■一千一頁物語

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押井守監督『GARM WARS The Last Druid(ガルム・ウォーズ)』インプレッション 残酷な世界を研究する祈り



 部屋を暗くして、巨大TVに近づいて鑑賞しました。
 手短に感想を。

 押井守監督の映画『GARM WARS The Last Druid』(以下 GARM)は、遥かな世界で彷徨うサイボーグ種族ガルムたちの虚無を描いた映画。
 映画のビジュアルと物語の結び付きは他の作品に喩えようのない物。あらゆるジャンルに結びつきながら、あらゆる文脈から離れて行く。だから一度見ただけでは頭に馴染まない。映像は完成形ではないのだけど、そのビジョンが最後にはそんな事が気にならない世界と時間の異様な美しさを構築して。(だから二度目はすごく満足度が高いと思う)

 そして、最後まで見ると、幾つかの欠点(GARMの製作は困難に満ちていた)を吹き飛ばして、ただ素晴らしかった……としか思えない。
 映画を観た後に残る途方も無い悲哀感と、それでも世界を知りたいと願う祈りの感覚の余韻。
 その感覚がとても異質で美しい。波長の合う人間の体の中に、何か奇妙な結晶を生んでくれるような。


以下、なるべく既に出ている予告以上のものには触れないようにしましたが、一切のネタバレと先入観を持ちたくない方は注意してください…。

 先年の東京国際映画祭でご覧になった方々の感想にある通り
 押井守監督の好きな物が居並び、世界のフレームを形作っている。
 冒頭から顕れる怪物的なデザインの群れは、CGのリアルを超えて強く印象に残る。これだけのデザインが集った映画はそうそうにはない、もの。
 次々に披露される細かいギミックはもちろん、艦載機の動きに合わせてなるオートマタ風のサウンドの異質感は、見終えた今も耳に残ってる。
 この辺りの場面はとても絵画的でイラスト的な印象。キャラクタデザインを担当されている末弥 純さんの絵のような。

©I.G.fim
(この艦載機のギミックはすごかった元のアイデアは10年以上前に遡る筈だけど、今までこんな飛行機を見たことがなかった)。

 ただ私はそれよりも、地上に堕ちた世界の方が美しく、感じられた。
ドイツのロマン派の描く荒涼と、崇高さの体験。

 
 サイボーグは、自然=生物と機械の融合によって生まれ、故に二項対立を乗り越え、起源神話をも捨て去り、生産の夢を見ず、復活を夢見ず、再生だけを求め、悪夢的で強圧的な情報交通支配に対抗する…とかつてダナハラウェイは、記念碑的なSFフェミニズム論文『サイボーグフェミニズム』で語った。
 けれど、自然という他者を捨てたサイボーグには、もはや乗り越えるべき二項対立の根拠さえなく、起源神話を捨て去るのではなく、起源神話の根本を知らないサイボーグには、支配に対抗すべき根拠さえも、獲得しえないのかもしれない。
 それどころか、そんなサイボーグは、他者を支配する理由さえも、忘れ去り、やがてただ悪夢的な支配の構造だけが残されるのかもしれない。生産を夢見ず、再生だけを求める、その資質を残したまま……。

 映画『GARM WARS The Last Druid』が描き出す世界とはまさにこんな世界。最近の流行りでいえば、それはイモータンジョーを失くし、虚無の極北まで達したウォーボーイズ(ガルムたちは性差を超越してるけど)たちの群れ…とも言えるかも。


  だから、そんなガルムが、地上にあって自然の中を彷徨う場面は、自らの個的な根拠に目覚めていく場面でもあって(その前にはドッペルゲンガーのイメージ=自我の目覚めまである)、絵的な美しさも手伝い、とても印象的。
 こうして世界を知り、他者的な世界の中で出会ったガルムたちは、ランス・ヘンリクセン演じるウィドに誘われ、世界の起源を知る旅に出る。自分の起源を知り、その行く方を知るために。
 ウィドは言う、自らの起源を知らぬ者は自らの未来を持てない…と。
 私たちは、何故、私たちの世界を知ろうとするのか、何故、考え、探り、自分の中と自分の外にある者を求めるのか、映画はそれに応えようとする。
 それは、世界に偏在する、想像しえない物を探る誘いであり、祈りであり、pirigrim=巡礼と語られるに相応しい旅路。こうしてガルムたちは旅に出る。
私は、映画の序盤のアウトラインをこんな風に見た。


 そして旅路の果てに訪れるラスト、そこで気づくのは、今、映画を見る私の世界のこと。
 映画が"語り"の形式を持ち、章に分けられた神話的形式を持つ理由がそこでわかる。
 顔のない巨人の虚無に、観客は取り残される。
 この時の異質感は、それまでちょくちょく溜まった不満(ちょっとしたCGとスタジオ撮影の合成のレベルとか、微妙にハリウッドっぽい脚本(一度ハリウッド風に盛った物を様々な都合で削ったそう))を一挙に吹き飛ばして、ただ、ああ、凄い物を体験してしまった、と感じさせてくれる。

 押井作品における神というのは、天使のたまごの彫像から始まってスカイクロラのティーチャに至るまで、静止して世界を見つめない目を持つ存在で。人がその者たちを想う事で、世界が成立していたのが従来の押井作品。

 ところが、ガルムではそうした絶対的な神は消え去り、身近な犬がその場所を温めている。

 ガブリエル、セラフィムと、犬には神と人間の媒介たる天使の名前が付けられてきたけれど、ガルム・ウォーズでは絶対的な上位者としての神は崩落し、犬もその後ろに背負う神を失くし、ただ媒介として人を見ている。

 その時、犬はとても神に近くなったのかもしれない。

 
 ガルムたちはそんな犬とともに自分たちの起源を探した。それを乗り越える為に。
 群れの夢から個となって。




 そして、物語は、同一テーマをミステリ的に位相をずらして語る押井守監督の小説『GARM WARS 白銀の審問艦』(ここでは名付ける支配というテーマがメインだけれど)へと繋がりそこで新たな未来が芽生え、さらにその先のまだ見ぬ本当の本編へと、繋がっていく(はず)。




