■一千一頁物語

一瞬を凍らせる短歌やスナップショットのように生きたいブログ

一千一頁物語 書評

本の一ページを紹介するブックレビュー一千一頁物語 SSよりも瞬間的な創作小説SnapWritte スナップショットの感覚、短歌の精神で怖いものを探求したい…願望

ロード・ダンセイニ『驚異の窓(世界の涯の物語 収録 短編集 驚異の物語より)』二つの世界を見つめる一つの瞳


作者:ロード・ダンセイニ
書籍名:世界の涯の物語(驚異の窓)
頁番号:139p
ロンドンに住む商人が、怪奇な老人から購入した窓から見える別世界の光景に、心を奪われる。
今くらす世界から覗く、他の世界の景色。ダンセイニという小説家の真髄と、生き様が濃縮された一ページ。



ダンセイニの小説は、ぺガーナの神々に始まる創作神話作品が有名だけれど、ダンセイニの作品の多くは、ロンドン風な都会的感覚に溢れている。
作品の中でも外でも、ダンセイニは決して都会を認めなかったけど、ダンセイニの作品の素っ気のなくシニカルな洒脱さは、近代的な感覚がとても強い。牧歌的なフォークロア創作者としてのダンセイニと、都会的で洒落たダンセイニの、二人の人物が揺れ動きながら、作られたのがダンセイニの小説群のように私には想える。
ダンセイニの作品は、ファンタジックな妖精譚、架空神話によって彩られる一方で、鋭い眼差しに満ちて都会を描いた戯曲や、現実性に基づいた短編も多い。今いる世界から、あちらの世界への想像力による移行も、ダンセイニ作品に多く見られるモチーフ。
どちらの感覚も、ダンセイニという作家を構成する要素で、両方を見なくてはいけない。この一ページは、そんなダンセイニの感覚を作者自らが象徴したような一ページ。
そこに現れているのは、認めがたい現実を見つめながら、同時に架空の世界を見つめる、二重の現実感。
二つの現実を二つながらに見つめる時に、世界のなかで傷を負って生きる人間が、癒しを得られるのかもしれない。
傷つきながら生きる存在と、傷を癒す存在とが、二つの神話要素が同時に自らの中にある時、そこにはきっと大きな神話的エネルギーが生まれるはず。


ロード・ダンセイニ
2004-05-01

押井守『ゾンビ日記2 死の舞踏』身体という他者と戦う勇気を


 押井守の小説『ゾンビ日記』は"人間の中に宿る死"が発動した後の世界、ただ歩くだけの死者が地上を埋め尽くす、ポストポストアポカリプスな世界の物語。その中で、人間である為に、死者を弔い続け、身体について考え続ける、孤独な(或いは孤独であった)人間の物語。
小説を支えるのは、(押井守の作品にしばしば現れるように)物事を語るには、些細な事柄を積み上げる事によってのみ、問題に到達し得る、という信念。
 そして、その語られるべき物事が、個人が所有している筈の身体という風に設定される時、小説の内容は徹底的に個人的で私的な物へと変容していく。
 それを外部から支えるように、作中には度々、かつて存在した人間文明の象徴でもあるような膨大な引用が挟まれるのだけれど、小説は徹底的に私的で些細な身体に関わる描写によって、成り立っている。

 小説の舞台設定として、世界に死が蔓延していくアポカリスティックな描写が回想として語られる。歩き回る屍が、世界に殖えて行った時、人間の肉体に眠る死が、目を覚ますのだと。人が意識を失い、眠りに就く間に、死が肉の中に目覚め、老いも若きも病めるも健やかなるも問わず、死んでいくのだと。
 それは途方もない、人間に対する肉体の反乱であり、意識ばかりを問い続ける人間への警鐘でもあるのかもしれない。
押井がそうした物語をゆっくりと語る時、私は自分の身体のことを思い出す。

