■一千一頁物語

一瞬を凍らせる短歌やスナップショットのように生きたいブログ

本の一ページを紹介するブックレビュー一千一頁物語 SSよりも瞬間的な創作小説SnapWritte スナップショットの感覚、短歌の精神で怖いものを探求したい…願望

飯田将茂《double》 さいたま国際芸術祭2020 身体性から身体の動きへ 身体の無根拠さと日常の虚構性

舞踏家の最上和子さんの名前を知ったのは、人形が好きだったあの時に、人形作家の井桁裕子さんを経由してだった。井桁さんは人形にむき出しの生身を刻み込むような独特の人形作家で、私はその端正ではない佇まいが好きだった。

肖像彫刻もよく作るアーティストで、その中の一つに最上和子さんの肉体を写した作品があった。ハッとして調べるうちに、最上和子さんのブログに行き当たり、独自の文章による語りに私はハマった。

さいたま国際芸術祭で公開された『Double』は最上和子の人形との舞踏を収めた飯田将茂さんによるドーム映像作品だ。私にとって思い入れの強い要素がたくさんある作品で(ドーム映像も大好き)。期待しながら観に行ったのだけど、これは本当に素晴らしい作品だった。

ドーム映像は独特の没入感を持つ。スケール感の違いが持つ違和感と、それを押し潰す圧倒的な映像の存在感。暗闇から浮かび上がる映像は遠近が取れず、ドーム型に視界を覆うスクリーンと相まって独自の実在感を見せつけてくる。体を包み込む音響効果と、他人と共有できるその映像体験は、没入感ということだけでいえばVRよりも圧倒的だ(と私は思っている)。

本作でもこうした没入感は、非常に効果的に使われていた。爆発の轟音とともに、観客は水の中に叩きつけられる。巨大なスクリーンには無数の水泡が映し出され、そのパーティークルの一つ一つが大きな流れに沿って動く様子を、観客は現実ではありえない解像度で見せつけられる。

そのうちに、深く沈み込むように(あるいは浮き上がるように)画面が暗闇にのまれると、遠くの空に白い影が現れ、だんだんと大きくなってやがてそれが踊るひとである事がわかる。けれど演者の足元は暗闇に消えていて、この舞踏する存在が、いったいどこにいて観客である私がどこにいるのか、決定的に考える事ができない。いったいこの人物を私はどこから見ているのか?あの人物は降ってきているのか?あの人物に私が降りていっているのか?

観客である私はその曖昧さに答えを見出せないのに、演者は何かを確信しているかのように踊り続ける。小さな繊細な動き、小指を震わせるような微妙な動きを、ずっと続けている。

なぜこの演者は、この動きにこんなにも確信を持って踊れるのか?この動きに、何か絶対的な意味があるとでもいうように。

演者の身体の動きへの確信が却って私の身体の動きの無根拠さを思い起こさせる。私はこの動きのコードを理解できないのに、演者はそれを確信している。私は私の身体の動きが何なのか考え込まざるを得くなってしまう。私は私の動きの意味なんて考えた事がない──そして考えれば考えるほど、そこに根拠のようなものはなく、ただただ慣習とでも呼べるようなものがあるだけではないか?と。

私の身体の動作は、こうして『Double』に解体されていく。『Double』はこの解体の仕掛けに満ちている。先述した地面を措定できない不安定なドーム映像もその一つだ。不安定さと、確かな肉体の対比。音も『Double』が使う解体の道具だった。第二幕の冒頭、寄せては返す波がどこまでも描かれる。銀色に煌く泡の一粒一粒が、暗闇の中に浮かび上がる。

寄せて返す波と、その弾ける音に耳を傾けていると、けれど違和感に気づきだす。さらさらと、波が砕けるその音は明らかに波の音ではない。それは海や水の音というより、かちりかちり、と砂金同士が擦れ合う音であり、イメージと音の乖離が次第次第に際立っていく。

それでもなお、音と波の映像は一致して感じられ、違和感はすぐに波にさらわれれる。この感覚とイメージのズレは次第に自己の感覚への不安になっていく。私はなぜこの波と音を一つのものとして認識してしまうのだろうか?

