その頃、ひび割れ少年のヒゲのように哀れな下草しか持たない地面の下で、人が石油を探そうとして果たせず骨となって崩折れる大地の下で、怪獣は眠りながら、地面の下の遥か奥にある大地の熱を感じていた。それがほんの少しずつ冷めていくのを、数億年の時の中でゆっくりと感じていた。
 同時に、彼女は地面の上を歩く小さな小さな獣の姿を夢見ていた。獣の毛に朝露が集まり獣の舌がその雫を受け止める、微細なシステムを見ていた。菌糸の交わす言葉の意味はわからなかったけれど、その囁きの音は良く知っていた。
 ただ、若いというよりは稚さない形をした少年の足に嵌められた小さなブーティが立てる足音は、確かにその怪獣には聞き覚えのないものであった。それが人の足音という事は彼女にもわかったし、少年がもう一人、大人に近い年頃の友とともに歩んでいる事も、わかったのだけれど。
 大人の方が、地面の草を踏みつけ、上を見上げながら恐る恐る言った。人類が足を運ばない、そういう涯の土地の一つだよ、ここは。少年は彼を見上げ、セーラー服の襟を立てて周囲の音を伺った。
 何も聞こえない……命の声も凶鳥の声も……平安の世からずっとそうだったって、僕は婆さんに聞いたよ……。
 平安だって。大人の方がおどけて言ってみせる。平安はないだろう、先の大戦は関ヶ原なのか。
 ここには怪獣が住んでるんだよ、だから生命の欠片もないんだ、あいつら、彼女らと彼らは、他の命を全て吸ってしまうんだ、途方もなく大きいからね。
 じゃあそいつはきっと最後の一人だよ、こんな土地は、他にはないからな。
 その時に折良く、地面から剥離した薄い土のプレートを、風が巻き上げて日に透かして見せた。掌ほどもないプレートは直ぐに、小さな粒子に変わってしまった。
 怪獣はじっと二人の声に耳を傾けていた。そんな事は思ってもいなかったが、かつて地球が燃え盛っていた頃には、幾多もの同類が延々と炎と戯れていた。あれらは皆滅んでしまったのだろうか。こうして冷えていく地殻を抱きしめるうちに。
 怪獣はそう思うといても立ってもいられなくなってしまった。
 世の中にはあり得そうもない事が、無限性の助けを得て起こってしまう。途方もない偶然と些細な意思の低周波が、人の運命への考え方、ドラマへの感傷を打ち破ってしまう。
 怪獣たちは突然、自分が最後の一人なのではないかという疑惑に囚われてしまった。


  彼女が、ひび割れていかにも不毛な顔で沈黙を続ける地面に向けたズームカメラから視線をそらし、スロットルを開いて機首を上空に向けると、潅木の頼りない人差し指を口に当てた地面も、無数のアンテナを生やす地上の車両中隊も斜めになって視界から滑り落ち、ただ青く落ちていく空だけがコックピットのガラスに反射した。
 ゴジラ、と彼女は思った。豊かな緑が広がっていたこの大地から熱を吸い上げ、人口数億の大国が搾取するのと等しいエネルギーを消費して生を得る、ゴジラ。人間の土地から人間に必要な物を吸いあげ、人間の生存圏を甲冑がなければ息をすることもできない場所へと変えた、ゴジラ。ゴジラをそういう存在と見なす時、彼女は体が震えるような、途方もない宇宙につながった気分になった。
  警告が通信から入るまでの、一瞬、ということはつまり、世界の彼方を仰ぎ見る悟りの気分から、ただの怒られるべき悪戯小僧へと転落するまでの一瞬に、彼女は少しだけ気持ち固めた。


 高層の雲海の切れ間から、緑より濃い色をした木々の海が見えた。イズモの突端に設えられた展望台で、初めてここを訪れる人間はかならず来るが、何度も訪れる人間は希だった。しかし、背後の高層ビル群と、どこまでも広がる二重の海の対比は、見事だ。遠くに見える怪獣の山より大きな背中さえ見えなければ、人類がこの世界の王者であり、自分もその一人だという幻想に、生活の貧しさも忘れて浸ることができたかもしれない。
 展望台、といっても、空中都市の縁からそれほど突き出ている訳でもなく、靴を脱ぎ投げ捨ててみても、巧妙な設計で見えないように仕組まれた地面かネットに落ちるのが関の山である事を、アガサとクリスは了解していた。今は眠っているあのゴジラも実はそんな風な錯視の一種ではないか、とほんの少しだけアガサが思ったのは、ゴジラと展望台の間に信じ難いほどの距離があっる筈なのに、ゴジラがそれでもなお途方もなく巨大に見えたからだった。もしもそれがそれほど大きいのならこんな、空を浮く都市など一瞬で灰に変わるだろう。ゴジラの背びれの上の方に、数台の気球が浮かんでいた。


 地質学者、前に出すぎるな、と心理学者が額にトライフォールドを刻んだヘルメット越しに、通信で警告を出した。地質学者が脚を止めると、突然自分が随分他の人間たちから離れてしまっていたことに気がついた。鈍い光を放つ自分の甲冑が、地面から浮かび上がって見えた。
 生物学者が、もうすぐ追いつくから、と呟くと、気象学者が止めていた脚を動かし始めた。ゴツゴツと黒く続く石の群れの中を歩くのは、地質学者以外の誰にとっても、どうにも辛かった。軍人でさえ、時々は脚を滑らせている。何よりも、真珠母色に煌めく空の下を歩き続けるのは、果てのしれない夢のようだった。
 子供の声が聞こえる気がする、と軍人が一人、胸の内で考えた。地質学者は少し、彼我の距離を見ていると、不安になり、ゆっくりと後方の一団に向かって歩き出した。急がなくていいさ、ゴジラはこの程度の集団なら、生存競争の相手とはみなさないのだから。心理学者は地質学者がそう呟いたの聞くと空の彼方を見つめた。