以下、映画の色々に対する雑感とまとめ


 CGのレベル、なんて書いたけれど、最後まで見きった時には、とても充実感と満足感が。そもそもCGのレベルは充分には要求を満たしていると感じられた。(もし問題があるばらロケ撮影出来なかったセット/スタジオ合成の部分)
 たぶんGARMという映画の美は、色彩がハレーションを起こした超アンリアルな映像に、その中心がくるように設計されているのだと思う。
 だから、一見すると奇妙な映像でも、ガルムたちの時間を体験するとともに、だんだんとそれが、とても美しく自分の神経の中に馴染んでくる。
 なにより、その満足感は、この映画がデザインの全てを予算を顧みず、出し惜しみせず、見せ切ってくれるから、だと。
 お皿に様々な料理を少量ずつ盛ったヌーベルキュイジーヌな感覚。
 ある種のショーケース的な「この映画はこれだけの物を持っています、予算をもっとくれれば、この要素をそれぞれもっと一杯見せられます!!」というような。
 押井守監督は本作についてダークナイトに対する、バットマンビギンズであり、神々の黄昏に対するニーベルングの指環、と語っておられました。
 端的に言うと、もっと見たい。

押井作品でおなじみの川井憲次さんの音楽、特にOPとEDの曲は素晴らしかった。
ちょっと意外な感じなのだけど、川井憲次さんの新風を感じて。
サウンドトラックが出たら何回も聞きたい。
もっと聞きたい。

 役者さんたちの演技もとても良かった。ランスヘンリクセンさんの老獪な探求者と声が素敵だったし、ケヴィンデュランドさんの豪快に見えながら繊細の表情もとてもパワフル。なんと言っても、主人公カラを演じたメラニーサンピエールさんの演技は本当に良かった。
 映画を全部引っ張ってる演技で。押井映画の中で一番エモーショナルなのだけどそれが不思議と、とても押井映画に馴染んでいて。
 ラストの表情は萩尾望都様の描く百億の昼と千億の夜のあしゅら王を彷彿。押井映画でこんな表情の描写は珍しいけど綺麗だった。
のちに製作された『東京無国籍少女』の習熟した実写映画感覚のキレを思うと、押井監督は実写にどんどん馴染んでるなぁと感じる。


 映画の終盤、予告にもある巨人との戦いのシークエンスは、実写版『進撃の巨人』で世間を沸かせる樋口真嗣監督のコンテによる物。
 公開こそ、『進撃の巨人』の後ですが、GARMは進撃の巨人より先に作られてる。
 まさかの立体起動装置シーンもあって(他人の映画をダシに自作のパイロットをした疑惑)比較してみるのも一興かと…(私は進撃を見ていないのでなんとも言えないけれど)。




 最後に、押井守監督の色々を追っていると、GARM WARSという映画の製作環境を巡る過酷さをよく知ってしまいます。
コンテ、脚本、セット撮影、ロケ撮影、CG、仕上げ、全てにおいて想像を絶する困難があったようです。
 映画にはそれがわかる部分がないとは言いません。
 けれど、このような映画に挑戦することの困難さは、よく知られている筈です。特にこのGARMは映画史を探しても類例の見つからない映画。(だから欠点に見える物欠点には見えなかったりします)
 それこそ映画『進撃の巨人』のスタッフがおっしゃったように、壁の向こうの巨人に立ち向かわないことにはどうしようもないのですから。
 押井監督も、「丘に立たなければ向こうの景色は見えない」と仰られました。
なにより、映画を最後まで見きった後の感想は、ただただ凄い映画でした、としかいえない感覚。
 誰がなんと言っても奇妙で美しく見える映像の数々は絵画的で壮絶。
 絶対に劇場で観たい作品。
 なんとしてでも大きな劇場で公開してほしい物です…。(これいうの何回目だろう…)

それにデザイン群も素晴らしかったので模型と分厚い電話帳みたいな設定資料集が欲しいです。
リボルテック竹谷枠でフィギュアも欲しい。
あれも欲しい、これも欲しい、もっと見たくなる、お金を払いたくなる映画なんです…。


追記
遂に日本での上映がガルム・ウォーズとして決定!
ジブリの鈴木敏夫Pを加えての公開になるそうです。
2016年 5・20日公開








間違いなくガルムの原点になっている作品
ガルムはこれに対する挑戦なのかも

最上 和子
2016-03-27
最近の押井監督の身体論につい良い影響を与えている舞踏家最上和子さんのエッセイ。レビューも書きました。http://1001pages.blog.jp/archives/1057720522.html








レフン監督『オンリーゴッド』リンチ・ホドロフスキー 新時代の神話の夜明け




レフン監督の怪作『オンリーゴッド (原題 Only God Forgives)』がGyaoで2015/09/21まで無料配信中です。
簡単に紹介だけ。


『オンリーゴッド』はデヴィッド・リンチ監督の演出に、エレメントオブクライムの色彩を重ね、ホドロフスキー監督の神話物語と血漿贓物をぶちまけた、怪作映画。

その全てを、東洋系の一見冴えないオジさんの外見をした恐るべき復讐の父権神が纏めている。

パッと目につくのは、どこまでも漂うリンチワールドな演出。

ゆっくりと動き、ボソボソと喋り、シュールで暴力的な会話をするキャラクタ。
唐突にカットインされる、無人の廊下をゆっくり動くカメラの主観映像に、物語中に現れる白昼夢じみた人物。

リンチ映画お約束の、ナイトクラブで歌う人物とそれに聞き入る観客の映像まで、きちんと抑えていて、リンチファンは少し笑えるかも。



けれど途中から、この映画はリンチオマージュな映画というより、神話的で象徴的なホドロフスキーの世界である事がわかってくる。

主人公である男性を取り巻く環境は、無数の神話の要素、神話素ミュソスに囲まれている。

母子相姦的な妄想と、それによる性的接触の抑圧、母権による支配、エディプスコンプレックス、そして兄殺し。また、彼は母親に対して"病的な妄想"を持っていると語られる。

彼が、現代のタイを舞台にした神話の中で、いやおうなく対峙する復讐神のチャンという男性も、また神話的な権力を周囲に誇示する。

チャンが手を一閃させ虚空から取り出すタイの刀、彼は自身の揺るぎもせず疑問も挟まれず判然とさえしない倫理に基づいて、その刀で鮮血を溢れさせ、皮膚の黄色い断層を顕にし、その奥の内臓を暴き出す。彼はそして、この復讐劇の後、世界にロゴスを齎すかのように、タイの演歌を歌う(表面上はリンチっぽいけれど本当の意味は全然リンチ的ではないと思った)。