私が近くする世界は、実は虚像のようなものではないかと不安になる。

波にさらわれた後、観客は最上和子さんが井桁裕子さんの肖像人形とともに踊る姿を目撃する。踊る、と同時に踊らせる、あるいは人形のポーズを変える最上和子さんの姿を。

最上さんが最上さんを象った井桁さんの人形を動かす時に、関節の構造から来る制約と最上さんは格闘する。時にそれは、ポーズを取らせるために、何度も試行錯誤するまごついた動きとして現れる。

身体の動きが身体の構造から来る流れと争いながら形作られることが暗示され、それは同時に身体の動きが身体の構造を虚構として作り得ることも暗示する。身体の動きが逆説的に身体性を規定する可能性を。そしてまた、身体の動きが意思に沿わなくても、意思は無理矢理に身体を動きの中に押し込めていく。

けれどもいったい、この時に私は何を見ているのだろうか?最上和子はいったいここでは何なのか?身体を動かす自意識か?身体を動かす社会か?身体を動かす神か?いやしかし、最上さん自体も身体を持ち自分の身体を動かしている。

現代のフェミニズム理論の中心的存在として知られるジュディス・バトラーは身体を使って性を演じることで、身体に性が書き込まれることを理論化した。この作品ではそれが丁度裏返されていた。身体の動きに確信を持った最上和子さんの演じる舞踏が、その確信を観客である私が共有出来ないことで、普段の身体の動きが無根拠であることを暴いていく。

私という身体の動きが、圧倒的な身体の動き━━日常的な意味では有目的ではなく、理解不能な動き━━を前にして、何も根拠のない曖昧なものであることが明かされる。その時に開く自分の底のなさは、身体の動きというものが本質的ではなく、その根拠を自覚しないままに動かしている/動かされているものである可能性を開いていく。

人形と不気味なものの関係はずっと問われてきたけど、それが不気味なのは人間が人形に描き込んだ意味と、人形が問い返す人間の無根拠さが、人間を人間自身から引き離し、人間が持つ人間に対する親密さを否定するからなのかもしれない。

あるいは身体性を離れた、ただ剥き出しの身体の動くを見せつけるから、とも。


映像のラスト、観客は豪雨に晒される。ただしその雨音は、水がぶつかる音ではなく肉がぶちかる音であり、万雷の拍手の音だ。Doubleに移されたイメージは最後まで一致することなく、観客は現実という劇場に取り残され、身体を使ってパフォーマンスを続けなければばならない。


講演『CFS患者と学校支援  ~学びをあきらめないために~』



 CFS患者と学校支援  ~学びをあきらめないために~



2016年の5/21に行われらCFS世界啓発デーイベントに青森の患者会に招かれ、自身の大学生活について講演する機会をいただきました。

今回、2018年に開催される予定のイベントのクラウドファンディングが始まり、当時の講演の映像がYoutubeにアップされました。

なかなか聞き取りにくい部分もあるので、以下に原稿を基にした聞き取り文を掲載しております。煩雑ですがご参照ください。


またどうぞ、以下のクラウドファンディングに協力してくださるようお願いいたします。

https://camp-fire.jp/projects/view/61524


講演者

https://twitter.com/SpiralGinga





お願いします。

CFS患者の近藤銀河と申します。今回、学校関係について話して欲しい、とのことでお招きにあずかりました。


こういう場でお話するのは本当に初めてで、とても緊張しているのですが、暖かい目で見てやって下さい。


時々スマホをこうやって見てますがラインをやってるとかではありませんので、メモを読んでるだけなのでよろしくお願いします。


私は現在日常生活を支援無しには送れない感じで、ずっとベッドで寝ていないと苦しいという感じなのですが、同時に現在私はなんとか大学生として学生生活を送ることが出来ています。

