■一千一頁物語

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『アンチクライスト』とラースフォントリアー『ニンフォマニアック』 対話篇 絶望と希望の物語


 『アンチクライスト』とラースフォントリアー『ニンフォマニアック』 絶望の中で自らを語ることの可能性と不可能性


ラースフォントリアー監督の作を追っていくと、その景色の森林の中に、西洋の知の体系への嫌悪が絡み付いているのを、どうして観てしまう。

アンチクライストを駆り立てる絶望の深さは、絶望それ自体の認識だけが救いになる、そういう色をする程の深さだったように感じられた。


監督のニンフォマニアックも、その絶望の深さは変わらない。けれど、救いのありようは全く違う物のように、思えてならなかった。


それは希望が始まる物語であり、解放へと向かう決意の物語であるのではないか、と。







アンチクライストを、西洋文化に絡みついた思考を巡る物語と見てみる。


森林は、西洋文化が排除して来たものであり、それ故に西洋文化が認識できないもの。

それは、西洋の知が、自分の境界を決めるために利用してきたもの

そしてそれは、女性、という形で西洋の中で内面化される。


精神科医と中世魔女美術の研究家たる主人公二人は、知の体系に属しながら、同時に、知の体系から溢れた領域を、理解可能なものに置き換える事を、職能としている。


そんな二人は、物語の中で、西洋知が疎外したものの象徴である森林の中で、西洋が自然と女性に押し付けたものを、自らが属する文脈の中で、自分たちで演じながら、自分たちで育て、結晶化させていく。そうしてはぐくまれた西洋の概念は、そのまま悲劇となって自分たちを直撃し、崩壊させ、惨劇へと至らしめる。

それは、西洋の歴史が繰り返してきた、女性と疎外を巡る物語の、最も最小な単位での濃密な再演。



フーコーや、フェミニズムが西洋の歴史理解を切り開いていった60年代以降、そんな考えは決して珍しいものではない。

けれど、トリアーの絶望の深さは、そこに止まらない。



トリアーの惨劇は、絶望のような希望の中で終わる。



抑圧と放逐によって成り立った西洋の歴史の中にあり、その先端にある限り、西洋のその悪徳のベクトルからは逃れられない、という認識を示すかのように、物語は絶望の中で終わる。


そもそも、現代の研究者である二人は、このような西洋の歴史の解釈を、当然の前提として知っていたのだ。けれども、二人は、その結末から逃れることはできない。抽象化された象徴的人物のような二人は、ただ破綻への道を歩んでいく。



映画の始まりと結末、その二つの差異を結んだ線の延長線を映画の希望としてみなすなら、映画が示すのは、ただ西洋の知がそのようなものである、という絶望と、それを知っらなかったという悔恨に満ちた認識だけ。


森の中の地獄は、森の外の地獄の反映に他ならず、自分はまたその地獄に西洋の抑圧の化身である悪魔として、回帰するしかないという絶望の認識。其れだけが希望である、という絶望に満ちた期待。

トリアーのアンチクライストがどうしようもなく憂鬱なのは、きっとそこに理由がある。



トリアーの断罪は、当然、映画それ自体にも向けられる。西洋の美的感覚は、西洋の思想と深く結びついている。陰影から、遠近法、構図に至るまでが、その結びつきの下にあることは、多くの研究が示す通りだし、絵画が一つの思想の表現方法だった。それは、映画においても変わらない。トリアーが古典的な象徴体系、古典となった映画の引用を行なったのは、これを映画として補強し成立させるため、西洋の地獄が、視覚的な美しさとなって世界を覆っている事を示すためなのだ、と。




けれど、トリアー監督の新作、ニンフォマニアックは、その絶望を抱えた上で這いずる、強い希望があったように感じられた。物語は、やはり破滅的な最後を迎える。けれど、そこには希望へ向かう事への信頼と、生への強い意志があったように。




ニンフォマニアックも、アンチクライストと同様に、男女2人で物語が進行していく。トリアー独特の、ドグマ式の映像は、比較的抑えられ、挿入される記録映像が本編のドラマ映像と対話するように、コミカルにテンポよく進んでいく。