だからこれは、神話的な、父権を巡る物語。


ちょっぴりエレメントオブクライムな色の場面


以下ネタバレがあります



そして、『オンリーゴッド』の特色は、この神話の結末の語り方にこそ。

詳細は省くのだけど、最終的に、主人公は母の禁圧を乗り越え、復讐神が持つのと同じ刀を、手にする。

けれど、彼は自身に潜む性への恐れを克服できず、それゆえに、罰せられる事を望む。

父権の象徴たる復讐神は、森のイメージの中で彼の手を切り取り去勢する。

そしてチャンがナイトクラブで、いつものように歌う風景のなか、『アレクサンドロ ホドロフスキー監督に捧ぐ』の文字とともに映画は終わっていく。

これだけなら、エレメントオブクライムを激しくしたような酩酊する色彩で、現代のタイを舞台に語られる事にだけ、特色のある原型的な神話映画なのだけど、私はこの最後に歌われる歌に、この映画の最大の仕掛けと、試みが仕掛けられているような気がしてならなかった。

映画のラストの歌は、今まで彼が歌ってきた歌と違って、とても若々しい声で歌われ、曲の途中ではラジオボイス的に二重に聞こえるエフェクトがかかる。

私はこのチャンの歌の中に、映画の主人公の息吹を感じた。この妄想を無理矢理前提にしてしまうなら、映画の神話はもう少し違った形で読めるのだと思う。

つまり、主人公は神話の最後で去勢された事で、チャン=父権へと一体化したのだと。
主人公は性的な欲望を生み出す根源を断ち切る象徴行為として、刀で腕を切り取られ、それによって浄化された。こう読んでみると、映画の違う一面が見えてくる。

チャンが持つ刀は、あからさまに父権を形作る象徴ファルスなのだけど、チャンが性的な男根を持つかどうかは明らかにはされない。彼を巡る環境は父権の神話に満ちる一方で、彼の家族には妻の姿はなくて、娘も養子である可能性が示唆される。

作中で、割と印象的なセリフで主人公の性的な男根が貶められ、それによる抑圧に彼が苦しむ描写があるのだけど、その後に象徴的ファルスの刀をもってなお、彼は性的男根の抑圧と羨望から抜け出せず、象徴的ファルスの刀で母の屍体を屍姦して、次の場面では刀をなくしている。

つまり、この映画における父権の象徴ファルスは、性的な男根とは区別され、むしろそれを失い持たず抑圧と羨望から解放される事によって、維持されている。
こう読んでみれば、オンリーゴッドは、神話要素を使いながら、新しい構図を導入するラディカルな映画とも、言えるのかもしれない。

こういう性的な男根と象徴的なファルスを区別する姿勢は、少しラカン的なのかも…。



けれども、こういう読みを導入するしないに関わらず、神話というジャンルを内部から解体していくその姿勢において、『オンリーゴッド』はあまりにも手ぬるく、中途半端な物に思えてしまう。

映画が、男性からの一面的な視点からしか物語を語り得ない点で、映画全体がもうどうしようもなく平面的に感じられ、ただただ悪的に描かれる怒れる地母神が、貶められた女神としての要素をどうしようもなく引きずってしまっているのも、映画が見せた父権の新展開に比べるとあまりにも、寂しい。

リンチ映画っぽい演出を引用しているだけに(私が勝手にそう思っているだけなのだけど…)リンチ監督が『ブルーベルベット』で"男性によって暴力的に女性に押し付けられる母性という恐怖"を描き出し、さらに、既存のドラマがそれに頼っている事を暴いたような、強烈にラディカルな姿勢と比べてしまう。

リンチ映画というなら、『ワイルドアットハート』の悪い母を形成する男性性の描写や、喧嘩でただ一方的に殴られる事で男らしさを放棄して、それによって女性と素直に向き合う事が出来るようになる男性、という要素の凄さも、『オンリーゴッド』の新しい筈の父権神話を根底から打ち砕くパワーを持っている。『オンリーゴッド』からは、父権、そして性を巡る文字通りの神話に、新しいテーマを持ち込もうとする姿勢を読み取ってしまえるだけに、そのテーマの脆さが残念なものに思えてしまい…。



それでも、タイを舞台に、超現実的な映像と要素を挿入し、新しい神話を語り直そうとする『オンリーゴッド』の姿勢は、とても面白く、ワクワクさせられる。

現代という舞台でも、徹頭徹尾まぎれもなく神話的で伝説的な映像と物語を語る事ができて、しかもそれを新しい方向へ展開する事ができる、そんな事を示した『オンリーゴッド』はやっぱり凄みを持った強烈な映画。


レフン監督の次回作は、東京を舞台にした映画との事で、レフン監督の映像=色彩感覚によって、日本と東京がどんな風に変容するのか、とっても楽しみです。


“ゴジラ” 喉に刺さる真綿の棘


 今の日本に、本当の意味でゴジラが復活できるとは、私には思えなかった。
ゴジラが破壊しなければいけないものは、ゴジラが破壊可能なものは、全て現実の前に滅んでしまった。高度経済成長の夢も、戦前の忘却も、戦争の忘却も、なにもかも。

 むしろ、今の日本をおおうのは、ゴジラが破壊してきたものがほんとに破壊された、そのショックによるトラウマめいた感情で、それはもう破壊によって解決される何かではなくなってしまった様に思えて。

 そして何より、ゴジラが日本を破壊し尽くしても、ゴジラを生みゴジラをある立場へと追いやる物が、消え去らなかったという事実の衝撃と絶望こそ、今の国を覆っているように。

 ゴジラが破壊を続け、ゴジラがそばで眠っていながら、ゴジラが世界に残酷を振りまきながらも、自分がいつその残酷の中に飛び込まなくてはいけなくなるかもわからず、変わらないように見える生活を続けていかなくてはならない苦しみ。

 進撃の巨人が時代に響いたのは、平穏な日常が破壊されたからではなく、破壊されたあとの、変わらない事への絶望の中にある過酷な日常を生きねばならない若者を描いたからだったとしたら…短期の破壊者でしかないゴジラは時代を生きられない。



もう一つ、ゴジラの中にある、復讐者と被害者、そして加害者という三者を巡る物語は、もはや呪いと化しているのでは、と考え込んでしまう。 それは、ゴジラに与えらた象徴性とゴジラを巡る映画内へのドラマに対する疑問。

 ゴジラは原爆によって生まれた被害者であり、それは広島県民、そして長崎県民も同じ。けれど、被害者が被害者である事による連携はゴジラではほとんど描かれない。

 加害者の側も、加害者としての責任を共有する芹沢博士は、被害者であるゴジラを殺し、自分も死ぬ事でしか、その責任を示せない。

 ゴジラは被害者であるけれど、彼女は無差別な復讐者としてしか、世界に現れる事ができない。

 それは、被害者に対してはっきりと対峙できず、加害者としての責務を背負えなかった日本の泥沼の、その源泉のような感情を駆動させるの物語なのでは、と。

 ゴジラに込められた象徴は、数多いけれど、その究極は"仇なす破壊者"である事として描かれる。たとえ、彼女が人間を護る意思を見せるように動いても、根底には、彼女が世界を破壊する恐るべきものである事への畏怖が潜んでいる。そして、私たちが成した罪がゴジラに刻まれている事への、深い恐怖が潜んでいる。



