特撮の美学、破壊の快楽、というのは、なんだろう? 私にとってそれは、日常の中で感じない感覚、使用されない領域の認識が、圧倒的な映像によって喚起される事に、あるのかもしれない。

 樋口真嗣監督×庵野秀明総監督のシン・ゴジラは、まさに、日常の中から日常では制限された感覚を、圧倒的な映像で呼び醒ます、そんな映像だった。


 冒頭から、映像は、日常の近くにあって、日常の中では表に出ない場所を探索し、描き出していく。アニメ演出家のレイアウトによって切り取られる、実写の日常世界は、普通に感覚し、感覚させられる日常世界とは、異なった世界にも、見える。

 それは、映画的、という事でもあるのかもしれないけれど、シン・ゴジラでは特撮=映像的快楽が中心に据えられる事で、普通の映画的な日常のズラしとは異なったアプローチが用いられているように感じた。
 
 つまり、通常の映画が、ズラした日常を映すのは、ズラした思考を描くためであるのに対し、シン・ゴジラではむしろ共有可能な思考が描かれ、ズレの中心には特撮的快楽があった様に、思った。

 シン・ゴジラは、日常をズラした映像を繋げる事で、日常の中で現れる日常を超えた感覚を描き続け、そうした感覚の映像の極致である特撮と、通常の場面を滑らかに接合し、映像全体を特撮的感覚に満ちた作品に仕上げている。

 その、日常の中で日常を超えた感覚を齎す事への拘泥は、シン・ゴジラの特撮それ自体にも描かれていて。ラストのヤシオリ作戦があくまで日常性に拘泥したビジュアルを打ち出すのは、映像が持つそんな特撮的感覚を、最大に発揮させる為の作戦だったと、私は思う。

 シン・ゴジラのゴジラに与えられた幾つもの斬新なギミックも、ゴジラ映画という日常にもう一度日常を超えた感覚を呼び戻す為の、ギミックだったのかもしれない。

 シン・ゴジラがリアリティに拘り切ったのも、きっと、同じところに理由がある。圧倒的な日常性があるから、異次元的な日常が成立、する。

 圧倒的な破壊の中に見える、自分の感覚を超えたもの、同時に、自分の感覚の中に眠っていた、それ。この感覚、ゴジラとしてスクリーンに現れる瞬間に、シン・ゴジラという映像全てが捧げられているように、私は感じた。
 
 その根底には、人の感覚に対する挑戦と、信頼があるのかもしれない。多分、そのギリギリの攻め、理解可能と理解不能の攻め、にこそ特撮の本懐があって、シン・ゴジラの本懐がある、のではないかしら。

 私が熱線を吐き、東京を破滅させるゴジラを見て、流しそうになった涙は、きっとそこに源泉があった。


 けれどもそれは同時に、日常とフィクションの境界を明確にしつつ、日常と虚構というものの根拠を明確にし切れない映画の限界も、暗示していつように思えた。


 シン・ゴジラでは日常性のリアリティを求めるために、徹底したシミュレーションを行う。


 だから、シン・ゴジラという映画は究極のシミュレーション映画だった。日常と虚構を極限まで突き詰めつつ、の日常と虚構の思想性を透明化してみせる身振りを、シミュレーション性は同時に行ってみせる。その奇妙で不気味でもある動きが、シン・ゴジラという映画の核心。そして、そのシミュレーションが崩壊するラストの後の世界への想像の誘いが、シン・ゴジラを今という状況の中へつなげている。

 緊急事態下のシミュレーションの世界において、設定されたゴールに対する方法は思想を持ち得ず、一丸となった駒は、その思想的対立に悩まされることもない。そこにおいては、被害は数量によって計上され、現場なるものは遠方から見られる対象であり、作戦立案者の物語が焦点となる。

