永野護は、自作を「ファンタジー」と語り「おとぎ話」とも語ります。それは、ジャンル性の持つ縛りの強さから、作品の自由を守る為の一種の建前でもあるのでしょうけれど、永野作品には確かに強い神話性、ファンタジー性と言ったものへの傾向が認められます。
この項では、こうした永野作品のファンタジー性というものを足がかり、永野作品の持つある魅力の一面を、語ってみたいと、思います。
これを考えることで、永野作品が膨大な設定を有する理由、そして読者がそれを読むことへの情熱を絶やさない理由、それら永野作品が持つ魅力の理由の一側面が見えてくると考えるのです。それは、物語の消費という理論の裏側にあるものと、近代が喪失した死者との付き合い方を現実の中に取り戻す試み、その二つを見出す旅です。
永野護作品を知らない方も、あるファンタジー作品の魅力の紹介として、読んでいただければ。
以下、近代の中で、ファンタジーがいかに発展していったかについて軽く触れつつ、永野作品の一面 について、語ってみたいと考えられます。
少々長くなりますが、お付き合いいただければ幸いです。
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民話や神話から発展して、ファンタジーという分野が発展していく背景には(少し逆説的かもしれませんが)近代的な科学思想と合理主義の発展とともに、宗教的な世界観が衰退していく時代の流れがあった、という説があります。(これは丁度、永野護の代表作『ファイブスター物語』(FSS)の、科学が発展し人が神に頼るのをやめた世界、という設定に合致します。)
この説によれば、このような流れの結果、近代的な合理主義によって、死後の世界=他界は、現実世界から排斥されることになった、のだそうです。この世界の見方では、もはや、人の死はひとつの物理的現象でしかなく、死んだ人間が向かうの場所は、現実世界から消し去られてしまいました。
けれども、多くの人々は感情の上で、死者の世界を求めましたし、死者の為の言葉を捨てることは、決してありませんでした。そして、人間は「私たちはどこから来て、どこへ行くのか?」と問うことを辞めませんでした。
なのに、私たちの科学が主要な地位を占める世界観の中には、もはや死者の世界は現実としては存在し無いのです。この、感情と世界観の間にある埋められ無い溝を、近代人は合理主義の結果として抱えざるを得なかったのです。
そして、その隙間を埋めるように登場したのが、児童文学であり妖精物語であり、さらにそれらが発展した、ファンタジー文学でした。ファンタジー文学は、空想という枠組みを持つことで、死後の世界を作品世界内に実在する世界として描きなおし、近代人が抱え込むことになった死者への感情と合理的な世界観の溝を埋めようと試みたのです。
ファンタジーが虚構である限りにおいて、死後の世界の実在、或いは死という概念に恩寵を与えるような非合理性は、物語の中で許容され、死者の王国は復活しました。それは、死を前に惑いながら死者を見つめる、近代に生きる生者への、ささやかな贈り物と言えるでしょう。
この説にそって結論すれば、近代におけるファンタジーの命題とは、合理主義の中で消え去った死の観念を、非合理的な自由な空想の中でいかに語り直すか、という点にこそあったのだと、言えるのでしょう。
そして、その象徴として、多くの場合、物語内の世界と繋がったあの世や他界が配置され、ファンタジー文学は世界が多様に重なり合う、そんな構造を取ることになったのです。こうした他界の幾つかは、作中でも明示されず読者が暗示された他界を"信じる"ことによって成立する傾向も、こうしたファンタジーの特徴の一つかもしれません。
けれど、このようなファンタジーの試みは同時に、かつては、身体的な現実と地続きにあった他界=死者の世界を、物語の向こう側の虚構に閉じ込め、永遠に現実から締め出す結果になった、と見ることも、できるかもしれません。現実的な理性と、想像の中での欲求は分離され、現実と結びついた身体の場に宿る死者の世界は取り戻されることなく、消えてしまいました。
少々、長くなりましたが、近代とファンタジーの発展に関するこうした関係を元に永野作品を見つめることで、永野作品のある気高い一面が、煌びやかな表層から浮かび上がってくるのだと思うのです。
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さて、以上で述べたファンタジーに関する視点を、永野護の作品に適用するとどうなるでしょう?
