自らの個的な根拠に目覚めていく場面でもあって(その前にはドッペルゲンガーのイメージ=自我の目覚めまである)、絵的な美しさも手伝い、とても印象的。
 こうして世界を知り、他者的な世界の中で出会ったガルムたちは、ランス・ヘンリクセン演じるウィドに誘われ、世界の起源を知る旅に出る。自分の起源を知り、その行く方を知るために。
 ウィドは言う、自らの起源を知らぬ者は自らの未来を持てない…と。
 私たちは、何故、私たちの世界を知ろうとするのか、何故、考え、探り、自分の中と自分の外にある者を求めるのか、映画はそれに応えようとする。
 それは、世界に偏在する、想像しえない物を探る誘いであり、祈りであり、pirigrim=巡礼と語られるに相応しい旅路。こうしてガルムたちは旅に出る。
私は、映画の序盤のアウトラインをこんな風に見た。


 そして旅路の果てに訪れるラスト、そこで気づくのは、今、映画を見る私の世界のこと。
 映画が"語り"の形式を持ち、章に分けられた神話的形式を持つ理由がそこでわかる。
 顔のない巨人の虚無に、観客は取り残される。
 この時の異質感は、それまでちょくちょく溜まった不満(ちょっとしたCGとスタジオ撮影の合成のレベルとか、微妙にハリウッドっぽい脚本(一度ハリウッド風に盛った物を様々な都合で削ったそう))を一挙に吹き飛ばして、ただ、ああ、凄い物を体験してしまった、と感じさせてくれる。

 押井作品における神というのは、天使のたまごの彫像から始まってスカイクロラのティーチャに至るまで、静止して世界を見つめない目を持つ存在で。人がその者たちを想う事で、世界が成立していたのが従来の押井作品。

 ところが、ガルムではそうした絶対的な神は消え去り、身近な犬がその場所を温めている。

 ガブリエル、セラフィムと、犬には神と人間の媒介たる天使の名前が付けられてきたけれど、ガルム・ウォーズでは絶対的な上位者としての神は崩落し、犬もその後ろに背負う神を失くし、ただ媒介として人を見ている。

 その時、犬はとても神に近くなったのかもしれない。

 
 ガルムたちはそんな犬とともに自分たちの起源を探した。それを乗り越える為に。
 群れの夢から個となって。




 そして、物語は、同一テーマをミステリ的に位相をずらして語る押井守監督の小説『GARM WARS 白銀の審問艦』(ここでは名付ける支配というテーマがメインだけれど)へと繋がりそこで新たな未来が芽生え、さらにその先のまだ見ぬ本当の本編へと、繋がっていく(はず)。




以下、映画の色々に対する雑感とまとめ


 CGのレベル、なんて書いたけれど、最後まで見きった時には、とても充実感と満足感が。そもそもCGのレベルは充分には要求を満たしていると感じられた。(もし問題があるばらロケ撮影出来なかったセット/スタジオ合成の部分)
 たぶんGARMという映画の美は、色彩がハレーションを起こした超アンリアルな映像に、その中心がくるように設計されているのだと思う。
 だから、一見すると奇妙な映像でも、ガルムたちの時間を体験するとともに、だんだんとそれが、とても美しく自分の神経の中に馴染んでくる。
 なにより、その満足感は、この映画がデザインの全てを予算を顧みず、出し惜しみせず、見せ切ってくれるから、だと。
 お皿に様々な料理を少量ずつ盛ったヌーベルキュイジーヌな感覚。
 ある種のショーケース的な「この映画はこれだけの物を持っています、予算をもっとくれれば、この要素をそれぞれもっと一杯見せられます!!」というような。
 押井守監督は本作についてダークナイトに対する、バットマンビギンズであり、神々の黄昏に対するニーベルングの指環、と語っておられました。
 端的に言うと、もっと見たい。

押井作品でおなじみの川井憲次さんの音楽、特にOPとEDの曲は素晴らしかった。
ちょっと意外な感じなのだけど、川井憲次さんの新風を感じて。
サウンドトラックが出たら何回も聞きたい。
もっと聞きたい。

 役者さんたちの演技もとても良かった。ランスヘンリクセンさんの老獪な探求者と声が素敵だったし、ケヴィンデュランドさんの豪快に見えながら繊細の表情もとてもパワフル。なんと言っても、主人公カラを演じたメラニーサンピエールさんの演技は本当に良かった。
 映画を全部引っ張ってる演技で。押井映画の中で一番エモーショナルなのだけどそれが不思議と、とても押井映画に馴染んでいて。
 ラストの表情は萩尾望都様の描く百億の昼と千億の夜のあしゅら王を彷彿。押井映画でこんな表情の描写は珍しいけど綺麗だった。
のちに製作された『東京無国籍少女』の習熟した実写映画感覚のキレを思うと、押井監督は実写にどんどん馴染んでるなぁと感じる。


 映画の終盤、予告にもある巨人との戦いのシークエンスは、実写版『進撃の巨人』で世間を沸かせる樋口真嗣監督のコンテによる物。
 公開こそ、『進撃の巨人』の後ですが、GARMは進撃の巨人より先に作られてる。
 まさかの立体起動装置シーンもあって(他人の映画をダシに自作のパイロットをした疑惑)比較してみるのも一興かと…(私は進撃を見ていないのでなんとも言えないけれど)。




 最後に、押井守監督の色々を追っていると、GARM WARSという映画の製作環境を巡る過酷さをよく知ってしまいます。
コンテ、脚本、セット撮影、ロケ撮影、CG、仕上げ、全てにおいて想像を絶する困難があったようです。
 映画にはそれがわかる部分がないとは言いません。
 けれど、このような映画に挑戦することの困難さは、よく知られている筈です。特にこのGARMは映画史を探しても類例の見つからない映画。(だから欠点に見える物欠点には見えなかったりします)
 それこそ映画『進撃の巨人』のスタッフがおっしゃったように、壁の向こうの巨人に立ち向かわないことにはどうしようもないのですから。
 押井監督も、「丘に立たなければ向こうの景色は見えない」と仰られました。
なにより、映画を最後まで見きった後の感想は、ただただ凄い映画でした、としかいえない感覚。
 誰がなんと言っても奇妙で美しく見える映像の数々は絵画的で壮絶。
 絶対に劇場で観たい作品。
 なんとしてでも大きな劇場で公開してほしい物です…。(これいうの何回目だろう…)

それにデザイン群も素晴らしかったので模型と分厚い電話帳みたいな設定資料集が欲しいです。
リボルテック竹谷枠でフィギュアも欲しい。
あれも欲しい、これも欲しい、もっと見たくなる、お金を払いたくなる映画なんです…。


追記
遂に日本での上映がガルム・ウォーズとして決定!
ジブリの鈴木敏夫Pを加えての公開になるそうです。
2016年 5・20日公開








間違いなくガルムの原点になっている作品
ガルムはこれに対する挑戦なのかも

最上 和子
2016-03-27
最近の押井監督の身体論につい良い影響を与えている舞踏家最上和子さんのエッセイ。レビューも書きました。http://1001pages.blog.jp/archives/1057720522.html








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