今の日本に、本当の意味でゴジラが復活できるとは、私には思えなかった。
ゴジラが破壊しなければいけないものは、ゴジラが破壊可能なものは、全て現実の前に滅んでしまった。高度経済成長の夢も、戦前の忘却も、戦争の忘却も、なにもかも。

 むしろ、今の日本をおおうのは、ゴジラが破壊してきたものがほんとに破壊された、そのショックによるトラウマめいた感情で、それはもう破壊によって解決される何かではなくなってしまった様に思えて。

 そして何より、ゴジラが日本を破壊し尽くしても、ゴジラを生みゴジラをある立場へと追いやる物が、消え去らなかったという事実の衝撃と絶望こそ、今の国を覆っているように。

 ゴジラが破壊を続け、ゴジラがそばで眠っていながら、ゴジラが世界に残酷を振りまきながらも、自分がいつその残酷の中に飛び込まなくてはいけなくなるかもわからず、変わらないように見える生活を続けていかなくてはならない苦しみ。

 進撃の巨人が時代に響いたのは、平穏な日常が破壊されたからではなく、破壊されたあとの、変わらない事への絶望の中にある過酷な日常を生きねばならない若者を描いたからだったとしたら…短期の破壊者でしかないゴジラは時代を生きられない。



もう一つ、ゴジラの中にある、復讐者と被害者、そして加害者という三者を巡る物語は、もはや呪いと化しているのでは、と考え込んでしまう。 それは、ゴジラに与えらた象徴性とゴジラを巡る映画内へのドラマに対する疑問。

 ゴジラは原爆によって生まれた被害者であり、それは広島県民、そして長崎県民も同じ。けれど、被害者が被害者である事による連携はゴジラではほとんど描かれない。

 加害者の側も、加害者としての責任を共有する芹沢博士は、被害者であるゴジラを殺し、自分も死ぬ事でしか、その責任を示せない。

 ゴジラは被害者であるけれど、彼女は無差別な復讐者としてしか、世界に現れる事ができない。

 それは、被害者に対してはっきりと対峙できず、加害者としての責務を背負えなかった日本の泥沼の、その源泉のような感情を駆動させるの物語なのでは、と。

 ゴジラに込められた象徴は、数多いけれど、その究極は"仇なす破壊者"である事として描かれる。たとえ、彼女が人間を護る意思を見せるように動いても、根底には、彼女が世界を破壊する恐るべきものである事への畏怖が潜んでいる。そして、私たちが成した罪がゴジラに刻まれている事への、深い恐怖が潜んでいる。



 けれど、なぜ、罪を告発する者が、常に破壊者であり復讐者としてみなされなければならないのだろう。

 なぜ、彼女を常に人間は殺そうとしなくてはならないのだろう。



 物語の中では、これらの事に理由をつけられるけれど、物語の外にある映画という領域で、私たちはこの事に対してこらえる事ができる…とは思えない。

 ゴジラが科学技術と人間社会の罪から生まれた事を思えば、この理由のないゴジラ観は、日本にとってのフランケンシュタイン・コンプレックスで、ゴジラ・コンプレックスとでも言える物なのかもしれない。

 人間の犯した罪によって生まれた被害者は、世界を焼き尽くす復讐者となって、その姿をあらわす、という恐怖のドラマ。

 あるいは、そのように"スペクタクル"な復讐を受ける事で、加害者である自らに向けられる(或いは加害者であると指弾する)怨念と象徴を解放し、罪を享楽に変えたいという精神の流れ。



 私が破壊映画であるゴジラを望む情動の裏には、こんな想いが隠れている気がして、このゴジラ・コンプレックスは、今の日本を一つの極へ追い詰めていく、ある情動の、根元にある物の一つだと、そう、思えてしまう。

 ゴジラが破壊の限りを尽くし、世界の全てを灰色に変えても、ゴジラを生む物は変わらないという絶望は、ゴジラへの奇妙な感情のコンプレックスと、巧妙な形で手を握っているような気がしてしまう。



 ゴジラの復活、ゴジラの美しい姿を想い、その黒い鱗の底で光る虹彩を見つめる時、私には、こういうゴジラを巡るドラマへの違和感が、明確にならない思考の奥で傷のように疼く。

 ゴジラは多様な象徴をまとっている。科学技術の被害者、戦後への復讐者、自然の恐怖、母としての姿、それはゴジラの複雑さを生み、ゴジラ映画に深みを与えた。
 怪獣が象徴を背負うことで、怪獣映画は優れたジャンルになった。けれども、その象徴がどのような構造の中にあって、それは今どのように扱われていて、どのように扱われるべきなのか、この象徴を巡るドラマを作る時に、複雑な象徴性は、同時にゴジラを巡るドラマを厄介な物にしてしまった……のだとしたら。
 
根本の横たわる疑問は、社会を見据えてゴジラに与えた象徴性を、映画という構造の中で、社会を見据えて、十全にドラマとして構築できたのか…というものになるのかも、しれない。

 ゴジラが復活できるのは、ゴジラを巡る無数の糸を解きほぐし、何故芹沢博士が死ななければならなかったのか、何故ゴジラが復讐者であるのか、それを解明した時になるのではないかしら。

 そして多分、その時に、ゴジラの破壊は深い奥にまで届くのだと願いたい。




追記

 ゴジラをはじめ怪獣映画には自衛隊が葛藤なく戦うことのできる存在という側面が、わずかながらにあった、と思う。

 怪獣と戦う為なら倫理的、政治的な議論抜きに日本という国家が戦争に参加出来た。だから怪獣映画では現実より数十年先に防衛庁は防衛省に格上げされた。

 PKOへの参加、日本国外での自衛隊活動が始まるのと同時期に、怪獣映画がゆっくりと衰退していったのは、果たして偶然だったかどうか…とまで言ってしまえば、あまりにも牽強付会ではあるけれど。
 
 ゴジラ、怪獣たちに、人間は罪の告発者である事を望み続けてきた。そしてやがて彼女ら彼らは、汚れ切り、感傷的な人間ドラマの涙で溶けてしまった。今、どんな顔でそんな怪獣たちを見つめればいいのか、よくわからない。