前述の通り、FSSでは、科学が高度に発展し、人がもはや神に頼ることなく宗教を排して生活を営んでいる姿が描かれます。そこには、アンデルセンの童話のような死後の幸福も、ナルニア国物語の死後生もなく、指輪物語にあるような恩寵としての死、という概念さえ、明確には描かれません。FSSには 、死を明確に世界像の中に、他界として取り込むような表現は、一見すると見当たらないのです。
けれどだからと言って、FSSが死、特に死後の人間の行方という事に関して、全く無関心というわけではないはずです。
むしろ、それどころか、FSSには死んでしまった人間たちの事を想う言葉に溢れている、と言っても過言ではないでしょう。
結論を先取って仕舞えば、FSSは従来のファンタジーと同じように、死者への感情と合理的な世界観の溝を埋めようと試みる作品でありつつも、従来のファンタジーとはラディカルに異なる方法で、その溝を埋めようとした作品という一面を持つのだと、私にはそう思えるのです。
FSSに特有な語りの手法に"未来回想"と呼ばれるものがあります。これは物語の中で、物語の主軸となるストーリーラインの年代から千年単位で時間をずらした未来の描写を、作中に挿入する手法の事を言うのですが、この"未来回想"こそが永野作品における死の扱いと、FSSのファンタジー性の支えなのように思えます。
FSS第1巻の冒頭で、本編に先んじて展開されるこの未来回想の場面で、主人公であるアマテラスは
「けれど…私はあまりにたくさんの友を失いすぎたよ
リトラー、バランシェ、アイシャ、ログナー…コーラス三世…
そしてラキシス…彼女はもういない…」
と物語本編に先立ち、これから物語に現れる人物を失ってしまった自分の胸の内を、吐露します。
そして、この場面の後に続くのは、黒騎士の死と、そのパートナーであるファティマ・エストが眠りにつく場面。
この場面のラストには
「そしてこのあと数多くいたヘッドライナーやファティマは次々と姿を消していった…
このエストとグラードのように…
しかし滅び去った訳ではない。
彼らはどこかへ行ってしまった…時代の影の中に」
という骸の姿を刻印した追悼文のようなナレーションが掲げられ、死のイメージに満ちた場面の連続は終結を迎えます。
そして、ファイブスター物語 第1話 ラキシスの章の物語、その本編がようやく始まるのは、まさにこの死の場面の連続を受けてからの事なのです。
FSSの主軸となるストーリーラインのその始まりに、こうした死のイメージが強く現れている事は、FSSが死という概念と強く関わっている一面を、明確に示しているように思えます。
そしてここには、FSSにおける死者の行方ーーファンタジー文学が答えてきた「私たちはどこへ行くのか」という質問への答えもーーがはっきりと表明されているのです。
前述のナレーションの中に「彼らはどこかへ行ってしまった…時代の影の中に…」という一節があります。
これこそ、FSSにおける「私たちはどこへ行くのか」という疑問への答えではないでしょうか。ここでは明確に、死者の行方が問われ、示されています。そして永野護はそれを「時代の影」と明確に定義するのです。死者が向かうのは浄土の西方でも、異なる法則の支配する他界でもなく、「時代の影」なのだと。
同様の意識は第3話アトロポスの章のメガエラとログナーのセリフ
「みんないるんですね…みんな…」
「1000年経っても見た顔が 聞いた顔がある」
や第6話マジェスティック・スタンドのナインのセリフ
「人の死は 肉体と精神の死 だけではなく…
死んだ者の事を 思い出してくれる者が
一人もいなくなった時こそが真の死と思う事もある…」
にも見受けられます。
これらのセリフを逆から見れば、永野作品に於いて描かれる歴史とは、死者の痕跡の集合体であると、捉らえる事ができるはずです。こういう風に見れば、永野作品が、精緻な年表を必要とするのは、未来の世界を、その未来において既に死んでしまっている人間の意思の痕跡の場として描く為の、因果律の連鎖を用意する為、と見る事ができる筈です。
