■一千一頁物語

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『スター・ウォーズ : エピソード7 フォースの覚醒』“堕落”を再生産する正義の父



 フォースの覚醒は、父と子というテーマを掲げ、そのテーマに忠実であろうとした映画、だった。けれど、映画自身がそのテーマに過剰なまでに忠実で、それを神聖視してしまった結果、父と子というテーマ自体が抱える欠陥それ自体を、映画は無自覚的(と思えた)に抱えてしまった作品でもあったとも、感じる。


以下、重大なネタバレがあり、かつ、かなり批判的な内容なのでご注意を。











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音楽◇クラシック・エレクトロニカ・ユニット『Chouchou』 脆く疼く痛みと、現在進行形で語る過去形の意識


 Chouchouさんの音楽が、好きだ。その音楽が魂に来る人には、きっと救いにもなるような音楽。

 クラシックで端正な旋律が水面めいてなんとも綺麗だし、溢れ出すエレクトロな音が気持ち良い。空を見上げるような歌詞が美しくて、漂いながら降りて来る歌声が体に染み渡っていく。
 胸を切り裂くような痛みがあって、なんとも言えない浄化の感覚がある。その音楽から抜け出した後に、身の回りの光景を見ると、なんだか全然違う姿を見てしまう。蛍光灯の黄色っぽい光を浴るプラスティックの表面が、とても美しく感じてくる。



 Chouchouさんは仮想現実空間SecondLifeから生まれたユニット。その出自から、ネット空間からの発信に行動を限定していたのだけど、最近ではCDを現実空間に届け始め、活動空間を広めている。活動自体が、なんだかSFっぽい。Youtubeで確認できるSecondLife内でのライブ映像なんて、ウィリアムギブソンの世界だと思う。ギブソンの世界だったら、きっとネット生活者のカリスマで、なんだかよく分からない陰謀の彼方に座っている存在に違いない。


 Chouchouさんの音楽は、クラシックな基礎を感じる旋律を、今の視点からエレクトロニカな音で包むような音楽。私的な感覚を言えば、壊れてしまったものを悼むような音楽。そして切れ味が鋭い。


 Chouchouさんの恐ろしい所は、兎に角あらゆる最終プロダクトに妥協がなくて、緩さがない所。手作り感が何処にもない。

 たとえば、Chouchouさんはマスタリングまで自分たちで手がけていて、これがとっても綺麗。色々な環境で聞いても、音が埋もれない。スマフォのスピーカから流しても、エッジの尖った音が響いてくる(なんでもマスタリングの際は、高級なオーディオ機器だけでなくて、車からスマフォまで様々な環境で調整しているのだとか。贅沢!)。


 音楽活動の殆どあらゆる場面を、自分たちの手の届く範囲に限定してコントロールするのも、完成度を妥協なく上げていくためなのだと思う。CDのデザインも、ガッチリと完成されていて、持っていて嬉しくなる。



上の写真はアルバム『ALEXANDER』限定版の文庫サイズのアートブックレット。砕かれた鉱物の表面を接写した美しいイメージがとても良くて、その多彩で微細な色の一つ一つがはっきりと発色して印刷されているのがすごい。ホチキス留めでなくて、きちんと背があるのが拘りを感じさせてくれる。Chouchouさんの音楽に感じる妥協のない拘りが、物質として生きている一冊。


 そしてこの妥協のなさ自体、Chouchouさんの音楽世界を形作る物だと思う。あの完成度を個人規模で作り上げる努力を思うと、ゾッとする。何処までも甘く入っていけそうなのに、その世界は既に何処かで存在していて、自分のままでは入っていけない。こうやって作られる距離感の微妙さが、Chouchouさんの美しさだと、聴いていると、感じる。


 殆どのアルバムが、冷たく鋭いインストゥルメンタル曲から始まって、そうでなくても、長い前奏から始まるのは、Chouchouさんのそんな距離感への態度の表れのような気がする。遠い空間で響くピアノの音と、微かに混じる電子音、そして音のない真っ黒な空白。その、繰り返し、繰り返す波が、音楽の世界の中に決定的な距離を刻んでいく。想像の力が届きそうなのに、届かない。それなのに、静かな音楽は、現実を見る精神を鎮静してくれる。繰り返されるパターンが、聞き手の予測によりそってくれて、しっかりと足元を、断続的に照らしてくれている。そう考えると、ここで作られる距離感とは、現実世界と音楽世界をつなぐハイウェイなのかもしれない。 


 Chouchouさんの音楽は甘くて冷たい。


 驚くのは、Chouchouさんの音楽は多彩さ。最新アルバムのALEXANDRITEでは、ポップのような淡い歌から、心地よいエレクトロ、それにスリーピースバンドみたいなギター曲まで、様々な味わ
いが楽しめる(限定版ではアレンジアルバムCold-Rougeが付いていて、こちらではアルバム収録の楽曲が尖ったエレクトロアレンジに変容している。その変容の仕方がまた凄くみごとな変貌ぶり)。でも、どの曲もどうしようもなくChouchouさんの曲で。


