■一千一頁物語

一瞬を凍らせる短歌やスナップショットのように生きたいブログ

2015年12月

本の一ページを紹介するブックレビュー一千一頁物語 SSよりも瞬間的な創作小説SnapWritte スナップショットの感覚、短歌の精神で怖いものを探求したい…願望

マルグリット・ユルスナール『火』変転する性の墓坑と復活



マルグリット・ユルスナール『火』

 消費を許さない彫刻のような文章の奥底にある青褪めた顔のある物語群。


作者:マルグリット・ユルスナール
書籍名:火
頁番号:32p

 ギリシア神話の硬質な世界を、そのまま何か違うものに見たてた掌編集。まるで複雑なギリシア彫刻のシルエットをぐるぐると見渡すように、ユルスナールは本来の姿にはない何かを、ギリシアの神話に読み取り、挿入した。そこでは過去のギリシアの小道が、さも当然であるかの様に、現代の都市の小道につながっている。

 それはまた、性の可塑性と、突然に顕われる不可能性が、死の周りをクルクル回っているような感覚でもある。

 登場人物たちはギリシア人らしく、同性との間に明白な愛を育むのだけど、みな、心の中で性を自由に変転させていく。女性は男性同性愛者となって男性を愛するし、男性は自らの雄々しい身振りを女性の優雅なそれと認識され、女性は男性であることを疑われる。

 心の中の性は彫刻の様に可塑的で自由だ。

 女のように飛翔していくアキレウスに取り残された男性のような少女の佇む岸壁の印象の強さ。そんな単純化をはねのける文の縺れ。文章が重ねられる度、可能性と不可能性の構図が次々に複雑性を増して、何故か、何か暗く重い墓坑が彫られていく。

 その変身は突然、何かに裏切られる。他人の中に性を読み取る視線が、肉体を絡め取り、翼がもげて落ちる。物語の空気は血の匂いを含み出し、暗い墓溝に身体が落下していく。

 自由にできながら、所有することも変化させることも許されない何ものか。心底の絶望がそこに待っている。個人の世界を許さない、統合された世界が持つ肉体への強制。

 ただ、そこには何かの希望もある。

 落ちていく姿がむしろ飛翔の様でもある姿たち。暗い墓から復活を遂げる予感。そして掌編が、固定されたギリシア世界の読み直しであり復活であるパロディとして描かれていること。

 それ自体が何かの復活を暗示するかの様に。世界全体を読み替える可能性がそこに眠っている。

 アキレウスが自らの明白な性を持たずに、自らとして生きていること。見つめられ、規定させられる、他者の視線への嘲りと全身の反逆。

 冒頭に掲げた一ページは、アキレウスが島から駆け出し、それを女装した男と疑われたミサンドラが見送る場面(二人は恋敵でもあった)。性の可能態と、何かの不可能性が奇妙に交錯し、海が向こうに広がっている。立ち竦んでいるのは、読者であり、立ち竦ませているのも読者ではないか。

 編まれた短編の連続の最後、言葉はサッフォーの奇妙な復活を、死さえ他者から奪い去られた復活を、描いて終わる。
その先の希望は、死と絶望と墓の暗さを知った読者の心臓の中に、託されているのだと私は思いたい。




マルグリット ユルスナール
1992-11

この本ではあまり語られないけれど、シャープの生きようとしたあり方は、ユルスナールの火の中の世界を陰画のような奇妙な形で1人の中に抱え込んだものだったような気がする。性の眼差しから逃れ、自身を変転させようとしながら、性の眼差しを自身の中に取り込んだ結果、変転の不可能性にぶつかった生き方。

