■一千一頁物語

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押井守

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最上和子『私の身体史』私の身体を語るということ/私の苦痛を語るということ/私の死と神を語るというこ


作者:最上和子
書籍名: 私の身体史
頁番号:No141

『私の身体史』は舞踏家・最上和子さんによるエッセイであり、タイトル通り自分の身体が送ってきた歴史を語る物語。最上さんが徹底して現実である自分の身体を経験して辿り着いた、身体の内側のあちら側の物語。




 この本で、何よりも私が感銘を受けたのは、身体史として語られるのが自分の身体の苦痛の歴史であったこと。そして、苦痛の歴史が近代病理の川でなくて、身体と死と神秘の川に流れ込んでいく語りの流れ。


 中学で難病(厳密には難病指定を目指している)CFSを発症し、ずっと苦痛と共にあり続ける私にとって、苦痛はとても馴染みあるもの。自分が精神と呼ぶものに対する圧倒的な肉体の抵抗。けれど、私たちの言語の中に、苦痛を表す言葉は驚くほど少ない。それは、言語知の世界から見捨てられた感覚。


 最上さんはその苦痛を1つずつたどっていく。


 最上さんの語る身体の歴史は、苦痛の記憶を灯台に進められていく。初めに語られる小学生の記憶は、心と体の苦痛で下地が塗られ。私は、その最上さんの語りの調子に、何か運命のようなもの、そう、宿命を語っているような調子を感じる。〝私(最上さん) が 身体を考えなければならないのはなぜか 身体を語る私(最上さん )とは誰か〟という強い意識が、個人史の苦痛と宿命的に結びつき、身体を語る素地をなしているような。


 身体を実践し、それを語ろうとしている今(文章が書かれたのは随分前だけれど)の最上さんの視点から見る過去の苦痛史は、そこで聖痕のような、英雄の負うべき傷のような輝きを帯び始め。苦痛は本人が苦痛と語る限り、それはただの苦痛でしかないけれど、本人の読みはまた別の事を語り得るのかもしれない。


 苦しみもがく中で、最上さんは1つの恩寵を発見する。床擦れて解けた肉体から溢れる膿と、覗く骨に落ちかかる光の景色。「もはや人間とも言えず物質のように投げ出されている 、そのぎりぎりの体のあり方への感動だった。」と最上さんはそれを語る。


 自分がそうして肉体の苦痛の中で捥きながら、身体を意識し舞踏へ向かう時のことを語る際には、最上さんはいつもそんな出会いと変容の体験を、語りの中に配置する。ちょうど、かつてのギリシャ哲学の裔達が、この悪と醜さの存在する世界から観想によってイデアの世界へと垂直線を辿って帰還しようとした時と同じように。



 けれど、身体を見捨てた、かの人々とは違って、最上さんは身体との結びつきの中に、彼方を見出す。身体だけが彼方を知っている物であり、直観的な個人的体験が、彼方を垣間見せる。イデアの、彼方の世界は身体の中に設定され、身体という場を、彼方に見出すような。



 そして、最上さんが見出してきた身体は、苦痛の中で見出された身体。ここで近代知から見捨てられた苦痛と身体という二者は、合一したまま重力に引かれながら、墓溝へ落ちていく軌跡をそのまま、彼方への旅程に、変貌させる。
 

 それは見捨てられたものの祝祭であり、失われたものの発見であるように思える。世界の中で語られないものを語ろうとする行為であり、それを背景に、現実に足をつけた身体を、最上さんは探そうとする。そこで現れるのは多分、あらゆる物が彼方に結びついている事の発見であり、不可視化されたものの再顕在。


 結局のところ、日々を無理矢理暮らすのに一杯一杯で、躍る身体を持たない私には、こうしてしたり顔に舞踏家の言葉を語る資格はないと思うのだけど、それでも最上さんの言葉は胸に突き刺さり、その音に震える。



