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『アンチクライスト』とラースフォントリアー『ニンフォマニアック』 対話篇 絶望と希望の物語


 『アンチクライスト』とラースフォントリアー『ニンフォマニアック』 絶望の中で自らを語ることの可能性と不可能性


ラースフォントリアー監督の作を追っていくと、その景色の森林の中に、西洋の知の体系への嫌悪が絡み付いているのを、どうして観てしまう。

アンチクライストを駆り立てる絶望の深さは、絶望それ自体の認識だけが救いになる、そういう色をする程の深さだったように感じられた。


監督のニンフォマニアックも、その絶望の深さは変わらない。けれど、救いのありようは全く違う物のように、思えてならなかった。


それは希望が始まる物語であり、解放へと向かう決意の物語であるのではないか、と。







アンチクライストを、西洋文化に絡みついた思考を巡る物語と見てみる。


森林は、西洋文化が排除して来たものであり、それ故に西洋文化が認識できないもの。

それは、西洋の知が、自分の境界を決めるために利用してきたもの

そしてそれは、女性、という形で西洋の中で内面化される。


精神科医と中世魔女美術の研究家たる主人公二人は、知の体系に属しながら、同時に、知の体系から溢れた領域を、理解可能なものに置き換える事を、職能としている。


そんな二人は、物語の中で、西洋知が疎外したものの象徴である森林の中で、西洋が自然と女性に押し付けたものを、自らが属する文脈の中で、自分たちで演じながら、自分たちで育て、結晶化させていく。そうしてはぐくまれた西洋の概念は、そのまま悲劇となって自分たちを直撃し、崩壊させ、惨劇へと至らしめる。

それは、西洋の歴史が繰り返してきた、女性と疎外を巡る物語の、最も最小な単位での濃密な再演。



フーコーや、フェミニズムが西洋の歴史理解を切り開いていった60年代以降、そんな考えは決して珍しいものではない。

けれど、トリアーの絶望の深さは、そこに止まらない。



トリアーの惨劇は、絶望のような希望の中で終わる。



抑圧と放逐によって成り立った西洋の歴史の中にあり、その先端にある限り、西洋のその悪徳のベクトルからは逃れられない、という認識を示すかのように、物語は絶望の中で終わる。


そもそも、現代の研究者である二人は、このような西洋の歴史の解釈を、当然の前提として知っていたのだ。けれども、二人は、その結末から逃れることはできない。抽象化された象徴的人物のような二人は、ただ破綻への道を歩んでいく。



映画の始まりと結末、その二つの差異を結んだ線の延長線を映画の希望としてみなすなら、映画が示すのは、ただ西洋の知がそのようなものである、という絶望と、それを知っらなかったという悔恨に満ちた認識だけ。


森の中の地獄は、森の外の地獄の反映に他ならず、自分はまたその地獄に西洋の抑圧の化身である悪魔として、回帰するしかないという絶望の認識。其れだけが希望である、という絶望に満ちた期待。

トリアーのアンチクライストがどうしようもなく憂鬱なのは、きっとそこに理由がある。



トリアーの断罪は、当然、映画それ自体にも向けられる。西洋の美的感覚は、西洋の思想と深く結びついている。陰影から、遠近法、構図に至るまでが、その結びつきの下にあることは、多くの研究が示す通りだし、絵画が一つの思想の表現方法だった。それは、映画においても変わらない。トリアーが古典的な象徴体系、古典となった映画の引用を行なったのは、これを映画として補強し成立させるため、西洋の地獄が、視覚的な美しさとなって世界を覆っている事を示すためなのだ、と。




けれど、トリアー監督の新作、ニンフォマニアックは、その絶望を抱えた上で這いずる、強い希望があったように感じられた。物語は、やはり破滅的な最後を迎える。けれど、そこには希望へ向かう事への信頼と、生への強い意志があったように。




ニンフォマニアックも、アンチクライストと同様に、男女2人で物語が進行していく。トリアー独特の、ドグマ式の映像は、比較的抑えられ、挿入される記録映像が本編のドラマ映像と対話するように、コミカルにテンポよく進んでいく。