けれど、上述のような視点でアンチクライストを見た場合、ニンフォマニアックが何よりもアンチクライストと異なるのは、それが語りの物語である点だ、と私は考える。


主観的に曲げられた物語は、語り手のセルフコントロールの下にある。


語り手は、アンチクライストのような地獄を抜けて来た1人の女性、ジョー。彼女が語る物語と、聞き手の男性セリグマンの間の張りの揺れが、物語を駆動させている。


そこには、ギリシャ哲学の対話編を連想させるものがありつつ、彼女が辿ってきた人生の反映がある。


彼女の語る物語は、彼女の性欲と、1人の男性の存在以外、全てが自分のセルフコントロールに置かれた物語として語られ、セルフコントロール不能な要素も、彼女は決して否定しない。そこには、アンチクライスの中にあった葛藤の微妙な発展がある。


女性という領域に、西洋がセルフコントロール不能な対象を押し付け、女性は自身のセルフコントロールを失いながら自己を否定する、アンチクライスの物語(こうした見方もアンチクライスは否定するのだろうけれども)が、ここでは反転して演じられる。


女性は自分の欲望に従って自分をコントロールし、自分を排撃しない。そのように語ることは、同時に崩壊した自我の癒しでもある。



ニンフォマニアックでは、ドラマと映像は幾重にも重なって進行していく。


もう一つのドラマは、ジョーとセリグマンが語る今のドラマで、語られない男の西洋知の権化のドラマで、女が語らなかったドラマ。今のドラマがそれらをまとめ上げ、今のドラマは独特の緊張感を舞いあがらせている


女の話を聞く男は、話を男の思想世界によって解釈して行く。そこの中で、女性の生きた軌跡と語りは、奇妙な形で変更されて行く。


それは、彼女が辿って来た、彼女の彼女の人生に対する解釈の変更に他ならない。性的な疎外者である2人の対話は、どこかですれ違って行く。



セリグマンは、自分の話を語ることができない。だから、受け継いだ知識に呪われ、他人に呪いを撒いてしまう。他人を解釈することでしか、発話が出来ない。



セリグマンが暮らす、窓の少ない小部屋は、セリグマンの心象でもある。外を覗き、外を測るけれど、みられる事はない。ジョーの語りの中に現れる世界も、セリグマンの世界も、彩度は低く、現実感に乏しい。けれど、ジョーの世界は白く飛んだ彩度の低さで、セリグマンの世界は黒く飛んだ彩度の低さで。


ジョーの世界は、現実を白く飛ばしたファンタジーであり、セリグマンの世界は、現実から黒く隠れたファンタジーなのだとしたら。



ドラマはアンチクライストと同じように破局を迎えるけれど、ジョーは自らの語り、自らを自らの望むように語ることをやめない。映画のラストで、ジョーは映画の画面からフレームアウトする。



自らを語り自らを騙ることは、また別種の地獄を招くかも知れないけれど、地獄の先に、映画は歩んでいく。


私はそれが、アンチクライストの後に見出されたトリアー監督のきぼうなのではないか、と思えてならない。



そして間違いなく、こうして自分を語らず、胡乱な解釈をする私は地獄を再生産する1人なのだ。




映画を見ながら思い出したTV番組。経験としての女性に理性の男性が解釈を加えるという昔ながらの地獄絵図の再演のような気がしてならず。




プラトン
2008-12
ニンフォマニアックをたどっていくとここに行き着くのだと、そんな気が。対話による愛の理解。饗宴では、女性が男性に知を授ける(ように見せかけた)場面があったり対照も面白い。




ニンフォマニアックでは明らかなバルテュスの引用が幾度か行われている。キーイメージの類似性も高い。バルテュスは、少女像の中にイデアを探求したけれど、それは何かを見る少女が見られることに気づかない内に、バルテュスが見出したものだった。
女性人気も意外と高く、私自身の使い方も含め、そこではフェティッシュのセルフコントロール/再話、というような何かがあるのではないか、と思っても見たりしていて、ニンフォマニアックとの関連は興味深い。


