■一千一頁物語

一瞬を凍らせる短歌やスナップショットのように生きたいブログ

一千一頁物語 書評

本の一ページを紹介するブックレビュー一千一頁物語 SSよりも瞬間的な創作小説SnapWritte スナップショットの感覚、短歌の精神で怖いものを探求したい…願望

マルグリット・ユルスナール『火』変転する性の墓坑と復活



マルグリット・ユルスナール『火』

 消費を許さない彫刻のような文章の奥底にある青褪めた顔のある物語群。


作者:マルグリット・ユルスナール
書籍名:火
頁番号:32p

 ギリシア神話の硬質な世界を、そのまま何か違うものに見たてた掌編集。まるで複雑なギリシア彫刻のシルエットをぐるぐると見渡すように、ユルスナールは本来の姿にはない何かを、ギリシアの神話に読み取り、挿入した。そこでは過去のギリシアの小道が、さも当然であるかの様に、現代の都市の小道につながっている。

 それはまた、性の可塑性と、突然に顕われる不可能性が、死の周りをクルクル回っているような感覚でもある。

 登場人物たちはギリシア人らしく、同性との間に明白な愛を育むのだけど、みな、心の中で性を自由に変転させていく。女性は男性同性愛者となって男性を愛するし、男性は自らの雄々しい身振りを女性の優雅なそれと認識され、女性は男性であることを疑われる。

 心の中の性は彫刻の様に可塑的で自由だ。

 女のように飛翔していくアキレウスに取り残された男性のような少女の佇む岸壁の印象の強さ。そんな単純化をはねのける文の縺れ。文章が重ねられる度、可能性と不可能性の構図が次々に複雑性を増して、何故か、何か暗く重い墓坑が彫られていく。

 その変身は突然、何かに裏切られる。他人の中に性を読み取る視線が、肉体を絡め取り、翼がもげて落ちる。物語の空気は血の匂いを含み出し、暗い墓溝に身体が落下していく。

 自由にできながら、所有することも変化させることも許されない何ものか。心底の絶望がそこに待っている。個人の世界を許さない、統合された世界が持つ肉体への強制。

 ただ、そこには何かの希望もある。

 落ちていく姿がむしろ飛翔の様でもある姿たち。暗い墓から復活を遂げる予感。そして掌編が、固定されたギリシア世界の読み直しであり復活であるパロディとして描かれていること。

 それ自体が何かの復活を暗示するかの様に。世界全体を読み替える可能性がそこに眠っている。

 アキレウスが自らの明白な性を持たずに、自らとして生きていること。見つめられ、規定させられる、他者の視線への嘲りと全身の反逆。

 冒頭に掲げた一ページは、アキレウスが島から駆け出し、それを女装した男と疑われたミサンドラが見送る場面(二人は恋敵でもあった)。性の可能態と、何かの不可能性が奇妙に交錯し、海が向こうに広がっている。立ち竦んでいるのは、読者であり、立ち竦ませているのも読者ではないか。

 編まれた短編の連続の最後、言葉はサッフォーの奇妙な復活を、死さえ他者から奪い去られた復活を、描いて終わる。
その先の希望は、死と絶望と墓の暗さを知った読者の心臓の中に、託されているのだと私は思いたい。




マルグリット ユルスナール
1992-11

この本ではあまり語られないけれど、シャープの生きようとしたあり方は、ユルスナールの火の中の世界を陰画のような奇妙な形で1人の中に抱え込んだものだったような気がする。性の眼差しから逃れ、自身を変転させようとしながら、性の眼差しを自身の中に取り込んだ結果、変転の不可能性にぶつかった生き方。