 社会的に与えられた性に違和を覚え、それを社会的なコードでねじ伏せる。自分に与えられた性は、常に自分の肉体と意識を裏切り続け、肉体も、意識を裏切り続けるう、生きにくさ。
 "性を持つ肉体の性"と"性を持つ意識の性"のズレ。そしてこの"性を持つ意識/肉体の性"とは振舞いや性格、衣服によって規定されるものではなく、むしろそうしたアニマだとかマニアだとか父性だとか母性だとかに抑圧されているナニカ。
 この認識が向う先は、身体とは何か、という無限の疑問であり、さらにその身体の持つ性とは何か、というさらにさらに厄介な問題意識。

 押井が、この小説で試みようとしているのも、実は殆ど同じ領域への進撃なのではないか、と私には思えた。
 作中で、主人公は服を着、アクセサリーを付け、化粧をする事で、人間は身体を所有し直す、と語る。
 それは、社会と呪術によって自意識の中に規定される身体の事。
 そのように身体が所有される時、人は一個の公的な身体を持つ個人になるのだと。
 身体がこうして語られる時、身体は所与の物として所有できる何かではなく、苦闘し困難の中で受け入れ付き合っていく、他者となる。
 押井が作中で執拗に描写した糞尿を垂れる身体と、肉体を意識する私との間の相克の中で、身体が舞い始める。
 ここで押井が目指すのは、何も語る言葉を持たない身体を、言葉の海の中で実践の側から捉えようとする行為…なのだと私は思った。
 私はその物語から、自分の日々の違和を生きていく、その勇気を少しだけもらえるような気がした。見るものは全く違うけれど、同じ物を見ているような気がして…。
 この感覚は、たぶんきっと、病や、老衰、多くの身体との差異に悩む人間に、届くもの…のような気がする。それで苦しみが癒えるわけではけしてないのだけれど。

 ゾンビ日記の主人公が歩く屍たちを葬送=射殺する時には、必ず主人公はこの肉体との格闘を行う。そして、ゾンビ達を殺戮する。
 或いはそのゾンビを殺す行為も、外部化された身体との闘争なのかもしれない。。身体と意識の格闘を行う主人公は、意識なき身体の象徴であるゾンビを殺す。
 そうであるなら、その銃弾は、身体のことを思わず、意識だけが服を着て歩くような、そんな自分にも向けて放たれる。

押井 守
2015-07-11
今作の前編。ここで語られる独白の多くのテーマーー大量死、発現する死、モラルハザード、ジェノサイド、兵士の意識、人を殺せない人間の基本心理ーーが伊藤計劃の作品で語られるテーマと一致するのが、興味深い。押井監督は伊藤作品を読んでいないと語っていらしたので、偶然というか必然の一致なのだろうけれども。



本書ゾンビ日記2には記載はないけれど、押井守による身体論の多くは、舞踏家最上和子氏の言葉によっています(ゾンビ日記には記載あり)
最上氏のブログの内容は途方もなく素晴らしいので是非一度訪れてみてください…。

最上氏による富士樹海での舞踏の影像。

ロアルド・ダール『単独飛行』狂気の機構を見つめる人間性のファインダー


作者:ロアルド・ダール
書籍名:単独飛行
頁番号:168〜169p

単独飛行は、小説家ロアルド・ダールの二次大戦中の英軍パイロットとしての体験を綴った自伝的小説。

小説には、場面ごとに、ダールが写した幾葉もの写真が挿入されている。

ダールが写真をどんな風にして撮ったのか、ダールは、小説の中でそれを語ろうとはしないのだけれど、このページでは、写真への愛着がダールの子供時代から続いた物であったことを、ダールは告白する。
それに、このページでは、100人という単位の人間を消費するシステムと、個人の愛着が、全く無造作に並列される。まるで、二つのものが同じ重さを持ち、そしてどちらもダールの外にあるかのように。
前線基地の何気ない風景に挿入されたダールのさりげない愛着の表明は、実は、この小説にとって、とても大事な物だったのではないか、と私はそんな気がした。