けれど、上述のような視点でアンチクライストを見た場合、ニンフォマニアックが何よりもアンチクライストと異なるのは、それが語りの物語である点だ、と私は考える。


主観的に曲げられた物語は、語り手のセルフコントロールの下にある。


語り手は、アンチクライストのような地獄を抜けて来た1人の女性、ジョー。彼女が語る物語と、聞き手の男性セリグマンの間の張りの揺れが、物語を駆動させている。


そこには、ギリシャ哲学の対話編を連想させるものがありつつ、彼女が辿ってきた人生の反映がある。


彼女の語る物語は、彼女の性欲と、1人の男性の存在以外、全てが自分のセルフコントロールに置かれた物語として語られ、セルフコントロール不能な要素も、彼女は決して否定しない。そこには、アンチクライスの中にあった葛藤の微妙な発展がある。


女性という領域に、西洋がセルフコントロール不能な対象を押し付け、女性は自身のセルフコントロールを失いながら自己を否定する、アンチクライスの物語(こうした見方もアンチクライスは否定するのだろうけれども)が、ここでは反転して演じられる。


女性は自分の欲望に従って自分をコントロールし、自分を排撃しない。そのように語ることは、同時に崩壊した自我の癒しでもある。



ニンフォマニアックでは、ドラマと映像は幾重にも重なって進行していく。


もう一つのドラマは、ジョーとセリグマンが語る今のドラマで、語られない男の西洋知の権化のドラマで、女が語らなかったドラマ。今のドラマがそれらをまとめ上げ、今のドラマは独特の緊張感を舞いあがらせている


女の話を聞く男は、話を男の思想世界によって解釈して行く。そこの中で、女性の生きた軌跡と語りは、奇妙な形で変更されて行く。


それは、彼女が辿って来た、彼女の彼女の人生に対する解釈の変更に他ならない。性的な疎外者である2人の対話は、どこかですれ違って行く。



セリグマンは、自分の話を語ることができない。だから、受け継いだ知識に呪われ、他人に呪いを撒いてしまう。他人を解釈することでしか、発話が出来ない。



セリグマンが暮らす、窓の少ない小部屋は、セリグマンの心象でもある。外を覗き、外を測るけれど、みられる事はない。ジョーの語りの中に現れる世界も、セリグマンの世界も、彩度は低く、現実感に乏しい。けれど、ジョーの世界は白く飛んだ彩度の低さで、セリグマンの世界は黒く飛んだ彩度の低さで。


ジョーの世界は、現実を白く飛ばしたファンタジーであり、セリグマンの世界は、現実から黒く隠れたファンタジーなのだとしたら。



ドラマはアンチクライストと同じように破局を迎えるけれど、ジョーは自らの語り、自らを自らの望むように語ることをやめない。映画のラストで、ジョーは映画の画面からフレームアウトする。



自らを語り自らを騙ることは、また別種の地獄を招くかも知れないけれど、地獄の先に、映画は歩んでいく。


私はそれが、アンチクライストの後に見出されたトリアー監督のきぼうなのではないか、と思えてならない。



そして間違いなく、こうして自分を語らず、胡乱な解釈をする私は地獄を再生産する1人なのだ。




映画を見ながら思い出したTV番組。経験としての女性に理性の男性が解釈を加えるという昔ながらの地獄絵図の再演のような気がしてならず。




プラトン
2008-12
ニンフォマニアックをたどっていくとここに行き着くのだと、そんな気が。対話による愛の理解。饗宴では、女性が男性に知を授ける(ように見せかけた)場面があったり対照も面白い。




ニンフォマニアックでは明らかなバルテュスの引用が幾度か行われている。キーイメージの類似性も高い。バルテュスは、少女像の中にイデアを探求したけれど、それは何かを見る少女が見られることに気づかない内に、バルテュスが見出したものだった。
女性人気も意外と高く、私自身の使い方も含め、そこではフェティッシュのセルフコントロール/再話、というような何かがあるのではないか、と思っても見たりしていて、ニンフォマニアックとの関連は興味深い。