K.Wジーター『ドクターアダー』ネットワークと権力と内臓燦々

 
作者:K.Wジーター
書籍名:ドクター・アダー
頁番号:169p


 1970年代、ベトナム戦争に疲弊し、アメリカはデタントを開始する。
冷戦の世界構造は残された中、第三世界が次第に台頭を始め、東西は歩み寄る。
非プロテスタント教徒のケネディ大統領は、米国に残る保守的な価値観を改革する。
ベトナム戦争を終えたアメリカで、自由の声と、経済的な社会の混乱が始まる。
光と影。
 抑圧を解消する価値観と、犯罪とドラッグ、愛と平和。人の体臭が変わっていく。
光も影も、古き良き抑圧を穢す陰だと罵る声が聞こえ出す。
 時同じくして、米国の通信委員は、TV放送における宗教活動の有料化を認め、宗教放送はスポンサー付きの放送となり、TV局はTV伝教師の姿を伝える。
 彼らはTVから神の声を伝え、神の商品を売る。
 彼らが伝えるのは、自由と開放を前に混乱し、ベトナム戦争に傷ついたアメリカを癒す、保守的で強烈で差別をも蘇らせる、神の教え。男女は同権ではなく、中絶は廃止され、同性愛は裁かれ、家族は蘇る。彼らはそう語った。保守の代弁者神の代弁者。
 1970年代、そうした時代が始まる時期に、K・Wジータは一編の小説を書き上げる。
 ドクターアダー。世界初のサイバーパンク小説の一つ。
 世界を貫通する内臓を曝け出した文書と物語。
 出版まで、10年の時を要した。

 未来のLAのアーケードに、歪な身体を抱えた娼婦が立ち並ぶ。
 彼女たちを歪に作り上げたのは、無類の感応力を備えた外科医ドクター・アダー。
 LAのインフラには、TV放映網が隅々まで敷かれている。TV伝道師の言葉を伝えるために。
二つの存在は対立しながら均衡している。
 カリフォルニアの養遺伝子改造鶏牧場兼鶏姦場(文字通りの)から一人の青年が、権力の妄想と神話を具現化した過去の兵器を携えてLAを訪れる……。
 暴かれていくのは、二つの対立が、父権の名の下に、欲望が内臓を経由して絡み合う世界。
その合間で散乱する燦爛たる内臓の山。

 この一ページは、その内臓が炸裂した一場面。アダーの物語は、こんな悪夢的な臓物イメージが充溢している。内臓を隠し、批判する事で成立する権力を保持するための欲望が、却って暴力を望み、内臓を世界に拡散させる。ドクターアダーのドクターアダーたる所以の強烈なイメージの場面。
 人が人でありながら、人としての機能を失い、その内臓に触れる感触。それをさせる情動に籠る熱い欲望が、権力と権力構造の中で暮らす自分の中に組み込まれているのではないかという疑惑。そして、全ての欲望は、内臓を経由して世界に顕れる。
 アダーの物語は、臓器の物語。地下水道に眠る隕石とともに訪れた解読不能な暗号を送る奇妙なエイリアンは、言葉と肉体を排泄し続ける。麻薬を作る医師が暮らす、汚濁にまみれた空間では、生物と細菌が人間の則を超えて繁栄する。
 そもそも、舞台となる未来のLA自身が、明らかに内臓の暗喩として作られている。
凄惨な臓器は、人から隠匿されながら、人の汚辱を一身に担う。どんな人間=システムも、その臓器を通さずには世界に存続し得ない。
 身体ではなく、臓器こそが、この小説にとって問題だった。
 そのドクターアダーの解剖学は、ネットワークにも及ぶ。サイバーパンク小説たるアダーにおける"ハッキング"は、その先にあるデータの奪い合いというよりもむしろ、データを取り結ぶネットワークそれ自体にメインが置かれる。

 考えてみるまでもなく、私たちの現在のネットワークだって、世界の地下に埋まったコード=腸によって成立している。この言葉だって、臓器たる電力ケーブルとネットワーク回線によって送られ、受信されているのだから、アダーの思考の射程範囲は、恐ろしく広いのだ。
そして、アダーは欲望と内臓をもって世界に反逆を示すだけでなく、非欲望非内臓的ネットワークをも、描き出そうとする。物語を終える言葉は、非内臓的なネットワークによって伝えられる。それは権力と欲望の末に現れる反権力の究極かもしれない。
 強烈な言葉と、強烈なイメージが錯乱する、巨大権力の時代に執筆された小説ドクターアダーは、内臓を経由して世界の欲望を指摘し、更にそこから、実に70年代的アイテムで脱出しようと試みる。
その非内臓性は、あるいは現代のWifi機器同士を無線で直接つなぎ、ネットワークを構築してみせるWifi P2Pという技術を思い起こさせる。事実、P2P技術は常にネットの反権力の手段でもあり犯罪の手段であり、サバイバルの手段でもあった。常に議論を呼ぶハッカー集団アノニマスが監視と経済の手を拒絶する為に開発している技術も、無線P2Pを基礎にしている。
 実に、ドクターアダーの語る、内臓という概念はネットワークという問題を貫通して様々な思考の地平を現代に至るまで開いていく。
 ドクターアダーの内臓の思考は権力の構造を暴き、その先の反権力な未来を描こうとし見せた。
 そこに希望が、あるのか、ないのか。未だに、内臓に欲望を託し、政治を託し、権力を託し、反逆を託し、それでいながら内臓を秘匿する一族に属する、そんな私には未だに分からないけれど、だからこそ、この小説が今まさに燦然と輝く事はよくわかる。

