■一千一頁物語

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飯田将茂《double》 さいたま国際芸術祭2020 身体性から身体の動きへ 身体の無根拠さと日常の虚構性

舞踏家の最上和子さんの名前を知ったのは、人形が好きだったあの時に、人形作家の井桁裕子さんを経由してだった。井桁さんは人形にむき出しの生身を刻み込むような独特の人形作家で、私はその端正ではない佇まいが好きだった。

肖像彫刻もよく作るアーティストで、その中の一つに最上和子さんの肉体を写した作品があった。ハッとして調べるうちに、最上和子さんのブログに行き当たり、独自の文章による語りに私はハマった。

さいたま国際芸術祭で公開された『Double』は最上和子の人形との舞踏を収めた飯田将茂さんによるドーム映像作品だ。私にとって思い入れの強い要素がたくさんある作品で(ドーム映像も大好き)。期待しながら観に行ったのだけど、これは本当に素晴らしい作品だった。

ドーム映像は独特の没入感を持つ。スケール感の違いが持つ違和感と、それを押し潰す圧倒的な映像の存在感。暗闇から浮かび上がる映像は遠近が取れず、ドーム型に視界を覆うスクリーンと相まって独自の実在感を見せつけてくる。体を包み込む音響効果と、他人と共有できるその映像体験は、没入感ということだけでいえばVRよりも圧倒的だ(と私は思っている)。

本作でもこうした没入感は、非常に効果的に使われていた。爆発の轟音とともに、観客は水の中に叩きつけられる。巨大なスクリーンには無数の水泡が映し出され、そのパーティークルの一つ一つが大きな流れに沿って動く様子を、観客は現実ではありえない解像度で見せつけられる。

そのうちに、深く沈み込むように(あるいは浮き上がるように)画面が暗闇にのまれると、遠くの空に白い影が現れ、だんだんと大きくなってやがてそれが踊るひとである事がわかる。けれど演者の足元は暗闇に消えていて、この舞踏する存在が、いったいどこにいて観客である私がどこにいるのか、決定的に考える事ができない。いったいこの人物を私はどこから見ているのか?あの人物は降ってきているのか?あの人物に私が降りていっているのか?

観客である私はその曖昧さに答えを見出せないのに、演者は何かを確信しているかのように踊り続ける。小さな繊細な動き、小指を震わせるような微妙な動きを、ずっと続けている。

なぜこの演者は、この動きにこんなにも確信を持って踊れるのか?この動きに、何か絶対的な意味があるとでもいうように。

演者の身体の動きへの確信が却って私の身体の動きの無根拠さを思い起こさせる。私はこの動きのコードを理解できないのに、演者はそれを確信している。私は私の身体の動きが何なのか考え込まざるを得くなってしまう。私は私の動きの意味なんて考えた事がない──そして考えれば考えるほど、そこに根拠のようなものはなく、ただただ慣習とでも呼べるようなものがあるだけではないか?と。

私の身体の動作は、こうして『Double』に解体されていく。『Double』はこの解体の仕掛けに満ちている。先述した地面を措定できない不安定なドーム映像もその一つだ。不安定さと、確かな肉体の対比。音も『Double』が使う解体の道具だった。第二幕の冒頭、寄せては返す波がどこまでも描かれる。銀色に煌く泡の一粒一粒が、暗闇の中に浮かび上がる。

寄せて返す波と、その弾ける音に耳を傾けていると、けれど違和感に気づきだす。さらさらと、波が砕けるその音は明らかに波の音ではない。それは海や水の音というより、かちりかちり、と砂金同士が擦れ合う音であり、イメージと音の乖離が次第次第に際立っていく。

それでもなお、音と波の映像は一致して感じられ、違和感はすぐに波にさらわれれる。この感覚とイメージのズレは次第に自己の感覚への不安になっていく。私はなぜこの波と音を一つのものとして認識してしまうのだろうか?

私が近くする世界は、実は虚像のようなものではないかと不安になる。

波にさらわれた後、観客は最上和子さんが井桁裕子さんの肖像人形とともに踊る姿を目撃する。踊る、と同時に踊らせる、あるいは人形のポーズを変える最上和子さんの姿を。

最上さんが最上さんを象った井桁さんの人形を動かす時に、関節の構造から来る制約と最上さんは格闘する。時にそれは、ポーズを取らせるために、何度も試行錯誤するまごついた動きとして現れる。

身体の動きが身体の構造から来る流れと争いながら形作られることが暗示され、それは同時に身体の動きが身体の構造を虚構として作り得ることも暗示する。身体の動きが逆説的に身体性を規定する可能性を。そしてまた、身体の動きが意思に沿わなくても、意思は無理矢理に身体を動きの中に押し込めていく。

けれどもいったい、この時に私は何を見ているのだろうか?最上和子はいったいここでは何なのか?身体を動かす自意識か?身体を動かす社会か?身体を動かす神か?いやしかし、最上さん自体も身体を持ち自分の身体を動かしている。