 それが凄く美しい。妥協のなさに支えられて、優しい甘さと、尖った美しさのギリギリのエッジに立った音楽。


 Chouchouさんの名前を聞いて、出逢ったら、その音楽を幾つか聞いて、そしてその後でアルバムを買ってみれば、きっと何処かに心を満たしてくれる物が在るはず。



・Chouchouさんの公式HP
Musicの項目からアルバム収録された一曲ごとのカバーアートがみれます。

・Chouchouさんのバンドキャンプ
こちらから購入できるものが、最も高音質な音源だそうです。
全曲のフル視聴もあり。

・Chouchouさんの公式Youtubeチャンネル
Chouchouさんの公式PVが視聴できます。どれも驚きのハイクオリティ。


Chouchou
2015-04-25
Chouchouさんの最新アルバム。過去に発表されたシングル曲のリマスタ版も収録されているので、初めての方にオススメ。進化だけでなくて、変化への振れ幅が聞いていて愉しい。こちらのバイカラーエディションはアレンジ版と豪華なイメージの紙箱と、更に美しいアートイメージが楽しめるブックレットまでついてお値段約3500円……お得。



Chouchouさんの音楽を聞くとなぜか時々飛 浩隆さんのこのSF小説を思い出す。仮想リゾート空間のAIたちの物語。いつかこの作品が映像化されたらChouchouさんの音楽が似合うと思う。



Chouchouさんの音楽はすでにネットを通じていろんなところで広がっているようで、このポーランド映画に挿入歌として使われている。仮想現実と現実の間で揺れる高校生の物語だそうで、ご覧になった方の感想を読むと、岩井俊二作品っぽい雰囲気を感じる。日本ではメディアがないのだけど、見てみたい一作。

Chouchouさんのピアノアルバム。演奏楽器しかない時代、音楽というのは一回性の物だったけれど、メロンパークの魔術師ことエジソン以降の大量複製の時代が、その魔力を覆った。Chouchouの作曲担当のアラベスクさんはそんな一回性の申し子みたいなクラシックピアニストで、こちらのアルバムでその腕を堪能できるのだけど、デジタルメディアを中心に活動し、ライブを行わないChouchouさんの音楽は一回性とは対極の位置にあるような気がする。けれども、音楽は今や持ち運べるようになった。そこにはまた新しい一回性との出会いの可能性があるように、Chouchouさんの曲を聞くと思えてくる。


OrcaOrcaさんはChouChouさんの作曲の方がやっていらっしゃる別プロジェクト。こちらもいいです。







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以下、Chouchouさんの音楽に対する個人的な感想です。
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Chouchouさんの音楽を聴いていると、何故だかとても懐かしい感じがして、切なく思えて、それなのに心が穏やかに、私は感じます。そして世界が少し変わって見えます。それって、何故だろう、ということをつらつらと考えながら書いたのが以下の文章です。どうかご笑覧ください。



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 Chouchouさんの音楽は、現在進行形で語られる過去形の音楽だと、私は感じる。
 Chouchouさんの音楽は、今ここで語る私という存在の"意識"に主眼を置いた音楽、だと感じる。

 
 クラシックな旋律をエレクトロニカな電子音が覆い込みながら、作り込まれたサンプリング音声が混ざる、Chouchouさんの楽曲スタイルに、今の視点から過去を想う、その視線を感じる。今、音を紡ぎ歌う、その視点が、Chouchouさんの曲のなかに用意されているのではないかしら。


 だから、たとえばアルバム『Vimculam』収録の『gravity』



 あなたはいってしまう 私を瓦礫の中に残して



という歌詞の後に続いて



 あなたは朽ちてゆく 私の中を未来永劫に引き裂きながら




という歌詞が同じメロディで対照される時、前段の過去は後段の中では、今の私(語り手)の内に生きる幻像のように感じる。そこで中心にあるのは、いま過去を感じている"私"のように思える。


 少しずつ引き延ばされていくボーカルの声の中には、生々しく自分の中に残る他人の残像が、宿っているように思える。落ちていく過去は、幻想として思い出すことしかできなくて、それでも、今の自分の中には、思い出すたびに過去の感覚が生きて、ある。過去と現在形が交錯する。Chouchouさんの歌はそいうところがあると、私は思う。


 今、ここにいる私の意識が、過去のことを語る。意識の流れから見たなら、過去とは、現在の中からのみ回想される事が出来る物、という事に。不可逆な過去は現実ではあり得くて、過去を思い返す仕草に重点が置かれる時、過去は今の中に存在する曖昧な物に変わっていく。


 だから、Chouchouさんの歌では過去は時に忘却と結びついていることがあるのだと思う。残されているのは、現在形進行形で過去形を口にする話者の中にある、疼くように痛む"感じ"なのではないかな、と。過去の残滓、幻、それだけが現在形で生きている。宝石のような音の中で飾られた甘やかな歌声の中で、過去は忘却される事で、今の中に、感覚という幻として文字通りに生きている…。Chouchouさんの音楽に、今の私には、そういう形の部分が強く感じられ。


 そして、その感覚は、能や短歌でいう"幽玄"という感覚に接続されているような気がする。
 何かの感覚が生まれ、でもその瞬間にその感覚を生んだものが、初めからなかったかのように消えてしまう、幽玄という感覚。
 

 少しずつ途切れながら繋がる音が、重なり合って一つの曲になる、Chouchouさんの曲。時折に意識される小さな音の空白は、過去の音の響く場所のような気がする。展開に合わせて、音が退場したり入場したりして、旋律が繋がっていく時には、どこかでさっきまで聞いていた(聞いていなかった)音が、リバーブしているような気がしてならない。