 けれど、なぜ、罪を告発する者が、常に破壊者であり復讐者としてみなされなければならないのだろう。

 なぜ、彼女を常に人間は殺そうとしなくてはならないのだろう。



 物語の中では、これらの事に理由をつけられるけれど、物語の外にある映画という領域で、私たちはこの事に対してこらえる事ができる…とは思えない。

 ゴジラが科学技術と人間社会の罪から生まれた事を思えば、この理由のないゴジラ観は、日本にとってのフランケンシュタイン・コンプレックスで、ゴジラ・コンプレックスとでも言える物なのかもしれない。

 人間の犯した罪によって生まれた被害者は、世界を焼き尽くす復讐者となって、その姿をあらわす、という恐怖のドラマ。

 あるいは、そのように"スペクタクル"な復讐を受ける事で、加害者である自らに向けられる(或いは加害者であると指弾する)怨念と象徴を解放し、罪を享楽に変えたいという精神の流れ。



 私が破壊映画であるゴジラを望む情動の裏には、こんな想いが隠れている気がして、このゴジラ・コンプレックスは、今の日本を一つの極へ追い詰めていく、ある情動の、根元にある物の一つだと、そう、思えてしまう。

 ゴジラが破壊の限りを尽くし、世界の全てを灰色に変えても、ゴジラを生む物は変わらないという絶望は、ゴジラへの奇妙な感情のコンプレックスと、巧妙な形で手を握っているような気がしてしまう。



 ゴジラの復活、ゴジラの美しい姿を想い、その黒い鱗の底で光る虹彩を見つめる時、私には、こういうゴジラを巡るドラマへの違和感が、明確にならない思考の奥で傷のように疼く。

 ゴジラは多様な象徴をまとっている。科学技術の被害者、戦後への復讐者、自然の恐怖、母としての姿、それはゴジラの複雑さを生み、ゴジラ映画に深みを与えた。
 怪獣が象徴を背負うことで、怪獣映画は優れたジャンルになった。けれども、その象徴がどのような構造の中にあって、それは今どのように扱われていて、どのように扱われるべきなのか、この象徴を巡るドラマを作る時に、複雑な象徴性は、同時にゴジラを巡るドラマを厄介な物にしてしまった……のだとしたら。
 
根本の横たわる疑問は、社会を見据えてゴジラに与えた象徴性を、映画という構造の中で、社会を見据えて、十全にドラマとして構築できたのか…というものになるのかも、しれない。

 ゴジラが復活できるのは、ゴジラを巡る無数の糸を解きほぐし、何故芹沢博士が死ななければならなかったのか、何故ゴジラが復讐者であるのか、それを解明した時になるのではないかしら。

 そして多分、その時に、ゴジラの破壊は深い奥にまで届くのだと願いたい。




追記

 ゴジラをはじめ怪獣映画には自衛隊が葛藤なく戦うことのできる存在という側面が、わずかながらにあった、と思う。

 怪獣と戦う為なら倫理的、政治的な議論抜きに日本という国家が戦争に参加出来た。だから怪獣映画では現実より数十年先に防衛庁は防衛省に格上げされた。

 PKOへの参加、日本国外での自衛隊活動が始まるのと同時期に、怪獣映画がゆっくりと衰退していったのは、果たして偶然だったかどうか…とまで言ってしまえば、あまりにも牽強付会ではあるけれど。
 
 ゴジラ、怪獣たちに、人間は罪の告発者である事を望み続けてきた。そしてやがて彼女ら彼らは、汚れ切り、感傷的な人間ドラマの涙で溶けてしまった。今、どんな顔でそんな怪獣たちを見つめればいいのか、よくわからない。

永野護作品に宿るファンタジー性と「我々はどこから来てどこへ行くのか」への答え 〜読者の“読み”が取り戻す死者の世界〜



 永野護は、自作を「ファンタジー」と語り「おとぎ話」とも語ります。それは、ジャンル性の持つ縛りの強さから、作品の自由を守る為の一種の建前でもあるのでしょうけれど、永野作品には確かに強い神話性、ファンタジー性と言ったものへの傾向が認められます。

 この項では、こうした永野作品のファンタジー性というものを足がかり、永野作品の持つある魅力の一面を、語ってみたいと、思います。

 これを考えることで、永野作品が膨大な設定を有する理由、そして読者がそれを読むことへの情熱を絶やさない理由、それら永野作品が持つ魅力の理由の一側面が見えてくると考えるのです。それは、物語の消費という理論の裏側にあるものと、近代が喪失した死者との付き合い方を現実の中に取り戻す試み、その二つを見出す旅です。
 永野護作品を知らない方も、あるファンタジー作品の魅力の紹介として、読んでいただければ。

 以下、近代の中で、ファンタジーがいかに発展していったかについて軽く触れつつ、永野作品の一面 について、語ってみたいと考えられます。
少々長くなりますが、お付き合いいただければ幸いです。


 民話や神話から発展して、ファンタジーという分野が発展していく背景には(少し逆説的かもしれませんが)近代的な科学思想と合理主義の発展とともに、宗教的な世界観が衰退していく時代の流れがあった、という説があります。(これは丁度、永野護の代表作『ファイブスター物語』(FSS)の、科学が発展し人が神に頼るのをやめた世界、という設定に合致します。)

 この説によれば、このような流れの結果、近代的な合理主義によって、死後の世界=他界は、現実世界から排斥されることになった、のだそうです。この世界の見方では、もはや、人の死はひとつの物理的現象でしかなく、死んだ人間が向かうの場所は、現実世界から消し去られてしまいました。

 けれども、多くの人々は感情の上で、死者の世界を求めましたし、死者の為の言葉を捨てることは、決してありませんでした。そして、人間は「私たちはどこから来て、どこへ行くのか?」と問うことを辞めませんでした。

 なのに、私たちの科学が主要な地位を占める世界観の中には、もはや死者の世界は現実としては存在し無いのです。この、感情と世界観の間にある埋められ無い溝を、近代人は合理主義の結果として抱えざるを得なかったのです。

