■一千一頁物語

一瞬を凍らせる短歌やスナップショットのように生きたいブログ

レビュー

本の一ページを紹介するブックレビュー一千一頁物語 SSよりも瞬間的な創作小説SnapWritte スナップショットの感覚、短歌の精神で怖いものを探求したい…願望

“ゴジラ” 喉に刺さる真綿の棘


 今の日本に、本当の意味でゴジラが復活できるとは、私には思えなかった。
ゴジラが破壊しなければいけないものは、ゴジラが破壊可能なものは、全て現実の前に滅んでしまった。高度経済成長の夢も、戦前の忘却も、戦争の忘却も、なにもかも。

 むしろ、今の日本をおおうのは、ゴジラが破壊してきたものがほんとに破壊された、そのショックによるトラウマめいた感情で、それはもう破壊によって解決される何かではなくなってしまった様に思えて。

 そして何より、ゴジラが日本を破壊し尽くしても、ゴジラを生みゴジラをある立場へと追いやる物が、消え去らなかったという事実の衝撃と絶望こそ、今の国を覆っているように。

 ゴジラが破壊を続け、ゴジラがそばで眠っていながら、ゴジラが世界に残酷を振りまきながらも、自分がいつその残酷の中に飛び込まなくてはいけなくなるかもわからず、変わらないように見える生活を続けていかなくてはならない苦しみ。

 進撃の巨人が時代に響いたのは、平穏な日常が破壊されたからではなく、破壊されたあとの、変わらない事への絶望の中にある過酷な日常を生きねばならない若者を描いたからだったとしたら…短期の破壊者でしかないゴジラは時代を生きられない。



もう一つ、ゴジラの中にある、復讐者と被害者、そして加害者という三者を巡る物語は、もはや呪いと化しているのでは、と考え込んでしまう。 それは、ゴジラに与えらた象徴性とゴジラを巡る映画内へのドラマに対する疑問。

 ゴジラは原爆によって生まれた被害者であり、それは広島県民、そして長崎県民も同じ。けれど、被害者が被害者である事による連携はゴジラではほとんど描かれない。

 加害者の側も、加害者としての責任を共有する芹沢博士は、被害者であるゴジラを殺し、自分も死ぬ事でしか、その責任を示せない。

 ゴジラは被害者であるけれど、彼女は無差別な復讐者としてしか、世界に現れる事ができない。

 それは、被害者に対してはっきりと対峙できず、加害者としての責務を背負えなかった日本の泥沼の、その源泉のような感情を駆動させるの物語なのでは、と。

 ゴジラに込められた象徴は、数多いけれど、その究極は"仇なす破壊者"である事として描かれる。たとえ、彼女が人間を護る意思を見せるように動いても、根底には、彼女が世界を破壊する恐るべきものである事への畏怖が潜んでいる。そして、私たちが成した罪がゴジラに刻まれている事への、深い恐怖が潜んでいる。



 けれど、なぜ、罪を告発する者が、常に破壊者であり復讐者としてみなされなければならないのだろう。

 なぜ、彼女を常に人間は殺そうとしなくてはならないのだろう。



 物語の中では、これらの事に理由をつけられるけれど、物語の外にある映画という領域で、私たちはこの事に対してこらえる事ができる…とは思えない。

 ゴジラが科学技術と人間社会の罪から生まれた事を思えば、この理由のないゴジラ観は、日本にとってのフランケンシュタイン・コンプレックスで、ゴジラ・コンプレックスとでも言える物なのかもしれない。

 人間の犯した罪によって生まれた被害者は、世界を焼き尽くす復讐者となって、その姿をあらわす、という恐怖のドラマ。

 あるいは、そのように"スペクタクル"な復讐を受ける事で、加害者である自らに向けられる(或いは加害者であると指弾する)怨念と象徴を解放し、罪を享楽に変えたいという精神の流れ。



 私が破壊映画であるゴジラを望む情動の裏には、こんな想いが隠れている気がして、このゴジラ・コンプレックスは、今の日本を一つの極へ追い詰めていく、ある情動の、根元にある物の一つだと、そう、思えてしまう。