 あり得た過去と、あり得る未来が、今の中に折りたたまれている。音に導かれて、今を感じる意識がほんの少しずらされていく。


 そしてChouchouさんの代表曲『sign』
  


   たとえば 今



と仮定法でゆっくりと歌われだす時、今という意識の瞬間さえ、曖昧で仮想的で不確かな未来に繋がっていく様だと思う。今という瞬間が、とても幅広い次の瞬間という可能性の中に溶け込んでいく。
その少しあとで



     探して記憶を 残して明日を




と歌われれば、過去と未来は、あり得たこと、あり得ること、という可能性という感覚同士で緩く、結わえられているかのよう。そして、その二つの中に、今、という確からしい瞬間がそっと、落としこまれている。


 Chouchouさんの音楽はだから、聞いた人の意識を変容させてしまうのだと思う。


 Chouchouさんの歌の中では、過去と未来が、今という感覚の中に生きているのだと思う。或いは、今、という感覚自体が、過去と未来に向けて広がっているのだと。だからChouchouさんの歌を聴いていると、今は変容の可能性を保持し続けて立ち上がって来る気がする。今という瞬間に、過去と繋がった感覚が、次々に生きていきながら、過去は次々に溶けていく。


 だからChouchouさんの音楽を聴いた後で、風景を見渡すと、見当識がずれて何もかも、その曲を彩る音のように綺羅として見えてくるのでは。そうして、Chouchouさんの音楽は、旋律と、音と、歌声と、詩でもって、聴く人の意識を変容させるのではないかしら。


 そもそも、音楽という表現は、人の意識の曖昧さによっている可能性も、ある…らしい。進行する和音の連なりに、心地よさ、不快さを、人は感じる。A、B、A、という和音の組み合わせと、A、B、Cという和音の組み合わせは、一つの音の違いにすぎなくても、人は決定的に違う物だとみなす。その時、AとかCとかの和音を聴いた人の意識は、過去の和音を体のなかで参照している。音楽を聴ける能力自体が、人の意識が無意識的に過去を参照しながら複層的な時間を生きている証拠でもあるのかもしれない、のだとか。それに、人は和音進行を聞くと、その終止構造を脳内で自然と予測する、と言う研究もある。人は未来に向けても、今という瞬間の可能性を開いている。


 今の意識に生きる過去、という認識の中で、過去は、文字通りに生きている。それは何度も再演され、何度も同じ形にはならない筈。そこに、真実とか、過去の確かさはない。真実ではない、というその事が、けれどChouchouさんの音楽の癒しだと、私は思う。 


 過去と忘却、後悔のなかに立ちすくむようなChouchouさんの音楽は、過去の痛みを生々しく蘇らせる。過去の微妙な思いが生き返る。でも、そうして過去が今のなかで生きているのなら、過去が未来とも繋がっているのなら、過去は今の中で変化していく。だから、過去を取り戻せない寂しさが、変化への寛容な癒しと同じになっていく。過去という重い荷物が、少しだけ優しくなってくれる。


 私は、Chouchouさんの音楽を聴いて癒される。







ここまで項を書き終えて、また考え込むのは、忘れたくて、捨てたくて、忘れていて、それでもあり続ける記憶、あの疼くような過去とはなんだろ、という疑問。その時に、一体どんな罪を犯してしまったんだろう。あの、どうしようもなく取り返しがつか無いのに、今を生きて解釈されていく過去とはなんだろう。Chouchouさんは時にクラシックを援用しながら曲を作るけど、J-POP風の曲を作る時にも、そのジャンルの歴史を援用なさっていると思う。だからその記憶は、だから何処かで歴史に結びついている気がする。今の社会を構成する歴史の事。それは、Chouchouさんの母体であっるインターネットとも、結びついているような気も、する。かつて、小説家の中井英夫は、編集者としてコンピュータの最初期の時代に電子辞書の開発に取り組み、辞書の並びが思想性も歴史性も無視して並んでいる事を"発見"したけれど、今や、電子の中でそれはもう発見するほどの事でも無くなってしまった事。生々しい死が漂白され、肉体性の薄いネットで、古いHPやBlogの更新が途絶えているのを見た時の不安な感覚。古い最新のポストに、死を伝える文字を見てしまった、あの悲しさ。雑駁に書いた、過去/未来/今の曖昧に疼く感覚と、取り返しのつかない感覚は、そういうもっと深い底盤につながっている岩脈のような気がする。そもそも、ここで書いたこと自体、自分が感じたChouchouさんの一側面。Chouchouさんの事はまだまだ全然わからない。





付記
この文章を書いたり推敲したり考えたりする間、ずーーっとChouchouさんの音楽を掛けていたけど、全然飽きない。聞くたびに違う曲のようで。改めてChouchouさんの音楽の深みと多様性と、それなのに、さらりときけてしまうギャップに感動しました。こんな凄い音楽があんなお安い値段で手に入るなんて、コスパ高すぎ!