 そして、その隙間を埋めるように登場したのが、児童文学であり妖精物語であり、さらにそれらが発展した、ファンタジー文学でした。ファンタジー文学は、空想という枠組みを持つことで、死後の世界を作品世界内に実在する世界として描きなおし、近代人が抱え込むことになった死者への感情と合理的な世界観の溝を埋めようと試みたのです。

 ファンタジーが虚構である限りにおいて、死後の世界の実在、或いは死という概念に恩寵を与えるような非合理性は、物語の中で許容され、死者の王国は復活しました。それは、死を前に惑いながら死者を見つめる、近代に生きる生者への、ささやかな贈り物と言えるでしょう。

この説にそって結論すれば、近代におけるファンタジーの命題とは、合理主義の中で消え去った死の観念を、非合理的な自由な空想の中でいかに語り直すか、という点にこそあったのだと、言えるのでしょう。

 そして、その象徴として、多くの場合、物語内の世界と繋がったあの世や他界が配置され、ファンタジー文学は世界が多様に重なり合う、そんな構造を取ることになったのです。こうした他界の幾つかは、作中でも明示されず読者が暗示された他界を"信じる"ことによって成立する傾向も、こうしたファンタジーの特徴の一つかもしれません。

 けれど、このようなファンタジーの試みは同時に、かつては、身体的な現実と地続きにあった他界=死者の世界を、物語の向こう側の虚構に閉じ込め、永遠に現実から締め出す結果になった、と見ることも、できるかもしれません。現実的な理性と、想像の中での欲求は分離され、現実と結びついた身体の場に宿る死者の世界は取り戻されることなく、消えてしまいました。

 少々、長くなりましたが、近代とファンタジーの発展に関するこうした関係を元に永野作品を見つめることで、永野作品のある気高い一面が、煌びやかな表層から浮かび上がってくるのだと思うのです。



 さて、以上で述べたファンタジーに関する視点を、永野護の作品に適用するとどうなるでしょう?

 前述の通り、FSSでは、科学が高度に発展し、人がもはや神に頼ることなく宗教を排して生活を営んでいる姿が描かれます。そこには、アンデルセンの童話のような死後の幸福も、ナルニア国物語の死後生もなく、指輪物語にあるような恩寵としての死、という概念さえ、明確には描かれません。FSSには 、死を明確に世界像の中に、他界として取り込むような表現は、一見すると見当たらないのです。

 けれどだからと言って、FSSが死、特に死後の人間の行方という事に関して、全く無関心というわけではないはずです。
むしろ、それどころか、FSSには死んでしまった人間たちの事を想う言葉に溢れている、と言っても過言ではないでしょう。

 結論を先取って仕舞えば、FSSは従来のファンタジーと同じように、死者への感情と合理的な世界観の溝を埋めようと試みる作品でありつつも、従来のファンタジーとはラディカルに異なる方法で、その溝を埋めようとした作品という一面を持つのだと、私にはそう思えるのです。
 



 FSSに特有な語りの手法に"未来回想"と呼ばれるものがあります。これは物語の中で、物語の主軸となるストーリーラインの年代から千年単位で時間をずらした未来の描写を、作中に挿入する手法の事を言うのですが、この"未来回想"こそが永野作品における死の扱いと、FSSのファンタジー性の支えなのように思えます。

 FSS第1巻の冒頭で、本編に先んじて展開されるこの未来回想の場面で、主人公であるアマテラスは
「けれど…私はあまりにたくさんの友を失いすぎたよ
 リトラー、バランシェ、アイシャ、ログナー…コーラス三世…
  そしてラキシス…彼女はもういない…」
と物語本編に先立ち、これから物語に現れる人物を失ってしまった自分の胸の内を、吐露します。
 そして、この場面の後に続くのは、黒騎士の死と、そのパートナーであるファティマ・エストが眠りにつく場面。
 この場面のラストには
「そしてこのあと数多くいたヘッドライナーやファティマは次々と姿を消していった…
  このエストとグラードのように…
  しかし滅び去った訳ではない。
  彼らはどこかへ行ってしまった…時代の影の中に」
という骸の姿を刻印した追悼文のようなナレーションが掲げられ、死のイメージに満ちた場面の連続は終結を迎えます。
 そして、ファイブスター物語 第1話 ラキシスの章の物語、その本編がようやく始まるのは、まさにこの死の場面の連続を受けてからの事なのです。

 FSSの主軸となるストーリーラインのその始まりに、こうした死のイメージが強く現れている事は、FSSが死という概念と強く関わっている一面を、明確に示しているように思えます。

 そしてここには、FSSにおける死者の行方ーーファンタジー文学が答えてきた「私たちはどこへ行くのか」という質問への答えもーーがはっきりと表明されているのです。



 前述のナレーションの中に「彼らはどこかへ行ってしまった…時代の影の中に…」という一節があります。

 これこそ、FSSにおける「私たちはどこへ行くのか」という疑問への答えではないでしょうか。ここでは明確に、死者の行方が問われ、示されています。そして永野護はそれを「時代の影」と明確に定義するのです。死者が向かうのは浄土の西方でも、異なる法則の支配する他界でもなく、「時代の影」なのだと。

  同様の意識は第3話アトロポスの章のメガエラとログナーのセリフ
   「みんないるんですね…みんな…」
   「1000年経っても見た顔が 聞いた顔がある」
や第6話マジェスティック・スタンドのナインのセリフ
   「人の死は 肉体と精神の死 だけではなく…
     死んだ者の事を 思い出してくれる者が 
     一人もいなくなった時こそが真の死と思う事もある…」
にも見受けられます。

 これらのセリフを逆から見れば、永野作品に於いて描かれる歴史とは、死者の痕跡の集合体であると、捉らえる事ができるはずです。こういう風に見れば、永野作品が、精緻な年表を必要とするのは、未来の世界を、その未来において既に死んでしまっている人間の意思の痕跡の場として描く為の、因果律の連鎖を用意する為、と見る事ができる筈です。

 死者の向かう先は、死者の痕跡の残る未来であるーーと見れば、たとえ受け手の思考が合理的な世界観に基づいていても、死者の行く世界は、物語の虚構性の中にのみ閉じ込めるものではなくなるわけです。何故といって、未来は常に訪れるものであり、それが過去の歴史に基づくものである事を、私たちは、合理的な思考を生んだ論理性の帰結として、すでに了解しているのですから。