現代のフェミニズム理論の中心的存在として知られるジュディス・バトラーは身体を使って性を演じることで、身体に性が書き込まれることを理論化した。この作品ではそれが丁度裏返されていた。身体の動きに確信を持った最上和子さんの演じる舞踏が、その確信を観客である私が共有出来ないことで、普段の身体の動きが無根拠であることを暴いていく。

私という身体の動きが、圧倒的な身体の動き━━日常的な意味では有目的ではなく、理解不能な動き━━を前にして、何も根拠のない曖昧なものであることが明かされる。その時に開く自分の底のなさは、身体の動きというものが本質的ではなく、その根拠を自覚しないままに動かしている/動かされているものである可能性を開いていく。

人形と不気味なものの関係はずっと問われてきたけど、それが不気味なのは人間が人形に描き込んだ意味と、人形が問い返す人間の無根拠さが、人間を人間自身から引き離し、人間が持つ人間に対する親密さを否定するからなのかもしれない。

あるいは身体性を離れた、ただ剥き出しの身体の動くを見せつけるから、とも。


映像のラスト、観客は豪雨に晒される。ただしその雨音は、水がぶつかる音ではなく肉がぶちかる音であり、万雷の拍手の音だ。Doubleに移されたイメージは最後まで一致することなく、観客は現実という劇場に取り残され、身体を使ってパフォーマンスを続けなければばならない。


『アンチクライスト』とラースフォントリアー『ニンフォマニアック』 対話篇 絶望と希望の物語


 『アンチクライスト』とラースフォントリアー『ニンフォマニアック』 絶望の中で自らを語ることの可能性と不可能性


ラースフォントリアー監督の作を追っていくと、その景色の森林の中に、西洋の知の体系への嫌悪が絡み付いているのを、どうして観てしまう。

アンチクライストを駆り立てる絶望の深さは、絶望それ自体の認識だけが救いになる、そういう色をする程の深さだったように感じられた。


監督のニンフォマニアックも、その絶望の深さは変わらない。けれど、救いのありようは全く違う物のように、思えてならなかった。


それは希望が始まる物語であり、解放へと向かう決意の物語であるのではないか、と。







アンチクライストを、西洋文化に絡みついた思考を巡る物語と見てみる。


森林は、西洋文化が排除して来たものであり、それ故に西洋文化が認識できないもの。

それは、西洋の知が、自分の境界を決めるために利用してきたもの

そしてそれは、女性、という形で西洋の中で内面化される。


精神科医と中世魔女美術の研究家たる主人公二人は、知の体系に属しながら、同時に、知の体系から溢れた領域を、理解可能なものに置き換える事を、職能としている。


そんな二人は、物語の中で、西洋知が疎外したものの象徴である森林の中で、西洋が自然と女性に押し付けたものを、自らが属する文脈の中で、自分たちで演じながら、自分たちで育て、結晶化させていく。そうしてはぐくまれた西洋の概念は、そのまま悲劇となって自分たちを直撃し、崩壊させ、惨劇へと至らしめる。

それは、西洋の歴史が繰り返してきた、女性と疎外を巡る物語の、最も最小な単位での濃密な再演。



フーコーや、フェミニズムが西洋の歴史理解を切り開いていった60年代以降、そんな考えは決して珍しいものではない。

けれど、トリアーの絶望の深さは、そこに止まらない。



トリアーの惨劇は、絶望のような希望の中で終わる。



抑圧と放逐によって成り立った西洋の歴史の中にあり、その先端にある限り、西洋のその悪徳のベクトルからは逃れられない、という認識を示すかのように、物語は絶望の中で終わる。


そもそも、現代の研究者である二人は、このような西洋の歴史の解釈を、当然の前提として知っていたのだ。けれども、二人は、その結末から逃れることはできない。抽象化された象徴的人物のような二人は、ただ破綻への道を歩んでいく。



映画の始まりと結末、その二つの差異を結んだ線の延長線を映画の希望としてみなすなら、映画が示すのは、ただ西洋の知がそのようなものである、という絶望と、それを知っらなかったという悔恨に満ちた認識だけ。


森の中の地獄は、森の外の地獄の反映に他ならず、自分はまたその地獄に西洋の抑圧の化身である悪魔として、回帰するしかないという絶望の認識。其れだけが希望である、という絶望に満ちた期待。

トリアーのアンチクライストがどうしようもなく憂鬱なのは、きっとそこに理由がある。



トリアーの断罪は、当然、映画それ自体にも向けられる。西洋の美的感覚は、西洋の思想と深く結びついている。陰影から、遠近法、構図に至るまでが、その結びつきの下にあることは、多くの研究が示す通りだし、絵画が一つの思想の表現方法だった。それは、映画においても変わらない。トリアーが古典的な象徴体系、古典となった映画の引用を行なったのは、これを映画として補強し成立させるため、西洋の地獄が、視覚的な美しさとなって世界を覆っている事を示すためなのだ、と。




けれど、トリアー監督の新作、ニンフォマニアックは、その絶望を抱えた上で這いずる、強い希望があったように感じられた。物語は、やはり破滅的な最後を迎える。けれど、そこには希望へ向かう事への信頼と、生への強い意志があったように。