 それは、思想を、哲学を、存在の根拠を不要/透明化する物語であり、設定され明文化され共有可能なゴールだけが、その目標として、聳え立つ。現場と同時に住民/民衆さえも、もはやシミュレーションを盛り上げる背景でしかなく、映画の視線は絶対零度の冷たさを見せる。物語が届き得るのは、シミュレーションが統制可能な指揮権、その神経の流れの中にある存在でしかない。思想/意思は緊急事態の最中の、誰もが納得可能なゴールというシミュレーションを駆動させる目標=設定の中に消化され、消え去るかに見える。

 
 そのシミュレーション性を徹底したのが、シン・ゴジラという映画に思えた。シミュレーションの虚無、思想さえも問われない圧倒的な状況の冷たさ。シン・ゴジラが描くのはその部分だ、と。


 シミュレーションと言うリアルな虚構こそが、映画の中の日本。しかしそのシミュレーション性を食い破る様に、異質なゴジラが、冷たいリアルな虚構を崩壊させていく。ここに於いて、映画のコピーである虚構(ゴジラ)VS現実(ニッポン)という構図は逆転する。シミュレーションによって構築された冷たい虚構を食い破る異質な存在こそ、リアルの云いに他ならない。

 映画は、ゴジラの号砲と共に変転し、ドラマと意思が現れる。けれど、そこにおいても物語はシミュレーションであることを変えない。ゴールは変化し、そこにドラマが発生しても、それは思想の対立というより、共有された常識の確認と発展に過ぎない。意思はゴールの名の下に統合され、ゴジラ的思想と同時に、思想と対立は解消される。常識の根底は掘り返されず、更に上部の、仮定され実態の不明な指揮系統と対立する姿だけが示される。

 
 ゴジラの憎悪だけが深い刻印を残しながら、そこは深く追求されはしない。


 丁度それは、映画で多用された物理シミュレーションに似ている。そこには確固たる思想の文脈の流れがあるにも関わらず、物理法則に則る、の冷たい言葉の元に、その意思は隠匿されてしまう。個々のオブジェクトは、物理法則に奉仕し、物理法則を表現する絵の具でしかない。



 シン・ゴジラは度々押井守監督の作品 、特にパトレイバー1/2/GRAY GHOSTの3作と比較されるけど、レイアウト/物語の表面上の類似はあっても、作品としては大きく異なっていると思う。

 押井作品において常に問われるのは、その意思であり思想であり、存在の根拠だ。押井作品において問われるのはあくまで個であり、全体ではなく、実は組織ですらない。

 故に、その個人の活動は個人の思想と意思の表れとして描かれる。GRAY GHOSTにおける特車二課は、やってもやらなくても同じ事を、自らが属した場の意味を確かめる為に、意思と責任を持って行った。

 それは、シン・ゴジラにおいて主人公たちが果たした事と、その能動性と責任性において共通しつつ、根本的に意味が異なる。或いは、シン・ゴジラはパト1/パト2のように敵の思想に深く分け入る物語でもない(映像面では確かに押井守の事好きじゃん!!ツンデレなの??って思ったけど)。パト2は戦争を描いたシミュレーション映画だったけれど、そのシミュレーションの持つ思想がいかなるものかを同時に突き詰めた映画だった。


 
 シミュレーションは決して無色透明ではありえない。



 シン・ゴジラにおいて主人公は、敵と味方が明瞭だから政界を選んだというけれど、その明瞭性、ルールの明白な規則性、シミュレーション性を示すセリフは、シン・ゴジラのキモを露わにする。
  確固たるシミュレーション性を置く事で、あらゆる思想/政治性を排除するふりをする身振り、それによって映画は極上のエンタテイメントとして成立している。シミュレーションによって、映画は現実の日本に勝負を挑み、当時の日本の状況全体担い、立ち向かう。

 
けれど同時に、あるはずの思想と哲学は、ゴールへ向かうシミュレーション的なる作戦群の中では消化吸収され、ゴジラだけが思想的なるもの=検証可能なもの、を持って立ち尽くす。ゴジラをゴジラたらしめるのはその暗黒の意思なのかもしれない。多分、それがメルトダウンした原発と、怪獣王たるゴジラを分けるもの。