永野作品の根本的なテーマには、現代の中で失われた死者の行く先を、どう現実に取り戻すか、という一面があるのではないでしょうか。現実的で合理的な因果律の世界観によって、死者の行く先は喪われてしまいました。それを、同じ枠組みの中で、もう一度再生させる。永野作品の特徴である未来回想という演出形式は、この試みの成果だと読む事ができます。永野作品の特徴の一つである、膨大な設定の山と、数千年にも及ぶ壮大な歴史は、この試みの説得力を生む為の前提として必要だったのです。

 永野作品では、常に物語の主軸となる舞台の遠い未来が描かれます。それは、人の死が訪れた後に死者が向かう世界の姿でもあるのです。圧倒的な長い時間を未来方向にも過去方向にも持つ歴史という視座を導入することで、死んだ人間の行く先は、近代的合理性の枠組みの中で、現実の中に取り戻されます。

 このような歴史という視点の中に、死者の姿を見出す試みの原型は、年代記と呼ばれる作品や、失われた時を求めてなど、歴史を扱った作品に見られますし、漫画であれば萩尾望都様のポーの一族にも見られます。

 けれども、永野護の作品の未来描写では、死者が中心に置かれているという点で、それらとは決定的に異なっているのです。

 FSSにおける未来回想では、物語のストーリーラインから大きくずれた時代が映し出される事で、主軸となっている物語世界から一旦、歴史の流れにある未来世界は外れ、未来の"今ここ"は他界めいた場所に変わるのです。未来回想で描かれる未来の人々は、本編の世界で生きていた人々の痕跡を止めてはいますが、本編の登場人物たちと同一人物である人間が未来回想に登場する事は稀なのです。

 一方で、歴史大河やポーの一族では、異なる時代に生まれた生者が少しずつずれていくことで、生者がかすがいのように連なる鎖となって、歴史が編まれていきます。けれども、永野護の作品では、作中で描く未来を、時に数千年にも及ぶ未来に設定することで、未来の世界と本編の世界の繋がりを、死者の痕跡という要素に限定します。

 前述したセリフ、アマテラスの絶望的なセリフや、ログナーのセリフは、永野作品の未来世界が死者をベースにしている事を、強く示しています。

 
 FSSにおいて死者の行方を語る人間は、多くの場合、歴史の中の、"今ここ"の一点を生きる人々ではなく、歴史を俯瞰で見つめる視点を持つ人々であり、膨大な記憶を持つ人々です。歴史の"今ここ"を生きる人々は、死者の痕跡に気づく事はありません。死者の想いを受け継ぐ事はあっても、それは、彼等彼女等にとって、自分の意思でなした事です。生成されていく歴史の中に、死者の姿を読み取るのは、歴史を総覧する立場にある人々だけです。

 FSSの生者が、彼ら彼女らの生きる"今ここ"に死者の痕跡があることに気づくことはほとんどありません。いえ、気づく必要さえないのです。歴史を作る人々は"今ここ"に暮らす人で、彼女等彼等が向くのは、いまだ見えない、年表のない未来なのですから。そして、それでも生き残る残滓こそが、死者の痕跡なのです。永野作品における死者の痕跡は、死者を尊ぶ事だけによって残るのではありません、死者を断罪する事によってさえ、死者を痕跡は残り、死者の生は生成されるのです。 

 だからこそ、永野作品の根幹を担うのは、死んでいった人たちを見続けるアマテラスであり、その立場を共有するファティマであり、死んだ人たちの想いを受け継ぐ詩女たち、彼女等彼等、歴史を閲覧するものたちなのです。そして、それは読者の立場でもあります。ある意味では、誰よりも歴史の中に死んでいった人々の姿を見出しているのは、読者なのですから。ナインのセリフにもある通り、読者が死者の姿を忘れず歴史に読み取る限り、死者の死は仮の死でしかないのです。

 私たちとアマテラスそしてファティマたち、長い時間を生き、過去と未来を見つめる存在は、それを読む術を知っています。歴史を読み解くことのできる存在が、"死者の生"を"今ここ"に見つける時に、死者の姿が蘇るのです。その時、未来であり現在である"今ここ"は私たちにとって死者の行き先になるのです。それは現実に中に奪還された幸福なあの世なのです。

 近代ファンタジー文学が、読者が受動的な"信じること"によって成立させていた"死者の生"は、永野作品では読者が積極的に"読み取ること"によって成立するのです。この視点にたつのなら、FSSが読者に膨大な設定を提供し、読者がそれを読み取り続けるのは、物語の消費の快楽の為でも、アーカイブとして集める快楽の為のでもなく、それはただ「私たちはどこから来てどこへ行くのか」という疑問に答える為の、祈りの行為のような一面を持つのだと、言えるのではないでしょうか。

 読者が物語の世界を、歴史として眺め、その中に死者の姿を読み取ることで"今ここ"の世界はその姿を変えないまま、裏返しとなって、死者の行く先、私たちの行き先へと姿を変えるのです。FSSの読者はFSSの歴史を読み解くことで、喪われた死者の世界を、現実的な理性と非合理的な感情が統合された身体感覚の中に取り戻すことが出来るのです。このような積極的な"読書"体験はFSSが提供する類稀な経験のように思えます。

 永野作品の要素が結ぶ焦点と、その抗いがたい魅力は、多分この一点にその一面を見せているでしょうし、永野作品をファンタジーと呼べる理由も、ここにあると言えるはずです。



 映画ゴティックメードのラストでは、物語本編から隔たった、遥かな未来を思わせる世界が描かれます。

 異形の人間が闊歩し、巨大な建物が偉容を聳えさせる聖地の姿は、映画のラストで描かれた世界とは全く違う物。けれど、聖地へ繋がる道は、ベリンが種を蒔いた花の道で、空を行く艦艇は映画に出てきた物、道を通る男の顔には、トリハロンの面影があり、金髪の女性が抱えるのは、ベリンの花の種。

 あの彼方の未来では、明らかに、トリハロンもベリンも死んでいるでしょう。けれど、その意思と痕跡は、あの未来の現実でも生きているのです。

 その時、未来の世界に、未来の世界ではすでに死者となった人々の面影を観客が読み取る事で、未来の世界は紛れも無い現実でありながら死者たちが生きる他界となりえるのです。

 こうして永野作品が、死者の世界を現実の中に取り戻す時、近代の中で失われた崇高さ、畏敬の念が、近代的合理性を纏った理性をすり抜けて、私たちがの前に現れるのです。



 永野作品が提示する死者への考え方は、未来方向への歴史の知識を持たない限り、私たちが現実の中で、すぐさまえ実践することが出来るものではありません。物語の中でさえ、読み取った真実が真実である保証はありません。