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映画『屍者の帝国』と小説『屍者の帝国』と物語『屍者の帝国』〜映画が切り開く複数の物語という意識の可能性〜


ーーワトスン博士、この調査で何かが明らかになったとしても、それはあなたの理解であり、あなたに許される物語でしかありません。私の物語ではありえないし、物語である以上、アレクセイに関する事実でもない。ーー
円城塔+伊藤計劃『屍者の帝国』より


 映画『屍者の帝国』は異質(クィア)な方法で持って小説『屍者の帝国』と共に物語『屍者の帝国』補完する、非常に優れた作品だと思った。

 映画『屍者の帝国』は、小説『屍者の帝国』が複層な言語によって生成される意識を備えているけれど、それが実は単一な物語に拠っている事を、否応なく明らかにしながら補完する。

 その差異から生まれるパターンは、小説『屍者の帝国』に寄りかかりながら、物語『屍者の帝国』に新しい地平を切り開いて、意識を駆動(start her up)させていく。孤立した人間の内部にある複数のXが人間の意識を成すように。



 小説『屍者の帝国』は、不死化して社会に食い込み拡大していくような、単一の物語に、支配されている。

映画『屍者の帝国』が提供する物語は、小説『屍者の帝国』という絡み合った暗合群の中から、そんな物語を見出す為の、恣意的で任意な一連の解読コードを作り出してくれる、ように思った。

 それは問いの形をとったコードで、映画『屍者の帝国』が提供するのは、問いを生む為の差異。問いかける事で、暗合する符号の乱雑な文脈から、人が望む物語が生まれるはず。

 だから、私はこのように問うことから始めたい。


 フランケンシュタインの怪物=ザ・ワンは何故花嫁を所望するのか。


 メアリーシェリーの小説『フランケンシュタイン』にて、造られた怪物は何よりも、自身と同じように醜く、社会から排斥され、故に自らに心をかけてくれる者を、相棒を、望む。そしてその上で、彼はその相棒を女性と、花嫁と指定する。
 
 その要求は、排斥と差別をそのまま自身のアイデンティティーとして受け入れ、主流の常識へ同一化する、その象徴としての、花嫁の要求かもしれないし、臓腑が鳥肌立つ空っぽの孤独の帰結とでいうような私的な帰結なのかもしれない。あるいは、もっと別の何か。

 いずれにしても、彼は人造生命として、いかなる部族の起源神話とも関わらない孤立した存在だし、彼の欲求はそんな彼が、部族の起源神話を強く、刻印された社会と関わる事で生まれた副次的な物。

 けれど、小説『屍者の帝国』のフランケンシュタインの怪物=ザ・ワンは、むしろ所与の欲望として花嫁を望み、彼の願望の根源が語られる事も、彼の願望への疑念が語られる事もない。彼の欲望、彼の望む異性愛的で、女性に対して一方的な欲望は、世界と意識と言葉と物語に対する疑念に満ちたこの小説の中で、如何なる疑念も挟まれない、特権的な存在として、確立されている。

 彼ら(あえて彼らと呼ぶ)は単一な物語を共有している。彼らはそれを疑わない。それは彼らの物語の基盤となる。

 単一な物語の基盤として、旧約聖書が選択される。起源神話を持たない筈の、人と異なった意識と言語をもつ筈の意識のアナキスト、ザ・ワンはアダムと結びつけられ、科学の時代の非神話的存在と(たとえ彼女を取り巻く環境が神話的であっても)して生まれた筈のハダリはリリスと結びつけられる。

 神話、物語のアナキストであり、物語を撹乱し普遍性の幻想の彼方にいた二人は、旧約聖書の単一で拡大し続ける物語に絡め取られ、物語に内在するコードに追いつかれる。

フランケンシュタインの怪物は、根拠のない確信を元に花嫁を探し、ハダリはリリスなる象徴の元に生きる事を求められる。

 だから、小説『屍者の帝国』に旧約聖書を基盤としない宗教は殆ど現れない。英国から世界を一周するにも関わらず、ワトスンの視界をよぎるのは旧約聖書の物語ばかり。ワトスンの語りの中でほんのわずか仏教の名前が現れ、星の智慧派が微かに非旧約聖書の匂いを纏うばかり。小説の大部分を占める日本編でも、神道や仏教の描写は除去されている。

 それはメアリーシェリーの『フランケンシュタイン』のように排除と差別の果ての同一化ではなく、始めから異なった物語の可能性が除去され透明になった故の、単一性。それを著者=ワトスン≒ぼくの世界。

また、私はこの小説に何人の人格を備えた人間の女性が登場するだろう、と問う事できると思う。単一な物語の欲望の焦点の一つである女性が、何人登場し自分の物語を語るのだろうか、と。そして、彼女が何を語っているのか、とも。



 牧原亮太郎監督の映画『屍者の帝国』が挑もうとするのは、円城塔先生の小説『屍者の帝国』のこんな側面なのだと、思った。

 それは多分、多様な意識を駆動させる多様な物語を問う物語であり、小説『屍者の帝国』でザ・ワンが問い、ワトスンの答えられなかった、単一性への抵抗の物語なのだ、と。

 小説と映画で最も異なるのは、ワトスンと屍者フライデーの関係。ワトスンは亡き友人の屍体から造り出した屍者フライデーの魂を求めるために、ヴィクターの手記を欲望し続ける。ワトスンの意思を駆動させる物語とは、そのような物語。ザ・ワンはそんなワトスンを見て、魂の秘奥を極めるために自身を生み出したヴィクターその人を思い出す。