小説の中で、ダールは戦争というシステムの中にあって常に世界を見つめ続けている。
まるで、自分の前に信頼できるカメラを置いて、世界を眺めているかのよう。
彼は常に、自分の周りの物との過度な接触を避けようとする。具体的な感触や、味、匂いのような物を、ダールがどのように感じたか、とはなかなかめ明言をしない。燃え盛る戦闘機の中の記述さえ、彼はその熱気がどのように痛かったのか、とは語らない。
彼は世界を常に、一歩引いたところで、ひたすらに見つめているのだ。
戦争の、その真っ最中、単騎で爆撃機の編隊を追いかける時でさえ、彼は自分の場所を忘れて眼下の美しさに心を打たれる。
彼は、自分にとっての世界を、自分で背負える限りにおいて、信じている。同時に、自分の外にまた違った世界がある事も、よく知っている。ダールは多分、それに対抗するために、世界を見つめているのだと思う。
そんな風に見つめる時、ダールだけの、ダールの目を持って、狂気の世界システムのレンズを外して、世界を見つめる時、ダールはシステムの狂気から自由になり、そこに人間性の領域を、確保するではないか、と。
だから、味方の編隊とともにアテネの空を飛んだ時には、眼下の景色を見る事ができなかったと、寂しげに綴る。"単独飛行"でない場所では、彼は目の中に、一種独特なダール風のカメラをはめる事ができないのだ。
真っ直ぐに世界を見つめ、自分の信じる美しさを選び取って目に入れる姿勢は、人間関係の中でも同じで、彼の描く人間は、基本的に、彼のレンズを通って変換された、美しい人々なのだ。
ダールの描く世界は、ダールの見つめる現実は、ダールの言葉の上にしか存在しない。
きっと、彼はいつも人懐っこい笑みを浮かべながら、根本の世界は美しい孤独に満たされていた筈。
もしかするとそれだけが、狂気の世界との関わりを持ちながら(そこから逃走することはできない)、正気であり人間的である事が出来る、たったひとつの方策なのかもしれない。
その空間、その人間の土地から、真の反撃が可能になるのかもしれない。

テッド・チャン『地獄とは神の不在なり(あなたの人生の物語)』


作者:テッド・チャン
書籍名:あなたの人生の物語
頁番号:450p


トラックに乗った男たちが、天使の降臨を待ち続ける、あたかも台風を待つ研究者たちのように……。
このページの文章は、そんな異様な世界の人々の感覚を、乾いて諦観の混じったような文章で描きとり、
そして同じ醒めた文章で、物語のクライマックスである天使の降臨を描き始めます。
劇的な場面転換がありながら、物語る文はその様相を何一つ変えない。
非日常への変貌と、曝涼とした文体。
このページの節制から漂う、劇的ななにかへの諦めは、酷く美しく真摯なものに思えます。
強い砂漠のコントラストの一ページ。

作者のテッドチャンは米国のSF作家で、独自の世界設定を、ある種のドキュメンタリ調ともいえる俯瞰の感覚で切り取る作家です。
その奇妙でありながら存在感の強い物語は、米国でも高く評価され現在注目の若手作家。
彼はまた、中国系アメリカ人で、近年関心の高まるワールドSFという非欧米系作家の潮流に属する作家でもあるのだとか。
ここで取り上げた『地獄とは神の不在なり』は短編集『あなたの人生の物語』に収録された短編の一つ。
天使が自然災害のような現象として現れ、それに遭遇した人々が時に救済され、時に呪われ、そして天国や地獄を覗く……
という独特の世界観を舞台に、ある種の神学が語られる物語。
天使と遭遇し命を亡くした人間の遺族会や、被害者会、ある種の使徒になった人間の集会など、
アメリカのキリスト教世界らしいリアリスティックな周辺描写が、独自の世界観を補強してとても、面白く。
天使による災害で心の傷を負い、苦悩する主人公は、これまた現実的であり、けれど同時に独特の世界と結びつくことで、作中で描かれる苦悩と傷は、強い指向性を持って立ち現れます。
祈りと信仰と災害、ある種古典的なテーマですが、極めて現代的な物語で、キリスト教に興味のない方でも、
ある種のディザスターノベルとしてとても面白く読めるはずです。
そして最後に明かされるタイトルの意味は、見えないものを確信して生きる人間の姿の切なさが詰まっているのです。