◻︎ケイシとコウコ

 天井のプロジェクタから、光がそっとこぼれ落ちて、空気に満ちる埃を、プロジェクタが優しくてらす。ケイシは、そこに天使の面影を感じ、そっとコウコの顔を見つめる。さっとプロジェクタの光が暗くなり、コウコの顔は闇に溶ける。動画が始まり、白い壁に世界が現れる。コウコとケイシは、幾度もこの動画を見ていた。
 誰もが知っているい事件の動画だ。この国を襲った災害の動画。けれど、動画にあるのは、報道ではぬぐい取られた、死の痕跡だった。死神さえいない、物質と生の分かれ目を写す写真の数々。ケイシとコウコは、この動画を時々見ては、世界の破壊が持つ厳粛さを、思い出そうと努める。1人の人が感じる苦しみを、感じなかった苦しみを、そしてそれが拭い去られた悲しみを。
 ケイシは病を抱えていた。命を奪わないけど、生活の大半を苦しみで奪う病だ。ケイシはやがて、死の事を忘れるようになった。一方のコウコは昔、世界の突端で海と山を持つ宿に勤めていた頃に、死神に出会ったことがあったと、ケイシに話していた。けれど、コウコが言うには、あの死神、臓器から、筋肉から、組織から、宝石を奪い一つ一つ数えあげるあの死神さえ、これを見せはしなかったのだそうだ。死神も、変わったのかもしれないと、今のコウコは思っていた。

音楽◇クラシック・エレクトロニカ・ユニット『Chouchou』 脆く疼く痛みと、現在進行形で語る過去形の意識


 Chouchouさんの音楽が、好きだ。その音楽が魂に来る人には、きっと救いにもなるような音楽。

 クラシックで端正な旋律が水面めいてなんとも綺麗だし、溢れ出すエレクトロな音が気持ち良い。空を見上げるような歌詞が美しくて、漂いながら降りて来る歌声が体に染み渡っていく。
 胸を切り裂くような痛みがあって、なんとも言えない浄化の感覚がある。その音楽から抜け出した後に、身の回りの光景を見ると、なんだか全然違う姿を見てしまう。蛍光灯の黄色っぽい光を浴るプラスティックの表面が、とても美しく感じてくる。



 Chouchouさんは仮想現実空間SecondLifeから生まれたユニット。その出自から、ネット空間からの発信に行動を限定していたのだけど、最近ではCDを現実空間に届け始め、活動空間を広めている。活動自体が、なんだかSFっぽい。Youtubeで確認できるSecondLife内でのライブ映像なんて、ウィリアムギブソンの世界だと思う。ギブソンの世界だったら、きっとネット生活者のカリスマで、なんだかよく分からない陰謀の彼方に座っている存在に違いない。


 Chouchouさんの音楽は、クラシックな基礎を感じる旋律を、今の視点からエレクトロニカな音で包むような音楽。私的な感覚を言えば、壊れてしまったものを悼むような音楽。そして切れ味が鋭い。


 Chouchouさんの恐ろしい所は、兎に角あらゆる最終プロダクトに妥協がなくて、緩さがない所。手作り感が何処にもない。

 たとえば、Chouchouさんはマスタリングまで自分たちで手がけていて、これがとっても綺麗。色々な環境で聞いても、音が埋もれない。スマフォのスピーカから流しても、エッジの尖った音が響いてくる(なんでもマスタリングの際は、高級なオーディオ機器だけでなくて、車からスマフォまで様々な環境で調整しているのだとか。贅沢!)。


 音楽活動の殆どあらゆる場面を、自分たちの手の届く範囲に限定してコントロールするのも、完成度を妥協なく上げていくためなのだと思う。CDのデザインも、ガッチリと完成されていて、持っていて嬉しくなる。



上の写真はアルバム『ALEXANDER』限定版の文庫サイズのアートブックレット。砕かれた鉱物の表面を接写した美しいイメージがとても良くて、その多彩で微細な色の一つ一つがはっきりと発色して印刷されているのがすごい。ホチキス留めでなくて、きちんと背があるのが拘りを感じさせてくれる。Chouchouさんの音楽に感じる妥協のない拘りが、物質として生きている一冊。


 そしてこの妥協のなさ自体、Chouchouさんの音楽世界を形作る物だと思う。あの完成度を個人規模で作り上げる努力を思うと、ゾッとする。何処までも甘く入っていけそうなのに、その世界は既に何処かで存在していて、自分のままでは入っていけない。こうやって作られる距離感の微妙さが、Chouchouさんの美しさだと、聴いていると、感じる。