 けれど、客観的に見るのなら、亡き人を求めて学究を続けるワトスンの姿は、明らかに、失われた花嫁を求めるザ・ワンその人に近い筈。ザ・ワンはその事を認識しない。或いは、そのような 交流は不可能だ、とも言える。

 何故ならワトスンとザ・ワンは異なる物語の地平を生き、その為に、異なる意識の地平を生きているから。ザ・ワンはアダムとしての物語を生き、故に異性を欲望せざるを得ないけれど、ワトスンにそのような起源神話、物語から生まれる欲望のコードはインストールされていない。ワトスンはザ・ワンのそれとは異なる同性への欲望を露わにし続ける(それがいかなる物なのかはここでは問わず、最も強い執着が同性に向けられている事だけを確認する)。ここにおいて、ザ・ワンがワトスンの中に認めたヴィクターとの同一性が顕れる。


 ヴィクター・フランケンシュタインは異性の怪物を造らなかった。


 映画『屍者の帝国』で、異なる物語によって駆動される、異なる意識を持つザ・ワンとワトスンは理解しあえない。小説『屍者の帝国』で異なる言語に駆動される、異なる意識を持つ存在が直接的に理解しあえないように。

 映画『屍者の帝国』では、このザ・ワンとワトスンの邂逅の場面に、読経する仏僧の姿をした屍者の群れが、二人を囲む。異質な言語の異質な意識を持った屍者が、単調に声を震わせる。あたかも、アダムであるザ・ワンと、ワトスンの物語の異質性を強調するように。小説『屍者の帝国』で除去された二つの異質な物語が、ここでザ・ワンと対峙する。

 物語のラスト、チャールズバベッジの鎮座するロンドン塔で、また2人は相見える。

 ザ・ワンは自らをフライデーにインストールしようとするが果たせず、世界を巻き込んでハダリに花嫁を再現させようとする企み自体を、手と手を取り合ったワトソンとフライデーによって阻止される。2人の対称性と異質性。同じものを求めながら、異質な物語によって駆動する2人。

或いは、小説で遂にワトスンが答えられなかったザ・ワンによる屍者化した人類の未来像に対して、映画のワトスンは自らの言葉で、まさにその計画を実行しようとするMに対して答えようとする。"権力者の絶望"によって生み出される単一化された人類という未来像自体が、単一な物語に塗り込められた意識から生まれる事を示唆するかのように。

 主流への同一化を基盤とするフランケンシュタインの怪物の物語のコードを刻印された物語に、旧約聖書と異性への欲望への服従に象徴される物語には、より一層の同一化を求める物語に屈しきれないのかもしれない。

 欲望があり、物語があり、物語は欲望を正当化し、欲望を排除し、単一な欲望を象徴とする単一な物語となって世界と意識を支配しようとする。不死化する。

 権力者の絶望が生み出す、真っ白な人類は、彼らが受け入れ従う物語に隠れた欲望の帰結で、そうであるのなら、対抗するには異質な物語=欲望が必要なのだ、と。

 映画『屍者の帝国』はそうした物語を持って、小説『屍者の帝国』に挑んだのではないか。

 差異と矛盾の抗争が、パターンを生み、意識を齎す。


 †

ーー人間の意識は複数のXの派閥による合議、あるいは闘争からなる。その多様さが人間の意識を生み出すのだ。単一の派閥のよる直線的な意思決定は、ただの木偶の坊を作る結果になる。人間は矛盾に満ちるが、その矛盾こそが本質だ。並び立つ意志や意見の対立が、常に矛盾を生み出しながら前進していく。ーー
前掲書より

 ある語族には、緑と青を区別する言葉がなく、その話者たちは青と緑に強い差異を認識できない。ある語族には群青と青を区別する言葉が無く、その話者たちは群青と青に強い差異を認識できない。

 言葉は認識を生み出し、意識を規定する。けれど、こうも言えるのかもしれない。

群青と青を区別する事を言葉に望むのは、物語である、と。『屍者の帝国』なる物語が屍者という言葉と死者という言葉を生み、その区別を望むように。区別を言語に発生させるのは物語なのかもしれない。

 物語は、言語の差異を超えて伝播し、言語の中に新たな言葉を生み出して、次々と人間に感染していく。小説言語の中にある物語が、映像言語に感染していく。

 私の意識を生み出すのは物語なのかもしれない。

 そうであるなら、単一な物語=欲望は恐ろしく危険。

 意識を生み出し、世界を生者のものに在らしめる為には、複数な物語の派閥が必要なはず。

『屍者の帝国』を小説言語から映画言語に写し取る際、必ず表れる物語という存在を、真っ向から考察したのが、牧原亮太郎監督の映画『屍者の帝国』だったのではないかしら。

 円城塔先生の小説『屍者の帝国』にあるセキュリティ・ホールを埋めるパッチ。『屍者の帝国』という物語は、映画言語と小説言語によって読み取られ、差分を生み出す事で新たな、より強力な生を獲得した、のでは?