ナタリア・ボンダルチュク
2016-06-24
アンチクライストは、タルコフスキーに捧げる、と末尾にあったけれど、ニンフォマニアックも、間違いなくタルコフスキーに捧げられている。
劇中で流れるコーラルプレリュードは、ソラリスの引用で、ジェロームの章では流れる水草の映像の引用が。
ソラリスとは、語り、語られ、語る、解釈の物語である点が近いかも、というのはいささか牽強付会かしら。
正直なところ、アンチクライストがどうタルコフスキーに捧げられるのか、明白な考えが持てず……。
多分それは、トリアーとタルコフスキーに共通する宇宙の捉え方、その感覚に由来していて、自分を包み込む世界への畏敬と理解不能性、最後に残る祈りのような受容、それが空間と人、時間のズレとして映像に現れる、という所にあるのかな、と思いつつ。


















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UとAという2人がいた。初めての掃除の時間、Uは、Aを見初めた瞬間、Uにいつか殺されると予感した。 予感は的中した。

劇の準備中、体育館の舞台袖でAはUに、首を絞めていいか、と許可を求める。Uは受け入れ、長い時間が過ぎて、AはUの首から手を離した。

その後、Uは病にかかり、Aと会うことは殆どなくなった。唯一のやり取りは深夜のメール。次第にメールの内容は死に纏わる事柄に変わっていった。

Uは、Aに、女性が女性として女性を愛する話を語った。性指向と性自認の物語。Aは拒絶した。Uはそれ以上の説明をできなかったし、しなかった。

AはUを傷つけるようなことは、なにもしなかったし、言わなかった。



『スター・ウォーズ : エピソード7 フォースの覚醒』“堕落”を再生産する正義の父



 フォースの覚醒は、父と子というテーマを掲げ、そのテーマに忠実であろうとした映画、だった。けれど、映画自身がそのテーマに過剰なまでに忠実で、それを神聖視してしまった結果、父と子というテーマ自体が抱える欠陥それ自体を、映画は無自覚的(と思えた)に抱えてしまった作品でもあったとも、感じる。


以下、重大なネタバレがあり、かつ、かなり批判的な内容なのでご注意を。











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映画『屍者の帝国』と小説『屍者の帝国』と物語『屍者の帝国』〜映画が切り開く複数の物語という意識の可能性〜


ーーワトスン博士、この調査で何かが明らかになったとしても、それはあなたの理解であり、あなたに許される物語でしかありません。私の物語ではありえないし、物語である以上、アレクセイに関する事実でもない。ーー
円城塔+伊藤計劃『屍者の帝国』より


 映画『屍者の帝国』は異質(クィア)な方法で持って小説『屍者の帝国』と共に物語『屍者の帝国』補完する、非常に優れた作品だと思った。

 映画『屍者の帝国』は、小説『屍者の帝国』が複層な言語によって生成される意識を備えているけれど、それが実は単一な物語に拠っている事を、否応なく明らかにしながら補完する。

 その差異から生まれるパターンは、小説『屍者の帝国』に寄りかかりながら、物語『屍者の帝国』に新しい地平を切り開いて、意識を駆動(start her up)させていく。孤立した人間の内部にある複数のXが人間の意識を成すように。



 小説『屍者の帝国』は、不死化して社会に食い込み拡大していくような、単一の物語に、支配されている。

映画『屍者の帝国』が提供する物語は、小説『屍者の帝国』という絡み合った暗合群の中から、そんな物語を見出す為の、恣意的で任意な一連の解読コードを作り出してくれる、ように思った。

 それは問いの形をとったコードで、映画『屍者の帝国』が提供するのは、問いを生む為の差異。問いかける事で、暗合する符号の乱雑な文脈から、人が望む物語が生まれるはず。

 だから、私はこのように問うことから始めたい。


 フランケンシュタインの怪物=ザ・ワンは何故花嫁を所望するのか。


 メアリーシェリーの小説『フランケンシュタイン』にて、造られた怪物は何よりも、自身と同じように醜く、社会から排斥され、故に自らに心をかけてくれる者を、相棒を、望む。そしてその上で、彼はその相棒を女性と、花嫁と指定する。
 