 ゴジラが破壊の限りを尽くし、世界の全てを灰色に変えても、ゴジラを生む物は変わらないという絶望は、ゴジラへの奇妙な感情のコンプレックスと、巧妙な形で手を握っているような気がしてしまう。



 ゴジラの復活、ゴジラの美しい姿を想い、その黒い鱗の底で光る虹彩を見つめる時、私には、こういうゴジラを巡るドラマへの違和感が、明確にならない思考の奥で傷のように疼く。

 ゴジラは多様な象徴をまとっている。科学技術の被害者、戦後への復讐者、自然の恐怖、母としての姿、それはゴジラの複雑さを生み、ゴジラ映画に深みを与えた。
 怪獣が象徴を背負うことで、怪獣映画は優れたジャンルになった。けれども、その象徴がどのような構造の中にあって、それは今どのように扱われていて、どのように扱われるべきなのか、この象徴を巡るドラマを作る時に、複雑な象徴性は、同時にゴジラを巡るドラマを厄介な物にしてしまった……のだとしたら。
 
根本の横たわる疑問は、社会を見据えてゴジラに与えた象徴性を、映画という構造の中で、社会を見据えて、十全にドラマとして構築できたのか…というものになるのかも、しれない。

 ゴジラが復活できるのは、ゴジラを巡る無数の糸を解きほぐし、何故芹沢博士が死ななければならなかったのか、何故ゴジラが復讐者であるのか、それを解明した時になるのではないかしら。

 そして多分、その時に、ゴジラの破壊は深い奥にまで届くのだと願いたい。




追記

 ゴジラをはじめ怪獣映画には自衛隊が葛藤なく戦うことのできる存在という側面が、わずかながらにあった、と思う。

 怪獣と戦う為なら倫理的、政治的な議論抜きに日本という国家が戦争に参加出来た。だから怪獣映画では現実より数十年先に防衛庁は防衛省に格上げされた。

 PKOへの参加、日本国外での自衛隊活動が始まるのと同時期に、怪獣映画がゆっくりと衰退していったのは、果たして偶然だったかどうか…とまで言ってしまえば、あまりにも牽強付会ではあるけれど。
 
 ゴジラ、怪獣たちに、人間は罪の告発者である事を望み続けてきた。そしてやがて彼女ら彼らは、汚れ切り、感傷的な人間ドラマの涙で溶けてしまった。今、どんな顔でそんな怪獣たちを見つめればいいのか、よくわからない。

OrcaOrca 1st album 『Elephant』


作者:Orcaorca
書籍名:Elephant 初回限定盤特製ブックレット
頁番号:5,6ページ

 枯れた芒野を、黒いマントを介して手をつなぎ、駆ける黒いスーツの青年二人。少年のようなその青年のイメージは、何処か稲垣足穂の小説を思わせる。
フォークトロニカバンド、OrcaOrcaのファーストアルバムElephantの特典ブックレットの一ページ。
 PVのスチル写真なのだけど、青年の筋肉と少年の骨が同居したようなこの写真のイメージは、OrcaOrcaの音楽のイメージで美しい。
 冷たくなれる一ページ。





 OrcaOrcaのアルバムElephantに収録された音楽は、タバコのイメージ。錆びついて、饐えた稲垣足穂。アルバムの曲は一つ一つバリエーションにあふれているのだけど、そのどれもが、タバコの質感を持っているような気がする。
刺激と、重く漂う雲。小さく指先に踊る火。
 錆びた色の鉄絃。狭さを持った空間を感じさせる音響のリバーブ。
雨のように繰り返されるドラム。外から聞こえる雑踏の旋律。
頭の中で聞こえる不吉な音。垂直に降りてくるエレクトロなサウンド。
 Elephantの音楽を聴く時に、自分は何処かに閉じ込められて、タバコの煙だけを見つめている。
 何とも言えない、タバコの匂いとしか形容できない香りの漂うアルバム。
インストゥメタルだけど、とても聴きやすくて、入りやすい。
 アルバムを実際に買って、フルで通して聴くと、想像以上の世界が見えてきます。
 好きです。