 差異が生み出す抗争のパターンが意識の根源であるのなら、複数の物語の派閥を得た『屍者の帝国』という物語は、今まさに生き始めた。

ーーぼくは意志を持っているのか。持っている、とぼくは答えるだろう。こうして物語が持つ事の可能な意識を、ぼくはここに確か保持している。ーー
『屍者の帝国』より


映画『屍者の帝国』は屍者の新しい地平を切り開いた優れた、クィアな映画だと考える。全身、満身創痍でボロボロだとしても。

伊藤 計劃
2012-08-24


どれだけ複雑で複層で並列的な物語でも、常に少年と少女という基盤に回帰するのは、屍者の帝国というより、円城塔先生の作品の特徴かも。そんなところが愛しい。

『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』私と公を分ける身振りと、薄っぺらな表面の奇跡

 演劇の中で、役者はその身振りと視線で、私的な独白と、公的な会話を表現する。
けれども、パフォーマンスが行われる場は、常に、公的な舞台の上であり、私的な独白とは観客に訴えかけるものでも、ある。
 その時、観客は私的、公的、両方を綜覧する権力者で、その二分を明瞭に分けてくれるシステムを構築する演出家と結託することで、演劇に愉悦を求める。
 そして役者こそ、舞台の私的空間と公的空間を分離させる身振りを行使する、最大の権力者(を演じさせられるもの)に他ならない。
 なのに、私的、公的の分離は、いやしくも舞台の上という同一空間が時に私的な空間となり公的な空間となることに表されているように、その曖昧さゆえ、この二分法はやがて崩壊と復讐を受けなくてはならなくなる。
 シェークスピアならずとも、演劇の主人公は独白を聞き取られることによってこそ、危機を迎える…。

 舞台、という舞台設定をテコに、私的空間と公的空間を、常に騒擾し、全てをワンカットという一つの表面に巻き取って見せた映画が、『バードマン 無知がもたらす予期せぬ奇跡』という映画なのだと、私は感じた。
 『バードマン』の中で表現される危機の多くが、私的と公的の交錯の上に成り立っている。
 公的な道路を、私的な下着姿で主人公は闊歩するし、私的な場の中で性的不能な俳優は公的な舞台で性行為を行おうとする。
 映画を不安付ける主題は、私的空間と公的空間の、あまりに薄い膜が露わらになってしまう混合の瞬間と、その二つを分ける権力者が支配力を失う事に、焦点が結ばれているのではないか。
主人公が私的空間と公的空間を、舞台の上のように、映画の中のように、支配することができる時、彼は超能力を自身の私的な空間の中で行使する(と信じる)ことができる(その私的空間が他者の介入によって公的空間に変化すれば、彼の全能性は他人の客観性の元に失われるのだけれども)。
 そうして、主人公が憤るのは常に、自身による私的公的の区別が他者によって突き崩されたときなのだ、とも読める。
 女優2人が楽屋でキスをしているのを、彼が楽屋に侵入して目撃したとき、彼はまごつくけれど、危機は感じない。そのとき彼は自身が私的な空間に踏み入る主体であることで、私的公的の区別を、自身の身振りの上で行っているから。と読んでみればどうだろう。

 象徴的な挿話として、主人公が自身の不安を娘に語る場面がある。
 主人公が飛行機で、有名俳優と乗り合わせた時、もし飛行機が事故にあったなら、自分の名前は記事にならないだろうと、彼は自身の俳優としての没落を嘆く。
 この挿話で表現されるのは、私的な空間が公的な空間へと強制的に転換される場合の、コントロール不能な状況への恐怖とも、読める。その恐怖が劇中で度々言及されるネットメディアと結びつけば、危機の発生確率はますます上がり、その危機はすべての人の上に現れている。
 リハーサルの期間中、主人公のコントロールを離れて、多くの関係者の私的な危機が、舞台の上に持ち上げられていく。そのドラマの全てを巻き取る一カットの映像。
 続発する危機に対して主人公は、もはや私的な物と公的な物の区別を、諦め、同時に超越していくかに見える。街を歩きながら、街を飛び、彼は私的な空間を公的な空間の中に埋め込む(他者の客観性の元には彼はタクシーに乗っている。)。彼は楽屋という燦々とライトに覆われたクローゼットから飛び出し、私的、公的の区別を超え、支配への欲求を克服するかに見える。

 映画の終盤、主人公は、青いライトに照らされた舞台の上で、真っ赤な極私的なパフォーマンスを演じてみせる。舞台という公的な物と、私的な行為が重なり合う場面は、暴力的に二つの間にある膜を打ち破ってみせる。そもそも、私と公を、1人の人間が身振りで持って区別する事自体が、私と公の同一性を意味していたはず。その支配権力を弄んだ彼が、やがてその二つを超越するか、或いはその二つに打ちのめされるか、結末は始めから決まっていたのかもしれない。
 このシーンに続くラスト(ここでカットが切り替わる)で、主人公の娘が、主人公の私的で主観的な妄想の奇跡を、他者的な主観から目撃する事が、暗示される。
 それは、二分法を超越した主人公への祝福にも思え、けれど、また同時に主人公の支配が拡大しただけとも見える。



 映画は巧妙なトリックとデジタル技術を駆使して、予告では寸断されている、全編を長い長い数カットという薄っぺらな表面に収めている。まるでそれこそが、客観と主観、真実と虚構といった、私と公を巡る二分法を打ち破る術であるかのように。