 その要求は、排斥と差別をそのまま自身のアイデンティティーとして受け入れ、主流の常識へ同一化する、その象徴としての、花嫁の要求かもしれないし、臓腑が鳥肌立つ空っぽの孤独の帰結とでいうような私的な帰結なのかもしれない。あるいは、もっと別の何か。

 いずれにしても、彼は人造生命として、いかなる部族の起源神話とも関わらない孤立した存在だし、彼の欲求はそんな彼が、部族の起源神話を強く、刻印された社会と関わる事で生まれた副次的な物。

 けれど、小説『屍者の帝国』のフランケンシュタインの怪物=ザ・ワンは、むしろ所与の欲望として花嫁を望み、彼の願望の根源が語られる事も、彼の願望への疑念が語られる事もない。彼の欲望、彼の望む異性愛的で、女性に対して一方的な欲望は、世界と意識と言葉と物語に対する疑念に満ちたこの小説の中で、如何なる疑念も挟まれない、特権的な存在として、確立されている。

 彼ら(あえて彼らと呼ぶ)は単一な物語を共有している。彼らはそれを疑わない。それは彼らの物語の基盤となる。

 単一な物語の基盤として、旧約聖書が選択される。起源神話を持たない筈の、人と異なった意識と言語をもつ筈の意識のアナキスト、ザ・ワンはアダムと結びつけられ、科学の時代の非神話的存在と(たとえ彼女を取り巻く環境が神話的であっても)して生まれた筈のハダリはリリスと結びつけられる。

 神話、物語のアナキストであり、物語を撹乱し普遍性の幻想の彼方にいた二人は、旧約聖書の単一で拡大し続ける物語に絡め取られ、物語に内在するコードに追いつかれる。

フランケンシュタインの怪物は、根拠のない確信を元に花嫁を探し、ハダリはリリスなる象徴の元に生きる事を求められる。

 だから、小説『屍者の帝国』に旧約聖書を基盤としない宗教は殆ど現れない。英国から世界を一周するにも関わらず、ワトスンの視界をよぎるのは旧約聖書の物語ばかり。ワトスンの語りの中でほんのわずか仏教の名前が現れ、星の智慧派が微かに非旧約聖書の匂いを纏うばかり。小説の大部分を占める日本編でも、神道や仏教の描写は除去されている。

 それはメアリーシェリーの『フランケンシュタイン』のように排除と差別の果ての同一化ではなく、始めから異なった物語の可能性が除去され透明になった故の、単一性。それを著者=ワトスン≒ぼくの世界。

また、私はこの小説に何人の人格を備えた人間の女性が登場するだろう、と問う事できると思う。単一な物語の欲望の焦点の一つである女性が、何人登場し自分の物語を語るのだろうか、と。そして、彼女が何を語っているのか、とも。



 牧原亮太郎監督の映画『屍者の帝国』が挑もうとするのは、円城塔先生の小説『屍者の帝国』のこんな側面なのだと、思った。

 それは多分、多様な意識を駆動させる多様な物語を問う物語であり、小説『屍者の帝国』でザ・ワンが問い、ワトスンの答えられなかった、単一性への抵抗の物語なのだ、と。

 小説と映画で最も異なるのは、ワトスンと屍者フライデーの関係。ワトスンは亡き友人の屍体から造り出した屍者フライデーの魂を求めるために、ヴィクターの手記を欲望し続ける。ワトスンの意思を駆動させる物語とは、そのような物語。ザ・ワンはそんなワトスンを見て、魂の秘奥を極めるために自身を生み出したヴィクターその人を思い出す。

 けれど、客観的に見るのなら、亡き人を求めて学究を続けるワトスンの姿は、明らかに、失われた花嫁を求めるザ・ワンその人に近い筈。ザ・ワンはその事を認識しない。或いは、そのような 交流は不可能だ、とも言える。