今回引用したブックレット付きの限定版


Orcaorca
2014-05-03
ブックレット無しの通常盤

映画『ゴティックメード 花の詩女』はなぜ上質な“映画”なのか 〜流れる時間と強靭な構造、毒を超越したドラマ〜



 映画『ゴティックメード 花の詩女』は映画が好きな方にこそ、観て欲しい映画。それから、ファンタジー文学、ある種の児童文学の小さな傑作、おとぎ話や童話に近いファンタジーが好きな方に。
 予告にあるような、ロボットアニメ、という宣伝文句を忘れて、ただ一つの優れて小さな、ロードムービーとして。
 或いは、映画なるものへの強烈な信念に裏打ちされた、力強い作品として。




 映画の物語は、とてもシンプルなもの。
 舞台は、スターウォーズのような(とあえて言います)SF宇宙の片隅の、自然豊かな植民惑星。この星の精神的主導者である詩女という巫女に選ばれた人間が、違う星の軍事大国の皇子であり軍人の人間に護衛され、二人が立場を異にする指導者として、あるいは生身の人間として、対立しながら祈りを捧げる旅を続ける、というのが概略。

そしてそれは、祈りと詩と踊りと、恐ろしいものの対立の物語。ささやかなものと、恐ろしいものの対立の物語。あるいは、希望と現実の対立。

 この対立の構図が、映画の殆ど全てのシーンに織り込まれている為に、この映画がただの美しい映像ではなく、優れた質感を持つ"映画"に思えました。



『ゴティックメード 花の詩女』という映画は、決して派手な映画ではありません。ハリウッド映画のようなスペクタクルも、宮崎アニメのような激しいアクションも、ドキドキする展開も、ほとんどありません。

 けれど、映画の中には、確かな時間が流れていいます。主人公たちが、美しいと同時に茫漠とし、広すぎる自然を渡っていく、静かな時間の流れ。それを映し出す焦れったい程に長いカメラ回し。

映画のアクションがスペクタクルで長ければ、この時間は、流れの速いせわせわとしたカットに破壊されてしまうでしょう。この映画はどこまでも、自分の映画であることに忠実です。そして、映画の時間の心地よさ。

 常に聞こえる、風の音、波の音、草が擦れる音、それらの音が、決して狭い空間ではなく、圧倒されるくらいに大きな空に響いているのだとわかる音響。 

人の来歴や微かな感情を映し出す細やかな人物アニメーションの芝居。大地の草が風に頭を垂れて太陽を映し、灰色に煌めく雨が無数の層となって空間を埋め尽くす、圧巻の自然描写。これらの細い描写によって、映画の中には常に時間がゆっくりと流れているのです。 

じっと沈む太陽を眺める時のような、異質な時間。この映画に刻み込まれた、現実とは違う時間の感覚は、ここにはない別の惑星に流れる時間なのです。 
 


 この、世界の時間と存在を支えるのが、映画に詰め込まれた美しさの数々。架空の未来世界と、荒涼とした自然を混ぜ合わせる、優れたデザインの数々。 

軍事大国の少年が乗る空中戦艦の威容と、詩女の少女が乗る小さな船の靭やかな軽やかさ。人々の歴史を静かに語る服飾デザイン。主人公たちが旅をしていく、自然風景の、水彩画の迫力。少女が荒涼とした大地と対峙して、種を蒔き踊りながら祈る、飾らない動き。

 多分、こんな風に、美しいSFデザインと架空世界を想定しながら、世界に流れる時間をアクションに寸断されることなく味わえるような作品はあまり存在しなかったように思います。

 あえて、例えるなら、ルーカスの世界を、ヴェンダースの眼を持って切り取った映像に、美しく優しいファンタジーの物語を加えた映画。決してスペクタクルな映像に傾かず、主人公たちと、描かれる世界に流れる時間に寄り添った、美しい映像。本当に上質な工芸品のような。