死者の向かう先は、死者の痕跡の残る未来であるーーと見れば、たとえ受け手の思考が合理的な世界観に基づいていても、死者の行く世界は、物語の虚構性の中にのみ閉じ込めるものではなくなるわけです。何故といって、未来は常に訪れるものであり、それが過去の歴史に基づくものである事を、私たちは、合理的な思考を生んだ論理性の帰結として、すでに了解しているのですから。
永野作品の根本的なテーマには、現代の中で失われた死者の行く先を、どう現実に取り戻すか、という一面があるのではないでしょうか。現実的で合理的な因果律の世界観によって、死者の行く先は喪われてしまいました。それを、同じ枠組みの中で、もう一度再生させる。永野作品の特徴である未来回想という演出形式は、この試みの成果だと読む事ができます。永野作品の特徴の一つである、膨大な設定の山と、数千年にも及ぶ壮大な歴史は、この試みの説得力を生む為の前提として必要だったのです。
永野作品では、常に物語の主軸となる舞台の遠い未来が描かれます。それは、人の死が訪れた後に死者が向かう世界の姿でもあるのです。圧倒的な長い時間を未来方向にも過去方向にも持つ歴史という視座を導入することで、死んだ人間の行く先は、近代的合理性の枠組みの中で、現実の中に取り戻されます。
このような歴史という視点の中に、死者の姿を見出す試みの原型は、年代記と呼ばれる作品や、失われた時を求めてなど、歴史を扱った作品に見られますし、漫画であれば萩尾望都様のポーの一族にも見られます。
けれども、永野護の作品の未来描写では、死者が中心に置かれているという点で、それらとは決定的に異なっているのです。
FSSにおける未来回想では、物語のストーリーラインから大きくずれた時代が映し出される事で、主軸となっている物語世界から一旦、歴史の流れにある未来世界は外れ、未来の"今ここ"は他界めいた場所に変わるのです。未来回想で描かれる未来の人々は、本編の世界で生きていた人々の痕跡を止めてはいますが、本編の登場人物たちと同一人物である人間が未来回想に登場する事は稀なのです。
一方で、歴史大河やポーの一族では、異なる時代に生まれた生者が少しずつずれていくことで、生者がかすがいのように連なる鎖となって、歴史が編まれていきます。けれども、永野護の作品では、作中で描く未来を、時に数千年にも及ぶ未来に設定することで、未来の世界と本編の世界の繋がりを、死者の痕跡という要素に限定します。
前述したセリフ、アマテラスの絶望的なセリフや、ログナーのセリフは、永野作品の未来世界が死者をベースにしている事を、強く示しています。
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FSSにおいて死者の行方を語る人間は、多くの場合、歴史の中の、"今ここ"の一点を生きる人々ではなく、歴史を俯瞰で見つめる視点を持つ人々であり、膨大な記憶を持つ人々です。歴史の"今ここ"を生きる人々は、死者の痕跡に気づく事はありません。死者の想いを受け継ぐ事はあっても、それは、彼等彼女等にとって、自分の意思でなした事です。生成されていく歴史の中に、死者の姿を読み取るのは、歴史を総覧する立場にある人々だけです。
FSSの生者が、彼ら彼女らの生きる"今ここ"に死者の痕跡があることに気づくことはほとんどありません。いえ、気づく必要さえないのです。歴史を作る人々は"今ここ"に暮らす人で、彼女等彼等が向くのは、いまだ見えない、年表のない未来なのですから。そして、それでも生き残る残滓こそが、死者の痕跡なのです。永野作品における死者の痕跡は、死者を尊ぶ事だけによって残るのではありません、死者を断罪する事によってさえ、死者を痕跡は残り、死者の生は生成されるのです。
だからこそ、永野作品の根幹を担うのは、死んでいった人たちを見続けるアマテラスであり、その立場を共有するファティマであり、死んだ人たちの想いを受け継ぐ詩女たち、彼女等彼等、歴史を閲覧するものたちなのです。そして、それは読者の立場でもあります。ある意味では、誰よりも歴史の中に死んでいった人々の姿を見出しているのは、読者なのですから。ナインのセリフにもある通り、読者が死者の姿を忘れず歴史に読み取る限り、死者の死は仮の死でしかないのです。
私たちとアマテラスそしてファティマたち、長い時間を生き、過去と未来を見つめる存在は、それを読む術を知っています。歴史を読み解くことのできる存在が、"死者の生"を"今ここ"に見つける時に、死者の姿が蘇るのです。その時、未来であり現在である"今ここ"は私たちにとって死者の行き先になるのです。それは現実に中に奪還された幸福なあの世なのです。