 何故ならワトスンとザ・ワンは異なる物語の地平を生き、その為に、異なる意識の地平を生きているから。ザ・ワンはアダムとしての物語を生き、故に異性を欲望せざるを得ないけれど、ワトスンにそのような起源神話、物語から生まれる欲望のコードはインストールされていない。ワトスンはザ・ワンのそれとは異なる同性への欲望を露わにし続ける(それがいかなる物なのかはここでは問わず、最も強い執着が同性に向けられている事だけを確認する)。ここにおいて、ザ・ワンがワトスンの中に認めたヴィクターとの同一性が顕れる。


 ヴィクター・フランケンシュタインは異性の怪物を造らなかった。


 映画『屍者の帝国』で、異なる物語によって駆動される、異なる意識を持つザ・ワンとワトスンは理解しあえない。小説『屍者の帝国』で異なる言語に駆動される、異なる意識を持つ存在が直接的に理解しあえないように。

 映画『屍者の帝国』では、このザ・ワンとワトスンの邂逅の場面に、読経する仏僧の姿をした屍者の群れが、二人を囲む。異質な言語の異質な意識を持った屍者が、単調に声を震わせる。あたかも、アダムであるザ・ワンと、ワトスンの物語の異質性を強調するように。小説『屍者の帝国』で除去された二つの異質な物語が、ここでザ・ワンと対峙する。

 物語のラスト、チャールズバベッジの鎮座するロンドン塔で、また2人は相見える。

 ザ・ワンは自らをフライデーにインストールしようとするが果たせず、世界を巻き込んでハダリに花嫁を再現させようとする企み自体を、手と手を取り合ったワトソンとフライデーによって阻止される。2人の対称性と異質性。同じものを求めながら、異質な物語によって駆動する2人。

或いは、小説で遂にワトスンが答えられなかったザ・ワンによる屍者化した人類の未来像に対して、映画のワトスンは自らの言葉で、まさにその計画を実行しようとするMに対して答えようとする。"権力者の絶望"によって生み出される単一化された人類という未来像自体が、単一な物語に塗り込められた意識から生まれる事を示唆するかのように。

 主流への同一化を基盤とするフランケンシュタインの怪物の物語のコードを刻印された物語に、旧約聖書と異性への欲望への服従に象徴される物語には、より一層の同一化を求める物語に屈しきれないのかもしれない。

 欲望があり、物語があり、物語は欲望を正当化し、欲望を排除し、単一な欲望を象徴とする単一な物語となって世界と意識を支配しようとする。不死化する。

 権力者の絶望が生み出す、真っ白な人類は、彼らが受け入れ従う物語に隠れた欲望の帰結で、そうであるのなら、対抗するには異質な物語=欲望が必要なのだ、と。

 映画『屍者の帝国』はそうした物語を持って、小説『屍者の帝国』に挑んだのではないか。

 差異と矛盾の抗争が、パターンを生み、意識を齎す。


 †

ーー人間の意識は複数のXの派閥による合議、あるいは闘争からなる。その多様さが人間の意識を生み出すのだ。単一の派閥のよる直線的な意思決定は、ただの木偶の坊を作る結果になる。人間は矛盾に満ちるが、その矛盾こそが本質だ。並び立つ意志や意見の対立が、常に矛盾を生み出しながら前進していく。ーー
前掲書より

 ある語族には、緑と青を区別する言葉がなく、その話者たちは青と緑に強い差異を認識できない。ある語族には群青と青を区別する言葉が無く、その話者たちは群青と青に強い差異を認識できない。

 言葉は認識を生み出し、意識を規定する。けれど、こうも言えるのかもしれない。

群青と青を区別する事を言葉に望むのは、物語である、と。『屍者の帝国』なる物語が屍者という言葉と死者という言葉を生み、その区別を望むように。区別を言語に発生させるのは物語なのかもしれない。

 物語は、言語の差異を超えて伝播し、言語の中に新たな言葉を生み出して、次々と人間に感染していく。小説言語の中にある物語が、映像言語に感染していく。

 私の意識を生み出すのは物語なのかもしれない。

 そうであるなら、単一な物語=欲望は恐ろしく危険。

 意識を生み出し、世界を生者のものに在らしめる為には、複数な物語の派閥が必要なはず。

『屍者の帝国』を小説言語から映画言語に写し取る際、必ず表れる物語という存在を、真っ向から考察したのが、牧原亮太郎監督の映画『屍者の帝国』だったのではないかしら。

 円城塔先生の小説『屍者の帝国』にあるセキュリティ・ホールを埋めるパッチ。『屍者の帝国』という物語は、映画言語と小説言語によって読み取られ、差分を生み出す事で新たな、より強力な生を獲得した、のでは?