ニンフォマニアックも、アンチクライストと同様に、男女2人で物語が進行していく。トリアー独特の、ドグマ式の映像は、比較的抑えられ、挿入される記録映像が本編のドラマ映像と対話するように、コミカルにテンポよく進んでいく。


けれど、上述のような視点でアンチクライストを見た場合、ニンフォマニアックが何よりもアンチクライストと異なるのは、それが語りの物語である点だ、と私は考える。


主観的に曲げられた物語は、語り手のセルフコントロールの下にある。


語り手は、アンチクライストのような地獄を抜けて来た1人の女性、ジョー。彼女が語る物語と、聞き手の男性セリグマンの間の張りの揺れが、物語を駆動させている。


そこには、ギリシャ哲学の対話編を連想させるものがありつつ、彼女が辿ってきた人生の反映がある。


彼女の語る物語は、彼女の性欲と、1人の男性の存在以外、全てが自分のセルフコントロールに置かれた物語として語られ、セルフコントロール不能な要素も、彼女は決して否定しない。そこには、アンチクライスの中にあった葛藤の微妙な発展がある。


女性という領域に、西洋がセルフコントロール不能な対象を押し付け、女性は自身のセルフコントロールを失いながら自己を否定する、アンチクライスの物語(こうした見方もアンチクライスは否定するのだろうけれども)が、ここでは反転して演じられる。


女性は自分の欲望に従って自分をコントロールし、自分を排撃しない。そのように語ることは、同時に崩壊した自我の癒しでもある。



ニンフォマニアックでは、ドラマと映像は幾重にも重なって進行していく。


もう一つのドラマは、ジョーとセリグマンが語る今のドラマで、語られない男の西洋知の権化のドラマで、女が語らなかったドラマ。今のドラマがそれらをまとめ上げ、今のドラマは独特の緊張感を舞いあがらせている


女の話を聞く男は、話を男の思想世界によって解釈して行く。そこの中で、女性の生きた軌跡と語りは、奇妙な形で変更されて行く。


それは、彼女が辿って来た、彼女の彼女の人生に対する解釈の変更に他ならない。性的な疎外者である2人の対話は、どこかですれ違って行く。



セリグマンは、自分の話を語ることができない。だから、受け継いだ知識に呪われ、他人に呪いを撒いてしまう。他人を解釈することでしか、発話が出来ない。



セリグマンが暮らす、窓の少ない小部屋は、セリグマンの心象でもある。外を覗き、外を測るけれど、みられる事はない。ジョーの語りの中に現れる世界も、セリグマンの世界も、彩度は低く、現実感に乏しい。けれど、ジョーの世界は白く飛んだ彩度の低さで、セリグマンの世界は黒く飛んだ彩度の低さで。


ジョーの世界は、現実を白く飛ばしたファンタジーであり、セリグマンの世界は、現実から黒く隠れたファンタジーなのだとしたら。



ドラマはアンチクライストと同じように破局を迎えるけれど、ジョーは自らの語り、自らを自らの望むように語ることをやめない。映画のラストで、ジョーは映画の画面からフレームアウトする。



自らを語り自らを騙ることは、また別種の地獄を招くかも知れないけれど、地獄の先に、映画は歩んでいく。


私はそれが、アンチクライストの後に見出されたトリアー監督のきぼうなのではないか、と思えてならない。



そして間違いなく、こうして自分を語らず、胡乱な解釈をする私は地獄を再生産する1人なのだ。




映画を見ながら思い出したTV番組。経験としての女性に理性の男性が解釈を加えるという昔ながらの地獄絵図の再演のような気がしてならず。




プラトン
2008-12
ニンフォマニアックをたどっていくとここに行き着くのだと、そんな気が。対話による愛の理解。饗宴では、女性が男性に知を授ける(ように見せかけた)場面があったり対照も面白い。




ニンフォマニアックでは明らかなバルテュスの引用が幾度か行われている。キーイメージの類似性も高い。バルテュスは、少女像の中にイデアを探求したけれど、それは何かを見る少女が見られることに気づかない内に、バルテュスが見出したものだった。
女性人気も意外と高く、私自身の使い方も含め、そこではフェティッシュのセルフコントロール/再話、というような何かがあるのではないか、と思っても見たりしていて、ニンフォマニアックとの関連は興味深い。


ナタリア・ボンダルチュク
2016-06-24
アンチクライストは、タルコフスキーに捧げる、と末尾にあったけれど、ニンフォマニアックも、間違いなくタルコフスキーに捧げられている。
劇中で流れるコーラルプレリュードは、ソラリスの引用で、ジェロームの章では流れる水草の映像の引用が。
ソラリスとは、語り、語られ、語る、解釈の物語である点が近いかも、というのはいささか牽強付会かしら。
正直なところ、アンチクライストがどうタルコフスキーに捧げられるのか、明白な考えが持てず……。
多分それは、トリアーとタルコフスキーに共通する宇宙の捉え方、その感覚に由来していて、自分を包み込む世界への畏敬と理解不能性、最後に残る祈りのような受容、それが空間と人、時間のズレとして映像に現れる、という所にあるのかな、と思いつつ。


