これは大学の方からいろんな支援を受けて、有形無形の支援を受けているお陰で通っているのですが、今回どういう支援を受ければ、どういう支援が欲しいか、

どういう支援があれば大学生として暮らしていけるかという事について、ちょっとお話させて頂きたいと思います。


まずちょっと実体験から話していきたいと思うんですけれども

その前に私がこうやって暮らしていくにあたって大学の支援を受けるにあたってとっても感じるのは大切な3つのことがあると思うんです。

1つは「連絡」ですね。

密に「連絡」していくこと。

もうひとつが「許容」

「許容」というのはこちらの訴え、こちらの要望を

聞いて貰えることが大切だなと。

それからもうひとつ、これは私が一番すごい感じていることなんですが、

「提案」をして頂く事。

相手から「提案」して頂くとこちらからすごい言いやすくなるんですね。

どんな的はずれだなという事でも、

或いは、うーん、ちょっとそれは違うんじゃないみたいな事でも、

相手から「提案」して頂く事で、こちらからとても言いやすくなる、

それにその事によって相手がこちらの事を思って下さっているっていうのがすごい分かる、この3つが私は大切だと思っています。


「連絡」「許容」「提案」ですね。


ちょっとこれから私の実体験と少し私の事について話していきたいと思いますので、この事をちょっと頭の隅において聞いて頂けると嬉しいです。


次は私の事を話します。えーとーですね、私は中学で発症しました。中学の1年ぐらいの時ですね。それからずーと6年間どういう病気か不明でした。

不明でしたので、支援をどうしてもらったらいいのか分からなくて、ちょっともう中学は、ほぼ途中でほとんどあきらめて、中高一貫校だったんですが、高校も進学はあきらめました


あきらめたんですが大学は私はちょっと行きたいなと思っていたので、大学を目指して勉強を、大学検定というのがありまして、高校卒業程度認定試験と今は言いますが、それでそれを受ける事で、大学の受験資格が得られるというもので、それを目指しながら独学で勉強していました。


えー中学の話を、ちょっと戻っちゃうんですが、中学からずーとやっぱり私がどういう病気か分からなかったので、どういう支援があったらいいのか分からなかったいうのが本当にあって、

たとえば喘息があったのでチョークが辛かったんですが、そういうのもそれがチョークだけの問題なのか、が体力が無い問題なのかとか、そういう事も本当に全然分からなくて、そのあたり支援がすごい不明瞭になっちゃったなぁと今思います。


で、独学で大学を目指すようになりました。ずーっと寝たきで塾にも行けませんし、本を読んだりするのも(体が)辛くて、集中力、気力も続かない感じでなかなか大変で…。


私今通っているのは東京芸術大学という東京の大学なんですが、独学で、体力の問題もあり、何回かチャレンジしなんとか合格した感じです。


芸術大学というとなんだか絵が描けるのかなと思われがちなんですが、別にそんな事は全然なくて私は芸術学という芸術を学問として学ぶところ(歴史や哲学)に行ってますが、

作家活動もしていて二足の草鞋でやっています。




大学生活の話ですね。

入ってから取り敢えずちょっと1週間、東京の方で暮らして、私出身岐阜で、東京の方でいったん暮らしていたんですがちょっとやっぱり(体が)辛くて、1年休学させてもらう事になりました。


休学してこちらの体調を整えて、相手(=大学)の方にも体制を整えて頂くという事で、1年間期間をとりました。

この間に非常に密に連絡を取り合いました。


一ヶ月ごとにメールをやり取りして、細かい生活の、どこどこの展覧会に行って来ましたとかそんな事から、こちらの体調の事、相手に要望する事、相手が対応してくれた事、それについて非常に密に「連絡」させて頂きました。