 差異が生み出す抗争のパターンが意識の根源であるのなら、複数の物語の派閥を得た『屍者の帝国』という物語は、今まさに生き始めた。

ーーぼくは意志を持っているのか。持っている、とぼくは答えるだろう。こうして物語が持つ事の可能な意識を、ぼくはここに確か保持している。ーー
『屍者の帝国』より


映画『屍者の帝国』は屍者の新しい地平を切り開いた優れた、クィアな映画だと考える。全身、満身創痍でボロボロだとしても。

伊藤 計劃
2012-08-24


どれだけ複雑で複層で並列的な物語でも、常に少年と少女という基盤に回帰するのは、屍者の帝国というより、円城塔先生の作品の特徴かも。そんなところが愛しい。

『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』私と公を分ける身振りと、薄っぺらな表面の奇跡

 演劇の中で、役者はその身振りと視線で、私的な独白と、公的な会話を表現する。
けれども、パフォーマンスが行われる場は、常に、公的な舞台の上であり、私的な独白とは観客に訴えかけるものでも、ある。
 その時、観客は私的、公的、両方を綜覧する権力者で、その二分を明瞭に分けてくれるシステムを構築する演出家と結託することで、演劇に愉悦を求める。
 そして役者こそ、舞台の私的空間と公的空間を分離させる身振りを行使する、最大の権力者(を演じさせられるもの)に他ならない。
 なのに、私的、公的の分離は、いやしくも舞台の上という同一空間が時に私的な空間となり公的な空間となることに表されているように、その曖昧さゆえ、この二分法はやがて崩壊と復讐を受けなくてはならなくなる。
 シェークスピアならずとも、演劇の主人公は独白を聞き取られることによってこそ、危機を迎える…。

 舞台、という舞台設定をテコに、私的空間と公的空間を、常に騒擾し、全てをワンカットという一つの表面に巻き取って見せた映画が、『バードマン 無知がもたらす予期せぬ奇跡』という映画なのだと、私は感じた。
 『バードマン』の中で表現される危機の多くが、私的と公的の交錯の上に成り立っている。
 公的な道路を、私的な下着姿で主人公は闊歩するし、私的な場の中で性的不能な俳優は公的な舞台で性行為を行おうとする。
 映画を不安付ける主題は、私的空間と公的空間の、あまりに薄い膜が露わらになってしまう混合の瞬間と、その二つを分ける権力者が支配力を失う事に、焦点が結ばれているのではないか。
主人公が私的空間と公的空間を、舞台の上のように、映画の中のように、支配することができる時、彼は超能力を自身の私的な空間の中で行使する(と信じる)ことができる(その私的空間が他者の介入によって公的空間に変化すれば、彼の全能性は他人の客観性の元に失われるのだけれども)。
 そうして、主人公が憤るのは常に、自身による私的公的の区別が他者によって突き崩されたときなのだ、とも読める。
 女優2人が楽屋でキスをしているのを、彼が楽屋に侵入して目撃したとき、彼はまごつくけれど、危機は感じない。そのとき彼は自身が私的な空間に踏み入る主体であることで、私的公的の区別を、自身の身振りの上で行っているから。と読んでみればどうだろう。