 最上和子さんのブログ。
 圧倒的な言葉で語られる身体論は強烈。絶対に一度は読むべき。


最上さんのエッセイが収録。奇妙な本です。



 押井守監督の小説
 そこで展開される身体論は最上和子さんの言葉に大きく影響されたもの。




 耽美調(という曖昧な言葉の是非はさておき)な人形作家とは一線を画す人形作家、井桁裕子さんが一度最上さんの人形を作った事があって、私はそれがきっかけで最上さんのブログを見つけた。




サミュエル・R. ディレイニー
1996-06


 よくSF小説で、一つの意識で様々な身体を使う話があるけれど、人はああいう事に耐えられないのではないかな…というのがセクシャルマイノリティーとしての実感。ひとつでない身体、そして自分のものでしかありえず、他人の身体が他人のものである身体、人と結びついた身体というのは、一つのクイアな感覚から生まれるのかもしれない。

押井守監督『GARM WARS The Last Druid(ガルム・ウォーズ)』インプレッション 残酷な世界を研究する祈り



 部屋を暗くして、巨大TVに近づいて鑑賞しました。
 手短に感想を。

 押井守監督の映画『GARM WARS The Last Druid』(以下 GARM)は、遥かな世界で彷徨うサイボーグ種族ガルムたちの虚無を描いた映画。
 映画のビジュアルと物語の結び付きは他の作品に喩えようのない物。あらゆるジャンルに結びつきながら、あらゆる文脈から離れて行く。だから一度見ただけでは頭に馴染まない。映像は完成形ではないのだけど、そのビジョンが最後にはそんな事が気にならない世界と時間の異様な美しさを構築して。(だから二度目はすごく満足度が高いと思う)

 そして、最後まで見ると、幾つかの欠点(GARMの製作は困難に満ちていた)を吹き飛ばして、ただ素晴らしかった……としか思えない。
 映画を観た後に残る途方も無い悲哀感と、それでも世界を知りたいと願う祈りの感覚の余韻。
 その感覚がとても異質で美しい。波長の合う人間の体の中に、何か奇妙な結晶を生んでくれるような。


以下、なるべく既に出ている予告以上のものには触れないようにしましたが、一切のネタバレと先入観を持ちたくない方は注意してください…。

 先年の東京国際映画祭でご覧になった方々の感想にある通り
 押井守監督の好きな物が居並び、世界のフレームを形作っている。
 冒頭から顕れる怪物的なデザインの群れは、CGのリアルを超えて強く印象に残る。これだけのデザインが集った映画はそうそうにはない、もの。
 次々に披露される細かいギミックはもちろん、艦載機の動きに合わせてなるオートマタ風のサウンドの異質感は、見終えた今も耳に残ってる。
 この辺りの場面はとても絵画的でイラスト的な印象。キャラクタデザインを担当されている末弥 純さんの絵のような。

©I.G.fim
(この艦載機のギミックはすごかった元のアイデアは10年以上前に遡る筈だけど、今までこんな飛行機を見たことがなかった)。

 ただ私はそれよりも、地上に堕ちた世界の方が美しく、感じられた。
ドイツのロマン派の描く荒涼と、崇高さの体験。

 
 サイボーグは、自然=生物と機械の融合によって生まれ、故に二項対立を乗り越え、起源神話をも捨て去り、生産の夢を見ず、復活を夢見ず、再生だけを求め、悪夢的で強圧的な情報交通支配に対抗する…とかつてダナハラウェイは、記念碑的なSFフェミニズム論文『サイボーグフェミニズム』で語った。
 けれど、自然という他者を捨てたサイボーグには、もはや乗り越えるべき二項対立の根拠さえなく、起源神話を捨て去るのではなく、起源神話の根本を知らないサイボーグには、支配に対抗すべき根拠さえも、獲得しえないのかもしれない。
 それどころか、そんなサイボーグは、他者を支配する理由さえも、忘れ去り、やがてただ悪夢的な支配の構造だけが残されるのかもしれない。生産を夢見ず、再生だけを求める、その資質を残したまま……。