ナタリア・ボンダルチュク
2016-06-24
アンチクライストは、タルコフスキーに捧げる、と末尾にあったけれど、ニンフォマニアックも、間違いなくタルコフスキーに捧げられている。
劇中で流れるコーラルプレリュードは、ソラリスの引用で、ジェロームの章では流れる水草の映像の引用が。
ソラリスとは、語り、語られ、語る、解釈の物語である点が近いかも、というのはいささか牽強付会かしら。
正直なところ、アンチクライストがどうタルコフスキーに捧げられるのか、明白な考えが持てず……。
多分それは、トリアーとタルコフスキーに共通する宇宙の捉え方、その感覚に由来していて、自分を包み込む世界への畏敬と理解不能性、最後に残る祈りのような受容、それが空間と人、時間のズレとして映像に現れる、という所にあるのかな、と思いつつ。


















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UとAという2人がいた。初めての掃除の時間、Uは、Aを見初めた瞬間、Uにいつか殺されると予感した。 予感は的中した。

劇の準備中、体育館の舞台袖でAはUに、首を絞めていいか、と許可を求める。Uは受け入れ、長い時間が過ぎて、AはUの首から手を離した。

その後、Uは病にかかり、Aと会うことは殆どなくなった。唯一のやり取りは深夜のメール。次第にメールの内容は死に纏わる事柄に変わっていった。

Uは、Aに、女性が女性として女性を愛する話を語った。性指向と性自認の物語。Aは拒絶した。Uはそれ以上の説明をできなかったし、しなかった。

AはUを傷つけるようなことは、なにもしなかったし、言わなかった。



『How beautiful the ordinary』性的マイノリティが恋愛物を読んで泣けるようになるという事/異性愛と健常者の世界で窒息する事


  • 読書をする理由は、数え切れない。けれどもし、あなたが若く、自分という者が不確かで、何者になるのか分からない時期にあるのなら、本のページの中に自分の反射を見出す事は、読書をする大きな理由の一つ、になるかもしれない。
  • 自分が一人ではなく、あなたがーあなたが恐れるようにーたった一人の孤独な種族でない事を見出す事は、なんという安らぎだろうか。けれどもし、図書館いっぱいの、本の中の自分の姿を求めて探し回り、なのに結局、探索が無駄に終わったとしたら、どうだろう?
  • それが、あまりにも長い間、レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランス、の若い人々が立たされてきた苦境だった。
 
作品名:How beautiful the ordinary 序文
作者:Michael Cart
ページ数:1頁
(上文は私訳)





 感情移入というのは、私にとって見知らぬ影のような人でしかなかった。多くの人が感情移入について語り、それより少しばかり少ない人びとが、感情移入に対して武装していた。


 私自身、後者の末席に位置していて、自分と感情移入の間に関わりはないだろう、と思っていた。


 例えば、私が感じるのは、ある人物が漏らす一瞬の思考への一瞬の共感であり、現実に穴を開ける光景への驚きで、世界の行進の中で見捨てられるものを発見することの慰めだった。

 
 或いは、作品の解読を楽しみ、鑑賞し、妙技を味わい、美学的な意味で読んでみる事。それは、継続的に登場人物の気持ちに入り込み一喜一憂する感情移入とは、全然、別のもの。


 まして、分けても恋愛物と呼ばれるジャンルは、むしろ自分にとって、嫌な巷の人気者でさえあった。


 男女の心の揺れ動きには、何も揺さぶられなかったし、そこから覗く深淵も、奇想と幻想の彩り抜きには余りに侘しく思えた。その世界は、ひどく貧困な想像力に彩られているようにしか思えなかった。


 神への、象徴的だったり抽象的な物への思慕は理解できた。けれど、男女だけの心の動きは、何も響かなかった。


 今にして思えば、その当時の私ーと言ってほんの1、2年前のことだけれどーは、男女の世界の中で溺れかかっていたのだ。




 けれど、中山可穂さんのある短編集を読んで、私の価値観は大きく変えられた。
 それは私が一番苦手なタイプの物語を収めた短編集だった。


 浮気し、不倫し、愛情を信じられず、別れ、社会的に傷つき、どうしようもない人がどうしようもい恋情に朽ちていく。私が嫌悪していたのは、まさにそういう緩い体温が絡み合う題材だった。