©EDIT

 そして何より、この映画が持つ映画としての凄みは、こういう要素が全て、一つの構図、一つの構造を示すために、使われていることだと思うのです。

 映画の全編に渡って、殆どあらゆるシーン、あらゆる場面が、たった一つのシンプルな構図、"美しくささやかな物と、それを踏みにじる様な恐ろしい物の対立"という構図を描き続けているのが、この映画なのです。二人の主人公の造形はもちろん、主人公たちが自然の中を旅するシーンも、雨の中立ちすくむ場面も、あらゆる場面でこの構図が示され続けている。

 この繰り返しが生む効果が、映画のラスト近辺の"ささやかな物と、それを踏みにじる様な恐ろしい物"を同時に備えた存在が登場するシーンに強烈な磁力を与えています。同時にそれは、エンディングの物語の解決に、強い力を与えてもいます。
 


 映画が描くのは"美しくささやかな物と、それを踏みにじる様な恐ろしい物"という構図ですけれど、映画にとって重要なのは、この構図を象徴する物は、常に変わり続け、時には立場を変える、ということなのではないでしょうか。

 ある時にはささやかな物を象徴していた物が、ある時には恐ろしい物を象徴する物に変わっていくーー。この象徴する物の互換性こそが、この映画の真骨頂であり、同じシンプル極まる構図がひたすらに重ねられることの理由になっているのです。

 ある時には、ささやかな祈りを象徴していた筈の自然が、ある時には荒涼とした恐ろしい物へと変わる。ある時には、全てを踏みにじる恐ろしい物を象徴していた筈の軍人が、雨の中ではとてもささやかな物に見える。物語の中で、ささやかな物であった筈の詩女が、恐ろしい物となって軍人を圧倒する。

 自然を象徴していた筈の巫女が、荒涼と恐ろしくさえ見える大地と対峙する様に、飾りなく躍りながら祈るシーンは、この映画の白眉でしょう(余談ですが神が明示されず、けれども祈りが映画の中心に置かれるというのも、この映画の面白いところです)。

このように、映画が意味の担い手をずらしながら、対立構図が描かき続けるとき、対立の持つ意味さえ、解体されるかに見えます。ささやかなものと、恐ろしいもの、という対立の持っていた恣意的な意味は、ただ、対立する何かと何かの間にある緊張関係へと変わります。

こうして生成された対立は、構図を構成する意味と意味、意味を担う要素と要素の差異を強調するのです。

 極端なことを言えば、映画が表現し続けるのは、たった一つのシンプルな対立構図だけ。けれど構図を常に示しつつ、構造の実在を見せながら、この構造の中で特定の意味を担う存在が、特定の要素である必要はないことを、映画は静かに訴えるのです。そして、小さく平面的な構図は、個々の役割をその時々で担う存在を媒介に、立体的な広がりを持った構造となって映画全体を貫きます。

 単純なテーマを、単純な物語を通して、映像の中で延々繰り返すことで、映画は重い力を持った映画になる、というこの作りは、監督の映画に対する強烈な信念の所産だと思います。

一つの構図を、殆ど全てのカットに丹念に織り込むことで立ち現れてくる構造の力強さ。そして、ただひたすらそれだけを繰り返すことで、映像が映画になるのだ、という強烈な信念に支えられた作りこそ、この映画を傑作にしているのだ、と。


 
ラスト付近、映画唯一のアクションシーンで、恐ろしい兵器を、主人公の巫女は「美しい」と形容します。それは、彼女(そして観客が)が二つの対立する意味を、その差異を認めたまま、同時に一つの象徴の中に読み取る瞬間です。

花の姿を持ったその存在は、途方もなく美しく、恐ろしい力を秘めています。それは、敵を蹂躙する恐ろしい物です。しかし同時に、それは敵に打ち倒されかねない細やかなものでもあるのです。 

この一連のアクションシーンで、二人の主人公は、それぞれが、恐ろしい物の中に潜む美しさを認め、そして、美しい戦闘兵器に潜む恐ろしさを自覚します(アクションシーンは短い物ですが、長いものになれば、こういう構図をぶち壊してしまいかねないでしょう)