 象徴的な挿話として、主人公が自身の不安を娘に語る場面がある。
 主人公が飛行機で、有名俳優と乗り合わせた時、もし飛行機が事故にあったなら、自分の名前は記事にならないだろうと、彼は自身の俳優としての没落を嘆く。
 この挿話で表現されるのは、私的な空間が公的な空間へと強制的に転換される場合の、コントロール不能な状況への恐怖とも、読める。その恐怖が劇中で度々言及されるネットメディアと結びつけば、危機の発生確率はますます上がり、その危機はすべての人の上に現れている。
 リハーサルの期間中、主人公のコントロールを離れて、多くの関係者の私的な危機が、舞台の上に持ち上げられていく。そのドラマの全てを巻き取る一カットの映像。
 続発する危機に対して主人公は、もはや私的な物と公的な物の区別を、諦め、同時に超越していくかに見える。街を歩きながら、街を飛び、彼は私的な空間を公的な空間の中に埋め込む(他者の客観性の元には彼はタクシーに乗っている。)。彼は楽屋という燦々とライトに覆われたクローゼットから飛び出し、私的、公的の区別を超え、支配への欲求を克服するかに見える。

 映画の終盤、主人公は、青いライトに照らされた舞台の上で、真っ赤な極私的なパフォーマンスを演じてみせる。舞台という公的な物と、私的な行為が重なり合う場面は、暴力的に二つの間にある膜を打ち破ってみせる。そもそも、私と公を、1人の人間が身振りで持って区別する事自体が、私と公の同一性を意味していたはず。その支配権力を弄んだ彼が、やがてその二つを超越するか、或いはその二つに打ちのめされるか、結末は始めから決まっていたのかもしれない。
 このシーンに続くラスト(ここでカットが切り替わる)で、主人公の娘が、主人公の私的で主観的な妄想の奇跡を、他者的な主観から目撃する事が、暗示される。
 それは、二分法を超越した主人公への祝福にも思え、けれど、また同時に主人公の支配が拡大しただけとも見える。



 映画は巧妙なトリックとデジタル技術を駆使して、予告では寸断されている、全編を長い長い数カットという薄っぺらな表面に収めている。まるでそれこそが、客観と主観、真実と虚構といった、私と公を巡る二分法を打ち破る術であるかのように。

“ゴジラ” 喉に刺さる真綿の棘


 今の日本に、本当の意味でゴジラが復活できるとは、私には思えなかった。
ゴジラが破壊しなければいけないものは、ゴジラが破壊可能なものは、全て現実の前に滅んでしまった。高度経済成長の夢も、戦前の忘却も、戦争の忘却も、なにもかも。

 むしろ、今の日本をおおうのは、ゴジラが破壊してきたものがほんとに破壊された、そのショックによるトラウマめいた感情で、それはもう破壊によって解決される何かではなくなってしまった様に思えて。

 そして何より、ゴジラが日本を破壊し尽くしても、ゴジラを生みゴジラをある立場へと追いやる物が、消え去らなかったという事実の衝撃と絶望こそ、今の国を覆っているように。

 ゴジラが破壊を続け、ゴジラがそばで眠っていながら、ゴジラが世界に残酷を振りまきながらも、自分がいつその残酷の中に飛び込まなくてはいけなくなるかもわからず、変わらないように見える生活を続けていかなくてはならない苦しみ。

 進撃の巨人が時代に響いたのは、平穏な日常が破壊されたからではなく、破壊されたあとの、変わらない事への絶望の中にある過酷な日常を生きねばならない若者を描いたからだったとしたら…短期の破壊者でしかないゴジラは時代を生きられない。



もう一つ、ゴジラの中にある、復讐者と被害者、そして加害者という三者を巡る物語は、もはや呪いと化しているのでは、と考え込んでしまう。 それは、ゴジラに与えらた象徴性とゴジラを巡る映画内へのドラマに対する疑問。

 ゴジラは原爆によって生まれた被害者であり、それは広島県民、そして長崎県民も同じ。けれど、被害者が被害者である事による連携はゴジラではほとんど描かれない。

 加害者の側も、加害者としての責任を共有する芹沢博士は、被害者であるゴジラを殺し、自分も死ぬ事でしか、その責任を示せない。

 ゴジラは被害者であるけれど、彼女は無差別な復讐者としてしか、世界に現れる事ができない。

 それは、被害者に対してはっきりと対峙できず、加害者としての責務を背負えなかった日本の泥沼の、その源泉のような感情を駆動させるの物語なのでは、と。

 ゴジラに込められた象徴は、数多いけれど、その究極は"仇なす破壊者"である事として描かれる。たとえ、彼女が人間を護る意思を見せるように動いても、根底には、彼女が世界を破壊する恐るべきものである事への畏怖が潜んでいる。そして、私たちが成した罪がゴジラに刻まれている事への、深い恐怖が潜んでいる。