 それなのに、それが楽しめた。初めて、登場人物の心の動きに自分が寄り添い、一緒に悲しみ一緒に喜べた。


 中山可穂さんの小説が、私が今まで読んだ恋愛小説と違っていたのは、ただその主題が一般的(とされる)異性愛以外の可能性をふんだんに含んだ物語だった、という事だけ。

 かつての私が経験したような(私はあえて区分するならバイセクシャルだけれど)女性同士の恋物語。


 たったそれだけの事で、私の評価基準はまるで変わってしまった。たったそれだけのことで、私は人の体温が絡む恋愛が、たまらなく好きになってしまった。


 ここでようやく、冒頭で引いた『How beautiful the ordinary』の紹介に移れる。『How beautiful the ordinary』は、LGBT(とされる人びと)を題材にしたアメリカのYA短編集。


 内容は多彩の一言。犬となった少年の幻想的な戯曲風小説から、グラフィックノベルと呼称されるマンガ作品、SNSのやり取りを抜き取るような作品まで。
 

 現代アメリカの小説世界を横断するような多彩さと品質の高さは、それだけで楽しい。


 けれど、何より心に響いたのはその序文。


 冒頭に引いたのがその初めの箇所。
 昔の自分が何を求めていて、何をなくしていたのか、中山可穂さんの作品を読んでからずっと考えていたことが、この文章の中に濃縮されていた。


 私は、性的マイノリティのコミュニティの中でも、若干の差別意識を感じる性的マイノリティで、難病を抱え体力がなく、車椅子を使用する障がい者だ。私にとって、異性愛を当然の前提とする世界は、私自身の経験からはあまりに縁遠く、程遠おい、異世界だった。


 私の光の反射はその大事な部分が、創作の世界の価値観から切り離され、創作されたテクストが織りなす世界の中で、見えない存在となっていた。そのことに気づくこと、それ自体が救いだった。


 溢れ出る異性愛、健常者の世界の中で、私は殆ど窒息しかけていた。


 状況をそのように認識することは、それはそれで勇気のいることだ。だから哀れだとか不幸だ、ということではなく、目前の隙間をそのように冷静に見つめること。


 『How beautiful the ordinary』の序文はこの後に、本を読む理由の一つに、自分と違うものの気持ちを感じること、を挙げる。 


 それが普通であり、自分たちの一部であり、そして違うこと。単純に相対化するのではなく、差異を備えた自分たちという考え方。


 だからもちろん、異性愛の物語にも、私は価値を見出せるだろう。けど、世界はあまりにそれ一色で塗りつぶされていた。



 それ以来、私は幾つもの同性愛の恋愛物語にのめり込むようになった。幸い、日本にはその類の創作物が存在してくれている。


 もちろん、私はそれ以前にも多くの同性が恋をする物語を読んでいた。けれど、私はそれらに自分が惹かれる理由を過小評価してしていた。その意味を、全く読み取れていなかった。


 私は恋愛を見て泣けるようになった。自分の過去を、見直せるようになった。創作の中の光の反射を通じて、自分の顔が見えた。


 それによって得られる価値、というものを、私は初めて知った。私が失わさせられていた価値を、初めて手に入れた。


 障害を持った少女たちの恋愛を描いた南部くま子さん/森島明子さん『囁きのキス』という恐ろしくライトでラフな作品を読んで、障害を持って性的マイノリティである自分への評価を、変えることさえ出来てしまった。