近代ファンタジー文学が、読者が受動的な"信じること"によって成立させていた"死者の生"は、永野作品では読者が積極的に"読み取ること"によって成立するのです。この視点にたつのなら、FSSが読者に膨大な設定を提供し、読者がそれを読み取り続けるのは、物語の消費の快楽の為でも、アーカイブとして集める快楽の為のでもなく、それはただ「私たちはどこから来てどこへ行くのか」という疑問に答える為の、祈りの行為のような一面を持つのだと、言えるのではないでしょうか。
読者が物語の世界を、歴史として眺め、その中に死者の姿を読み取ることで"今ここ"の世界はその姿を変えないまま、裏返しとなって、死者の行く先、私たちの行き先へと姿を変えるのです。FSSの読者はFSSの歴史を読み解くことで、喪われた死者の世界を、現実的な理性と非合理的な感情が統合された身体感覚の中に取り戻すことが出来るのです。このような積極的な"読書"体験はFSSが提供する類稀な経験のように思えます。
永野作品の要素が結ぶ焦点と、その抗いがたい魅力は、多分この一点にその一面を見せているでしょうし、永野作品をファンタジーと呼べる理由も、ここにあると言えるはずです。
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映画ゴティックメードのラストでは、物語本編から隔たった、遥かな未来を思わせる世界が描かれます。
異形の人間が闊歩し、巨大な建物が偉容を聳えさせる聖地の姿は、映画のラストで描かれた世界とは全く違う物。けれど、聖地へ繋がる道は、ベリンが種を蒔いた花の道で、空を行く艦艇は映画に出てきた物、道を通る男の顔には、トリハロンの面影があり、金髪の女性が抱えるのは、ベリンの花の種。
あの彼方の未来では、明らかに、トリハロンもベリンも死んでいるでしょう。けれど、その意思と痕跡は、あの未来の現実でも生きているのです。
その時、未来の世界に、未来の世界ではすでに死者となった人々の面影を観客が読み取る事で、未来の世界は紛れも無い現実でありながら死者たちが生きる他界となりえるのです。
こうして永野作品が、死者の世界を現実の中に取り戻す時、近代の中で失われた崇高さ、畏敬の念が、近代的合理性を纏った理性をすり抜けて、私たちがの前に現れるのです。
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永野作品が提示する死者への考え方は、未来方向への歴史の知識を持たない限り、私たちが現実の中で、すぐさまえ実践することが出来るものではありません。物語の中でさえ、読み取った真実が真実である保証はありません。
それでも、永野作品から得られる教訓は実り豊かなものでしょう。
死者の世界をなくして以来、私たちは死者と向き合った時に奇妙な居心地悪さを感じるようになってしまいました。
そんな私たちに、合理性のある世界観と矛盾しない、むしろ合理性を見出す事で発見される死者の生と言う考え方は、多くの示唆を与えてくれるはずですから…。
注
ここで示した読みは、あくまで「このような視点を導入するとこのような統一的な読みの可能性が生まれるのではないか」
という解釈であり、永野先生がどのように考えて書いたかを語ったものではありません…。
永野先生ご自身は、作品に思想を込めることについてやや否定的な意見を述べいていらっしゃったことを、付記しておきます。
シャルルペローの童話からハリーポッター、宮崎駿監督の映画に至るまでファンタジーと宗教という観点から児童文学を論じた傑作です。
是非気になった方がいらしたらお読みください。
余談
永野作品の過去未来に渡る歴史というのは、永野護が作品世界のことを考える度に、丸ごと変化し生成されるモノのような気がします…。なので世界の像は少しずつ時に大胆に変わってゆくのです…。
というわけで私は永野護の設定本を見つめ
「親衛魔道軍ってなに!?なにそれ!?カイゼリンは吸筒数12×2?じゃあV24ポーズ?あれは気筒だから違うか…」
と思い続ける永野ファンになりたいと思います。