 なんといっても、未だに世界は地下に埋没した内臓群の事を"クラウド"と呼び、言葉だけを空に打ち上げて無意識的な欺瞞を続けているのだから。



稲垣 足穂

アナロジーが許すなら、稲垣足穂はA感覚という概念で臓器という存在をハッキングしたのかもしれない。非内臓性ばかりが反権力の手段ではない筈。内臓なき人間は生存できるのかしら。内臓の思考は続いていく。

オースン・スコット・カード『ソング・マスター』無自覚がもたらす予期せぬ奇跡

  ソングマスター (ハヤカワ文庫 SF 550)

遥か未来の、抑圧的な帝政の時代、1人のゲイ寄りのバイセクシュアル男性(自分ながら何割かはゲイで何割かはヘテロだと語る)が、抑圧への苦悩を叫ぶ。偏見を指弾する。
 純粋で、純正な愛と、愛を抑圧する人間の愚かさ(もしかすると賢さ)が招く悲劇…。SFの形をとりながら、オースンスコットカードの『ソングマスター』は、そうした社会を非難する…としか読みようのない物語を描き出す。
 歌う少年少女を世界に送り出す機関(歌うジェダイ)、そして彼ら彼女らを望む権力者。物語はこの2つの設定を柱に、壮麗な才能と愛の、複雑な力学を描き出していく。
 それは、同性愛の問題に留まらず、人間の感じ易すぎる心の針が、愛のレコードに刻まれた溝をたどるときの、強烈な波動がもたらす物の、物語。
 スコットカードが、無伴奏ソナタなどでとる、抑圧され吹き飛ばされるマイノリティに対する深い眼差しを、愛の物語に向けたとき、そこに同性愛というテーマが浮き上がってくるのは必然だったのだ、と思う。
 彼の持つ詩的な文章の力能で、異性に限らない愛をを美しく強く讃えることも、必然だったのだ、と。
 SFと同性愛と、愛の物語が、ここまで高いレベルで、そして自然に融和した物語は数少ないと思う。そしてここまでロマンス詩的な物語も(そこに80年代の男性作家らしい無知と傲慢が潜んではいても)。

 と…話がここで終われば、いいのだけれど、しかし、不思議な事に、オースンスコットカードは強烈な反同性愛・反同性婚論者として、米国では知られている。
厳格なモルモン教徒として、彼は頑なに、それに反抗している。彼の代表作である長編小説『エンダーのゲーム』(元は無伴奏ソナタの短編だけど)が近年映画化された際には、彼の同性愛に対する態度から性的マイノリティ団体の主導で不買運動が起こり、製作会社のワーナーが、自身には一切同性愛を否定する意思はないと、弁明する事態が起きた。
 どうして、こんなにも正反対な事が起こり得るの、だろう。確かに、『ソングマスター』を読めば、そこには不勉強と偏見が隠れている事は、良くわかるけれど、それにしても、これほどの事が起きる様なものでは決してなくて…。
 作家と、作品は、無関係だ。作家がどんな人間でも、作品の輝きは薄れない。反差別を訴える作家が驚くような無知で差別を描くこともあれば、作品の中の登場人物が差別的な作者の意志に反して、差別を糾弾することもある。それでも、ここまでの、作家のズレが起こるなんて、とても不思議で、絶望的にも思える。

けれど、もしかすると、それは奇跡で、不寛容に対抗する希望なのかもしれない。少なくとも、そこには不寛容の意志から寛容の種子が生まれているのだから。


オースン スコット カード
2014-04-01
初めて読んだのは多分小学生の時。どれほど押さえつけられても、どうしようもなく生き残る者たちの姿と音に、ひどく打たれる。