 この時に、映画が繰り返した構造は、一つの大きな物として統合され、主人公たちは自分の立場を確かめつつ、存在にある二つの対極を理解し、その二つの違いを保ったまま、お互いを受け入れることでができる様になります。

映画のラストで、二人はお互いを尊重しますが、同時に互いの立場の違いを明確に表明します。それは毒を超越した健全なドラマであり、希望の物語です。 



繰り返されてきた構図の意味を理解し、自分の中に互いの存在を受け入れた主人公たちは、これからの未来で、理想と現実を、二つながらに受け入れて戦っていけるかもしれない。対極にある存在のどちらもが矛盾しながら、同時に存在るすことを許容し、どちらもを捨てることなく、生きていけるのかもしれない。映画のラストのシーンでは二人の表情と台詞の中でそのことが暗示されます。

 この後押しは、主人公だけでなく、観客に向けられた物ののように思えます。観客にも、その様に生きる可能性を示しているのだと。この、観客への目配り、という意味で、この映画は優れた児童文学的なファンタジーといえるでしょう。 
 


 映画のエンディングで、観客が取り残される場所、そして、その後に聞く音と風景。この間に観客が味わう圧縮された感覚こそ、映画が構図を静かに、セリフではなく映像として繰り返してきた理由なのだ、と。

 この感覚の押し付けのなさ、そっとした静かな力強さ、それは映画が築き上げてきた物のちからです。

 映画の持つ対立の全てが、映画の独自の時間と美しさに包み込まれていることで、差異を持った意味を二つながらに受け入れることの説得力が増すのです。



 映画『ゴティックメード 花の詩女』は、優れたアニメーションと音響に支えられた、素晴らしい映像体験を提供する作品です。『ゴティックメード』の魅力は数多いです。登場人物のちょっとした動きに込められたキャラクタの歴史や、素朴に見えて練りこまれた脚本の妙、それに濃密な演出の数々。或いは、祈りに中心をにした物語作りに見える、作者の祈りに対する考え方や、踊りの意味。中でも、強烈なインパクトを残す音響効果は、それだけでこの映画を映画史に残す価値を生んでいます。もちろん私が書いた以上の読みの可能性も豊かに持っていました。

 けれど、私にとって、この映画を「いい映画だな〜」と感じてしまった理由は、何よりこの映画が、自分自身に忠実であろうと努めた映画なのだ、という点だったのです。

いささか牽強付会かもしれませんが、今こそ"映画"としての『ゴティックメード 花の詩女』への想いを纏めたくて書かせていただきました。

 観る機会の少ない作品ですが、ぜひ、多くのの方に見て欲しいです。







 




この映画は監督の意見により、あらゆるメディアでの発売の可能性がない事が発表されています。つまり、映画館で見る以外見る手段はありません。カドカワという大手が21世紀に製作した映画とは思えない驚異的な方針です。
現在、映画は"ドリパス"という映画の再上映をオンデマンドで映画館に求めるウェブサービスを通じて年に数回ほど、上映されています。ぜひ、気になった方はこちらをチェックしてみてください。


2015/08/21時点では、ウェブサイトが各地の劇場と交渉に入った段階で、こののちに上映劇場が決まればチケットが販売され、一定数に届けば上映が決定される、という段階です。



映画『ゴティックメード 花の詩女』は漫画作品『ファイブスター物語』に連なる作品です
が、単独の映画として、本当に優れて上質な映画です。エンディング後にファンサービス的な描写がありますが、理解できなくても映画の本質には深くは関わりません。冒頭に書いた通り、映画ファン、ファンタジーファンの方にこそ見て欲しい、と思える作品です。ぜひ、『ファイブスター物語』を知らないまま、ご覧になってください。

また、ファイブスター物語13巻を読まれた方でこれから『ゴティックメード』を観るという方は、一度FSSの事を忘れてからみても良いかも…と思います。



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