 殆どのアルバムが、冷たく鋭いインストゥルメンタル曲から始まって、そうでなくても、長い前奏から始まるのは、Chouchouさんのそんな距離感への態度の表れのような気がする。遠い空間で響くピアノの音と、微かに混じる電子音、そして音のない真っ黒な空白。その、繰り返し、繰り返す波が、音楽の世界の中に決定的な距離を刻んでいく。想像の力が届きそうなのに、届かない。それなのに、静かな音楽は、現実を見る精神を鎮静してくれる。繰り返されるパターンが、聞き手の予測によりそってくれて、しっかりと足元を、断続的に照らしてくれている。そう考えると、ここで作られる距離感とは、現実世界と音楽世界をつなぐハイウェイなのかもしれない。 


 Chouchouさんの音楽は甘くて冷たい。


 驚くのは、Chouchouさんの音楽は多彩さ。最新アルバムのALEXANDRITEでは、ポップのような淡い歌から、心地よいエレクトロ、それにスリーピースバンドみたいなギター曲まで、様々な味わ
いが楽しめる(限定版ではアレンジアルバムCold-Rougeが付いていて、こちらではアルバム収録の楽曲が尖ったエレクトロアレンジに変容している。その変容の仕方がまた凄くみごとな変貌ぶり)。でも、どの曲もどうしようもなくChouchouさんの曲で。


 それが凄く美しい。妥協のなさに支えられて、優しい甘さと、尖った美しさのギリギリのエッジに立った音楽。


 Chouchouさんの名前を聞いて、出逢ったら、その音楽を幾つか聞いて、そしてその後でアルバムを買ってみれば、きっと何処かに心を満たしてくれる物が在るはず。



・Chouchouさんの公式HP
Musicの項目からアルバム収録された一曲ごとのカバーアートがみれます。

・Chouchouさんのバンドキャンプ
こちらから購入できるものが、最も高音質な音源だそうです。
全曲のフル視聴もあり。

・Chouchouさんの公式Youtubeチャンネル
Chouchouさんの公式PVが視聴できます。どれも驚きのハイクオリティ。


Chouchou
2015-04-25
Chouchouさんの最新アルバム。過去に発表されたシングル曲のリマスタ版も収録されているので、初めての方にオススメ。進化だけでなくて、変化への振れ幅が聞いていて愉しい。こちらのバイカラーエディションはアレンジ版と豪華なイメージの紙箱と、更に美しいアートイメージが楽しめるブックレットまでついてお値段約3500円……お得。



Chouchouさんの音楽を聞くとなぜか時々飛 浩隆さんのこのSF小説を思い出す。仮想リゾート空間のAIたちの物語。いつかこの作品が映像化されたらChouchouさんの音楽が似合うと思う。



Chouchouさんの音楽はすでにネットを通じていろんなところで広がっているようで、このポーランド映画に挿入歌として使われている。仮想現実と現実の間で揺れる高校生の物語だそうで、ご覧になった方の感想を読むと、岩井俊二作品っぽい雰囲気を感じる。日本ではメディアがないのだけど、見てみたい一作。

Chouchouさんのピアノアルバム。演奏楽器しかない時代、音楽というのは一回性の物だったけれど、メロンパークの魔術師ことエジソン以降の大量複製の時代が、その魔力を覆った。Chouchouの作曲担当のアラベスクさんはそんな一回性の申し子みたいなクラシックピアニストで、こちらのアルバムでその腕を堪能できるのだけど、デジタルメディアを中心に活動し、ライブを行わないChouchouさんの音楽は一回性とは対極の位置にあるような気がする。けれども、音楽は今や持ち運べるようになった。そこにはまた新しい一回性との出会いの可能性があるように、Chouchouさんの曲を聞くと思えてくる。