押井守監督『GARM WARS The Last Druid(ガルム・ウォーズ)』インプレッション 残酷な世界を研究する祈り



 部屋を暗くして、巨大TVに近づいて鑑賞しました。
 手短に感想を。

 押井守監督の映画『GARM WARS The Last Druid』(以下 GARM)は、遥かな世界で彷徨うサイボーグ種族ガルムたちの虚無を描いた映画。
 映画のビジュアルと物語の結び付きは他の作品に喩えようのない物。あらゆるジャンルに結びつきながら、あらゆる文脈から離れて行く。だから一度見ただけでは頭に馴染まない。映像は完成形ではないのだけど、そのビジョンが最後にはそんな事が気にならない世界と時間の異様な美しさを構築して。(だから二度目はすごく満足度が高いと思う)

 そして、最後まで見ると、幾つかの欠点(GARMの製作は困難に満ちていた)を吹き飛ばして、ただ素晴らしかった……としか思えない。
 映画を観た後に残る途方も無い悲哀感と、それでも世界を知りたいと願う祈りの感覚の余韻。
 その感覚がとても異質で美しい。波長の合う人間の体の中に、何か奇妙な結晶を生んでくれるような。


以下、なるべく既に出ている予告以上のものには触れないようにしましたが、一切のネタバレと先入観を持ちたくない方は注意してください…。

 先年の東京国際映画祭でご覧になった方々の感想にある通り
 押井守監督の好きな物が居並び、世界のフレームを形作っている。
 冒頭から顕れる怪物的なデザインの群れは、CGのリアルを超えて強く印象に残る。これだけのデザインが集った映画はそうそうにはない、もの。
 次々に披露される細かいギミックはもちろん、艦載機の動きに合わせてなるオートマタ風のサウンドの異質感は、見終えた今も耳に残ってる。
 この辺りの場面はとても絵画的でイラスト的な印象。キャラクタデザインを担当されている末弥 純さんの絵のような。

©I.G.fim
(この艦載機のギミックはすごかった元のアイデアは10年以上前に遡る筈だけど、今までこんな飛行機を見たことがなかった)。

 ただ私はそれよりも、地上に堕ちた世界の方が美しく、感じられた。
ドイツのロマン派の描く荒涼と、崇高さの体験。

 
 サイボーグは、自然=生物と機械の融合によって生まれ、故に二項対立を乗り越え、起源神話をも捨て去り、生産の夢を見ず、復活を夢見ず、再生だけを求め、悪夢的で強圧的な情報交通支配に対抗する…とかつてダナハラウェイは、記念碑的なSFフェミニズム論文『サイボーグフェミニズム』で語った。
 けれど、自然という他者を捨てたサイボーグには、もはや乗り越えるべき二項対立の根拠さえなく、起源神話を捨て去るのではなく、起源神話の根本を知らないサイボーグには、支配に対抗すべき根拠さえも、獲得しえないのかもしれない。
 それどころか、そんなサイボーグは、他者を支配する理由さえも、忘れ去り、やがてただ悪夢的な支配の構造だけが残されるのかもしれない。生産を夢見ず、再生だけを求める、その資質を残したまま……。

 映画『GARM WARS The Last Druid』が描き出す世界とはまさにこんな世界。最近の流行りでいえば、それはイモータンジョーを失くし、虚無の極北まで達したウォーボーイズ(ガルムたちは性差を超越してるけど)たちの群れ…とも言えるかも。


  だから、そんなガルムが、地上にあって自然の中を彷徨う場面は、自らの個的な根拠に目覚めていく場面でもあって(その前にはドッペルゲンガーのイメージ=自我の目覚めまである)、絵的な美しさも手伝い、とても印象的。
 こうして世界を知り、他者的な世界の中で出会ったガルムたちは、ランス・ヘンリクセン演じるウィドに誘われ、世界の起源を知る旅に出る。自分の起源を知り、その行く方を知るために。
 ウィドは言う、自らの起源を知らぬ者は自らの未来を持てない…と。
 私たちは、何故、私たちの世界を知ろうとするのか、何故、考え、探り、自分の中と自分の外にある者を求めるのか、映画はそれに応えようとする。
 それは、世界に偏在する、想像しえない物を探る誘いであり、祈りであり、pirigrim=巡礼と語られるに相応しい旅路。こうしてガルムたちは旅に出る。
私は、映画の序盤のアウトラインをこんな風に見た。


 そして旅路の果てに訪れるラスト、そこで気づくのは、今、映画を見る私の世界のこと。
 映画が"語り"の形式を持ち、章に分けられた神話的形式を持つ理由がそこでわかる。
 顔のない巨人の虚無に、観客は取り残される。
 この時の異質感は、それまでちょくちょく溜まった不満(ちょっとしたCGとスタジオ撮影の合成のレベルとか、微妙にハリウッドっぽい脚本(一度ハリウッド風に盛った物を様々な都合で削ったそう))を一挙に吹き飛ばして、ただ、ああ、凄い物を体験してしまった、と感じさせてくれる。

 押井作品における神というのは、天使のたまごの彫像から始まってスカイクロラのティーチャに至るまで、静止して世界を見つめない目を持つ存在で。人がその者たちを想う事で、世界が成立していたのが従来の押井作品。