短編集にはその他にも、脳の顔認識処理をマスクする新技術から、人間の美醜をめぐる感覚と社会の関わり(そして社会運動)を導き出すセンスオブジェンダーな『顔の美醜について』や
円城塔+伊藤計劃の『屍者の帝国』の先駆的作品『七十二文字』など非常に高品質で、現在と人間への深い考察に満ちた短編が収録されています。

言語SFのような表題作の認識と感覚の変容は素晴らしく、やや平凡ながら超越者の感覚を追った『理解』や円城塔を思わせる『ゼロで割る』、それに先述の『顔の美醜について』など、架空の認識・意識処理を行う人間を想定し、その主観に迫る作品群など、SF的設定による主観の変容は本作のポイントかもしれません。

現代SF・現代小説の一つの指標、基準点となうべき作品集かもしれまでせん。
翻訳の質も素晴らしく、誰でもオススメの一冊。


虚無への供物の希望*虐殺器官の絶望*幻想博物館の実践





 虚無への供物は、"豚のような"偶然の死の上に、架空の物語を実現させることで、それを人間らしい尊厳のある死に置き換える物語だった。
そうであるなら、中井英夫師の短編集である幻想博物館は、実はその思想の小説としての実践として読めるのではないだろうか。
 つまり、幻想博物館に収蔵された短編は全て、中井英夫師が切り抜いた新聞記事にあった、偶然の死がベースになっていて、中井英夫師はそれを小説の物語を与える事で、人間らしい尊厳の物語に置き換えたのだと。そう見れば、幻想博物館に登場する物語が、物語の中の狂人が語った物語という形式で、しかも、狂人たちはそんな物語を語ったがために、病院へ収監されたのだという構図が、明瞭になる。
 つまり、まさに幻想博物館こそが、虚無への供物それ自体だった。
 ここで注目されるのは、幻想博物館が古典的物語を下敷きにしている点で、虚無への供物にカインとアベルの物語が引用されていたように、中井英夫師の考える人間らしい尊厳の物語とは、歴史に刻まれ語られてきた物語に根拠を依っている点。それこそが、幻想だという事。新式の物語と、旧式の物語の相克。
 人間のドラマを基盤とする近代的物語を受け入れるなら、近代的物語と相反する現代的な大量死の現実を、近代的物語の人間のドラマに置き換えなければならない。しかし、そうなると、そこでの人間は大量死を人間ドラマの帰結としてもたらす悪魔にならざるを得ず、結果的に、大量死をもたらすものこそが尊厳ある人間である、という結論に至ってしまう。人間ドラマは死ぬのだ。
 虚無への供物に登場する幻想的な描写と思考のほぼ全てが、現実に物語を与えようとした結果の観念に過ぎず、常に現実に裏切られていく事には、注意しなければ。この構図は、小説の冒頭から常に意識して描かれている。そうすれば、物語の最後にひとつ、ぽつりと幻想が存在する事の違和感に気づくはず。
 中井英夫師が若者文化に注目し続けた事。一般的な男女論を否定しながら、自らの考える本質主義的な男女論を語りつつ、更にその自分の考えた男女論さえをも否定する若者の姿に希望を抱いていた一面。そこには自縛自傷する姿と解放への希求に顔を上げる人の姿、その二つ
の葛藤がある。
 虚無への供物をミステリィという枠に止めるのは良い加減に終わりにすれば良いのに。あの小説の問うている事の大きさ。まっとうに取り組めば、たぶんきっと、世の中の物語の八割が消し飛ぶ。
 虐殺器官は、虚無への供物に応えようとした小説に、思えた。虐殺器官はそういう観点でも語れるはず。無意味な大量死が起きる現実の中で、大量死に倫理を与えようとすれば、倫理なる観念は、殺戮をもたらすものでしかななくなる。大量死という現実の前に、あらゆる観念は無効化され、あらゆる観念は大量死をもたらすものでしか無い。共有される問題点は同じ。