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UとAという2人がいた。初めての掃除の時間、Uは、Aを見初めた瞬間、Uにいつか殺されると予感した。 予感は的中した。

劇の準備中、体育館の舞台袖でAはUに、首を絞めていいか、と許可を求める。Uは受け入れ、長い時間が過ぎて、AはUの首から手を離した。

その後、Uは病にかかり、Aと会うことは殆どなくなった。唯一のやり取りは深夜のメール。次第にメールの内容は死に纏わる事柄に変わっていった。

Uは、Aに、女性が女性として女性を愛する話を語った。性指向と性自認の物語。Aは拒絶した。Uはそれ以上の説明をできなかったし、しなかった。

AはUを傷つけるようなことは、なにもしなかったし、言わなかった。



『シン・ゴジラ』非ネタバレ感想 特撮の美学/シミュレーションの虚構





 特撮の美学、破壊の快楽、というのは、なんだろう? 私にとってそれは、日常の中で感じない感覚、使用されない領域の認識が、圧倒的な映像によって喚起される事に、あるのかもしれない。

 樋口真嗣監督×庵野秀明総監督のシン・ゴジラは、まさに、日常の中から日常では制限された感覚を、圧倒的な映像で呼び醒ます、そんな映像だった。


 冒頭から、映像は、日常の近くにあって、日常の中では表に出ない場所を探索し、描き出していく。アニメ演出家のレイアウトによって切り取られる、実写の日常世界は、普通に感覚し、感覚させられる日常世界とは、異なった世界にも、見える。

 それは、映画的、という事でもあるのかもしれないけれど、シン・ゴジラでは特撮=映像的快楽が中心に据えられる事で、普通の映画的な日常のズラしとは異なったアプローチが用いられているように感じた。
 
 つまり、通常の映画が、ズラした日常を映すのは、ズラした思考を描くためであるのに対し、シン・ゴジラではむしろ共有可能な思考が描かれ、ズレの中心には特撮的快楽があった様に、思った。

 シン・ゴジラは、日常をズラした映像を繋げる事で、日常の中で現れる日常を超えた感覚を描き続け、そうした感覚の映像の極致である特撮と、通常の場面を滑らかに接合し、映像全体を特撮的感覚に満ちた作品に仕上げている。

 その、日常の中で日常を超えた感覚を齎す事への拘泥は、シン・ゴジラの特撮それ自体にも描かれていて。ラストのヤシオリ作戦があくまで日常性に拘泥したビジュアルを打ち出すのは、映像が持つそんな特撮的感覚を、最大に発揮させる為の作戦だったと、私は思う。

 シン・ゴジラのゴジラに与えられた幾つもの斬新なギミックも、ゴジラ映画という日常にもう一度日常を超えた感覚を呼び戻す為の、ギミックだったのかもしれない。

 シン・ゴジラがリアリティに拘り切ったのも、きっと、同じところに理由がある。圧倒的な日常性があるから、異次元的な日常が成立、する。

 圧倒的な破壊の中に見える、自分の感覚を超えたもの、同時に、自分の感覚の中に眠っていた、それ。この感覚、ゴジラとしてスクリーンに現れる瞬間に、シン・ゴジラという映像全てが捧げられているように、私は感じた。
 
 その根底には、人の感覚に対する挑戦と、信頼があるのかもしれない。多分、そのギリギリの攻め、理解可能と理解不能の攻め、にこそ特撮の本懐があって、シン・ゴジラの本懐がある、のではないかしら。

 私が熱線を吐き、東京を破滅させるゴジラを見て、流しそうになった涙は、きっとそこに源泉があった。


 けれどもそれは同時に、日常とフィクションの境界を明確にしつつ、日常と虚構というものの根拠を明確にし切れない映画の限界も、暗示していつように思えた。


 シン・ゴジラでは日常性のリアリティを求めるために、徹底したシミュレーションを行う。


 だから、シン・ゴジラという映画は究極のシミュレーション映画だった。日常と虚構を極限まで突き詰めつつ、の日常と虚構の思想性を透明化してみせる身振りを、シミュレーション性は同時に行ってみせる。その奇妙で不気味でもある動きが、シン・ゴジラという映画の核心。そして、そのシミュレーションが崩壊するラストの後の世界への想像の誘いが、シン・ゴジラを今という状況の中へつなげている。

 緊急事態下のシミュレーションの世界において、設定されたゴールに対する方法は思想を持ち得ず、一丸となった駒は、その思想的対立に悩まされることもない。そこにおいては、被害は数量によって計上され、現場なるものは遠方から見られる対象であり、作戦立案者の物語が焦点となる。

 それは、思想を、哲学を、存在の根拠を不要/透明化する物語であり、設定され明文化され共有可能なゴールだけが、その目標として、聳え立つ。現場と同時に住民/民衆さえも、もはやシミュレーションを盛り上げる背景でしかなく、映画の視線は絶対零度の冷たさを見せる。物語が届き得るのは、シミュレーションが統制可能な指揮権、その神経の流れの中にある存在でしかない。思想/意思は緊急事態の最中の、誰もが納得可能なゴールというシミュレーションを駆動させる目標=設定の中に消化され、消え去るかに見える。