 それでも、永野作品から得られる教訓は実り豊かなものでしょう。

 死者の世界をなくして以来、私たちは死者と向き合った時に奇妙な居心地悪さを感じるようになってしまいました。

 そんな私たちに、合理性のある世界観と矛盾しない、むしろ合理性を見出す事で発見される死者の生と言う考え方は、多くの示唆を与えてくれるはずですから…。




ここで示した読みは、あくまで「このような視点を導入するとこのような統一的な読みの可能性が生まれるのではないか」
という解釈であり、永野先生がどのように考えて書いたかを語ったものではありません…。
永野先生ご自身は、作品に思想を込めることについてやや否定的な意見を述べいていらっしゃったことを、付記しておきます。




本項目のファンタジーに対する見方は、大澤千恵子さんのこちらの著書に大きく依っています。
シャルルペローの童話からハリーポッター、宮崎駿監督の映画に至るまでファンタジーと宗教という観点から児童文学を論じた傑作です。
是非気になった方がいらしたらお読みください。


 余談
 永野作品の過去未来に渡る歴史というのは、永野護が作品世界のことを考える度に、丸ごと変化し生成されるモノのような気がします…。なので世界の像は少しずつ時に大胆に変わってゆくのです…。
 というわけで私は永野護の設定本を見つめ
「親衛魔道軍ってなに!?なにそれ!?カイゼリンは吸筒数12×2?じゃあV24ポーズ?あれは気筒だから違うか…」
と思い続ける永野ファンになりたいと思います。

映画『ゴティックメード 花の詩女』はなぜ上質な“映画”なのか 〜流れる時間と強靭な構造、毒を超越したドラマ〜



 映画『ゴティックメード 花の詩女』は映画が好きな方にこそ、観て欲しい映画。それから、ファンタジー文学、ある種の児童文学の小さな傑作、おとぎ話や童話に近いファンタジーが好きな方に。
 予告にあるような、ロボットアニメ、という宣伝文句を忘れて、ただ一つの優れて小さな、ロードムービーとして。
 或いは、映画なるものへの強烈な信念に裏打ちされた、力強い作品として。




 映画の物語は、とてもシンプルなもの。
 舞台は、スターウォーズのような(とあえて言います)SF宇宙の片隅の、自然豊かな植民惑星。この星の精神的主導者である詩女という巫女に選ばれた人間が、違う星の軍事大国の皇子であり軍人の人間に護衛され、二人が立場を異にする指導者として、あるいは生身の人間として、対立しながら祈りを捧げる旅を続ける、というのが概略。

そしてそれは、祈りと詩と踊りと、恐ろしいものの対立の物語。ささやかなものと、恐ろしいものの対立の物語。あるいは、希望と現実の対立。

 この対立の構図が、映画の殆ど全てのシーンに織り込まれている為に、この映画がただの美しい映像ではなく、優れた質感を持つ"映画"に思えました。



『ゴティックメード 花の詩女』という映画は、決して派手な映画ではありません。ハリウッド映画のようなスペクタクルも、宮崎アニメのような激しいアクションも、ドキドキする展開も、ほとんどありません。

 けれど、映画の中には、確かな時間が流れていいます。主人公たちが、美しいと同時に茫漠とし、広すぎる自然を渡っていく、静かな時間の流れ。それを映し出す焦れったい程に長いカメラ回し。

映画のアクションがスペクタクルで長ければ、この時間は、流れの速いせわせわとしたカットに破壊されてしまうでしょう。この映画はどこまでも、自分の映画であることに忠実です。そして、映画の時間の心地よさ。

 常に聞こえる、風の音、波の音、草が擦れる音、それらの音が、決して狭い空間ではなく、圧倒されるくらいに大きな空に響いているのだとわかる音響。 

人の来歴や微かな感情を映し出す細やかな人物アニメーションの芝居。大地の草が風に頭を垂れて太陽を映し、灰色に煌めく雨が無数の層となって空間を埋め尽くす、圧巻の自然描写。これらの細い描写によって、映画の中には常に時間がゆっくりと流れているのです。 

じっと沈む太陽を眺める時のような、異質な時間。この映画に刻み込まれた、現実とは違う時間の感覚は、ここにはない別の惑星に流れる時間なのです。 
 


 この、世界の時間と存在を支えるのが、映画に詰め込まれた美しさの数々。架空の未来世界と、荒涼とした自然を混ぜ合わせる、優れたデザインの数々。 

軍事大国の少年が乗る空中戦艦の威容と、詩女の少女が乗る小さな船の靭やかな軽やかさ。人々の歴史を静かに語る服飾デザイン。主人公たちが旅をしていく、自然風景の、水彩画の迫力。少女が荒涼とした大地と対峙して、種を蒔き踊りながら祈る、飾らない動き。

 多分、こんな風に、美しいSFデザインと架空世界を想定しながら、世界に流れる時間をアクションに寸断されることなく味わえるような作品はあまり存在しなかったように思います。

 あえて、例えるなら、ルーカスの世界を、ヴェンダースの眼を持って切り取った映像に、美しく優しいファンタジーの物語を加えた映画。決してスペクタクルな映像に傾かず、主人公たちと、描かれる世界に流れる時間に寄り添った、美しい映像。本当に上質な工芸品のような。


©EDIT

 そして何より、この映画が持つ映画としての凄みは、こういう要素が全て、一つの構図、一つの構造を示すために、使われていることだと思うのです。

 映画の全編に渡って、殆どあらゆるシーン、あらゆる場面が、たった一つのシンプルな構図、"美しくささやかな物と、それを踏みにじる様な恐ろしい物の対立"という構図を描き続けているのが、この映画なのです。二人の主人公の造形はもちろん、主人公たちが自然の中を旅するシーンも、雨の中立ちすくむ場面も、あらゆる場面でこの構図が示され続けている。

 この繰り返しが生む効果が、映画のラスト近辺の"ささやかな物と、それを踏みにじる様な恐ろしい物"を同時に備えた存在が登場するシーンに強烈な磁力を与えています。同時にそれは、エンディングの物語の解決に、強い力を与えてもいます。
 


 映画が描くのは"美しくささやかな物と、それを踏みにじる様な恐ろしい物"という構図ですけれど、映画にとって重要なのは、この構図を象徴する物は、常に変わり続け、時には立場を変える、ということなのではないでしょうか。

 ある時にはささやかな物を象徴していた物が、ある時には恐ろしい物を象徴する物に変わっていくーー。この象徴する物の互換性こそが、この映画の真骨頂であり、同じシンプル極まる構図がひたすらに重ねられることの理由になっているのです。