 私はそこに何よりの、震災後の、ひどく現代的な虚無を感じた。
 

 限定状況下における共有可能な目標が消え去った後、シミュレーションの熱気は搔き消え、ゴジラの黒玉のような、人骨の編み込まれた墓標だけが残るのだろうか。誰もが納得できる目標の元に思想を不問にし得る作戦が展開され、意思を持った存在と決戦し、意思は墓標となり、その内実は問われず、日常が空白のまま回帰してくる。


 映画のラストの後に続く光景はきっとそれ。
 

 多分、今の私が立たされている日本の状況とは、その空間に違いないのだ。




以下 思いつきの雑想を簡単に
若干具体的なネタバレがあります。

・などなど書いたけど、本当に1カット1カット、完璧なレイアウトだった。素晴らしかった。素晴らしかった。素晴らしかった。あー、カッコよかった。カッコよかった。
日常の光景を非日常の視点で切り取る、という映画的な構図が全編徹底されていて、そしてあの夜のゴジラの破壊描写!!! 
今の樋口シンジ監督は最高に輝いているよぅ!!!

・映画の中で、神とか天に祈り、運を任せる場面が一つもない。死者への追悼はあるけれど。すべての責任を人間が負って戦う姿を描いた映画ならではの徹透した描写。

・ラストの作戦、ヤシオリ作戦は、八岐大蛇を退治する神話から。人ならざる八岐大蛇を退治する存在は、人ならざる荒ぶる神の須佐男。ヤシオリ作戦で自らの意思でビルを破壊していく巨災対は、怪獣と同じ地平に立っているのかも。巨災対も、一人の修羅であり怪獣なのかもしれない。

・ゴジラに人の無念を重ねるのは金子監督のゴジラと同じだけど、シン・ゴジラの鎮魂は災害に真面目に対処する事、として描かれているのかも。鎮魂映画としてのゴジラ。

当ブログ内ゴジラ関連リンク
被害者として復讐者としてのゴジラに対する違和感をつらつらと書いた記事。
シン・ゴジラでは人がとにかく責任を取って対処する、という真っ当な姿を描く事で、これに対処していたような気がする。

ゴジラの創作掌編集。生存競争の相手としてのゴジラという妄想です。改めて読むとすごく最後のユニコーンですね。


天才、中村健治監督のガッチャマンリブート作。3.11後を舞台に、第二の首都機能を持つ立川を、シン・ゴジラと同じように描く。
ファンタジックな作風で、どこまでも人間に寄り添い、普通の人間の判断を信頼する作風は、シン・ゴジラとは異なりつつ、ポリティカルかつ、シミュレーション的作風を、この作品も導入しているのが面白い所。
欠点も多いのだけど、ここまで社会と政治に対して明瞭に自分の立場を叫ぼうと、傷だらけになって立ち向かった作品なんてそうそう無い。
クラウズのラストは、シンゴジラと同様に、極限環境下で設定されたゴールに向け人々が意思を合わせる様子が描かれる。
けれどそれは、その状況を設定する意思と思考自体がドラマであり、参加するのは多様な全ての人々の自由な意思によるもの。その有様はシンゴジラとは極端に異なる。
もしかすると、ガッチャマンクラウズの一部を冷たい俯瞰の視線で切り取るとシンゴジラになるのかもしれない。
続編のガッチャマン クラウズ インサイトは極限環境下の後の空白の世界の物語。話はさらに破綻を厭わない勢いで、誰も挑もない領域に自分を露わにしながら突っ込んでいく。
シン・ゴジラとはある意味、対極にある作品かも。


筧 利夫
2015-11-03
『シン・ゴジラ』に与えられた恋愛とか余計な要素のない日本映画の称号はこの作品にも…。
とにかくプロデューサーによる編集が強行された『首都決戦』とディレクターカット版の『GRAY GHOST』は別物! と叫びたいです。