 
 そのシミュレーション性を徹底したのが、シン・ゴジラという映画に思えた。シミュレーションの虚無、思想さえも問われない圧倒的な状況の冷たさ。シン・ゴジラが描くのはその部分だ、と。


 シミュレーションと言うリアルな虚構こそが、映画の中の日本。しかしそのシミュレーション性を食い破る様に、異質なゴジラが、冷たいリアルな虚構を崩壊させていく。ここに於いて、映画のコピーである虚構(ゴジラ)VS現実(ニッポン)という構図は逆転する。シミュレーションによって構築された冷たい虚構を食い破る異質な存在こそ、リアルの云いに他ならない。

 映画は、ゴジラの号砲と共に変転し、ドラマと意思が現れる。けれど、そこにおいても物語はシミュレーションであることを変えない。ゴールは変化し、そこにドラマが発生しても、それは思想の対立というより、共有された常識の確認と発展に過ぎない。意思はゴールの名の下に統合され、ゴジラ的思想と同時に、思想と対立は解消される。常識の根底は掘り返されず、更に上部の、仮定され実態の不明な指揮系統と対立する姿だけが示される。

 
 ゴジラの憎悪だけが深い刻印を残しながら、そこは深く追求されはしない。


 丁度それは、映画で多用された物理シミュレーションに似ている。そこには確固たる思想の文脈の流れがあるにも関わらず、物理法則に則る、の冷たい言葉の元に、その意思は隠匿されてしまう。個々のオブジェクトは、物理法則に奉仕し、物理法則を表現する絵の具でしかない。



 シン・ゴジラは度々押井守監督の作品 、特にパトレイバー1/2/GRAY GHOSTの3作と比較されるけど、レイアウト/物語の表面上の類似はあっても、作品としては大きく異なっていると思う。

 押井作品において常に問われるのは、その意思であり思想であり、存在の根拠だ。押井作品において問われるのはあくまで個であり、全体ではなく、実は組織ですらない。

 故に、その個人の活動は個人の思想と意思の表れとして描かれる。GRAY GHOSTにおける特車二課は、やってもやらなくても同じ事を、自らが属した場の意味を確かめる為に、意思と責任を持って行った。

 それは、シン・ゴジラにおいて主人公たちが果たした事と、その能動性と責任性において共通しつつ、根本的に意味が異なる。或いは、シン・ゴジラはパト1/パト2のように敵の思想に深く分け入る物語でもない(映像面では確かに押井守の事好きじゃん!!ツンデレなの??って思ったけど)。パト2は戦争を描いたシミュレーション映画だったけれど、そのシミュレーションの持つ思想がいかなるものかを同時に突き詰めた映画だった。


 
 シミュレーションは決して無色透明ではありえない。



 シン・ゴジラにおいて主人公は、敵と味方が明瞭だから政界を選んだというけれど、その明瞭性、ルールの明白な規則性、シミュレーション性を示すセリフは、シン・ゴジラのキモを露わにする。
  確固たるシミュレーション性を置く事で、あらゆる思想/政治性を排除するふりをする身振り、それによって映画は極上のエンタテイメントとして成立している。シミュレーションによって、映画は現実の日本に勝負を挑み、当時の日本の状況全体担い、立ち向かう。

 
けれど同時に、あるはずの思想と哲学は、ゴールへ向かうシミュレーション的なる作戦群の中では消化吸収され、ゴジラだけが思想的なるもの=検証可能なもの、を持って立ち尽くす。ゴジラをゴジラたらしめるのはその暗黒の意思なのかもしれない。多分、それがメルトダウンした原発と、怪獣王たるゴジラを分けるもの。


 私はそこに何よりの、震災後の、ひどく現代的な虚無を感じた。
 

 限定状況下における共有可能な目標が消え去った後、シミュレーションの熱気は搔き消え、ゴジラの黒玉のような、人骨の編み込まれた墓標だけが残るのだろうか。誰もが納得できる目標の元に思想を不問にし得る作戦が展開され、意思を持った存在と決戦し、意思は墓標となり、その内実は問われず、日常が空白のまま回帰してくる。


 映画のラストの後に続く光景はきっとそれ。
 

 多分、今の私が立たされている日本の状況とは、その空間に違いないのだ。




以下 思いつきの雑想を簡単に
若干具体的なネタバレがあります。

・などなど書いたけど、本当に1カット1カット、完璧なレイアウトだった。素晴らしかった。素晴らしかった。素晴らしかった。あー、カッコよかった。カッコよかった。
日常の光景を非日常の視点で切り取る、という映画的な構図が全編徹底されていて、そしてあの夜のゴジラの破壊描写!!! 
今の樋口シンジ監督は最高に輝いているよぅ!!!