 映画『GARM WARS The Last Druid』が描き出す世界とはまさにこんな世界。最近の流行りでいえば、それはイモータンジョーを失くし、虚無の極北まで達したウォーボーイズ(ガルムたちは性差を超越してるけど)たちの群れ…とも言えるかも。


  だから、そんなガルムが、地上にあって自然の中を彷徨う場面は、自らの個的な根拠に目覚めていく場面でもあって(その前にはドッペルゲンガーのイメージ=自我の目覚めまである)、絵的な美しさも手伝い、とても印象的。
 こうして世界を知り、他者的な世界の中で出会ったガルムたちは、ランス・ヘンリクセン演じるウィドに誘われ、世界の起源を知る旅に出る。自分の起源を知り、その行く方を知るために。
 ウィドは言う、自らの起源を知らぬ者は自らの未来を持てない…と。
 私たちは、何故、私たちの世界を知ろうとするのか、何故、考え、探り、自分の中と自分の外にある者を求めるのか、映画はそれに応えようとする。
 それは、世界に偏在する、想像しえない物を探る誘いであり、祈りであり、pirigrim=巡礼と語られるに相応しい旅路。こうしてガルムたちは旅に出る。
私は、映画の序盤のアウトラインをこんな風に見た。


 そして旅路の果てに訪れるラスト、そこで気づくのは、今、映画を見る私の世界のこと。
 映画が"語り"の形式を持ち、章に分けられた神話的形式を持つ理由がそこでわかる。
 顔のない巨人の虚無に、観客は取り残される。
 この時の異質感は、それまでちょくちょく溜まった不満(ちょっとしたCGとスタジオ撮影の合成のレベルとか、微妙にハリウッドっぽい脚本(一度ハリウッド風に盛った物を様々な都合で削ったそう))を一挙に吹き飛ばして、ただ、ああ、凄い物を体験してしまった、と感じさせてくれる。

 押井作品における神というのは、天使のたまごの彫像から始まってスカイクロラのティーチャに至るまで、静止して世界を見つめない目を持つ存在で。人がその者たちを想う事で、世界が成立していたのが従来の押井作品。

 ところが、ガルムではそうした絶対的な神は消え去り、身近な犬がその場所を温めている。

 ガブリエル、セラフィムと、犬には神と人間の媒介たる天使の名前が付けられてきたけれど、ガルム・ウォーズでは絶対的な上位者としての神は崩落し、犬もその後ろに背負う神を失くし、ただ媒介として人を見ている。

 その時、犬はとても神に近くなったのかもしれない。

 
 ガルムたちはそんな犬とともに自分たちの起源を探した。それを乗り越える為に。
 群れの夢から個となって。




 そして、物語は、同一テーマをミステリ的に位相をずらして語る押井守監督の小説『GARM WARS 白銀の審問艦』(ここでは名付ける支配というテーマがメインだけれど)へと繋がりそこで新たな未来が芽生え、さらにその先のまだ見ぬ本当の本編へと、繋がっていく(はず)。




以下、映画の色々に対する雑感とまとめ


 CGのレベル、なんて書いたけれど、最後まで見きった時には、とても充実感と満足感が。そもそもCGのレベルは充分には要求を満たしていると感じられた。(もし問題があるばらロケ撮影出来なかったセット/スタジオ合成の部分)
 たぶんGARMという映画の美は、色彩がハレーションを起こした超アンリアルな映像に、その中心がくるように設計されているのだと思う。
 だから、一見すると奇妙な映像でも、ガルムたちの時間を体験するとともに、だんだんとそれが、とても美しく自分の神経の中に馴染んでくる。
 なにより、その満足感は、この映画がデザインの全てを予算を顧みず、出し惜しみせず、見せ切ってくれるから、だと。
 お皿に様々な料理を少量ずつ盛ったヌーベルキュイジーヌな感覚。
 ある種のショーケース的な「この映画はこれだけの物を持っています、予算をもっとくれれば、この要素をそれぞれもっと一杯見せられます!!」というような。
 押井守監督は本作についてダークナイトに対する、バットマンビギンズであり、神々の黄昏に対するニーベルングの指環、と語っておられました。
 端的に言うと、もっと見たい。