 ところが、ガルムではそうした絶対的な神は消え去り、身近な犬がその場所を温めている。

 ガブリエル、セラフィムと、犬には神と人間の媒介たる天使の名前が付けられてきたけれど、ガルム・ウォーズでは絶対的な上位者としての神は崩落し、犬もその後ろに背負う神を失くし、ただ媒介として人を見ている。

 その時、犬はとても神に近くなったのかもしれない。

 
 ガルムたちはそんな犬とともに自分たちの起源を探した。それを乗り越える為に。
 群れの夢から個となって。




 そして、物語は、同一テーマをミステリ的に位相をずらして語る押井守監督の小説『GARM WARS 白銀の審問艦』(ここでは名付ける支配というテーマがメインだけれど)へと繋がりそこで新たな未来が芽生え、さらにその先のまだ見ぬ本当の本編へと、繋がっていく(はず)。




以下、映画の色々に対する雑感とまとめ


 CGのレベル、なんて書いたけれど、最後まで見きった時には、とても充実感と満足感が。そもそもCGのレベルは充分には要求を満たしていると感じられた。(もし問題があるばらロケ撮影出来なかったセット/スタジオ合成の部分)
 たぶんGARMという映画の美は、色彩がハレーションを起こした超アンリアルな映像に、その中心がくるように設計されているのだと思う。
 だから、一見すると奇妙な映像でも、ガルムたちの時間を体験するとともに、だんだんとそれが、とても美しく自分の神経の中に馴染んでくる。
 なにより、その満足感は、この映画がデザインの全てを予算を顧みず、出し惜しみせず、見せ切ってくれるから、だと。
 お皿に様々な料理を少量ずつ盛ったヌーベルキュイジーヌな感覚。
 ある種のショーケース的な「この映画はこれだけの物を持っています、予算をもっとくれれば、この要素をそれぞれもっと一杯見せられます!!」というような。
 押井守監督は本作についてダークナイトに対する、バットマンビギンズであり、神々の黄昏に対するニーベルングの指環、と語っておられました。
 端的に言うと、もっと見たい。

押井作品でおなじみの川井憲次さんの音楽、特にOPとEDの曲は素晴らしかった。
ちょっと意外な感じなのだけど、川井憲次さんの新風を感じて。
サウンドトラックが出たら何回も聞きたい。
もっと聞きたい。

 役者さんたちの演技もとても良かった。ランスヘンリクセンさんの老獪な探求者と声が素敵だったし、ケヴィンデュランドさんの豪快に見えながら繊細の表情もとてもパワフル。なんと言っても、主人公カラを演じたメラニーサンピエールさんの演技は本当に良かった。
 映画を全部引っ張ってる演技で。押井映画の中で一番エモーショナルなのだけどそれが不思議と、とても押井映画に馴染んでいて。
 ラストの表情は萩尾望都様の描く百億の昼と千億の夜のあしゅら王を彷彿。押井映画でこんな表情の描写は珍しいけど綺麗だった。
のちに製作された『東京無国籍少女』の習熟した実写映画感覚のキレを思うと、押井監督は実写にどんどん馴染んでるなぁと感じる。


 映画の終盤、予告にもある巨人との戦いのシークエンスは、実写版『進撃の巨人』で世間を沸かせる樋口真嗣監督のコンテによる物。
 公開こそ、『進撃の巨人』の後ですが、GARMは進撃の巨人より先に作られてる。
 まさかの立体起動装置シーンもあって(他人の映画をダシに自作のパイロットをした疑惑)比較してみるのも一興かと…(私は進撃を見ていないのでなんとも言えないけれど)。




 最後に、押井守監督の色々を追っていると、GARM WARSという映画の製作環境を巡る過酷さをよく知ってしまいます。
コンテ、脚本、セット撮影、ロケ撮影、CG、仕上げ、全てにおいて想像を絶する困難があったようです。
 映画にはそれがわかる部分がないとは言いません。
 けれど、このような映画に挑戦することの困難さは、よく知られている筈です。特にこのGARMは映画史を探しても類例の見つからない映画。(だから欠点に見える物欠点には見えなかったりします)
 それこそ映画『進撃の巨人』のスタッフがおっしゃったように、壁の向こうの巨人に立ち向かわないことにはどうしようもないのですから。
 押井監督も、「丘に立たなければ向こうの景色は見えない」と仰られました。
なにより、映画を最後まで見きった後の感想は、ただただ凄い映画でした、としかいえない感覚。
 誰がなんと言っても奇妙で美しく見える映像の数々は絵画的で壮絶。
 絶対に劇場で観たい作品。
 なんとしてでも大きな劇場で公開してほしい物です…。(これいうの何回目だろう…)

それにデザイン群も素晴らしかったので模型と分厚い電話帳みたいな設定資料集が欲しいです。
リボルテック竹谷枠でフィギュアも欲しい。
あれも欲しい、これも欲しい、もっと見たくなる、お金を払いたくなる映画なんです…。


追記
遂に日本での上映がガルム・ウォーズとして決定!
ジブリの鈴木敏夫Pを加えての公開になるそうです。
2016年 5・20日公開








間違いなくガルムの原点になっている作品
ガルムはこれに対する挑戦なのかも

最上 和子
2016-03-27
最近の押井監督の身体論につい良い影響を与えている舞踏家最上和子さんのエッセイ。レビューも書きました。http://1001pages.blog.jp/archives/1057720522.html








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