・映画の中で、神とか天に祈り、運を任せる場面が一つもない。死者への追悼はあるけれど。すべての責任を人間が負って戦う姿を描いた映画ならではの徹透した描写。

・ラストの作戦、ヤシオリ作戦は、八岐大蛇を退治する神話から。人ならざる八岐大蛇を退治する存在は、人ならざる荒ぶる神の須佐男。ヤシオリ作戦で自らの意思でビルを破壊していく巨災対は、怪獣と同じ地平に立っているのかも。巨災対も、一人の修羅であり怪獣なのかもしれない。

・ゴジラに人の無念を重ねるのは金子監督のゴジラと同じだけど、シン・ゴジラの鎮魂は災害に真面目に対処する事、として描かれているのかも。鎮魂映画としてのゴジラ。

当ブログ内ゴジラ関連リンク
被害者として復讐者としてのゴジラに対する違和感をつらつらと書いた記事。
シン・ゴジラでは人がとにかく責任を取って対処する、という真っ当な姿を描く事で、これに対処していたような気がする。

ゴジラの創作掌編集。生存競争の相手としてのゴジラという妄想です。改めて読むとすごく最後のユニコーンですね。


天才、中村健治監督のガッチャマンリブート作。3.11後を舞台に、第二の首都機能を持つ立川を、シン・ゴジラと同じように描く。
ファンタジックな作風で、どこまでも人間に寄り添い、普通の人間の判断を信頼する作風は、シン・ゴジラとは異なりつつ、ポリティカルかつ、シミュレーション的作風を、この作品も導入しているのが面白い所。
欠点も多いのだけど、ここまで社会と政治に対して明瞭に自分の立場を叫ぼうと、傷だらけになって立ち向かった作品なんてそうそう無い。
クラウズのラストは、シンゴジラと同様に、極限環境下で設定されたゴールに向け人々が意思を合わせる様子が描かれる。
けれどそれは、その状況を設定する意思と思考自体がドラマであり、参加するのは多様な全ての人々の自由な意思によるもの。その有様はシンゴジラとは極端に異なる。
もしかすると、ガッチャマンクラウズの一部を冷たい俯瞰の視線で切り取るとシンゴジラになるのかもしれない。
続編のガッチャマン クラウズ インサイトは極限環境下の後の空白の世界の物語。話はさらに破綻を厭わない勢いで、誰も挑もない領域に自分を露わにしながら突っ込んでいく。
シン・ゴジラとはある意味、対極にある作品かも。


筧 利夫
2015-11-03
『シン・ゴジラ』に与えられた恋愛とか余計な要素のない日本映画の称号はこの作品にも…。
とにかくプロデューサーによる編集が強行された『首都決戦』とディレクターカット版の『GRAY GHOST』は別物! と叫びたいです。






非ゲームな彼岸の視点で眺める多様なゲーム ホームズからピンチョン 例外主義から東欧の祈りまで『The Witness』『バイオショック インフィニット』『クーロンズゲート』『Metro2033』ほか

 ゲームというジャンルの作品ほど、ゲームというジャンルの外から語られないジャンルも稀なように。


 プレイステーションというカンブリアの大爆発を超え、売り上げ・予算の点で『アヴェンジャーズ』を超える超大作(『MGS TPP』といって、これが日本のゲーム作品という点も驚き。)から、数人規模のインディーズ作品が立ち並ぶ現在のゲーム業界が、SF大作から文芸映画、銀河英雄伝説から戦闘妖精雪風まで、多様な面白さ、多様な色合いを持つにも、かかわらず。


 例えば、ピンチョンのファンがリンチの映画を語るように、SFファンが次第に文学よりの幻想的な小説にも手を出すように、奇想/幻想/彼岸/性を好む私が、ゲームというジャンルを別ジャンルの視点から紹介/レビュー出来ないかと考え、気になった、気になる幾つかのゲームを作品毎トピックに分けて紹介し、トピック内でそれに関連した作品を解説する、という形で、ここに記事としてまとめました。


 先述したように現在のゲームはかなり多様化しました。ここで取り上げた多くの作品が(それなりのスペックを満たせば)PCで遊べますし(ここに書いてあるのは今となってはスペックをあまり要求しない作品が多いです)、無料でDL出来るもの、スマートフォンで気楽に始められる作品もあります。


 個人的にそれほどゲームが好きというわけではないですし、ここで紹介した作品にはクリアしなかったものもありますが、先述した通り、現在のゲーム作品の中にはゲームジャンル以外のファンに突き刺さる作品が多くあると感じています。


 そうした作品が、ゲームであるという理由だけでなんとなく見過ごされているのはあまりに寂しいのです。



お品書きは以下の通り。(比較的、手を出しやすいであろう無料作品/スマートフォンは注記をつけておきました。)


◆『The witness』 不在のコミュニケーション 祈りと巡礼の旅
 -関連作品『Dear Esther』 『Stanley Parable』『Beginner's Guide』


◆『Bioshock infinite』 アメリカ例外主義 見せかけの選択肢を生み出す構造
  -関連作品 『Bioshock(スマートフォン版アリ)』『Mirror's Edge』


◆『Her Story(スマートフォン版アリ)』 インタラクティブな後期クイーン問題 或いは新たな天帝への供物
-関連作品『Sherlock Holmes: Crimes and Punishments』 『Pictures of a reasonably documented year』『Sorcery! 3(スマートフォン)』 


