作者:最上和子
書籍名: 私の身体史
頁番号:No141

『私の身体史』は舞踏家・最上和子さんによるエッセイであり、タイトル通り自分の身体が送ってきた歴史を語る物語。最上さんが徹底して現実である自分の身体を経験して辿り着いた、身体の内側のあちら側の物語。




 この本で、何よりも私が感銘を受けたのは、身体史として語られるのが自分の身体の苦痛の歴史であったこと。そして、苦痛の歴史が近代病理の川でなくて、身体と死と神秘の川に流れ込んでいく語りの流れ。


 中学で難病(厳密には難病指定を目指している)CFSを発症し、ずっと苦痛と共にあり続ける私にとって、苦痛はとても馴染みあるもの。自分が精神と呼ぶものに対する圧倒的な肉体の抵抗。けれど、私たちの言語の中に、苦痛を表す言葉は驚くほど少ない。それは、言語知の世界から見捨てられた感覚。


 最上さんはその苦痛を1つずつたどっていく。


 最上さんの語る身体の歴史は、苦痛の記憶を灯台に進められていく。初めに語られる小学生の記憶は、心と体の苦痛で下地が塗られ。私は、その最上さんの語りの調子に、何か運命のようなもの、そう、宿命を語っているような調子を感じる。〝私(最上さん) が 身体を考えなければならないのはなぜか 身体を語る私(最上さん )とは誰か〟という強い意識が、個人史の苦痛と宿命的に結びつき、身体を語る素地をなしているような。


 身体を実践し、それを語ろうとしている今(文章が書かれたのは随分前だけれど)の最上さんの視点から見る過去の苦痛史は、そこで聖痕のような、英雄の負うべき傷のような輝きを帯び始め。苦痛は本人が苦痛と語る限り、それはただの苦痛でしかないけれど、本人の読みはまた別の事を語り得るのかもしれない。


 苦しみもがく中で、最上さんは1つの恩寵を発見する。床擦れて解けた肉体から溢れる膿と、覗く骨に落ちかかる光の景色。「もはや人間とも言えず物質のように投げ出されている 、そのぎりぎりの体のあり方への感動だった。」と最上さんはそれを語る。


 自分がそうして肉体の苦痛の中で捥きながら、身体を意識し舞踏へ向かう時のことを語る際には、最上さんはいつもそんな出会いと変容の体験を、語りの中に配置する。ちょうど、かつてのギリシャ哲学の裔達が、この悪と醜さの存在する世界から観想によってイデアの世界へと垂直線を辿って帰還しようとした時と同じように。



 けれど、身体を見捨てた、かの人々とは違って、最上さんは身体との結びつきの中に、彼方を見出す。身体だけが彼方を知っている物であり、直観的な個人的体験が、彼方を垣間見せる。イデアの、彼方の世界は身体の中に設定され、身体という場を、彼方に見出すような。



 そして、最上さんが見出してきた身体は、苦痛の中で見出された身体。ここで近代知から見捨てられた苦痛と身体という二者は、合一したまま重力に引かれながら、墓溝へ落ちていく軌跡をそのまま、彼方への旅程に、変貌させる。
 

 それは見捨てられたものの祝祭であり、失われたものの発見であるように思える。世界の中で語られないものを語ろうとする行為であり、それを背景に、現実に足をつけた身体を、最上さんは探そうとする。そこで現れるのは多分、あらゆる物が彼方に結びついている事の発見であり、不可視化されたものの再顕在。


 結局のところ、日々を無理矢理暮らすのに一杯一杯で、躍る身体を持たない私には、こうしてしたり顔に舞踏家の言葉を語る資格はないと思うのだけど、それでも最上さんの言葉は胸に突き刺さり、その音に震える。



 最上和子さんのブログ。
 圧倒的な言葉で語られる身体論は強烈。絶対に一度は読むべき。


最上さんのエッセイが収録。奇妙な本です。



 押井守監督の小説
 そこで展開される身体論は最上和子さんの言葉に大きく影響されたもの。




 耽美調(という曖昧な言葉の是非はさておき)な人形作家とは一線を画す人形作家、井桁裕子さんが一度最上さんの人形を作った事があって、私はそれがきっかけで最上さんのブログを見つけた。




サミュエル・R. ディレイニー
1996-06


 よくSF小説で、一つの意識で様々な身体を使う話があるけれど、人はああいう事に耐えられないのではないかな…というのがセクシャルマイノリティーとしての実感。ひとつでない身体、そして自分のものでしかありえず、他人の身体が他人のものである身体、人と結びついた身体というのは、一つのクイアな感覚から生まれるのかもしれない。