 ある時には、ささやかな祈りを象徴していた筈の自然が、ある時には荒涼とした恐ろしい物へと変わる。ある時には、全てを踏みにじる恐ろしい物を象徴していた筈の軍人が、雨の中ではとてもささやかな物に見える。物語の中で、ささやかな物であった筈の詩女が、恐ろしい物となって軍人を圧倒する。

 自然を象徴していた筈の巫女が、荒涼と恐ろしくさえ見える大地と対峙する様に、飾りなく躍りながら祈るシーンは、この映画の白眉でしょう(余談ですが神が明示されず、けれども祈りが映画の中心に置かれるというのも、この映画の面白いところです)。

このように、映画が意味の担い手をずらしながら、対立構図が描かき続けるとき、対立の持つ意味さえ、解体されるかに見えます。ささやかなものと、恐ろしいもの、という対立の持っていた恣意的な意味は、ただ、対立する何かと何かの間にある緊張関係へと変わります。

こうして生成された対立は、構図を構成する意味と意味、意味を担う要素と要素の差異を強調するのです。

 極端なことを言えば、映画が表現し続けるのは、たった一つのシンプルな対立構図だけ。けれど構図を常に示しつつ、構造の実在を見せながら、この構造の中で特定の意味を担う存在が、特定の要素である必要はないことを、映画は静かに訴えるのです。そして、小さく平面的な構図は、個々の役割をその時々で担う存在を媒介に、立体的な広がりを持った構造となって映画全体を貫きます。

 単純なテーマを、単純な物語を通して、映像の中で延々繰り返すことで、映画は重い力を持った映画になる、というこの作りは、監督の映画に対する強烈な信念の所産だと思います。

一つの構図を、殆ど全てのカットに丹念に織り込むことで立ち現れてくる構造の力強さ。そして、ただひたすらそれだけを繰り返すことで、映像が映画になるのだ、という強烈な信念に支えられた作りこそ、この映画を傑作にしているのだ、と。


 
ラスト付近、映画唯一のアクションシーンで、恐ろしい兵器を、主人公の巫女は「美しい」と形容します。それは、彼女(そして観客が)が二つの対立する意味を、その差異を認めたまま、同時に一つの象徴の中に読み取る瞬間です。

花の姿を持ったその存在は、途方もなく美しく、恐ろしい力を秘めています。それは、敵を蹂躙する恐ろしい物です。しかし同時に、それは敵に打ち倒されかねない細やかなものでもあるのです。 

この一連のアクションシーンで、二人の主人公は、それぞれが、恐ろしい物の中に潜む美しさを認め、そして、美しい戦闘兵器に潜む恐ろしさを自覚します(アクションシーンは短い物ですが、長いものになれば、こういう構図をぶち壊してしまいかねないでしょう)

 この時に、映画が繰り返した構造は、一つの大きな物として統合され、主人公たちは自分の立場を確かめつつ、存在にある二つの対極を理解し、その二つの違いを保ったまま、お互いを受け入れることでができる様になります。

映画のラストで、二人はお互いを尊重しますが、同時に互いの立場の違いを明確に表明します。それは毒を超越した健全なドラマであり、希望の物語です。 



繰り返されてきた構図の意味を理解し、自分の中に互いの存在を受け入れた主人公たちは、これからの未来で、理想と現実を、二つながらに受け入れて戦っていけるかもしれない。対極にある存在のどちらもが矛盾しながら、同時に存在るすことを許容し、どちらもを捨てることなく、生きていけるのかもしれない。映画のラストのシーンでは二人の表情と台詞の中でそのことが暗示されます。

 この後押しは、主人公だけでなく、観客に向けられた物ののように思えます。観客にも、その様に生きる可能性を示しているのだと。この、観客への目配り、という意味で、この映画は優れた児童文学的なファンタジーといえるでしょう。 
 


 映画のエンディングで、観客が取り残される場所、そして、その後に聞く音と風景。この間に観客が味わう圧縮された感覚こそ、映画が構図を静かに、セリフではなく映像として繰り返してきた理由なのだ、と。

 この感覚の押し付けのなさ、そっとした静かな力強さ、それは映画が築き上げてきた物のちからです。

 映画の持つ対立の全てが、映画の独自の時間と美しさに包み込まれていることで、差異を持った意味を二つながらに受け入れることの説得力が増すのです。



 映画『ゴティックメード 花の詩女』は、優れたアニメーションと音響に支えられた、素晴らしい映像体験を提供する作品です。『ゴティックメード』の魅力は数多いです。登場人物のちょっとした動きに込められたキャラクタの歴史や、素朴に見えて練りこまれた脚本の妙、それに濃密な演出の数々。或いは、祈りに中心をにした物語作りに見える、作者の祈りに対する考え方や、踊りの意味。中でも、強烈なインパクトを残す音響効果は、それだけでこの映画を映画史に残す価値を生んでいます。もちろん私が書いた以上の読みの可能性も豊かに持っていました。

 けれど、私にとって、この映画を「いい映画だな〜」と感じてしまった理由は、何よりこの映画が、自分自身に忠実であろうと努めた映画なのだ、という点だったのです。

いささか牽強付会かもしれませんが、今こそ"映画"としての『ゴティックメード 花の詩女』への想いを纏めたくて書かせていただきました。

 観る機会の少ない作品ですが、ぜひ、多くのの方に見て欲しいです。







 




この映画は監督の意見により、あらゆるメディアでの発売の可能性がない事が発表されています。つまり、映画館で見る以外見る手段はありません。カドカワという大手が21世紀に製作した映画とは思えない驚異的な方針です。
現在、映画は"ドリパス"という映画の再上映をオンデマンドで映画館に求めるウェブサービスを通じて年に数回ほど、上映されています。ぜひ、気になった方はこちらをチェックしてみてください。


2015/08/21時点では、ウェブサイトが各地の劇場と交渉に入った段階で、こののちに上映劇場が決まればチケットが販売され、一定数に届けば上映が決定される、という段階です。



映画『ゴティックメード 花の詩女』は漫画作品『ファイブスター物語』に連なる作品です
が、単独の映画として、本当に優れて上質な映画です。エンディング後にファンサービス的な描写がありますが、理解できなくても映画の本質には深くは関わりません。冒頭に書いた通り、映画ファン、ファンタジーファンの方にこそ見て欲しい、と思える作品です。ぜひ、『ファイブスター物語』を知らないまま、ご覧になってください。

また、ファイブスター物語13巻を読まれた方でこれから『ゴティックメード』を観るという方は、一度FSSの事を忘れてからみても良いかも…と思います。



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