◆『フロントミッション オルタナティブ』 LGBTあるいはマイノリティ 私はあなたの側にいる


◆ 『クーロンズゲート』デヴィッドリンチとゲーム
-関連作品『プラネットライカ』『Red Sheed Profile(英題Deadly Premoniton)』『Forgotten Memories(スマートフォン)』『スキタイの娘(スマートフォン)』『Off-Peak(無料作品)』『真女神転生3』『Baroque』 


◆『Metro 2033』 東欧の鬱金色した終末社会 生き残るという意思の鈍痛
-関連作品『Paper,Please(タブレット版アリ)』『This War Of Mine(スマートフォン版アリ)』『Naissannce』


 
映像を幾つも貼り付け、ひどく重くなってしまったので、読まれる方は『続きから読む』からどうぞ。

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パトリシア・ハイスミス原作 トッド・ヘインズ監督『キャロル』視線の檻と、行動の超越

 トッド・ヘインズ監督の『キャロル』はパトリシア・ハイスミスの小説を原作にした、50年代末の二人の女性同士の恋愛を描いた映画。



 それはまた、一方的に投げかける視線と読み取りに籠る悲劇と、愛によって動機づけられた超克を描いた、恋愛映画だと感じた。脚本と映像が違う物語を語る複層的な映画のようでもあり、その二つが、ラストへと焦点を結んでいる。



 全編に繰り返される視線を暗示したカットが積み重なる映像と、与え合い求め合う恋愛の物語の脚本。二つが違う物語を示唆しながら、二つが一つとなって、ラストで鮮烈な像を結ぶ。まるで映画の中の恋人、キャロルとテレーズのように。
そして、そのラストの焦点の手前にいるのは、私たち、観客。原作にあった視線と読み取りの感覚をコアに、物語の要素を再構成し、50年代映画を偽装したこの映画は、とても美しい恋愛映画であると同時に、あらゆる差別の根源に立ち向かう強さを備えている。




 映画が語るのは、とにかく視線。これは視線と反視線の映画。原作で「名状されない欲望」「他人からは見えているのに自分からは見えない欲望」として表現された、他者から、恋愛が抑圧された息苦しさが、映画では視線として表現されている。50年代のフィルムグレインの中に込められた視線が、世界を古典映画のように美しく切り取りつつ、先鋭的に現代的な意味を切り取る。



 窓の外から中を見つめる視線、柱越しに二人を写す視線。そこでは、視線の先に謎めいた姿が提示され、同時に謎めきながらも読み取り可能であるという矛盾が提示されている。



 映画は時に、一人称的に世界を写し取る。そこでは三人称的なカメラさえ、被写体とカメラの間に入り込む、窓枠、柱、といった障害物によって一人称性を強調される。見つめるのは、テレーズに一方的な愛着を抱くリチャードであり、キャロルに惹かれるテレーズであり。
そして、キャロルはいつも、その視線を見つめ返そうとする。


 視線の強調は時に、映画の感情を美しく強調する。キャロルの細部に目を走らせるテレーズの視線が、キャロルを美しく淡く彩り、50年代世界のクローズアップが、テレーズの感情を描き出す。原作では舞台背景美術を専門にしていたテレーズが、フォトグラファーとなった映画でのアレンジが、ここに生きている。キャロルを写したカメラの視線が固着された写真を眺めるテレーズには、それだけで複雑な感情のドラマが宿っている。それは映画の持つ美しさ。



 けれど、見つめる視線は悲劇をもたらす。見つめられたキャロルとテレーズの関係は、それが何なのか明示されないまま、道徳条項に違反する、とされる。キャロルの元夫ハージは、キャロルと友人アビーの関係を見つめ、内実に立ち入らないまま、視線で読み取った事象を真実だと確信し、狂気的のように嫉妬をする。視線は読み取ることはあっても、それが真実に触れるわけではない。 



 意味を読み取ることができ、知ってはいても、理解できる事ではない物事。50年代という時代の中で、同性の恋愛(あるいはどのような恋愛でも?)は医師の手に委ねられる領域の出来事だった。それを理解する事は、当時の人間にとって、あるいは今でも、狂気の側に属する可能性のある事だった。この構図を、視線が、見つめ、読み取るだけの視線が、保持している。一方的な視線が、意味を読み取りながら理解しないという、上からの判断を担保する。



 それはまた、映画の舞台となる50年代という時代を支える構造でもある事を、映画は暗示する。



 繰り返されるアイゼンハワー大統領の演説は、否応なしにあのマッカーシズム、冷戦と、赤狩りの嵐を思い起こさせる。当時、同性愛や性の解放が、共産主義と結び付けられ(それは今でさえ続いている)、自由で良きアメリカの敵とされていた。ただ見られ、推測され、読み取られる、視線の構図は、映画の時代背景とも呼応する。それは差別を生む視線。



 主人公のテレーズは、こうした視線の中に囚われ、自身も視線を発する(彼女の職業はフォトグラファー)。冒頭で、解職するテレーズとキャロルは、リチャードに見出され、二人の会話は中断する(ここでは同時に、ラストへ向かう超越が暗示される)。テレーズもまた、街角で女性の二人連れに視線を向け、二人に反応を引き起こす。