そうですね、その結果、いくつかけっこういろんな事を気遣って頂けました。


まず私はこれは非常に一番大きい思っているんですが、授業がおもにある中央の中央棟という授業がメインに行われる棟があるのですが、

そこの1階に休憩室というのを設けてもらってそこに電動ベッドを置いて頂けました。


それで授業中、授業中はあまりないんですけど、授業の合間、昼の時間、昼の食事の時間ですね、そこを使わせてもらってずっと横になっているこれってすごい助かりますね。


授業の合間10分なんですがその間に5分横になれるというだけで、かなり全然体感として疲労の具合が違いますね。

それから私が車椅子、大学でも使ってる、これはリクライニング出来て、ちょっとやってみます。


こういう感じでリクライニングができて、授業中もこうしてリクライニングをさせてもらって、こういう感じで、いつも授業を受けて、まあ授業受けてるのかみたいなという風に見えるかもと思うんですけれども、それもすごい学校側に受け入れてもらって、いいですよということを言ってもらえたので、これもすごい本当に助かりますね。


車椅子を起こした状態で授業を聞くのと、横に寝かせた状態で授業を聞くのでは、全然体力の消耗が違います


それからですね、授業中にノートをとるんですが、

それもスマホでやっていいと私このスマホ、

これを使ってノートをとる、キーボード付きスマホというか、キーボード外付けで使って、それで授業をずっととってメモをとっています。


これが出来るというだけで、これがやっぱり手で書くとなると非常に辛いので、ここも対応を認めて頂けてとてもよかったです。


スマホ厳しいという話を聞きますので、私はこれはとてもありがたかったと思う。


このあたりはこちらの言っている要望を聞いて頂けた、「受容(=許容)」の事ですね。


それから相手から非常にいろんな「提案」を頂きました。

たとえば結局やってはいないのですが、授業の動画を、授業中に動画を、カメラで動画をとってはどうかとカメラも大学の方から貸し出します、という話です。


それからついこれも先日あった話なんですが、授業が行われる棟のエレベーター、エレベーターの手すりがちょっとあるんですが、あんまり使いにくい形でこれを車椅子用にもっと使いやすいよう何か取り付けることができるかどうかというような「提案」を頂きました。


こういう風に相手からいろんな「提案」を頂けるというのは、

とても幸せで助かりますし、そのお陰でこちらからも要望を言いやすくなります。


非常にありがたかったです。

それからやっぱりちょっとそこまで大きい大学ではないので、エレベーターがない部分がある。特にあの、図書館ですね。

図書館にエレベーターが無いという事で、2階に図書館があるんですが、エレベーターが無いという事で、これは、これもいろいろ「提案」頂いて対処、待遇を頂けて図書館長室にパソコンがあるんですが、そこで欲しい本を調べて司書さんに頼めば持ってきて頂けるというかたちで、これも非常に寛大な対応を頂きました。


それからあと実習、絵の実習があって、それがちょっとそこもまたエレベーターの無い階段があって、そこに関してはどうしても、その部屋に行かなければならないという事なので、

それに関しては教授の先生や助手の方が車椅子を運んで下さるというか、車椅子をワッショイと背負って、御輿のように背負って、階段を通して下さるというまあちょっと原始的な方法なんですが、これもそういう風に対応して頂けた事で私も通える、これもありがたかったです。