虐殺器官と虚無への供物。無意味な死に虐殺の言葉という、更に無意味な理由を見つけ、そして最後には、無意味な死に意味を付けるため、世界を虐殺の渦の中に追い込む人の陰惨な姿。でも、そこには先への希望がない。
 虐殺器官は、大量死を前にした人間の観念というテーマを、虚無への供物から引き継ぎ、より先鋭化させた。虚無への供物では、人間性を大量死の中から掬い上げようとするなら、人間性は大量死を引く受ける無残の極みの概念でしかななくなる地獄が明らかにされた。虐殺器官は、それをより発展させ、大量死を目前にした倫理なる概念が虐殺をより積極的にもたらす姿が描かれた。この点において、二作は問題点を共有するといえるかも、しれない。それが偶然であるかもしれないにせよ、虚無への供物の問題点を引き継ぐ小説が、半世紀以上の時を越えてようやく現れたのは、感慨深い。
 けれど、虐殺器官では、虚無への供物が示した読者=探偵=見物人=作者=個々の人々という関係式は、明確にはされない。虐殺器官における読者は、虐殺による繁栄を謳歌する加害者だけれど、同時に殺戮される被害者でもあり、読者の位置は不安定。虚無への供物が指摘した読者こそが加害者出あるという一撃は、ここでは共有されない。暗示と暗合ばかりが多いのに象徴体系が全く働かない世界という見方も、共有されていないけれど。
 虚無への供物のラストは不思議と明るい。読者が犯人出あることを指摘する陰惨なラストにもかかわらず。そして、このラストにだけ、虚無への供物の中で唯一、現実に裏切られない幻想が登場する。羽ばたきの音だけを残して消える、黒鳥の影。そのイメージだけは、現実によって壊されない。皮肉にも、黒鳥の影のイメージが示すのは、世界から最後の象徴、最後の幻想が抜け出す姿なんだ。
 読者=個々人の大人が全て、大量死に関わる加害者であるという強烈な認識を、虚無への供物は叩きつける。そして、加害者である読者=見物人に、復讐を遂げることで、読者が被害者となって罰を受け結果的にマゾヒスティックな安穏とした位置に落ち着くことを許さない。復讐を遂げる資格を持った人間は、羽ばたきの音だけを消して消え去ったのだから。それは許しではない。むしろ、復讐をしないことにより、永遠に加害者である立場を、固定化しようとする試みなのだ。
けれど、だからこそ、虚無への供物には希望がある。
 虚無への供物の希望。つまり、私たちが、決して被害者でなく、加害者であると認める事から始まる希望。それが何かあるのではないか。今の私が、加害者である事。それを、内向的な自罰ではなく、もっと積極的な反省につなげる事。そこには希望の道があるのではないか。読者が加害者である事を指摘する陰惨なラストに続く物語とドラマの描写は、不思議と明るい。それは、私たちが加害者である事から始まる希望を表しているのでは。
虚無への供物は戦後10年の年に構想され、その後数年で完成した。けれど、私たちときたら、加害者ではなく被害者である振りをし続け、延々と見物人を続けてきた。或いは、延々と全くの他人(時に存在さえしない他人)を加害者に仕立て上げ続けてきた。虚無への供物の中に書かれている通りに。
もし、私たちが加害者であるという認識を持ちえれば、何か一歩進めるのではないか、虚無への供物はそこを、聞いてきているのではないかしら。









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