 ザ・ウォシャウスキーズの『Sense8』のノミとアマニータの物語にどれほど心を動かされたか。


 幾つもの作品の上に私は涙を流す事ができるようになった。



 自分がずっと、バベルの図書館の中で自分の反射を見出そうと足掻いていた事を知った時に、私は恐ろしく救われたのだった。



 それは言語と人間精神の基礎をなすものかもしれない。


 
 私たちの言語は同語反復で基盤が出来ている。辞書の愛の項目を手繰れば、その事は嫌という程よくわかる。私を定義するのは、私の似姿でしかない。


 愛は恋の言い換えであり、恋は愛の言い換えだ。


 同語反復的なトートロジーが言語を支配しているのなら、言語と共生する精神も、根底にトートロジーを隠し持つだろう。


 そんな人の精神は、似姿を、自分の光に近い一粒を見つけられない時には、社会の中で窒息していくかもしれない。

 
 フィードバックのないプログラムか回路のように、ショートし、バグを吐き出し始める。そういう時に必要なのが、自分の似姿だ。創作の中の、社会の中の、身近な人の。


 世界の中にそれを見つけにくいマイノリティは、マジョリティの世界の中で次第に窒息していく。


 他人の中に見出せる、共有できる価値観が、嫌になるほど少ない事が、存在を不安にしていく。だから、不安をかき消すような、自分の似姿がどこかに必要なのだ。



 創作の中にだけでも、創作の中にだからこそ。



 そんな当たり前のことに気づくのに、恐ろしいほど長い時間がかかった。


 もっと豊穣な創作世界が、拓けていけばいいと願っている。


 それは私を救ってくれ、そうした作品がその存在を教えてくれた私に似た誰かを、救ってくれるだろうから。


最上和子『私の身体史』私の身体を語るということ/私の苦痛を語るということ/私の死と神を語るというこ


作者:最上和子
書籍名: 私の身体史
頁番号:No141

『私の身体史』は舞踏家・最上和子さんによるエッセイであり、タイトル通り自分の身体が送ってきた歴史を語る物語。最上さんが徹底して現実である自分の身体を経験して辿り着いた、身体の内側のあちら側の物語。




 この本で、何よりも私が感銘を受けたのは、身体史として語られるのが自分の身体の苦痛の歴史であったこと。そして、苦痛の歴史が近代病理の川でなくて、身体と死と神秘の川に流れ込んでいく語りの流れ。


 中学で難病(厳密には難病指定を目指している)CFSを発症し、ずっと苦痛と共にあり続ける私にとって、苦痛はとても馴染みあるもの。自分が精神と呼ぶものに対する圧倒的な肉体の抵抗。けれど、私たちの言語の中に、苦痛を表す言葉は驚くほど少ない。それは、言語知の世界から見捨てられた感覚。


 最上さんはその苦痛を1つずつたどっていく。


 最上さんの語る身体の歴史は、苦痛の記憶を灯台に進められていく。初めに語られる小学生の記憶は、心と体の苦痛で下地が塗られ。私は、その最上さんの語りの調子に、何か運命のようなもの、そう、宿命を語っているような調子を感じる。〝私(最上さん) が 身体を考えなければならないのはなぜか 身体を語る私(最上さん )とは誰か〟という強い意識が、個人史の苦痛と宿命的に結びつき、身体を語る素地をなしているような。


 身体を実践し、それを語ろうとしている今(文章が書かれたのは随分前だけれど)の最上さんの視点から見る過去の苦痛史は、そこで聖痕のような、英雄の負うべき傷のような輝きを帯び始め。苦痛は本人が苦痛と語る限り、それはただの苦痛でしかないけれど、本人の読みはまた別の事を語り得るのかもしれない。


 苦しみもがく中で、最上さんは1つの恩寵を発見する。床擦れて解けた肉体から溢れる膿と、覗く骨に落ちかかる光の景色。「もはや人間とも言えず物質のように投げ出されている 、そのぎりぎりの体のあり方への感動だった。」と最上さんはそれを語る。


 自分がそうして肉体の苦痛の中で捥きながら、身体を意識し舞踏へ向かう時のことを語る際には、最上さんはいつもそんな出会いと変容の体験を、語りの中に配置する。ちょうど、かつてのギリシャ哲学の裔達が、この悪と醜さの存在する世界から観想によってイデアの世界へと垂直線を辿って帰還しようとした時と同じように。



 けれど、身体を見捨てた、かの人々とは違って、最上さんは身体との結びつきの中に、彼方を見出す。身体だけが彼方を知っている物であり、直観的な個人的体験が、彼方を垣間見せる。イデアの、彼方の世界は身体の中に設定され、身体という場を、彼方に見出すような。



 そして、最上さんが見出してきた身体は、苦痛の中で見出された身体。ここで近代知から見捨てられた苦痛と身体という二者は、合一したまま重力に引かれながら、墓溝へ落ちていく軌跡をそのまま、彼方への旅程に、変貌させる。
 

 それは見捨てられたものの祝祭であり、失われたものの発見であるように思える。世界の中で語られないものを語ろうとする行為であり、それを背景に、現実に足をつけた身体を、最上さんは探そうとする。そこで現れるのは多分、あらゆる物が彼方に結びついている事の発見であり、不可視化されたものの再顕在。