押井作品でおなじみの川井憲次さんの音楽、特にOPとEDの曲は素晴らしかった。
ちょっと意外な感じなのだけど、川井憲次さんの新風を感じて。
サウンドトラックが出たら何回も聞きたい。
もっと聞きたい。

 役者さんたちの演技もとても良かった。ランスヘンリクセンさんの老獪な探求者と声が素敵だったし、ケヴィンデュランドさんの豪快に見えながら繊細の表情もとてもパワフル。なんと言っても、主人公カラを演じたメラニーサンピエールさんの演技は本当に良かった。
 映画を全部引っ張ってる演技で。押井映画の中で一番エモーショナルなのだけどそれが不思議と、とても押井映画に馴染んでいて。
 ラストの表情は萩尾望都様の描く百億の昼と千億の夜のあしゅら王を彷彿。押井映画でこんな表情の描写は珍しいけど綺麗だった。
のちに製作された『東京無国籍少女』の習熟した実写映画感覚のキレを思うと、押井監督は実写にどんどん馴染んでるなぁと感じる。


 映画の終盤、予告にもある巨人との戦いのシークエンスは、実写版『進撃の巨人』で世間を沸かせる樋口真嗣監督のコンテによる物。
 公開こそ、『進撃の巨人』の後ですが、GARMは進撃の巨人より先に作られてる。
 まさかの立体起動装置シーンもあって(他人の映画をダシに自作のパイロットをした疑惑)比較してみるのも一興かと…(私は進撃を見ていないのでなんとも言えないけれど)。




 最後に、押井守監督の色々を追っていると、GARM WARSという映画の製作環境を巡る過酷さをよく知ってしまいます。
コンテ、脚本、セット撮影、ロケ撮影、CG、仕上げ、全てにおいて想像を絶する困難があったようです。
 映画にはそれがわかる部分がないとは言いません。
 けれど、このような映画に挑戦することの困難さは、よく知られている筈です。特にこのGARMは映画史を探しても類例の見つからない映画。(だから欠点に見える物欠点には見えなかったりします)
 それこそ映画『進撃の巨人』のスタッフがおっしゃったように、壁の向こうの巨人に立ち向かわないことにはどうしようもないのですから。
 押井監督も、「丘に立たなければ向こうの景色は見えない」と仰られました。
なにより、映画を最後まで見きった後の感想は、ただただ凄い映画でした、としかいえない感覚。
 誰がなんと言っても奇妙で美しく見える映像の数々は絵画的で壮絶。
 絶対に劇場で観たい作品。
 なんとしてでも大きな劇場で公開してほしい物です…。(これいうの何回目だろう…)

それにデザイン群も素晴らしかったので模型と分厚い電話帳みたいな設定資料集が欲しいです。
リボルテック竹谷枠でフィギュアも欲しい。
あれも欲しい、これも欲しい、もっと見たくなる、お金を払いたくなる映画なんです…。


追記
遂に日本での上映がガルム・ウォーズとして決定!
ジブリの鈴木敏夫Pを加えての公開になるそうです。
2016年 5・20日公開








間違いなくガルムの原点になっている作品
ガルムはこれに対する挑戦なのかも

最上 和子
2016-03-27
最近の押井監督の身体論につい良い影響を与えている舞踏家最上和子さんのエッセイ。レビューも書きました。http://1001pages.blog.jp/archives/1057720522.html








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