OrcaOrcaさんはChouChouさんの作曲の方がやっていらっしゃる別プロジェクト。こちらもいいです。







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以下、Chouchouさんの音楽に対する個人的な感想です。
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Chouchouさんの音楽を聴いていると、何故だかとても懐かしい感じがして、切なく思えて、それなのに心が穏やかに、私は感じます。そして世界が少し変わって見えます。それって、何故だろう、ということをつらつらと考えながら書いたのが以下の文章です。どうかご笑覧ください。



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 Chouchouさんの音楽は、現在進行形で語られる過去形の音楽だと、私は感じる。
 Chouchouさんの音楽は、今ここで語る私という存在の"意識"に主眼を置いた音楽、だと感じる。

 
 クラシックな旋律をエレクトロニカな電子音が覆い込みながら、作り込まれたサンプリング音声が混ざる、Chouchouさんの楽曲スタイルに、今の視点から過去を想う、その視線を感じる。今、音を紡ぎ歌う、その視点が、Chouchouさんの曲のなかに用意されているのではないかしら。


 だから、たとえばアルバム『Vimculam』収録の『gravity』



 あなたはいってしまう 私を瓦礫の中に残して



という歌詞の後に続いて



 あなたは朽ちてゆく 私の中を未来永劫に引き裂きながら




という歌詞が同じメロディで対照される時、前段の過去は後段の中では、今の私(語り手)の内に生きる幻像のように感じる。そこで中心にあるのは、いま過去を感じている"私"のように思える。


 少しずつ引き延ばされていくボーカルの声の中には、生々しく自分の中に残る他人の残像が、宿っているように思える。落ちていく過去は、幻想として思い出すことしかできなくて、それでも、今の自分の中には、思い出すたびに過去の感覚が生きて、ある。過去と現在形が交錯する。Chouchouさんの歌はそいうところがあると、私は思う。


 今、ここにいる私の意識が、過去のことを語る。意識の流れから見たなら、過去とは、現在の中からのみ回想される事が出来る物、という事に。不可逆な過去は現実ではあり得くて、過去を思い返す仕草に重点が置かれる時、過去は今の中に存在する曖昧な物に変わっていく。


 だから、Chouchouさんの歌では過去は時に忘却と結びついていることがあるのだと思う。残されているのは、現在形進行形で過去形を口にする話者の中にある、疼くように痛む"感じ"なのではないかな、と。過去の残滓、幻、それだけが現在形で生きている。宝石のような音の中で飾られた甘やかな歌声の中で、過去は忘却される事で、今の中に、感覚という幻として文字通りに生きている…。Chouchouさんの音楽に、今の私には、そういう形の部分が強く感じられ。


 そして、その感覚は、能や短歌でいう"幽玄"という感覚に接続されているような気がする。
 何かの感覚が生まれ、でもその瞬間にその感覚を生んだものが、初めからなかったかのように消えてしまう、幽玄という感覚。
 

 少しずつ途切れながら繋がる音が、重なり合って一つの曲になる、Chouchouさんの曲。時折に意識される小さな音の空白は、過去の音の響く場所のような気がする。展開に合わせて、音が退場したり入場したりして、旋律が繋がっていく時には、どこかでさっきまで聞いていた(聞いていなかった)音が、リバーブしているような気がしてならない。


 あり得た過去と、あり得る未来が、今の中に折りたたまれている。音に導かれて、今を感じる意識がほんの少しずらされていく。


 そしてChouchouさんの代表曲『sign』
  


   たとえば 今



と仮定法でゆっくりと歌われだす時、今という意識の瞬間さえ、曖昧で仮想的で不確かな未来に繋がっていく様だと思う。今という瞬間が、とても幅広い次の瞬間という可能性の中に溶け込んでいく。
その少しあとで



     探して記憶を 残して明日を




と歌われれば、過去と未来は、あり得たこと、あり得ること、という可能性という感覚同士で緩く、結わえられているかのよう。そして、その二つの中に、今、という確からしい瞬間がそっと、落としこまれている。