 結局のところ、日々を無理矢理暮らすのに一杯一杯で、躍る身体を持たない私には、こうしてしたり顔に舞踏家の言葉を語る資格はないと思うのだけど、それでも最上さんの言葉は胸に突き刺さり、その音に震える。



 最上和子さんのブログ。
 圧倒的な言葉で語られる身体論は強烈。絶対に一度は読むべき。


最上さんのエッセイが収録。奇妙な本です。



 押井守監督の小説
 そこで展開される身体論は最上和子さんの言葉に大きく影響されたもの。




 耽美調(という曖昧な言葉の是非はさておき)な人形作家とは一線を画す人形作家、井桁裕子さんが一度最上さんの人形を作った事があって、私はそれがきっかけで最上さんのブログを見つけた。




サミュエル・R. ディレイニー
1996-06


 よくSF小説で、一つの意識で様々な身体を使う話があるけれど、人はああいう事に耐えられないのではないかな…というのがセクシャルマイノリティーとしての実感。ひとつでない身体、そして自分のものでしかありえず、他人の身体が他人のものである身体、人と結びついた身体というのは、一つのクイアな感覚から生まれるのかもしれない。

『夢幻諸島から』夢幻の歩き方/複数の世界の許容


 『夢幻諸島から』は稀代の"信頼できない語り手"クリストファー・プリーストによる、架空の諸島の架空の旅行ガイド。


 夢幻諸島は、二つの大国に挟まれた広大な海域に散らばる島々で、本書はそのひとつひとつを、使用通貨などの有用な情報とともに教えてくれる。


 それはごく通常の旅行ガイドらしい島の記述であったりもするけれど、時にそれは有名人のゴシップとなり、あるいは突飛な数十頁の短編小説(SF ミステリー 恋愛と内容は多岐にわたる)のようで、あるいは伝記であり、時には素っ気ない島の記述であったりする。


 ただの島の記述であっても、その内容は概ねフラットな見方ながら、アートと大国の軍事的影響力の話題への偏向が、見られる。


 夢幻諸島の、インターネットや近代産業を備え、時にひどく現実的でありながら、現実をさらりと飛び越える島々の記述は、ただペラペラとめくるだけで楽しい。


 旅行本や旅行ブログを眺めて空想の旅に浸る楽しみを知っている人は多いはずで、しかもその旅行記が架空の物だとしたら、それはもっと刺激的であるはず。この本はそんな目的に適してる。


 けれど、一つ一つの記事は細かに見ると微かな食い違いを見せる。夢幻諸島は、特殊な環境の影響で、諸島全体の地図さえ、明らかにはならない。まるで、夢幻諸島の一つ一つが、独立した世界であるかのように、物事は一定の解釈を許さない。


 その世界の中で脈絡を保つのは人物の名前であり、移動の航跡で、それを辿って行くと繊細なヒューマンドラマの海図の姿を垣間見る事ができる。


 あるいは、政治と戦争、経済とアートといったテーマを中心に見ていけば、そこに姿をあらわすのはまた別種の物。


 けれども、その一つ一つを丹念に追えば、脈絡の岩礁は矛盾の波に飲み込まれ、読解は誤読となり、遂には、異なった世界の一つ一つを受け入れるか、自分で考案した真実を受け入れるかの二択を迫られる。

 それは、永遠の誤読の中を旅する事で、同時に寛容というか、世界をただ受け入れる素直さを求める旅のように思えた。



 旅行ガイド自身の魅力、小説としての作品群の面白さに加え、散りばめられた手がかりを元に読み解くそうした誤読探しも、この旅行ガイドの楽しさ。


 その感覚はある種のゲーム、謎解きゲームの感覚に似ていると感じる。


 あちらの綺麗な景色の中で見つけた手掛かりが、こちらの暗い洞窟の謎を解く鍵となる。


 それはまた、夢幻諸島を旅する行為でもあり、架空の諸島の上に実際の旅が描きこまれていく。


 けれど、夢幻諸島はその成り立ちからして解読不可能なものとして設定されていて、短編同士は互いに少しずつ矛盾しあう。一見、ある地点の真相が、ある地点の謎を解いたように見えても、よくよく読めば、そこには消えない矛盾がしこりのように残る。