アンナ・カヴァン『アサイラム・ピース』


作者:アンナ・カヴァン
書籍名:アサイラム・ピース
頁番号:156p

アンナカヴァンの『アサイラム・ピース』は、動態から静止へ向かう瞬間、大きな物語の中では消え入りそうな頼りない運動を、短い文書の中に閉じ込める。
この一ページは、アサイラム=精神治療院の職員が、患者の部屋の清掃を終える場面。
記録されているのは、患者の動きと、部屋の中の静謐な停止状態。それに巨大な世界からは溢れ、消失する感傷。
アンナ・カヴァンの深すぎる洞察と、世界への感覚が、このページには込められているように思えた。

アサイラム・ピースは、ごく短い短編の連続で成り立つ、連作短編集。
全体は、一人称で綴られる、カフカ的な世界で翻弄される鋭敏すぎる精神病の社会不適合者の物語と、アサイラムピースと題された三人称で綴られる精神治療院の物語の二つからなっている。
主観的感覚が、客観的で詳細な描写を歪めていく特異な現実感覚が、読書する"私"の身体的知覚を変容させる奇妙な酩酊が作品を貫いてくねっている。
その文体の成分は、たぶん内田百閒に近く、エイミーベンダーをはじめとするアメリカの女性短編小説家の作品にも似ている。映画で言えばラースフォントリアーかも、しれない。(トリアーの撮るアンナカヴァン作品はきっと凄い)
動と静の間で揺らされ続ける自己と、客観的な描写が繰り広げる主観的世界。
短編集の構造自体が、歪んだ客観に裏切られ続け動かされ続ける主観の物語が、動きえない精神治療院の、客観から主観を見下ろす物語へと変動していく。
それは多分、世界の残酷さを思い出した人間の蒸留された姿なのではないかな。
世界が本当に狂気によって駆動されていると、そう考えざるを得ない状況へ追い込まれた人々の、その主観に極限まで接近した小説。
私たちが立っているのは、実はそういう世界なのだと、世界を包む柔らかい皮をピンで留めた物語。

アンナ カヴァン
2015-03-10
アンナカヴァンの代表作。
氷が世界を埋め尽くそうとする中で、少女に執着する男の異様で無自覚な傲慢を描く黙示SF。なのもかもが氷に消えていく。



ロード・ダンセイニ『驚異の窓(世界の涯の物語 収録 短編集 驚異の物語より)』二つの世界を見つめる一つの瞳


作者:ロード・ダンセイニ
書籍名:世界の涯の物語(驚異の窓)
頁番号:139p
ロンドンに住む商人が、怪奇な老人から購入した窓から見える別世界の光景に、心を奪われる。
今くらす世界から覗く、他の世界の景色。ダンセイニという小説家の真髄と、生き様が濃縮された一ページ。



ダンセイニの小説は、ぺガーナの神々に始まる創作神話作品が有名だけれど、ダンセイニの作品の多くは、ロンドン風な都会的感覚に溢れている。
作品の中でも外でも、ダンセイニは決して都会を認めなかったけど、ダンセイニの作品の素っ気のなくシニカルな洒脱さは、近代的な感覚がとても強い。牧歌的なフォークロア創作者としてのダンセイニと、都会的で洒落たダンセイニの、二人の人物が揺れ動きながら、作られたのがダンセイニの小説群のように私には想える。
ダンセイニの作品は、ファンタジックな妖精譚、架空神話によって彩られる一方で、鋭い眼差しに満ちて都会を描いた戯曲や、現実性に基づいた短編も多い。今いる世界から、あちらの世界への想像力による移行も、ダンセイニ作品に多く見られるモチーフ。
どちらの感覚も、ダンセイニという作家を構成する要素で、両方を見なくてはいけない。この一ページは、そんなダンセイニの感覚を作者自らが象徴したような一ページ。
そこに現れているのは、認めがたい現実を見つめながら、同時に架空の世界を見つめる、二重の現実感。
二つの現実を二つながらに見つめる時に、世界のなかで傷を負って生きる人間が、癒しを得られるのかもしれない。
傷つきながら生きる存在と、傷を癒す存在とが、二つの神話要素が同時に自らの中にある時、そこにはきっと大きな神話的エネルギーが生まれるはず。


ロード・ダンセイニ
2004-05-01

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