 Chouchouさんの音楽はだから、聞いた人の意識を変容させてしまうのだと思う。


 Chouchouさんの歌の中では、過去と未来が、今という感覚の中に生きているのだと思う。或いは、今、という感覚自体が、過去と未来に向けて広がっているのだと。だからChouchouさんの歌を聴いていると、今は変容の可能性を保持し続けて立ち上がって来る気がする。今という瞬間に、過去と繋がった感覚が、次々に生きていきながら、過去は次々に溶けていく。


 だからChouchouさんの音楽を聴いた後で、風景を見渡すと、見当識がずれて何もかも、その曲を彩る音のように綺羅として見えてくるのでは。そうして、Chouchouさんの音楽は、旋律と、音と、歌声と、詩でもって、聴く人の意識を変容させるのではないかしら。


 そもそも、音楽という表現は、人の意識の曖昧さによっている可能性も、ある…らしい。進行する和音の連なりに、心地よさ、不快さを、人は感じる。A、B、A、という和音の組み合わせと、A、B、Cという和音の組み合わせは、一つの音の違いにすぎなくても、人は決定的に違う物だとみなす。その時、AとかCとかの和音を聴いた人の意識は、過去の和音を体のなかで参照している。音楽を聴ける能力自体が、人の意識が無意識的に過去を参照しながら複層的な時間を生きている証拠でもあるのかもしれない、のだとか。それに、人は和音進行を聞くと、その終止構造を脳内で自然と予測する、と言う研究もある。人は未来に向けても、今という瞬間の可能性を開いている。


 今の意識に生きる過去、という認識の中で、過去は、文字通りに生きている。それは何度も再演され、何度も同じ形にはならない筈。そこに、真実とか、過去の確かさはない。真実ではない、というその事が、けれどChouchouさんの音楽の癒しだと、私は思う。 


 過去と忘却、後悔のなかに立ちすくむようなChouchouさんの音楽は、過去の痛みを生々しく蘇らせる。過去の微妙な思いが生き返る。でも、そうして過去が今のなかで生きているのなら、過去が未来とも繋がっているのなら、過去は今の中で変化していく。だから、過去を取り戻せない寂しさが、変化への寛容な癒しと同じになっていく。過去という重い荷物が、少しだけ優しくなってくれる。


 私は、Chouchouさんの音楽を聴いて癒される。







ここまで項を書き終えて、また考え込むのは、忘れたくて、捨てたくて、忘れていて、それでもあり続ける記憶、あの疼くような過去とはなんだろ、という疑問。その時に、一体どんな罪を犯してしまったんだろう。あの、どうしようもなく取り返しがつか無いのに、今を生きて解釈されていく過去とはなんだろう。Chouchouさんは時にクラシックを援用しながら曲を作るけど、J-POP風の曲を作る時にも、そのジャンルの歴史を援用なさっていると思う。だからその記憶は、だから何処かで歴史に結びついている気がする。今の社会を構成する歴史の事。それは、Chouchouさんの母体であっるインターネットとも、結びついているような気も、する。かつて、小説家の中井英夫は、編集者としてコンピュータの最初期の時代に電子辞書の開発に取り組み、辞書の並びが思想性も歴史性も無視して並んでいる事を"発見"したけれど、今や、電子の中でそれはもう発見するほどの事でも無くなってしまった事。生々しい死が漂白され、肉体性の薄いネットで、古いHPやBlogの更新が途絶えているのを見た時の不安な感覚。古い最新のポストに、死を伝える文字を見てしまった、あの悲しさ。雑駁に書いた、過去/未来/今の曖昧に疼く感覚と、取り返しのつかない感覚は、そういうもっと深い底盤につながっている岩脈のような気がする。そもそも、ここで書いたこと自体、自分が感じたChouchouさんの一側面。Chouchouさんの事はまだまだ全然わからない。





付記
この文章を書いたり推敲したり考えたりする間、ずーーっとChouchouさんの音楽を掛けていたけど、全然飽きない。聞くたびに違う曲のようで。改めてChouchouさんの音楽の深みと多様性と、それなのに、さらりときけてしまうギャップに感動しました。こんな凄い音楽があんなお安い値段で手に入るなんて、コスパ高すぎ!

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