 だからこそ、一回の読書がそれぞれ違う世界を見せてくれる。或いは、世界が複数である事を許容する勇気を与えてくれる。


 読者の読み解きによる作品の変貌は、プリースト作品全体の特色なのだけどこの夢幻諸島では特にその側面が読書体験と結びついているように感じた。ある種の遊戯性、ゲーム感覚が全面に出ているような。


 そして、物語の一つ一つが奇妙に優しく、読者に対して作品が求めるものも、そんな寛容な何かのような気がして。
 それはもしかすると、従来の作品と違って、どこかユーモラスで優しげな、夢幻諸島の熱帯の風からきているのかもしれない。 


 本書は複数の中短編から成り立っているように見えるのだけど、作品としては長編という扱いになっている。それは、矛盾し合う複数の世界を同時に見渡す事こそが、本書の目的である事を、意味しているのだとわたしは思う。


クリストファー プリースト
2008-05


 『限りなき夏』は本書と同じ夢幻諸島を舞台にした短編集。他にも夢幻諸島ものには未訳のものが数冊あるのだとか。



クリストファー プリースト
2007-04


『双生児』はWW2を舞台にしたクリストファー・プリーストの小説。何を書いてもネタバレになりそうで、とても語りにくい作品なのだけど、作品の構造はある種のアドベンチャーゲームを思わせるところが。




『Dear Esther』は無人の島を、1人の男の独白を聞きながら彷徨うゲーム。本当にただ彷徨うだけで、ゲームと聞いて想像するような競技性は一切なく、物語も男の独白と、周囲の環境から想像するしかない。しかも、男の独白はプレイする度に変わるという信頼できない語り手ぶりで、真実は拡散していく。
無人の島の風景は美しく、中でも夜の場面の色彩は素晴らしくて。この内容で一週間に6万本の売り上げを記録したそうで、ゲーム業界の懐の広さは凄いのかも、と思ったり。
ただコンセプトと陰鬱な東欧映画のような美しい画からすると、物語のあまりに個人的で内面的すぎる内容は少し寂しく。
なんとなく、夢幻諸島の一つの挿話であってもいいような気がして、ここで紹介。




『The Witness』
イラスト調のグラフィックで構成された島に散らばる一筆書きパズルを解いていくゲーム。
建築家と景観作家と共同で作り上げたという島のデザインはとにかく素晴らしく、イラスト調なのに驚くほどの実在感が建物と景観に感じられて。一歩、歩くごと、一つ視線を変えるごとに、常に構図まで決まった新しい美しさを表し続ける島のデザインは驚異的な作り込み。
物語はというと、島のそこここに散らばったICレコーダに様々な思想家の引用が詰め込まれ、パズルの一つ一つが対話してくるような、一筋縄ではいかない抽象的な作品。
SF小説、スペキュラティブ・フィクションへの傾倒を語る作者のジョナサン・ブロウ氏はインタビューで「重力の虹を読む人に向けたゲームを作りたい」と述べていて、ほほう、という感じ。
これまた、夢幻諸島の一つの島としてもしっくりくるような気がしてここで紹介。

創作◻︎線の上の塔



 過去と現在を結んだ延長線は、地平の中には見当たらない。手に握りしめた杖が砂になって融ける。貸し出されていた世界のすべてが、白く変わっていく。救済を、私は私の中に住まう死体たちに、差し出さなくてはいけない。
 凍りついた地下室。光が、明かり取りの高い高い煙突から、天使の写し身のような埃を透かして、落ちてくる。部屋の隅に飾られた屏風の後ろで、何かが着替えているけれど、誰も確かめた人はいない。天井近く、すれすれの窓から、地面が見渡せて、トリミングされた靴と足首だけが振り子のように運動を続けるのは、通りすぎていくフーコーの振り子だった。
 隠された机の引き出しには、さらに隠された引き出しがあり、隠された引き出しには隠された二重底があり、隠された引き出しの隠された二重底には隠された小箱がある。有限でありながら無限に続くかに思える秘密のマトリョーシカは、住人にとっての何だったのだろう。今や想像するしかない。
 木目を指でなぞりながら歩いていくと、黒い海に出くわす。海は黒々と光を飲み込み、波の頭だけがホワイトで修正したように、白い。行き着く果ての空には、白い円が線で描かれ、円は無数に存在し、円と円が重なった交点に塔が聳え、塔には単性生殖を選んだ人々が幽閉されている。
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