 ただ、キャロルだけが、いつも視線に視線を返し、行動する。テレーズに見つめられたキャロルはテレーズを見つめ返し行動する。キャロルの行動と交感が、テレーズの行動を誘う。テレーズにキャロルを写すカメラのシャッタを切らせる。キャロルはだから、視線が茂るこの映画の中で、どこか超越的で、でも優しく愛らしい。キャロルはテレーズを愛する力を持っている。それは、視線の重なりを乗り越える力。



 映画の冒頭、リチャードに発見されたキャロルは、テレーズの肩を愛を込めて優しく握る。この場面にこそ、映画のテーマははっきりと予告されていたのではないかしら。視線と鏡の世界を乗り越えて、身体を近づけて行動する事。映画の冒頭で暗示されたフレーズは、映画のラストで大きなフィナーレとなって反響する。その瞬間の美しさと解放は、たまらなく力強く、心強い。



 キャロルが"道徳条項"を持ち出す元夫ハージに向ける言葉は、一方的に見られる事への拒絶の言葉(それ以前、キャロルが元夫達と暮らしていた時には、キャロルは見られても大丈夫なように"装って"いた)。脆くて気高い言葉が本当に美しくて。自分が自分であることを世界に発信するキャロルの靭さ。



 映画のラスト、映画全編がカットにカットを積み重ねて結んだ視線の焦点を超えた映像に、映画の全てがこもっている。とても単純な事が、世界を革命していく力となる。それは、全ての人に向けられた後押しで、私は泣きそうになる。キャロルが愛とともにテレーズに求め、与えたもの。


 キャロルは元夫ハージに、「人は与え合うことができる」と訴えかける。物語の始まりから、テレーズの何かを求めるような視線に、キャロルは与え続ける。けれど、キャロルも、テレーズに何かを求めている。彼女はそれを、自分でもわからない欲求として親友で元恋人のアビーに打ち明け、映画の終盤では明確に、テレーズを自分の側が強く求めていることを自覚する。脚本が描き出すこの感情の交錯が(そして感情を裏打ちする二人の手の動き)、映画の映像をラストへ運んでいく。



 テレーズが求め、キャロルが与える。キャロルが求め、テレーズが与える。その交錯の先に、映画のラストが待っている。二人の関係の力が、映像が張り巡らせる視線の意味を超え、その時に二人の関係が確立される。映画のラストはとてもあっさりしたものだけど、計算しつくされた焦点がそこに結ばれることで、例えようもなく大切な光を、そこに湛えたている。



 映画を見終えて、テレーズが、映画の中盤にリチャードに投げかけた原作にもある言葉を思い出す。「リチャード、あなたは男の子と恋をした事がある?(中略)ある日突然恋に落ちてしまった二人の事を言っているのよ。それがたまたま男同士や女同士だとしたら?」
映画のラストの一人称のシーンは、その返事なのかもしれない。



 互いに、与えること、求めること、それが力ーー世界を変える力に通じる力ーーに変わって行く姿を描く、とても美しい恋愛映画。



 静かで、カットの一つ一つに重みがあり、50年代の姿が美しい。スーパー16mmフィルムで切り取られた世界はテクニカラーのそれで、特に屋外の煙吐く夜のニューヨークのクレーンショットなんて、本当に往年のハリウッド映画のそれのよう。



 そこに篭るのは、先鋭的な視線の物語と、それ超える力、そして与え求め合う関係、感情と理知が美しく煌めく宝石のような映画だと思えた。






と、ここまで書いてきたけれど、これはあまりにも原作を踏まえすぎた感想なのかもしれない。
原作では、読み取られる事、推測され、決められる事への不安と緊張と対抗が、恋の息苦しさと手を結んで、全編にわたって表現されている。それが消え、解放される姿が、パトリシア・ハイスミスの原作の美しさであり、怖さだった。その苦しみは、多くの人が知っている苦しみに思えたし、私が感じることのあるものだった。
だから、その部分に映画としての焦点を絞ったように見える部分が、私にはとても響いた。
もっと素直に、二人の人間が出逢う恋愛映画としてみれば十分なのかもしれない。それだけで、本当に身悶えするほど(実際何回も映画館の椅子に頭を打ち付けたくなった)素敵な映画なのだから。



パトリシア ハイスミス
2015-12-08

原作と映画の大きな違いは、テレーズ視点で描かれる原作に漂う得体の知れない緊張感なのだけど、何より違うと思うのが、原作の詳細な職業描写。特にテレーズのデパート勤めの苦しさ、原作では舞台背景美術家志望であるテレーズの、美術監督としての采配などは、原作ではかなりのページを割いている。その描写の厚みが、キャロルからの金銭援助を断り、テレーズから無理にでもプレゼントを渡す、二人の関係の強い対等さへの希求を支えているのが原作。50年代に生きたビアンの姿を感じる。


1900年代以降のビアン小説を集めた作品集。昔から、同性を愛する同性がいて、性を違うと感じる人がいたことになぜだか安心する。この作品集に収録された作家の多くが、この年代を代表する有名作家である事は大切な事だと思う。
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