もしも、世界への態度を示す世界観のように、廃墟への態度を示す廃墟観とでもいうべきものがあるのなら、それは『冷たい廃墟』と『熱い廃墟』の二つに、廃墟観というのは分類できるのではないだろうか。

 
 前者は、非人間的な時間や天災によって作られた結果としての廃墟で、後者は、人間の破壊によって生まれた廃墟。


 前者は、崇高な人間の他者による侵食、後者は人間による人間の侵食。


 そして多分、推論に推論を重ねるのなら、後者は人間が文明を壊滅させられるという確信を基盤にした、廃墟観。


 杉本博司さんの東京都写真美術館での展示は、そんな熱い廃墟をかき集めた展示だった。


 どこまでも続くトタン板の迷路、その中を彷徨うと、次々に現れる、吊るされた人形、古い書類、標本、表皮の見えない屍体、その他のオブジェクトが、元の世界から切り離され、滅亡した文明の痕跡として、新しい文脈を強制されている。


 トタン板で区画された展示室には、それぞれ一つ、A4ほどの紙片が飾られている。そこに記されるのはその文明が滅亡に至った理由、語り手が語るその物語。


 無数の区画を巡っても巡っても、異なった理由で滅亡する異なった文明と、その痕跡が、次か次へと現れ出てくる。廃墟は、世界が滅んだ熱で無闇に熱い。


 熱の中で、それでもお区画を巡っていくと、現れるのは、逆説的に滅びもせず死にもせず、真っ直ぐに生きている文明の体温だ。それは自分を取り巻く展示室にいる人々の体温でもあり。


 そんな中で、声高に滅亡が叫ばれ、そうして叫ばれれば叫ばれる程、それは滅亡を宣告する事の熱意、滅ばず死なない世界に一方的な宣告を下す熱意だけを、極端に高めていく。


 滅亡の理由としてあげられる理論は、文明滅亡という虚構を根拠に正当化され、その絶対的な正義の快楽に浸っていくかのようでさえある。それを冷たく見つめる、改造された文脈のオブジェクトたち。


 ある種のマッチョイズムとしての文明滅亡の宣告(実際、驚くほどのマッチョさが文明滅亡の理由を支えている区画が幾つかあった)は、そこで指弾される文明滅亡の理由それ自体と、軌を一つにしている。


 それは、文明を区分したい、文明を通してみる世界を明瞭に分類したい、という欲望でもある。生と死は明文化され、文明は単一の原因によって滅んでいく。


 それにもかかわらず、文明滅亡の告発文は、まさにその単一へ、明瞭へと向かう方向性こそを、滅亡の原因として謳い上げ、得意げに指弾する。


 この展覧会は、自分自身で自身を食い荒らす、破滅的な方向性を持っているかのよう。


 巨大なジョセフコーネルの箱のようでもある、オブジェクトが組み合わされた空間は、その強烈な意味性によって縛られつつも、意味性を否定していく。


 オブジェクト一つ一つが持った物語世界は、与えられた物語世界と矛盾し、意図を破綻せしめて、オブジェクトのオブジェクトたる所以を明らかにしてしまう。


 表皮を封じ込めるように、衣類に巻き取られ安置された人体らしきものは、その丁重な手つき、神社の奥のような手つきでもって、その中に強力な力が封じ込められている事を暗示する。
 それは破滅的な、単一の意図を破壊する身体の力を封じ込めているようでもあり、展覧会の危うさがその一点にのしかかる。


 けれども、人体らしきものを取り囲むトタン板は、赤錆、汚れ、剥げ落ち、細密なテクスチャを過剰に誇り、それは封じ込められた表皮の代わりのよう。人間を裏切る身体の厚み、内側、内臓は、化粧や衣服のキャンパスとなる薄い表皮となった板の中で消え去ってしまう。


 展覧会は、文明崩壊という究極の判断を宣告するために、その宣告自体を崩すものを封印しつつ、封印する事で、むしろ暗示し続ける。


 分離し表明し、自分を絶対の位置へと登らせる欲望。あまりにも90年代、80年代的な、物事を踏みつけにして自分の足元を疑わない事で生まれる反抗心の充足。




 けれど、ラストに展示された空と海の写真はそうした欲望を嘲笑うモノを映している。




 微妙に違うマチエールを持ちながら、分けられない境界線を持つ空と海、あまりにも同質な質感を持ちながら見事な撮影で明暗を分けられた空と海。それは、人々が死んだ後も残る光景で、つまりは誰からも分けられない世界。


 記号を持たない世界であり、分析されない世界であり、絶対を持たない世界。一切の意味を持たない世界。質感の感覚が、何処にも帰属する実態を持っていない世界。

 その前に立って、文明と文明の崩壊の無意味さを感じるときに、自分の中で少しだけ何かが崩れていくの感じた。




 展示は、フロアを変えてもう一つ、写真をメインにしたものが続く。

 


 廃墟となって、照明と舞台を喪った劇場で、輝くモニタを写したシリーズが、終末を描く映画の解説キャプションと共に飾られる。


 天井からの光を失くした劇場は、神の世界を、明瞭な理性を失くした西洋世界で、横から差す光は、ただ冷たくある。人のいなくなった世界で、非西洋的な光だけが祈りのように眠っている。


 ただのあらすじとして、データ的に語られる言葉は、そこに対置されて恐ろしく軽い。宣告し、決別する言葉、ただ伝達のための言葉は、ここでは単一なものとして解釈され、質感を消失する。


 写真が映しているのは、文脈に沿って配置された文明であり、様々な変種をもつ世界でもある、のかもしれない。伝達と一方的な宣告だけを持つ言葉はその前で、文明という考え、文明という文脈が、人と世界に押し付ける吐き気のする軽さと重さを露わにする。


 露骨な言葉、露骨な区分、露骨な押し付け、露骨な自己存在、露骨な搾取。それに疑問符を一切付さない姿。


 廃墟の中の、無数の矛盾し合う文明滅亡の宣告文は、その傲慢さ故に、文明滅亡と動きを共にし、変種をいくつももつ世界を殺し、同時に壊れない文明と殺せない世界を露わにしていく。


 その吐き気のする愚かさに耐えながら、文明への宣告は今日も元気にしている。


公式HP
作品と展示風景がいくつか見られます。

『ロストヒューマン展示』っは少しだけ雰囲気がクーロンズゲートに似ているように。
こてこてした90年代的な滅亡の雰囲気。

美術出版社
2014-06-17