いろいろこうやって「連絡」をしながら対応、私の言葉を受容してもらって「許容」してもらって、相手から「提案」を頂いていく中でいろいろやりとりがありました。


ただ一番嬉しかったのは、なによりも嬉しかったのは、

相手が「お礼を言わなくてもいい。」と言って下さった事です。


私がいつも「ありがとうございます。」とか、「提案」に対して言うと、

「いや、いい、お礼は言わなくてもいい、当然の事をやっているんです。」と言って頂きました。


この事は本当に心が軽くなりますね。

私のあとの人も同じようにやってくるかもしれなくて、

その為に、その人に対応する為には私の方からガンガン言ってください、それもあなたにやって欲しい事なんです、

というような事を言って頂けてそれは本当に助かりました。


こちらからはやっぱり言いにくい部分も多くて、こういう事を言って頂けると、とても(気が)楽ですね。

これもある種の「提案」かなと思います。


で、もう一度、ちょっと最後に、そろそろ最後かなという事で、

もう一度最初の私が言った事ですが、

「連絡」、密に「連絡」をとっていく、その中で、

こちらの言葉を「許容」、受け入れて頂く、

で、相手から「提案」、提案をして頂くという、

この3つが組合わさる事でいろいろ連携が回転していって問題も解決しやすくなります。

そういうのが、私がすごく大学生活をなんとかやっていけるようになった原因だと思います。いろんな支援を受ける事によって、

なんとか通いたかった大学にも結構通えてて、頑張って…、とても(体は)辛いんですが…。

いろんな支援がもっと広がっていく事を願っております。

その為にはやっぱり、「連絡」とかそういう事だと思います。

こういう事から、お互い違うところがあっても、お互いやっぱり感覚は違います、全然。

健康な人と病気の人間、全然感覚は違います。

たとえば、これはできる、(これは)できない、というのは全然違うんですが、

こうやって「連絡」を続けていく事で、

そういう違いを乗り越えていける、

そういう事によってお互い(理解し)、

支援を受けて私は通える事ができています。


はい、こんなところで大丈夫でしょうか。



                       (終了)



改めて、この講演から2年近い月日が流れたのですが、今も支援のおかげで学び活動できている感覚は変わりません。

けれども、2年前以上に支援があればできることが広がることに確信を深めつつあります。

大学のみならず周り人の理解があったおかげで展示や研究など様々なことをすることができる毎日です。


昨年も大学の二週間に渡る研修旅行に参加したのですが、研修施設を車椅子対応にし現地NPOスタッフと協力し研修先の方々と事前に話し合いをしていただくなど、多くのことをしていただき無事に工程も大部分を終えることができました。


このような環境に必要なのは、なによりも病気が理解されやすい環境でしょう。

苦しいという言葉に、そうなんだね、と答え、じゃあこうしよう、と言える社会。

それが世の中の多くのところで見られるようになればいいのに、と願いながら活動していています。





****************



付記


こうした東京藝術大学の支援はとてもありがたく素晴らしいものでしたが、東芸大に一切の問題がないわけではないことを、諸問題に痛みと怒りを感じるものとして付記しておきます。

先日、多摩美術大学彫刻専攻の学生がアカハラや教授陣の指導体制とそ

ジェンダー不均衡の改善を訴える告発状を公開しましたが事態は東芸大においても他人事ではありません。特にジェンダー不均衡は学生に多数が女性を占める中でジェンダーを扱った授業が存在しないことも含め大きな問題です。

2015年には教授によるセクシャルハラスメントの問題がありましたが学生間のトラブルにおいてはうまく機能していない面もあるようです。

このような中で私(そして私の後に続く人たち)の支援と対応をしてくださった方々には深い感謝の念がありますが、それはまた同時にこうした問題に私自身が無関係ではいられないことを突きつけて来きます。

支援を受けることができたからこそ、こうした事を見ないフリをすることはできないと考え、追記させていただきました。




個人誌『軽く振って、瞬間』PDF販売開始

個人誌兼作品集『軽く振って、瞬間』のPDF販売を開始いたしました。 以下がサンプルとなっております。

『軽く振って、瞬間』300円 本文60p 文庫サイズ
https://easypay.jp/4ADK
こちらのリンクからご購入いただけます。

お支払いはPayPal経由となっております。何卒ご了承くださいませ。

写真作品をメインに過去の展示、小説、ブログ記事、それに短歌や漫画なども織り交ぜた雑誌的な作品集となっています。
お手に取っていただければ幸いです。
記事検索