 けれど、なぜ、罪を告発する者が、常に破壊者であり復讐者としてみなされなければならないのだろう。

 なぜ、彼女を常に人間は殺そうとしなくてはならないのだろう。



 物語の中では、これらの事に理由をつけられるけれど、物語の外にある映画という領域で、私たちはこの事に対してこらえる事ができる…とは思えない。

 ゴジラが科学技術と人間社会の罪から生まれた事を思えば、この理由のないゴジラ観は、日本にとってのフランケンシュタイン・コンプレックスで、ゴジラ・コンプレックスとでも言える物なのかもしれない。

 人間の犯した罪によって生まれた被害者は、世界を焼き尽くす復讐者となって、その姿をあらわす、という恐怖のドラマ。

 あるいは、そのように"スペクタクル"な復讐を受ける事で、加害者である自らに向けられる(或いは加害者であると指弾する)怨念と象徴を解放し、罪を享楽に変えたいという精神の流れ。



 私が破壊映画であるゴジラを望む情動の裏には、こんな想いが隠れている気がして、このゴジラ・コンプレックスは、今の日本を一つの極へ追い詰めていく、ある情動の、根元にある物の一つだと、そう、思えてしまう。

 ゴジラが破壊の限りを尽くし、世界の全てを灰色に変えても、ゴジラを生む物は変わらないという絶望は、ゴジラへの奇妙な感情のコンプレックスと、巧妙な形で手を握っているような気がしてしまう。



 ゴジラの復活、ゴジラの美しい姿を想い、その黒い鱗の底で光る虹彩を見つめる時、私には、こういうゴジラを巡るドラマへの違和感が、明確にならない思考の奥で傷のように疼く。

 ゴジラは多様な象徴をまとっている。科学技術の被害者、戦後への復讐者、自然の恐怖、母としての姿、それはゴジラの複雑さを生み、ゴジラ映画に深みを与えた。
 怪獣が象徴を背負うことで、怪獣映画は優れたジャンルになった。けれども、その象徴がどのような構造の中にあって、それは今どのように扱われていて、どのように扱われるべきなのか、この象徴を巡るドラマを作る時に、複雑な象徴性は、同時にゴジラを巡るドラマを厄介な物にしてしまった……のだとしたら。
 
根本の横たわる疑問は、社会を見据えてゴジラに与えた象徴性を、映画という構造の中で、社会を見据えて、十全にドラマとして構築できたのか…というものになるのかも、しれない。

 ゴジラが復活できるのは、ゴジラを巡る無数の糸を解きほぐし、何故芹沢博士が死ななければならなかったのか、何故ゴジラが復讐者であるのか、それを解明した時になるのではないかしら。

 そして多分、その時に、ゴジラの破壊は深い奥にまで届くのだと願いたい。




追記

 ゴジラをはじめ怪獣映画には自衛隊が葛藤なく戦うことのできる存在という側面が、わずかながらにあった、と思う。

 怪獣と戦う為なら倫理的、政治的な議論抜きに日本という国家が戦争に参加出来た。だから怪獣映画では現実より数十年先に防衛庁は防衛省に格上げされた。

 PKOへの参加、日本国外での自衛隊活動が始まるのと同時期に、怪獣映画がゆっくりと衰退していったのは、果たして偶然だったかどうか…とまで言ってしまえば、あまりにも牽強付会ではあるけれど。
 
 ゴジラ、怪獣たちに、人間は罪の告発者である事を望み続けてきた。そしてやがて彼女ら彼らは、汚れ切り、感傷的な人間ドラマの涙で溶けてしまった。今、どんな顔でそんな怪獣たちを見つめればいいのか、よくわからない。

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